60年代通信 HOT TOPICS

トキワ荘のヒーローたち・2〜漫画にかけた青春〜
特別取材レポート



click here!
Cyber Click!


 昨日(1998年12月12日[土])、恒例の次男を伴なった品川駅電車見学ツアーの途中、豊島区郷土資料館で開催されている1998年度第3回収蔵資料展「トキワ荘のヒーローたち・2〜漫画にかけた青春〜」を取材してまいりましたので、特別取材レポートということでお伝えしたいと思います。

 実は、昨日、電車見学ツアーに出かける直前に、小学校6年生の長女に、「お父さん、トキワ荘って知ってる?」と訊ねられ、得意にそうに「当たり前田のクラッカ〜」と答えましたが、娘はキョトンとしているので、「なんだ、お前は、“当たり前田のクラッカー”も知らないの?」と追い討ちをかけると、脇で会話を聞いていたカミさんに、「お前はバカか」とたしなめられてしまいました。

 それは、どうでもいいのですが、なぜ、長女がそんなことを訊ねてきたのかといいますと、長女が愛読している「朝日小学生新聞」の昨日付けの1面に、「マンガ家の下づみ時代を紹介/手塚治虫さんらが暮らしたトキワ荘展(東京・豊島区)」の見出しで、豊島区郷土資料館の収蔵資料展についての記事が掲載されていたのでありました。

 マンガ家を目指しているウチの長女は、家では、ヒマさえあればヘタクソなマンガを書いているので、見かねた私が、基本的なデッサンなんかも大事だということが書いてある手塚治虫の『マンガの書き方』(光文社文庫)を与えたり、家には、手塚治虫全集なども氾濫しておりますし、ダイニングの壁にはアトムのお面や天才バカボンのパパのお面なども飾ってあり、そればかりか、私がレンタルビデオ屋から借りてくる「天才バカボン」のビデオなどは、私よりも、家の3人の子供たちの方が喜んでみているくらいで、長女も、手塚治虫や赤塚不二夫のことは良く知っておりまして、その朝日小学生新聞の記事の中に、手塚治虫や赤塚不二夫の名前と、長女自身も現役時代を知っている藤子不二雄の名前まで出てきていたため、私に声をかけてきたという次第だったのでありました。

 そこで、いつもなら、京王線で新宿まで出た後、新宿/恵比寿(埼京線)、恵比寿/品川(山手線)、品川/東京(東海道線)、東京/田端(京浜東北線)、田端/新宿(山手線)というルートで回るツアーの順路を、新宿から逆回りすることにして、池袋で途中下車し、豊島区郷土資料館に立ち寄ることにしたのであります。


 豊島区郷土資料館というのは、池袋駅の西口を出て、東京都芸術劇場の前を通り、池袋警察や消防署の並びにある勤労福祉会館というビルの7階にありました。


 実は、豊島区郷土資料館では、今から12年前の1986年にも特別展「トキワ荘のヒーローたち」を開催しておりまして、今回は2回目ということになります。

 展示会場を入ると、まず、目に入ってくるパネルにも、「トキワ荘のヒーローたち・2」と書かれ、今回がパート2であることが示されておりました。

 会場に置いてあったパンフレットでは、今回の開催趣旨について、次のように説明されています。
--------------------
開催にあたって
 1986年に開催した特別展「トキワ荘のヒーローたち」から、ちょうど12年目を迎えた今年、あのヒーローたちが再び登場します。
 1998年は手塚治虫の生誕70周年にあたり、一方で石ノ森章太郎が亡くなった年でもあります。
 今回の展示では、今は亡き4名のトキワ荘出身の漫画家---手塚治虫、寺田ヒロオ、藤子・F・不二雄、石ノ森章太郎---を中心にその作品を紹介し、戦後の漫画文化をふりかえります。
 またトキワ荘時代の彼らの暮らしぶりとあわせて、戦後復興期の1950年代の豊島区の様子を写真や地図などから点描します。
--------------------

 ということで、開催の趣旨としては、そういうことだそうであります。

 この「60年代通信」をご覧になっている皆さんの中には、まず、「トキワ荘を知らない」という方は、殆どいらっしゃらないと思いますが、若い方の中には、ひょっとしたら、ご存知ない方もいらっしゃるかもしれませんし、トキワ荘の何たるかを知らないままでは、このページをお読みいただく意味が全くありませんので、一応、トキワ荘そのものについて、パンフレットの説明を引用して、おさらいしてみたいと思います。

--------------------
トキワ荘
 トキワ荘は椎名町5丁目2253番地(現・南長崎3-16)に1952(昭和27)年12月6日に上棟され、建築された。木造モルタル2階建の当時にあってはごく普通のアパートであった。部屋は四畳半、押入れ、入り口が半間の板敷であった。共同便所・共同炊事場があった。家賃は3000円、これも普通である。ここに1954年頃から61年まで新人漫画家が10数人住み、その仲間が多く出入りした。一名マンガアパート、漫画家の梁山泊ともいわれた。1982(昭和57)年12月老朽化し、壊された。

トキワ荘の時代〜1950年代の豊島区〜
 トキワ荘の漫画家たちが暮らした時期は、1953年から1961年までの約8年間である。彼らが青春時代を過ごした1950年代の豊島区は戦後の復興が急ピッチで進められた時期にあたる。
 特に池袋の発展はめざましく、土地区画整理事業が始まると、ヤミ市が撤去されて駅前広場が整備され、デパートや映画館などの大型施設が次々と誕生した。一方、周辺地域には急増する流入人口に対応するため住宅が次々と建設された。とりわけ、地方から就職・進学のために上京してきた10代〜20代の若者層を受け入れる、木造賃貸アパートが多く建てられたのが注目される。
--------------------

 会場に入りますと、まず、何よりも目を引くのが、「四畳半の夢」と題された、いわゆる鍋・釜などの生活道具などを並べて、当時の暮らしぶりを再現したコーナーであります。
 このコーナーに集められた七輪やちゃぶ台、鍋・釜・やかんなどの生活道具は、私が東京に出て来た1974(昭和49)年当時は、まだまだ、その多くが現役でありました。
 特に、立教大学や日大芸術学部などに進んだ私の高校時代の友人達は、西武池袋線の沿線にすんでおりましたし、複数の友人が住んでいた桜台のアパートは、トキワ荘と同じように、共同便所・共同炊事場のあるものでしたので、このコーナーで再現されている空間というのは、私にとっては、殆どリアルタイムで経験したような感じさえしてくるほどであります。
 この「60年代通信」で、私が時々言及させていただいている、資料置場兼書斎のような「別宅」も、実は、四畳半一間のアパートでありまして、トイレも共同で、さすがに共同炊事場はありませんが、板敷ではなくコンクリート敷ではありますが入り口は半間で、そこに小さな流しがついております。友人や会社の同僚などからは、いつも、「60年代そのものだ」と言われておりますが、私が借りている部屋は、60年代どころか、50年代にも通じるものがあるわけであります。
 私は、学生時代、つまり1970年代の半ばから80年代にかけてでありますが、中央線沿線の荻窪のアパートに住んでおりましたが、私の場合、初め友人と二人で住んでいたため、さすがに四畳半一間ではありませんでしたが、70年代半ばの頃には、まだ、荻窪駅周辺には、やはり、共同便所・共同炊事場の四畳半一間というアパートがあり、大学の友人も住んでおりましたので、トキワ荘的雰囲気というのは、身をもって体験しております。

 再び、展示会のパンフレットから引用させていただきます。

--------------------
四畳半の夢〜トキワ荘のくらし〜
 トキワ荘に入居した彼らは、皆地方から上京した18〜22歳の若者だった。トキワ荘に住む以前、寺田ヒロオは芝三田綱町に下宿(3畳)、藤子不二雄たちは両国の時計やに下宿(2畳)、鈴木伸一は漫画家・中村伊助宅に下宿、森安なおやは池袋の牛乳店に住み込み、石ノ森章太郎は西落合に下宿(2畳半)、赤塚不二夫とよこたとくおは西荒川に下宿(5畳半)という生活を送っていた。したがって、四畳半とはいえ自分の部屋が持て、仲間がいて、好きな漫画に打ち込めるトキワ荘の生活は大きな喜びであったにちがいない。
 トキワ荘には新婚夫婦や子連れの家族も住んでいた。当時の独身の若者(しかも新人漫画家)の住まいとしては、四畳半といえどもぜいたくな方であったかもしれない。
 ここでは、1950年代半ばの彼らの日常生活を“イメージ展示”してみた。マンガで整形を立てていたという違いはあるとしても、当時の独身の若者の平均的なアパート生活と考えてもよいだろう。
 (中略)
 彼らの生活の大半は漫画を描くことであった。そのための出費は惜しまないかわりに、食事や衣服は簡素なものですませた。それでも彼らは苦労とは思わなかったという。なぜなら彼らはこの四畳半で「大きな夢を描いて暮らしていた」(石ノ森)からである。
--------------------


 この再現・四畳半コーナーの片隅には「新人漫画家たちの定番食品」という展示もあって、次男は、落花生やキャラメルなどを見つけ、「あ、お菓子、お菓子」と騒いでおりました。
 チキンラーメンやマグロフレーク、揚げ小丸、落花生などは、学生時代から一貫して、私にとっても定番食品でありまして、カミさんが子供たちを連れて実家に帰省して、チョンガー状態となる夏休みや冬休みには、今も、私の貴重な栄養源となっているものであります。
 展示の説明プレートには、次のように書かれていました。
 「1958(昭和33)年に日清食品からチキンラーメン(15円)が発売されると、インスタントラーメンは缶詰とともにトキワ荘の漫画家たちの必需品となった。藤子日記には、揚げ小丸・キャラメル・磯辺巻き・ピーナッツなどを、おやつや“チューダー”(焼酎のサイダー割り)の肴として食べていたことが記されている。(森永キャラメル箱、昭和30年代の喫茶店のマッチ箱、醤油差しは赤塚不二夫氏蔵。その他の展示品は現在市販されているもの)」
 当時のキャラメルの箱や喫茶店のマッチ箱、醤油差しまで保存されている赤塚大センセイは、やはり、偉大な方でいらっしゃるわけであります。

 またまた、展示会のパンフレットからの引用です。

--------------------
くらしとあそび
 新人漫画家の生活は貧しいのが常である。所帯道具は机と布団、日用雑貨が全てである。食生活はキャベツいためか、マグロフレークの缶詰などが安く簡便なものとなる。ところが彼らは文化教養費となると贅沢なくらい出費した。映画を実によく見たし、自分達で8ミリ映画もつくった。テレビも早々と持ち、ステレオも聴いた。小説もSFもよく読んだ。これらは娯楽というより創作活動の糧であったのである。野球・将棋・麻雀なども遊んだ。これらを凝って一層愉快に明るくやったところに若手漫画家としての面目があった。
--------------------

 神様・手塚治虫大センセイの展示コーナー。
 この手の展示では、カッパコミックスの「鉄腕アトム」は、すっかり定番となった観があります。

 パンフレットでは、神様・手塚治虫大センセイについて、次のように説明されております。

手塚治虫(1928-1989)

 本名は手塚治。1928年11月3日大阪府豊中市に生まれる。1946年『毎日小学生新聞』に「マアちゃんの日記帳」でデビュー。雑誌『漫画少年』の学童社の紹介で、1953年トキワ荘の竣工と同時に入居するが、翌年自室を藤子不二雄たちに譲り、豊島区雑司が谷のアパート・並木ハウスに移る。
 映画とディズニーの影響を強く受けたストーリー漫画を確立し、“漫画の神様”として戦後の漫画文化をリードした。国内はもちろん海外にも多くのファンをもつ。トキワ荘・並木ハウス時代の代表作に、「ジャングル大帝」「鉄腕アトム」「リボンの騎士」「火の鳥」などがある。
 1989年2月9日死去、享年60歳。豊島区巣鴨の聡禅寺に眠る。

 この神様・手塚治虫大センセイのコーナーに向かって左手の壁には、石ノ森章太郎、藤子・F・不二雄、、寺田ヒロオの各大センセイの展示となっておりました。
 以下、3氏についての説明は、何れもパンフレットからの引用となります。


石ノ森章太郎(1938-1998)


 本名は小野寺章太郎。1938年1月25日宮城県登米郡中田町石森に生まれる。高校在学中より赤塚不二夫らとともに東日本漫画研究会を主宰する。高校2年生の時に「二級天使」が『漫画少年』に掲載され、デビューする。1956年に上京しトキワ荘に入居する。トキワ荘グループの中では最年少だった。仲間が次々と転出していくなか、最後までトキワ荘に残り、1961年に転出した。
 代表作は「サイボーグ009」「仮面ライダー」「HOTEL」「マンガ日本の歴史」など多数。
 手塚治虫の“神様”に対し、漫画の“王様”といわれる。1986年、“石森”から“石ノ森”に改名する。1989年無限大の可能性を持つメディアとして「萬画」を提唱する。
 1989年1月28日死去、享年60歳。豊島区池袋の祥雲寺に眠る。


藤子・F・不二雄(1933-1996)

 本名は藤本弘。1933年12月1日富山県高岡市に生まれる。小学校5年生の時、安孫子素雄(1934年富山県氷見市生まれ)が転校して同級になったことがきっかけで、二人で漫画の合作を始める。 
 1951年『毎日小学生新聞』に「天使の玉ちゃん」でデビュー。1954年に上京し両国にに下宿するが、すぐに手塚治虫の後をうけてトキワ荘に入居する。1961年川崎市生田に隣同士で新居を構える。
 “藤子不二雄”の共同ペンネームで「オバケのQ太郎」「パーマン」「ドラえもん」などのヒット作品を次々と生み出し、子どもをはじめ幅広い世代に愛される。1987年にコンビを解消し、“藤子・F・不二雄”、“藤子不二雄(A)”として活動を始める。1996年9月23日死去、享年62歳。川崎市緑ケ丘霊園(103区7側1番)に眠る。


寺田ヒロオ(1931-1992)

 本名は寺田博雄。1931年8月4日新潟県巻町に生まれる。高校卒業後、電話局などに勤務する一方、『漫画少年』に漫画を投稿して多数入選する。1953年上京し、学童社の紹介でトキワ荘に入居する。漫画研究グループ「新漫画党」の“総裁”を務め、党員をトキワ荘に読んで経済生活を支えるなど、漫画家仲間のリーダー的存在を果たす。1957年結婚のためトキワ荘を出る。
 野球漫画の第一人者として活躍し、健康的で明るい画風が子供たちに人気を呼んだが、週刊誌の低俗化・商業主義に嫌気がさして休筆する。代表作は「背番号0」「スポーツマン金太郎」「暗闇五段」など。
 1992年9月24日死去、享年61歳。自宅のある茅ヶ崎市浄見寺に眠る。


トキワ荘そのものの展示コーナー


 つのだじろう氏の手になる「トキワ荘床板遺品」という認定証が貼り付けられた板は、石ノ森章太郎大センセイの部屋の入り口の板間の床板だそうであります。

 床板ばかりでなく、天井板なども保存され、こうして展示されているわけであります。

 何れにしても、トキワ荘というのは、間違いなく、日本で最も有名な木造モルタル2階建てアパートであろうと思われます。

郷土資料館の所蔵する
トキワ荘の漫画家たちの寄せ書き

 トキワ荘の襖の寄せ書きということでは、1981年にNHK特集「わが青春のトキワ荘」が放映された時、トキワ荘出身の漫画家たちが同窓会を開いた際のものであるとか、1982年の12月2日にトキワ荘が解体される時にも、やはり、トキワそうに住んでいた漫画家kたちが襖に漫画とサインを書いたりしたものもあったりしますが、今回、展示されているのは、豊島区郷土資料館所蔵のオリジナル・バージョンのようであります。


トキワ荘の玄関
 私は、トキワ荘に住んだことは、もちろん、行ったこともありませんが、何と、懐かしい雰囲気に満ちた玄関でありましょう。
 子どものころに、近所に住んでいた親戚の人が住んでいたアパートのようでもありますし、桜台に住んでいた高校時代の友人たちが借りていたアパートのようでもあります。
 今は、もう、こんな、住む人達の一体感というか、大家族のような生活の温かさを感じさせるアパートの玄関というのは見られなくなってしまったのが残念でなりません。


 


銭湯「曙湯」へ向かう若き日の藤子・F・不二雄センセイ

 写真に添えられていた説明パネルによりますと、藤子・F・不二雄センセイは、いわゆる“一番風呂”が大好きだったそうであります。
 赤塚不二夫大センセイや石森章太郎大センセイが、トキワ荘の共同炊事場の流しをお風呂代わりにしていたという逸話は、あまりにも有名でありますが、あの、ほのぼのとした暖かい漫画をお書きになられていた藤子・F・不二雄センセイの温かさは、この銭湯好きというところにも現われているような気がしないでもありません。
 貧しい、厳しい生活の中でも、大好きな銭湯の“一番風呂”へ向かう時、心豊かな気持ちに満ちておられたのが伝わってくるような逸品の写真であります。

 ということで、豊島区郷土資料館で開催されている1998年度第3回収蔵資料展「トキワ荘のヒーローたち・2〜漫画にかけた青春〜」を、駆け足でざっとレポートさせていただきましたが、この展示会は、1999年1月24日(日)まで開かれているそうですので、ご興味・ご関心のある方は、ぜひ一度、お出かけになられてはいかがでしょうか。

[参考データ]
豊島区郷土資料館
東京都豊島区西池袋2-37-4 勤労福祉会館7階
TEL:03-3980-2351
FAX:03-3980-5271

“60年代通信 HOT TOPICS”バックナンバー(イベント取材レポートもの)
緊急レポート『マンガ・クロニクル〜漫画がとらえた時代のすがた」取材報告』(1998年9月12日更新)
府中市・郷土の森で“ちょっとむかし展”」(1998年8月9日更新)
“緊急掲載!!「赤塚不二夫展」取材レポート”(1997年11月1日更新)



CSJ Banner Exchange


のホームページで使用している画像などの著作権は、すべて、それぞれの原著作権者に帰属し、商用目的などでの二次利用は制限されます。また、画像データの転用はご遠慮ください。

 原著作権者の皆様へ:このホームページでの画像などの使用につきましては、著作権法第32条に基づく「引用」に該当するものと解釈させていただいております。従いまして、個別にご了承をいただく手続きは踏ませていただいておりませんので、不都合がおありになる場合には、お手数をおかけして誠に恐縮ですが、下記メールアドレスまで、ご連絡くださいますようお願い申し上げます。


(C)1998 Kiyomi Suzuki

E-mail:kiyomi60@bb.mbn.or.jp