60年代通信 HOT TOPICS

「驚きももの木20世紀/ブルーコメッツの苦悩」 放映記念 連動特別企画

『週刊マーガレット』1969年5月19日号

GS人気投票第3回中間発表

〜あなたの好きなグループサウンズは何位?

【その2】

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 皆様、こんにちは。
 【その1】では、家庭の事情により、突然、ページ制作打ち切りというような事態に陥り、誠に失礼をいたしました。
 お蔭様で、家庭崩壊の危機は何とか回避することが出来まして、私は、今だに追い出されずに、家族とともに狭い3DKのアパートメントの片隅に存在することを許されております。
 そういうことで、ご挨拶は、簡単に済まさせていただきまして、本編の続きに入ることにいたしましょう。

4位/ヴィレッジ・シンガーズ(5万0383票)
 ブルコメと僅か3000票差で4位につけているのが、この時期には、まだ、ブルコメと同じCBSコロンビアレーベルで、ブルコメの弟分などとも呼ばれていたヴィレッジ・シンガーズであります。
 このヴィレッジ・シンガーズというネーミングが示唆しているような気もしたりするわけですが、このグループは、確か、成城大学のカレッジ・フォーク系のバンドからスタートしていたように記憶しております。レコードデビューも、まだ、世間にGSなどという呼び方が存在していなかった1966(昭和41)年10月のことでありまして、デビュー曲の「暗い砂浜」という歌は、いわゆるカレッジ・フォーク系のイメージの強いもので、作詞も、ウエスタンの寺元圭一さんでありました。2曲目の「君を求めて」も、「若者たち」や「星に祈りを」などで知られる佐々木勉さんの作詞作曲で、これも、基本的には、ブロードサイドフォーが歌っても、全然、おかしくないような歌です。
 ヴィレッジ・シンガースが世に出た(凄い表現でありますが…)のは、1967(昭和42)年にリリースされた3曲目の「バラ色の雲」によってでありまして、オーケストラの音を前面に打ち出したこの曲は、ブルコメの「ブルーシャトー」「マリアの泉」と同じ路線の作りとなっています。作曲は、昭和40年代から50年代にかけて、日本の歌謡曲界に君臨した筒美京平大先生でありまして、この「バラ色の雲」は筒美大先生の初期の代表曲といっていいものだと思います。
 前振りが長くなっておりますが、ヴィレッジ・シンガーズは、さらに、続いて同年の11月にリリースした「好きだから」もスマッシュヒットとなりまして、人気GSとしての地位を確固たるものにしたのでありました。ちなみに、この「好きだから」という曲は、イントロの入り方が、いかにもGS風という感じで、私の好きな曲の一つでありました。
 この『週刊マーガレット』の人気投票が行われた1968(昭和43)年4月から5月にかけての時期は、2月に発売された「亜麻色の髪の乙女」の大ヒットが、まだ、余韻を残している頃で、4月には「思い出の指輪」、5月にも「虹の中のレモン」と、立て続けにシングル盤がリリースされています。
 「亜麻色の髪の乙女」は、タイガースの初期の一連のヒット曲を手がけた橋本淳・すぎやまこういちコンビの作品で、ヒットチャートの最高位は7位、レコード売上18.6万枚ということで、ヴィレッジにとっては唯一のベスト10入りしたシングル盤であり、結局、グループを代表する曲に位置づけられることになりました。「思い出の指輪」も11.3万枚ということで、10万枚を超えるヒットとなっておりますが、この辺の、「亜麻色の髪の乙女」とか「思い出の指輪」「虹の中のレモン」という辺りは、私も大変に好きな曲でありまして、結局、私は、こういう歌謡曲っぽい甘ったるい曲が好きな軟弱男なんだなぁと、改めて、反省している次第であります。
 「虹の中のレモン」は、同じタイトルで松竹が映画化しておりまして、ヴィレッジ・シンガーズは、映画の中でもバンド役で、主演に近い形の出方をしています。映画の冒頭にあるライブシーンで、司会の牧真二(字が違うような気がしますが…)とのやり取りが、とっても初々しくて良かったです。
 ヴィレッジ・シンガーズは、この年の9月に新しく出来たCBSソニーに移籍し、フォーリーブスなどと共に、発足したばかりのCBSソニーにとっては、看板グループの位置づけにあったと記憶しています。

5位/テンプターズ(4万1663票)
 ジャーン、と突然、効果音で始まったりするわけですが、駄目ですよ、テンプターズがこんなとこにいては…。ま、恐らく、最終結果では、驚異的な票の伸びを示して、タイガースに次ぐ第2位にランクされているのではないか、というのが、私の予想であります。
 テンプターズは、ちょっと、遅れてやってきたGSという印象は否めませんが、私も、確か、この年のお正月に発売された、週刊明星の臨時増刊号か何かだったと思いますが、『グループサウンズがやってきた』とかいうタイトルの雑誌の巻頭グラビアで、「田辺昭知が大宮のディスコテックで見つけて来たファニーズ時代のタイガースに匹敵する人気バンド」とか何とか訳の分かったような分からないような紹介のされ方をしていたのを覚えています。私は、「ディスコ」という言葉を、この記事で生まれて初めて知りました。
 ちょっと、話はそれますが、私は、この『グループサウンズがやってきた』という臨増がとってもお気に入りで、巻頭グラビアの蒸気機関車をバックにしたブルコメの写真もよかったし、スパイダースのグラビアは、私が見に行った長岡公演の時の写真だったし、タイガースの出ていた明治チョコレートのTVCMが、フィルムをそのままベタ焼きにしたような形で、全部映っている明治製菓の広告があったし、当時の主なグループのディスコグラフィーなんかも載っていたし、本当に、大事に取っておいたつもりだったのが、現在は、実家を探しつくしても見つからず、非常に後悔しております。どなたか、まだ、当時の臨増をお持ちの方がいらっしゃったら、どうか、私に下さいとはいいませんが、見せてください。もう一度、あの臨増が、どうしても見たいっ!!! と、「ビックリマーク3つですっ」と“チューボーですよ”のマチャアキになってしまうのだ!!!
 思わず、取り乱してしまい、失礼しました。元GS大好き少年の血が、時々、私を狂わせてしまうのであります。
 さて、テンプターズに話しを戻しましょう。
 テンプタースは、1967(昭和42)年の10月「忘れ得ぬ君」という曲でデビューしておりますが、昭和42年10月といえば、すでに、ブルコメは「北国の二人」、スパイダースは「いつまでもどこまでも」、タイガースは「モナリザの微笑」、ワイルドワンズは「青空のある限り」、ジャガーズは「ダンシングロンリーナイト」、カーナビーツだって「恋をしようよジェニー」なんかを歌っていたころで、先行していたGSは、もうノリノリの境地に至ってしまっていた時期であります。
 テンプターズが“遅れて来たGS”であることは否めない事実なのでありますが、しかし…、しかし、であります。このグループが偉かったのは、遅れて来たGSの多くが、既成の作曲家による作品で世に出て来ている中で、当時、「中近東サウンド」などと訳の分からない評価もあった、松崎由治大先生の個性あふれるオリジナリティの高い音楽性が、このグループには光っていたことであります。先日の「驚きももの木」では、オリジナリティという側面からは、ブルコメ、スパイダース、ワイルドワンズくらいまでにしか言及しておりませんでしたが、ここには、テンプターズも入らなければ、絶対におかしいと考えたのは、私だけではないと思います。
 デビュー曲の「忘れ得ぬ君」は、レコードセールス的には今ひとつでありましたが、この『週刊マーガレット』の人気投票が行われていた1968(昭和43)年4月から5月にかけては、3月に発売された松崎由治センセイの作詞作曲による「神様お願い!」が大ヒットし、マイクを両手に挟んで、膝まづいて歌うショーケンの姿に、少女ばかりでなく少年も、熱狂していたはずであります。
 この「神様お願い!」は、レコードチャートの2位まで上昇し、43.1万枚を売る大ヒットとなり、“遅れて来たGS”のはずだったテンプターズは、先行するGS群をあっという間に抜き去り、この年の夏には、「エメラルドの伝説」の大ヒットで、完全にタイガースと並ぶ2大人気GSとなってしまったのであります。
 「エメラルドの伝説」は、なかにし礼作詞、村井邦彦作曲、川口真編曲ということで、既成の作家の手になる作品ではありましたが、ショーケンのボーカル、間奏の松崎先生のギターなど、テンプターズの魅力を余すところなく引き出し、見事に、チャートの1位に輝くことになりました。「エメラルドの伝説」は「星影のワルツ」と「シー・シー・シー」に挟まれる形で、この年の7月8日と15日の2週間だけでしたが、週間ヒットチャートの1位の座につき、レコードセールス46.2万枚というテンプターズ最大のヒット曲となったのであります。
 明治製菓がタイガースなら、ということで、森永製菓がテンプターズをCMに起用したり、ジュリーが人差し指なら、ショーケンは手鏡の反射で応戦、というような感じで、ファンの間でも、そのライバル・フィーバーぶりはハンパではなく、凄まじかったものがあったように記憶しております。
 テンプターズというか、ショーケンで残念だったのは、もちろん、ショーケンは俳優として、歌手として、第一線での活躍を続けてきているわけですが、私は、テンプターズ時代に一度もライブを見たことがなかっただけに、「最後の日劇ウエスタン・カーニバル」では、ショーケンのステージを期待していたのですが、あの「最後の日劇ウエスタン・カーニバル」の時でさえ、ショーケンは、あくまでも、現役の歌手として出場し、テンプターズ時代の持ち歌は1曲も歌ってくれなかったことであります。シンガーとして、その頑なさが、ショーケンの魅力でもあることは、十分に理解しているつもりではありますが…。
 でも、やっぱり、ジュリーは、あの時、現役の歌手としても参加したし、タイガースのジュリーとしても歌ってくれたのに…、と、いつまでも、いじましい元GS大好き少年のオヤジなのでありました。



6位/スパイダース(3万8559票)
 以前、この「60年代通信」のどこかのページでも書かせていただきましたが、私が小学校6年生の時に、初めてライブで見たGSが、このスパイダースでありました。
 ちょうど、「いつまでもどこまでも」がヒットしている時で、ステージの最後に、新曲として「あの時君は若かった」を歌ってくれた記憶があります。司会のマチャアキが、「最後は、『あの時君は若かった』という曲です。皆さん、知ってますかーっ?」と問いかけ、会場から「知ってまーす」という声が返り、「ウソ言っちゃダメだよ。まだ、どこでも歌っていない新曲なんだから」とまぜっ返す客席との交歓があったのを覚えています。また、何の曲を演奏している時だか、忘れましたが、井上尭之センセイのギターの弦が切れてしまったにも関わらず、きっちりと演奏を続け、曲が終った後、ギターの弦を張り替えている間、マチャアキと順が軽妙なやり取りで場をつなぐというような場面もあり、子供心にも、スパイダースというグループのプロフェッショナルぶりと卓越したショーマンシップに驚いた記憶があります。私は、この頃、すでにブルコメのファンになってしまっていた時期でありましたが、マチャアキと順の会話を聞きながら、「こういうステージはブルコメには真似が出来ないだろうな」と関心したものでありました。
 実は、このステージは、本来は「西郷輝彦ショー」が行われるはずで、長岡駅前の、当時、市内でも最も賑わっていた繁華街だった大手通りの商店会の歳末売り出しの景品として切符が貰えるという仕組になっていたものです。私のクラスメートだったOさんのお姉さんが大の西郷輝彦ファンで、確か、お母さんとお姉さんとOさんの3人で行くつもりで切符を手に入れていたのに、直前になって西郷輝彦が病気で来演できなくなって、スパイダースがその代演をすることになり、当時、すでに、クラスでもGS大好き少年として認識されていた私に、「鈴木君、行かない?」という話があり、喜んで、その切符をもらい受けることにして、悪友だったS君、K君と3人で、駅前の厚生年金会館に出かけたのでありました。
 悪友3人とも、友人同士で出かけていく初めての芸能ショーが、それなりに楽しみだったのか、それとも、私が、「どうせ行くんだったら、早く行こう」などと働きかけたのか、もう忘れてしまいましたが、とにかく、会場の入り口では、列の前から10番目以内くらいのところに付けることができ、開場して切符を渡すと同時に、3人で階段をかけのぼっていきましたので、何と、最前列でスパイダースを見ることができたのであります。演奏会場といっても、椅子が並べられているわけではなく、普段は、バスケットボールやバレーボールのコートとして使われている体育館の床に、ゴザが敷き詰められ、そこに体育座りをして、ショーを見るという、およそ、GSのライブを見るには似つかわしくない環境でありました。でも、さっきも、敢えて「芸能ショー」と書かせていただきましたが、スパイダース・ファンやGSファンのお姉さんやお兄さん達を除けば、私達やおばさんやおじさん達など、このショーを見に来た大半の人たちは、GSのライブを聴きに来た、というよりは、普段、テレビで見ることしかできない芸能人を生で間近に見るために来ていたはずで、その意味では、紛れもなく「芸能シ ョー」であったではないかと思うわけです。雪深い長岡のことでありますから、敷き詰められたゴザの敷物に上がるときには、防寒靴というか、要するに、ゴム長靴を脱ぎ、それを脇に置いて、ステージを見ていたのでありまして、その雰囲気は、やはり、芸能ショーという言葉が、最も似つかわしいのであります。
 それにしても、当時、GSを聴くのは不良だ、とかいうような大人の見方もあった中で、小学6年生の男子だけ3人でGSのステージを見に行くことを、しかも、ショーは夜だったような記憶がありますので、よく私たちの親が許してくれたものだという気もしてくるわけですが、どういう経緯だったのか、全く覚えておりませんので、今度、実家に帰ったら、その辺の事情も確認してみたいと思います。東京ならともかく、当時、地方都市である長岡で、子供が夜にGSを見に行くなどということは、我ながら、恐らく、非常に大変なことだったのではないかというような気がします。
 ただ、長岡という町は、その辺が、結構、大らかだったのか、確か、このショーの時には、ステージの途中で、マチャアキが「今日は、何か、中学の先生も見に来てくださっているそうで、どちらにいらっしゃいますかー」と問いかけると、会場の後ろの方から反応があり、マチャアキも「いやー、長岡っていう町は、本当に、いい町ですね。全国のPTAの皆さんに教えてあげたいよ」とか何とか言っていたのも覚えています。
 つまらない個人的な体験談が長くなっておりますが、このスパイダースのステージを見に行ったのは、「あの時君は若かった」の発売が1968(昭和43)年3月5日でありますから、恐らく、この年の2月くらいのことだったのではないかと思われます。
 ですから、この『週刊マーガレット』のGS人気投票が行われる直前というようなタイミングだったことになります。
 さて、肝心の、この頃のスパイダースの話に、ようやく入ることになりますが、私自身は、「あの時君は若かった」というのは、それほどヒットしたというような記憶はないのでありますが、手元の資料によりますと、ヒットチャートの最高位は6位で売上枚数も18.5万枚ということで、「夕陽が泣いている」の頃は、まだ、オリコンなどのヒットチャートが存在していなかったということもあり、売上枚数という点では、オリコン史上スパイダース最大のヒット曲が、「あの時君は若かった」なのでありました。
 ちなみに、「いつまでもどこまでも」は、最高位4位、売上枚数は14.2万枚となっています。
 この年は、この後、6月に「真珠の涙」、9月に「黒ゆりの詩」、11月に「ガラスの聖女」というラインナップで、かなり小刻みにシングル盤がリリースされておりますが、「真珠の涙」が最高位19位、売上枚数11.2万枚を記録したのを最後に、チャート的にもベスト30の圏外、売上枚数も5万枚未満ということで、レコードセールス的には、この年の半ば以降、急速にパワーダウンしております。
 もちろん、スパイダースの場合、レコードセールスよりも、そのステージであるとか、音楽的な先進性であるとかが評価されるべきグループであることは論を待たないと思いますので、あくまでも、数字的にみると、そういうことだった、というだけであります。
 ブルーコメッツが「青い瞳」をリリースする1年も前に「フリフリ」でデビューし、GS時代を先取りしていたスパイダースは、常にGSの最先端を突っ走っていたグループでありました。
























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