初期古典時代の彫刻


ギリシアの時代区分は紀元前480/479年の第二次ペルシア戦争をもって古典時代となるが、その新しい時代の始まりを告げるものとして重要視されているのが僭主暗殺者群像である。前514年に僭主ヒッピアスの弟ヒッパルコスを暗殺したハルモディオスとアリストゲイトンの像は、マラトンの戦いの後、まもなくアンテノルによって制作された。第二次ペルシア戦争の際にアクロポリスを占領したペルシア軍によって持ち去られたが、僭主を倒した民主主義の象徴として重要であったこの群像はまもなくクリティオスとネシオテスによって再び作られた。またアンテノル制作の群像も後にアレクサンドロス大王の手によってもとの場所に戻された。

残念ながらそのオリジナルはどれも現存しないが、ローマ時代のコピーなどからその姿が復元されている(Naples 6009/6010: Perseus Project)。 この群像のポーズが後のギリシア彫刻、特にレリーフ彫刻に多く繰り返されていることから、この像が後に多大な影響を与えたことが強調されてきたが、近年はそれ以前にもこのポーズが用いられていたことが明らかとなり、その評価が見直され始めている。

この群像がそうであったように、古典時代になると彫像の多くがブロンズで制作されるようになった。現存する作品としては、デルフォイ出土の御者像(図1: Delphi 3484, 3520, 3540: Perseus Project)があり、左腕を除きほぼ完全な状態で保存されている。 これは前478年あるいは474年にデルフォイのピュティア競技会における戦車競争でのゲラの僭主ポリュザロスの勝利を記念して作られた戦車群像の一部である。目は大理石とガラスで作られ、まつげが取り付けられている。また唇には銅が、鉢巻の文様には銀が用いられている。

図1 デルフォイ・御者像

アルテミシオン沖の海底から引き上げられたブロンズ像(図2: Athens 15161 : Odysseus)は、雷霆を振るうゼウスとも、三叉の矛を投げるポセイドンとも言われ、左手を前方に突き出し、左足を大きく踏み出すダイナミックなポーズはこれまでの大理石像にはない、ブロンズというメディアが可能にした新たなポーズといえる。残念ながら誰が制作し、どこに何の目的で作られたものか明らかではない。

図2 アルテミシオンのポセイドン像

初期古典時代のブロンズ像の中でも特に重要なのが南イタリアのリアチェ沖から発見された二体の戦士像である(図3: Reggio: Perseus Project)。両者の様式がかなり似通っており、群像として作られたものと考えられているが、相違点もあり、同一工房内の異なる作者によるものという説が有力である。

図3 リアチェの戦士像(A)

またこれらがデルフォイにあったとされるフェイディアス作のマラトン戦勝群像の一部であるという見方と、オリンピアにあったアイギナのオナタス作のトロイア戦争におけるギリシア英雄群像の一部とする見方があるが、両作者について比較する資料が後世のコピーしか存在しないため、いずれも確証はない。この現存する二体の戦士像がギリシア彫刻の傑作であるのは間違いないが、これは現存する作品が極めて少ないためかも知れず、見事な作品だからといって著名な彫刻家に同定しようとするのには問題があるかもしれない。

アルカイック時代に比べ、古典時代の作品や彫刻家についてはプリニウスやパウサニアスなどによる文献に記されたものも多い。残念ながらそのほとんどは現存しないが、それらを模したと思われる後世のコピーがいくつも残されており、それらを元に研究が進められている。

文献からサモス生まれと南イタリアのレギオンで活動した二人のピュタゴラスの存在が考えられてきたが、オリンピアからサモスのピュタゴラスが南イタリアの都市クロトンのアステュロスのために制作したと記された碑文が見つかったことで、サモス出身で後にレギオンへ移住したとする説が広く受け入れられている。造像技術に優れ、筋肉や血管を表現し、髪を注意深く表現した最初の彫刻家と伝えられている。

アテナイ出身のカラミスには多くの作品が伝わっているが、前五世紀末に活躍した別のカラミスとの区別が明らかでない場合が多い。最も有名な作品がシュラクサの僭主ヒエロンがオリンピア競技会で勝利したのを記念した戦車群像で、特に馬の表現に秀でていたと伝わっている。

エレウテライ出身のミュロンはフェイディアスやポリュクレイトスの師ともいわれるアゲラダス(ハゲライデス)の弟子で、初期古典時代の終わりごろから活躍している。最も有名なのが円盤投げ選手の像で、現存しないものの、最も多くコピーが制作された作品の一つである(Rome: Artchive)。遠心力をつけるために体を大きくひねったこのポーズはルキアノスの記述したポーズそのものといえる。 マルシュアスとアテナの群像はそれぞれのコピーが別々に残されているのみで、陶器画なども用いて復元されている。

これらのほかにもこの時代の作品を模したと思われるコピーが残されており、そのオリジナルの作者の同定が試みられているが、いずれも確実なものではない。