巻頭特集 地獄の黙示録
特集1 自説12人 話題作をめぐって

長谷川和彦 作家としての正当な表現の放棄

キネマ旬報 1980年1月上旬号 p.24


 馬鹿な評価ではあるが、前半120点、後半30点というのが「地獄の黙示録」を見ての率直な印象だ。空軍騎兵隊を率いるロバート・デュバルがサーフィンをさせるためにベトコン村を急襲するジャングル掃討作戦のシークエンスは、まさに戦争そのものをフィルムにおさめた初めての映画といっていい。すばらしい迫力だ。ファントムジェットが飛び交い、ワーグナーの「ワルキューレの騎行」をボリューム一杯に挙げての殺戮シーンは、人間が本能的に持っている戦争をすることの快楽を徹底的にあばき、 ベトナム戦争に対するジャーナリスティックな視点とはまったく違う戦争そのものを醒めた眼でとらえ、秀抜だ 。

 しかし、コッポラが本当に分かっていたのはこのジャングル掃討シーンまでで、マーチン・シーンがマーロン・ブランド扮するカーツ大佐に接近するに従って作家の深い混迷を象徴するかのように、ナイトシーンが多くなっていく。まるでキリストのように、そして阿片窟の廃人のように、カーツは描写 される。いかなる時でも・闇の奥・に蠢き白日のもとに現われることはない。カーツを白日のもとに晒し、その正体を見極めようとする作家本来の視点がそこにはないのだ。いくら闇をうまく撮っても闇は闇にすぎないのであって、その視点が欠落している限り、王国そのものの存在は浮かび上がってこない。おそらく、カーツとはいったい何者なのかという疑問がコッポラには最後の最後まで解けなかったのだ。

 コンラッドの「闇の奥」をベースにしたことは非常に興味深いのだが、文明人が未開地に入って王国を築くという19世紀的設定をそのまま現代に移しかえることが土台無理だったのだ。19世紀のアフリカ人たちは決してベトナム戦争を戦ったりはしなかったのだ、という事実をコッポラは忘れてしまっている。別 に彼はアジア人を蔑視しているのではあるまい。単に理解しえていないだけの話だ。王国の人々が誰一人個人としては描かれず、群れとしてしか表現されていないことがそれを物語っている。牛の首を斬り落とすショットをカット・バックさせながらのカーツ殺害のシーンに至っては、今どきの映研青年でもやらないような古くさい手法でコッポラともあろう者が何をしとるのか、と信じられない思いがした。厳しくいえばそれは代替表現以外の何ものでもなく、作家としての正当な表現の放棄に他ならない。最終的に分からないものは分からないと正直に表現することが誠意ある作家の姿勢だと思う。意味ありげな作意は映画の力を半減させるし、悪しき文芸大作風なナレーション過多はコッポラの哲学的混迷の不正直なところだ。

 「地獄の黙示録」はコッポラの壮大なる失敗作だが、しかしその失敗ぶりは一見に値する。



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