長谷川和彦はなぜ映画を撮らないのか

「イメージフォーラム」1990年10月号 特集 続・映画への疑問――映画製作 p.79〜85

――ここ数年、日本映画が駄 目だと言われ続けています。いかにも小粒な小品ばかりで、新人監督にしてもパワーを感じさせるのは『どついたるねん』の阪本順治ぐらいしか見当たりません。全体に日本映画が低調なのは、長谷川和彦が映画を撮らないのが原因ではないか。「われわれは十年待った」と、市ヶ谷のバルコニーで叫んだ三島由紀夫のように、映画ファンは叫んでいます。この叫び声に対して、監督はどの様に答えるのか、お聞かせいただきたい。

長谷川 うーん……(しばし沈黙)残酷な質問だね。なに答えてもだらしない言い訳になりそうだ。土台もう誰も待ってないでしょう俺の映画なんか。俺だけだよ、いまだ熱烈に待ち続けてるのは(苦笑)。それにこの十年、必ずしも日本映画が低調だったとは思わない。それ以前と比べれば、実に多彩 なバックグラウンドの監督が登場したし、面白い映画もあったと思う。俺は評論家じゃないからベストとかワーストとか言わないけど……確かに撮らなかった長谷川は俺自身のワーストワンには違いない。しかし「撮らなかった」んじゃなくて「撮れなかった」んだ実体は。
 この十年、「今年は映画撮らなくていいや」と思ってすごした年なんか一年も無い。いつだって「6ヵ月後にはクランクインだ」と思って、脚本書いたりロケハンしたりしてきた、結果 的にそれが全て実らなかっただけでね。書き上げて流れた脚本の数だって……いかん、やめよう、これじゃ引かれ者の小唄だ、みっともなくていけない。どだい酷だぜ、このインタビュー。「男は黙ってサッポロビール」じゃないが、監督は黙って映画撮ってればいいんだよ。駄 目だ、例えまで古い(笑)。

――『連合赤軍』にこだわり続けてることと、撮れないことは関係あるんでしょうが、長谷川さんにとって、『連赤』はどういう特別 な意味があるんでしょうか?

長谷川 うーん……『連赤』の話すると長いんだよ、経緯がいろいろ……ただこんな言い方はできるかも知れない。この十年の日本映画の傾向って、良くも悪くも〔軽くて面 白い〕だったんだと思う。それは映画だけに限ったことじゃなくて、時代のトレンドなんだろうけど……俺はやっぱり〔重くて面 白い映画〕を撮りたい監督なんだよ。一観客としても、軽妙で洒落たスポーツカーのような映画より、鈍くさくても重戦車みたいな迫力のある映画のほうが好きだ。

――『連赤』が〔重い〕ことは判りますが、はたして本当に〔面 白い〕んでしょうか?

長谷川 (怒って)面白いさ、そりゃあ!!(爆笑)いやゴメン、阿呆だねこれじゃ。なんとか知的に答えたいんだが……〔軽い、重い〕とは別 に〔日常、非日常〕って切り方をすると、俺は〔ごく普通の人間の非日常〕を面 白いと思うらしいんだ。いきおい興味のある素材は、犯罪であったり事件であったりするんだが、それはあくまで結果 であってね……たって〔普通の人間の普通の日常なんて自分自身の44年間で十分見飽きてきてる。もちろん私小説的日常世界ってものを理解しないわけじゃないが、やっぱり映画ってワクワクしたいじゃないですか。デヴィッド・リーンは偉い、突然だけど(笑)『戦場にかける橋』や『アラビアのロレンス』のような戦争映画だけじゃなくて『ライアンの娘』みたいな英国の片田舎のいわば只の不倫話を、あんなにドーンとカメラ引ききって、堂々たる70ミリスペクタクル映画に撮っちゃうんだもの、あれは凄い。キューブリックなんかもそうだけど、イギリス人ていまだに〔大英帝国〕を自己の内部に持ってるのかね。俺の内部に〔大日本帝国〕は……無いよな、きっと。『連合赤軍』は、そんな私の戦争映画なので す。戦争映画だから面白いに決まってるんだ、乱暴だけど(笑)。非常にきつい悲劇的なゲリラ戦の話ですがね。

――たしかに『青春の殺人者』は親殺し、『太陽を盗んだ男』は原爆作りと、二作ともに〔ごく普通 の人間の非日常〕を描いて実に映画らしい映画だったと思いますが、いったい『連合赤軍』実現のめどはあるんですか?

長谷川 いま自分で脚本書いてて、枚数だけはとっくに四百枚こえたけど、未だ全構成の三分の一あたりなんだ。このままいくと千数百枚のお化けみたいなシナリオになる。「馬鹿者、十五時間の映画をつくるつもりか?!」と自分でも思うけど、ともかく一度全部吐き出してみることに決めたんだ。実は、田村孟さんが書いてくれた脚本がすでに三年前にあって、これはこれで立派な五百枚の労作なんだけど、クランクインには至らなかった。その理由は外的には出資者捜しが不成功に終わったことだけど、内的、本質的には孟さんのホンに俺がまだまだ満足できなかった事にある。その不満の意味をうまく伝えられなくて、孟さんを怒らせちゃったりもしてね。
 俺は『実録・連合赤軍』をやる気はなくて、あくまで事実を素材にした不可思議なフィクションをやりたいんだ。それは例えば『エル・スール』や『サクリファイス』や『2001年宇宙の旅』が模索提示した〔存在への疑問と夢〕を、まるで日本的でリアリスティックな〔革命ゲリラ青春アクション悲喜劇〕のなかで描いてみるって事でね。駄 目だ、なに言ってるか判らんだろう(笑)孟さんにも「おまえは『連赤』をオカルト映画にするつもりか?」って怒られたよ。たしかに俺が考えてる映画は、かなりオカルティックで宗教的な匂いのするものになりそうなんだけど……ともかく口でぐだぐだ言っても伝わらないなら、脚本にしてしまえと思って、ひとりで延々と書いてる。ただ1964年から現在にいたる四半世紀の時間の流れを切り取るという、スケールだけは叙事詩的な構成になっちゃって、ただただ悪戦苦闘の日々です。

――侯孝賢の『悲情城市』はご覧になりましたか? 悲劇的な史実を素材にした、叙事詩的青春映画という意味で、監督の『連赤』とも通 じるものがあると思いますが。

長谷川 うん、助監督や友人にもそう言われて、珍しくプレミア上映で観ましたよ。

――どうでした。参考になりましたか?

長谷川 うーん……とても丁寧につくられた真摯な映画には違いないし、ディテールの的確な 描写力には感心もしたけど……ちょっと退屈だった。それはべつに映画がドキドキハラハラするようにつくられてないという不満じゃないんだ。主人公をふくめた登場人物たちが、あまりにも被害者的にとらえられ過ぎてる。〔激動する歴史に翻弄される、か弱き庶民たちの悲劇〕みたいなさ。もちろん映画はキャッチコピーより数等上質なものに仕上がってるんだけど、俺にはどうもね。今平さんの『黒い雨』をみたときにも感じたんだけど、〔良い人が、良い人たちを描いた、良い映画〕ってどこか嘘くさくて腰が弱いよ。人間て、もっともっと悪くてタフでラフで、魅力的なものじゃないのかね。俺が『連赤』という素材にこだわるのも、彼らは決して、徴兵されていやいや戦場にかり出された被害者じゃなくて、それぞれに自らの意志で、殺人も辞さないゲリラ戦の現場に赴いてる〔加害者候補生〕だからなんだ。もちろん、誰もが立派に〔革命戦士〕だったりしたんじゃなくて、むしろ大半の連中が、迷いと不安と恐怖心を抱いた、普通 の人間たちなわけでね。だから脱走者も出れば〔同志殺し〕という最悪の血の粛清もおこったんだと思うけど、大切なのは〔殺人まで犯して達成する革命は正義か?〕という政治的な設問なんかじゃないんだ。
 政治なんてシロモノは、いつの世にも所詮は相対的な現象にすぎないんで、問われるべきは〔人間っていったいどういう存在なのか?〕という素材で根源的な疑問なんだと思う。だからこそ被害者であると同時に加害者でもありうる丸ごとの人間を見たいわけでね。そういう意味では『非情城市』よりも、昔見た『旅芸人の記録』のほうがはるかに衝撃的だったような気がする。しかし、舞台挨拶に立った侯孝賢監督が羨ましかったなあ。いや、デビュー作からずっとチームを組んでるプロデューサーの張さんとかいう人と一緒なんだけど、実に仲のよさそうなコンビでね。「なるほど、映画をコンスタントに撮り続けられる監督って、こういう良きパートナーと一緒に走ってきてるんだなあ」と、つくづく羨ましかったし、我が身を恥じたよ。

――監督の前には、コンビを組もうとアプローチするプロデューサーは現れないんですか?

長谷川 ほとんど絶望的な情況だね。本当に評判悪いらしいんだ俺。態度はデカイ、プロデューサーの言うことは聞かない、脚本を書かせれば遅い、撮らせれば予算オーバーする、ともかく最低の監督である。そういう評価が定着しきっているらしい。いや、それももう昔のことで、今や長谷川が生存してるかどうかすら、誰も興味を持ってないというのが真相らしい。笑いごとじゃないんだよ、おい(笑)「それほど良いことした覚えもないけど、そんなに悪いか俺?」図々しくそう思うところがまた反省の足りないところだ。たしかに侯孝賢監督なんか誰からも愛されそうな清々しい笑顔してるもんなあ。しかし、こんな俺にでもアプローチが皆無ではない。今年もある若手プロデューサーが「『連合赤軍』?良いじゃないですか。監督のやりたいものをやりましょう」と最高のアプローチをしてくれたんだよ。嬉しかったなあ。ともかく企画書を作って前向きに転がし始めよう、ってことになって書き始めたんだが、読む人の誤解が嫌でね。素材が素材だけに、 企画ストーリーのかたちではどうしても伝えきれないものがある。それは特に〔可笑しさ〕なんだ。
 世間ではあの陰惨なる連合赤軍事件と、ただただ暗く思わてるけど、全て我々と同じ普通 の人間がやったlことだからねえ、〔可笑しい〕に決まってるんだよ。殺人だろうが革命だろうが、目一杯行動してる人間を丸ごととらえたら、必ずや滑稽でせつないものだと思う。この〔可笑しさと哀しみ〕がストーリーの形だとどうも上手く書けないんだ。『坂東の行動は可笑しくて哀しかった』なんて書いても意味ないからなあ。また俺自身もディテールを書き込まないと把握できない部分があって、書き直し、書き込みをくりかえしているうちにどんどん時間が過ぎちゃった。ま、時間はかかるワケなんだ、結局シナリオ書いちゃってんだから、もう。その間、プロデューサーは「あんまり時間がかかるんなら『連赤』はライフワークとしてとっといて別 の企画を先にやりませんか?」と丁寧に冷静な提案もしてくれたんだが、長谷川のヤツもう『連赤』の脚本家になっちゃってるもんだから、「もう少し、もう少しで形になるから……」としつこく書くのをやめないんだ。まあ本人にしてみれば、今やめて投げ出したらこの数ヵ月が無意味なものになる、怠け者の自分はまたいつボルテージをここまで上げてこのシナリオを書けるかわからない、それじゃあオマエのこの十年間は一体何だったんだ? なんて自分勝手に必死だったんだろうけどね。で、我慢に我慢をかさねて待ってくれてたプロデューサーも、ついにしびれを切らせて「監督には『連合赤軍』の亡霊がとりついてます。その亡霊と決別 しない限り、私は監督と一緒に仕事をする気はありません。さようなら」と去って行った。 「わかりました。まったく言われる通りです。この亡霊どもとは即刻わかれます。一緒に映画を作りましょう!」。長谷川だって、本当はそう言ってプロデューサーの背中に抱きつきたかったんだと思うよ。しかしなあ……ともかくそんな経緯で誰も待ってないシナリオを、えんえんと書いてるよ。ほとんど馬鹿だけど、まあ仕方ないわなあ……なにしろ一日も早くコイツを書き上げて「これがあのタチの悪い亡霊たちと私の共作シナリオです。読んでみて下さい。以外に面 白いですぞ」ぐらいのこと言うのが、待ちつづけてくれたプロデュー サーへの礼儀だろう。ま、自分自身に対するケジメってこともあるし……(深い溜め息)

――孤軍奮闘されている長谷川監督の表情は、少しわかりましたが、日本映画にいま一番欠けているのは何だと考えますか?企画が貧困だ、脚本がつまらない、金が掛かってない etc……いろんな原因があげられると思いますが。

長谷川 『日本映画』とひとくくりにして語るのは、かなり不毛だと思うけどなあ。だから今までも なんとか極私的に俺個人の馬鹿馬鹿しい恥を喋ってきたわけで……ま、いいか。映画をつくるってやっぱり人と人の出合いだからねえ。その出会いを妨げるものはまず害毒なんだろう。企画と脚本が映画の命だとすれば、日本映画はそれに時間とお金をかけなさすぎるわなあ。脚本家が映画を書いてたら生活出来ないという状況はひどいと思う。それじゃあ監督は脚本家に出会えないよ。あの荒井晴彦がTVの連ドラを書く時代だから、もはや映画しか書かない脚本家なんて存在しないんだろうが……いや、バカな誤解を恐れて言うけど、映画とTVに上下なんてもちろん無いんだよ。本来異なったメディアなんだから。ただ向き不向き、得手不得手、好き嫌いはあると思う。 それは脚本家だけじゃなくて、監督にも俳優にも言えることで、TV向きの人もいれば、映画向きの人もいる、両方立派にこなせる人だっているんだし、Vシネマすら存在し始めた現在、その境界線はすごく混沌ととしてきてるには違いない。しかしやっぱり映画が好きで映画を書きたいと思っている脚本家だっているはずなんだ。脚本家のギャラをとりあえず現在の3 倍ぐらいに上げてみたらどうだろう? 脚本家、監督、俳優の中で映画では明らかに脚本家が冷遇されてるもの。監督はいいんだよ、タイトルの最後にでるんだから。俳優?いいんだよ顔が映るじゃないか(笑)。そうして映画を本当に好きな脚本家が、生活の不安などじっくり時間をかけて執筆できる状況ができたら、急速に日本映画は面 白くなると思うなあ。新しい優秀な人材だって〔映画の脚本家〕を目指すしね。そうなりゃ俺みたいなシロウトが、書けもしない脚本をうんうん唸って書く必要も無くなる。長谷川もついに映画監督として多作の時代にはいれるってわけだ。万歳、量 産体制だ!夢かなあ(笑)

――この雑誌の創刊準備号で、長谷川さんに川喜多和子さんの対談をお願いしました。その最後の部分で、映画のカンパニーを作るって宣言していますよね。『ムービーギャング』という仮称つけて。それは『ディレクターズカンパニー』として82年に実現したわけですが。

長谷川 そうかあ、この十年で俺が実現したホラは『ディレカン』を作るってことだけか。実現すればしたで、あちこちに迷惑をかけてるなあ。

――『ディレクターズカンパニー』を作った動機とその後の動向をすこし聞かせてください。

長谷川 当時は、我々9人もまだ年齢だけはバリバリの若手監督でね(長谷川36・相米33・高橋32・根岸32・池田31・大森30・井筒29・黒沢27・石井26)それぞれ監督にはなったものの、さあどうすれば自分の撮りたい映画が撮れるんだろうと少し途方にくれてもいた。さっきの話じゃないけど、日本映画の状況はその頃もそんなに素晴らしいものじゃなかったし。ともかく元気に映画をつくれる〔出会い〕の場が欲しかったんだ。同時にそこは各監督がプロとして対外的に自己主張できるベースキャンプの場でありたいってことがあって、同人組織ではなく株式会社にしたんだ。自己主張だけでリスクを負わないんじゃプロではないからね。監督主宰の独立プロの気概と、撮影所の演出部の共同体的楽しさをかけあわせたカンパニーにしたいと考えたんだが……ま、その後一本も撮ってない俺を別 にすれば、全員がそれぞれ自由に『ディレカン』らしい映画をとったし、脚本公募による新人ライターとの〔出会い〕も続いている。 最近はオリジナルメンバー9人以外の新人監督もデビューしはじめてるし(平山秀幸・森安建雄・矢野広成)、作って良かったとは思っている。俺の歯切れがいまいちなのは、作った赤字の額も相当なもので、業界各方面 に少なからぬご迷惑をおかけしているからです。この場を借りてメンバーの一人として深くお詫びします。しかし、大きな声で言いますが、すでに『ディレカン』は最悪の危機を脱しました。これからはもうドンドン良くなる一方ですから、金も知恵も力も貸さなきゃ損であります。今まで以上のご愛顧ご鞭撻をよろしくよろしくお願いいたします。(いやあ、苦しかった。相米、たまにはおまえが世間さまにお詫びをしろ!)

――最後に次回作の抱負を。

長谷川 ……そんなもん、本当にクランクインしなきゃもう言わんよ。



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