『ゴジ、清順映画に出現す!
 
清順三部作、待望の完結編『夢二』

「03」1991年4月号 特集-映画・日本映画の反撃 34〜40頁

長谷川和彦=談

ゴジこと映画監督・長谷川和彦が、何と役者として映画に出演。しかもそれが、あの鈴木清順の『夢二』。演じる役柄は「人殺しの鬼松」。こいつは面 白いことになってきた。果たしてゴジは清順美学にどう挑んだか?

 最初、プロデューサーの荒戸源次郎から出演依頼があったんだ。「からかうんじゃない、冗談は顔だけにしろ」って笑ったんだが、どうも本気なんだな荒戸の奴。俺もマジに考えて答えたよ、「長いあいだ映画も撮ってない監督が、チャラチャラ役者なんかやってちゃマズイだろやっぱり。助監督さんに怒られちゃうぜ」って。すると荒戸もマジで言うんだ、「いや、だからこそ出演して欲しいんだ。撮影現場で刺激受けてさ、元気になってカムバックして欲しいんだよオマエに。みんな待ってるんだぜ、ゴジの映画」。泣けたねコレには。いつも「おい、元監督の長谷川!」なんて俺を苛めてる奴だからな(笑)。
 俺なりに悩んだすえに結局出演することに決めたのは、『夢二』に馬に乗って暴れまわるシーンがあったからなんだ。乗馬って昔からやってみたかったんだよ(笑)。でも何だか贅沢で恥ずかしいことじゃないか、用もないのに「乗馬が趣味です」なんてさ。
 要するにワクワクしたかったんだ。ワクワク出来ることは、それが何であっても良いことなんだ、俺にとっては。もともと映画の世界に入った理由だって、そのワクワク願望だからね。
 芝居なんてド素人の俺がそんなに上手くやれるはずがない。しかし馬に乗るのは、一生懸命、練習すればなんとかなりそうだろう? 根が体育会だからそういう思考になる(笑)。

尻の皮4枚分の拍手

 さっそく聞いたよ、友人の俳優である西田(敏行)に「どのくらい練習すれば乗れるようになるんだ?」って。すると「最低“自分の年齢分の鞍数”乗らなきゃ駄 目だ」って言うんだ、これが。一鞍ってのは約1時間の乗馬を意味するらしい。俺は44歳だから44時間、要するに若いやつほど覚えるのが早いってことだ。なんだ意外に簡単じゃないか、1日8時間も乗れば5,6日でマスター出来るのか……そう思ったのが甘かった。西田に小淵沢ラングラーランチの田中のボスを紹介してもらった。この人は『敦煌』や『天と地と』の馬も担当した偉い人で、この人に教わりゃ間違いないって。ま、笑うと馬みたいな顔になる良い人なんだけど(笑)。訓練の初日に障害馬上がりの大きなサラブレッドに乗せられて、いきなり早足から駆け足までやらされた。2時間乗ったら体なんかバラバラでさ、尻の皮は擦り剥けてヒリヒリ悼むし、仕事だと思わなきゃ間違いなく泣いて帰ってたな。それから2ヶ月半の間、雨の日も風の日も暇さえあれば小淵沢に通 ったよ、それでも結果20日間、のべ25時間しか乗れなかったけど、両手離して馬上で大鎌振り回しながら疾走できるまでにはなった。まあ尻の皮4枚も剥いたんだから、それくらい出来なきゃな。だから馬のシーンの撮影にOKが出て、現場のスタッフから拍手が起こった時は本当に嬉しかったなあ。他のシーンじゃそうはいかない、みんな「このダイコン」て顔して俺と眼なんか合わさないようにしてたもんな(笑)。

 映画に出演すること自体、まるで初体験じゃないんだ俺。初めてスタッフについた今村昌平監督の『神々の深き欲望』のとき俳優が足りなくなってね、今平さん現場でホン書き足すもんだから。オール沖縄ロケ10ヶ月って映画で、おいそれと俳優呼べないわけよ、東京から。その頃、沖縄はまだパスポートの必要な外国だったし。で「まあゴジでもいいか」ってことになった。[村の夜這い青年A]という役でね。台詞だって何行かあったんだぜ(笑)。その時は「俳優ってなんて楽な仕事だろう」と思ったよ。なにしろ俺なんか製作部といえば聞こえもいいが、公民館の土間に雑魚寝の、3時間睡眠が数カ月続いたって当然という最下層の奴隷スタッフだったからね。それが出演者としてカメラの前にいる束の間だけは、奴隷の雑役から解放されるわけよ。時にはいつも俺のケツ蹴っ飛ばしてる先輩の助監督さんが、水なんか運んで飲ましてくれる。「いやあ極楽々々」ってなもんだよ。いやもちろん、俳優ほどこっ恥ずかしいモノはないってことも少しはわかったけど。
 地獄のロケーションが終わって、東京に帰って編集ラッシュ見て愕然とした。スクリーンに映ってるのは俳優なんだよ、俳優さんのお芝居が映ってるんだ。その当たり前のことがすごくショックだった。『神々の――』くらいハードな長期ロケの映画になると、実にさまざまなドラマが映画の裏側に存在するんだ。下手するとその裏側のドラマの方が面 白かったりする。いや裏と表が渾然一体となって、壮大かつ猥雑な人間ドラマになってると言ったほうが正確かもしれないけど。ましてや俺は映画が初めての新人だろう、もう頭グジャグジャになってるわけよ。実生活でも[村の夜這い青年A]的だったし(笑)。ともかくドロドロになって走り回っていた奴隷スタッフとしての俺の10カ月の仕事より、「極楽々々」とほんの片手間に数日やっただけの俳優の俺のほうが、完成した映画の中では残ってるんだもん。あんなに苦労したスタッフのドラマなんか映らないんだから。「ああ、映画って俳優さんが映ってるモノなんだ」とサメザメ泣きたいような気分で思ったよ。しかし、それじゃあ俳優になろうとしたかというとコレが違うんだ。あくまで絶対に監督だった。それぐらい当時の今平さんてパワフルなカリスマ的魅力に溢れてたよ。監督って存在はこんなに必死にわがままにガキ大将やってもいいんなら、ひょっとしたら俺にも出来るかもしれない、いや是非やりたいと思った。コレがそもそも間違いの始まりなんだけどね(笑)。
 しかし考えてみるとあの時の[夜這い青年]から今回の[人殺しの鬼松]まで、俺の俳優としての方向性は実にキッチリ一貫してるね。そろそろ芸域を広げなきゃイカンか、いや冗談々々(笑)。
 鈴木清順さんに初めて会ったのも、幡ヶ谷の今村プロの事務所だった。俺は22歳のお茶くみ助監督でね。今平さんに呼ばれて訪れた清順さんにお茶を差し上げた記憶がある。清順さんは日活をクビになって映画が撮れずにいた時期で、今平さんがその彼に『日本のヤクザ』というドキュメンタリーを撮らせようとして呼んだんだ。俺も学生の頃『肉体の門』とか『春婦伝』とか見てたから、こういう監督がドキュメンタリー撮ると意外に面 白いかもしれん、なんて偉そうに思いながら傍に座ってた。熱心に口説く今平さんの話を2時間ほどフムフムと黙って聞いたあげく、清順さん「あたしゃ、やっぱりドキュメンタリーは向いてませんや」と奇麗さっぱり断っちゃった。その頃から徹底して[虚構]にしか興味を持たない人だったんだなあ。
 あの時の清順さん、今の俺と同じ年齢だったと思うと不思議な気がする。それにしちゃ、やけに老けててすでに仙人の風格がそなわってた。俺なんていまだにヒヨッコというか青年だもんな(笑)。この仙人、なかなか残酷でよく笑いよく怒るニヒリストなんだ。

 ともかくせっかちで説明するのが嫌いな人でね。一番驚いたのは、初日だった。山狩りに追われて逃げ回ってる鬼松が、沢田研二演じる夢二の仕掛けた弁当を拾ってむさぼり食う、そこに夢二が現れてのふたりのやりとり、というシーン。これを基本的にはふたりのカットバックで6カットに割ってある――らしい。中抜きで撮ってるから、俺が助監督に呼ばれて現場に入ったときには、沢田向けの何カットかはもう撮り終えてる――らしい。ともかく俺がやるのはカット3――らしい。なにしろ状況説明は一切ないんだ。「はい長谷川さん、台本どおりその弁当を食べてください」ときた。俺の芝居の直前に沢田の台詞があるんだから、オフのきっかけぐらいくれるのかと思ったら、これもなし。沢田のやつ「さあゴジさん、やってごらん」て顔して傍で見てやがる。「この野郎、沢田。昔お前が俺の映画に新人として出たとき、俺はもっと優しかっただろうが!?」なんて悲鳴のように心の中で思ってる。そのくせ、その沢田の微笑みだけが唯一の心の支えなんだ。まるで気の弱い転校生が見知らぬ 教室でさらし者になってる感じだよ。
 ここで負けちゃいけない、と懸命に演技のことを考える。人殺しの鬼松はいったいどんな気持ちで弁当を食うのか?
「気持ち、気持ち……」と口のなかでモゴモゴ呟いてると、途端に清順仙人の声だ。「長谷川さん、気持ちなんて作らないでください」「はあ?」「気持ちなんかいりません。形のことだけ考えてください」。仙人はあくまで明快なんだ。 「そうですね、気持ちなんか映画には映りませんものね」なんて気の利いた台詞を吐く余裕など俺にはない。「はあ……形ですか」「そうです、格好良くやってくれればいいんです」
 ピシャリと言われて、やっと少しだけ理解出来た。そうか、俺は無意識にせよ、三國連太郎とか西村晃とか、いわゆる性格俳優のセンで芝居しようとしてたのかもしれない。この監督が欲してるのは、渡哲也とか三船敏郎とか、あっちのセンなんだな。ボンヤリわかったような気はしたけど、かといって急に自分の猫背がまっすぐなったり、出目金がひっこんだりするもんじゃない。
「なんだい、それじゃ元々ミスキャストなんじゃないか」なんてますます落ち込んでるうち「まあいいでしょう、OK」の声で俺の俳優初日は終わった。本当に暗かったよ。荷物まとめて金沢から逃亡しようかと思ったね、いやマジでさ(笑)。

リアルVS.ニヒル

 俺が付き合った監督の中で、ま、俺自身も含めてだけど、清順さんほど徹底してリアリズムを拒絶してる監督はいないね。「気持ちはいらない、形です」という言葉が端的にそれを象徴してる。彼にとって役者はあくまで道具なんだ。もちろん道具すなわち[物]と[人間]は同等なんだろうけど、彼の中で、その明快さはある意味じゃ俺にとって凄く新鮮だった。
 彼のこの[乾いたニヒリズム]とも言うべき感性は、一体いつどんなふうに形成されたんだろう。撮影のあいまに、学徒出陣で生き残った話なんか、妙に明るく喋ってたけど、そのへんと関係あるのかね。ま、ダサイ実証的検証はやめよう。「長谷川さん、形ですよ。ケッケッケッ」とまた笑われそうだ。
 でもね、そんな清順さんがヤケに小さなリアリズムにこだわって小道具の駄 目なんか出してることがあって「ほほう、珍しくリアリズムですねえ」とかからかうと「こういうところはリアリズムでないきゃいけませんや」と悪戯小僧のような照れ笑いをするんだ。あの愛嬌でスタッフ、キャストをたぶらかしてきたんだなあ、チキショウ(笑)。

 とにかく手の内を明かさない監督さんだよ。助監督ですら、彼が何を撮ってるかほとんど知らないからね。「そんなこと監督ひとりがわかってりゃいい」っていうのが鈴木組なんだ。
 出来上がる映画について、あんなに語るのが嫌で、本当に監督してて楽しいんだろうかと思うけど、でも、だからこそ彼は楽しいんだろうな。真逆なんだよ俺なんかと。俺なんかは甘ったれだから、監督である俺の悩みと現場のフォース助監督の悩みがシンクロしたら、きっと良いシーンが撮れるなんてどこかで思ってる。撮影現場の共同体に対する[甘い幻想]をどうも捨てきれないんだ。要するにセンチメンタルな田舎者に過ぎないんだな。だからいつまでも映画が撮れないんだ。駄 目だ、自分のことを喋るとどうも愚痴っぽくなっていかん。

贅沢でかたくななマイナー

 清順映画の系譜を、わかりやすい映画とわかりにくい映画に分けると――なんともヒドイ分け方だなあ(笑)――俺はわかりやすい映画のほうが好きだね。『東京流れ者』は生理的に気分良かったし、一番好きなのは『けんかえれじい』だ。ちょうど黒澤明は『用心棒』が一番だというのとにてるのかもしれない。
 わかりにくい映画のほうでは『ツィゴイネルワイゼン』がダントツに面白かった。あのときの清順さんは突然、地下から出現した巨大な新人のようだったね。ひょっとしたら、あの人が本当に必死になったのは『ツィゴイネルワイゼン』だけかもしれない。「自分のかたくなさは本当に面 白いのか」ということを懸命に自問してたような気がする。
「好きなようにやってください」とベットしたプロデューサーの荒戸源次郎も偉かった。荒戸の好きなものは“贅沢でかたくななマイナー”なんだな。彼にとってはそれこそがメジャーなんだ。

ワクワクVS.「退屈」

 清順映画はカマシ芸術だと思う。ハッタリとは言わない、カマシの美学だよ。今度の『夢二』はもう全篇カマシの連続だ。よくここまで好きなことをやってくれましたと感心したよ。清順ファンには堪らない魅力だろうね。ただ、だから逆にカマシ技の効きがちょっと弱いかもしれない。ま、それは映画を見る人間の、感性の胃袋の大きさと質の問題だろうけどね。
 思うに、清順さんの根底にあるのは「退屈」なんだろうな。江戸の商家の旦那的なね。どんな奴が映画に出てきても、彼にとっては「退屈」なんだよ。清順映画ってのは「退屈」を見に行くんだ。「退屈」を味わいに行くんだ。そしてそれは非常に都会的で「上等」なことには違いないんだな。
 俺がともかくワクワクしたくて映画に関わってるとすれば、彼は人間の「退屈」と露呈するために映画撮ってる。それは彼にとって一番正直なことなんで、そのことで彼を悪くは言えないよ。
 ただ俺が見たいのは、これは昔から荒戸にも言ってるんだけど、わかりやすいほうの清順映画だな。清順さんが、今、『けんかえれじい』をどう撮るかってことだ。そこで展開される清順美学をぜひ見てみたいね、彼が元気なうちに。
 あ、もうひとつ。『夢二』では愚鈍な新人俳優として多大な迷惑をかけちゃったから、今度は俺の映画に出演してもらって、きっちり迷惑をかけ返して欲しいね。役どころはもう決まってるんだ。もちろん年齢百余歳のクソ元気な意地悪爺さんの役さ(笑)。

『夢二』に出演させてもらったお蔭で、俺も元気になったよ。沢田や芳雄(原田)をはじめ先輩俳優さんたちの優しさには鼻水が出るほど励まされたし、清順監督のタフネスぶりには負けるもんかと刺激された。ゴジはもう大丈夫です。
 俺が撮る次回作のタイトルは『帰って来たジンギスカン』。内蒙古の大草原から日本上陸を敢行した、中国残留孤児父子が、日本中で八面 六臂の大暴れ。
 全部わかって面白い、ワクワクする戦争アクション映画なんだ。乞うご期待です。


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