映画やりたい奴この指とまれ
長谷川和彦 新米監督の独立宣言
俺を勃起させたアメリカの映画野郎たち

月刊PLAYBOY 1977年7月号

 

「青春の殺人者」の新鋭映画監督、ゴジこと長谷川和彦がアメリカに飛び出した。アメリカの映画野郎たちとの出会い、撮影現場、自分のフィルムの試写 会などを中心に彼のアメリカ体験は広がる。その50日を綴ったユニークな体当たりアメリカ日記。

 

アメリカの夢 アメリカのヒーロー

 <なんだ、そんなにデカクないじゃないか> 黒のタートルネックのセーターにピンク色の三つ揃いのコットンスーツという、ラフなのかフォーマルなのかわからんような妙ないでたちで現れたシルベスタ・スタローンの身長は、私とほぼ同じ位 なのである。ほんまにこれがあのウスラでかく見えた“イタリアの種馬”かいな、そういえばあの映画の脇役たちは皆かなり小柄な連中だったが、あれは意図的にスタローンを大きく見せるためだったんだな等と一瞬余計な事を考えたりする。しかし愛敬のある笑顔を浮かべて握手する奴の手は、しっかりとゴツイ。

 「カズヘコ、ハセハセ?」 自己紹介した私の名前を、奴は一生懸命復唱しようとするのだが、まるでうまく言えない。面 倒くさくなって「私はゴジである。あの世界的モンスター、ゴジラのゴジ、それが私のニックネームだ。そう呼べばヨロシイ」 「オー、ゴジーラ!」奴はほとんど、“シェー!!”でもするのではないかと思える程の深い理解を示し、「私の名前も言いづらいだろう、どうかスライと呼んでくれ、私のニックネームだ」と、あくまで愛想よく言うとどっかりソファに座る。

 それからほとんど2時間近く、奴は実によく喋った、年内には全世界で120億円(その10%、12億円、400万ドルが奴の取り分らしい)を稼ぐだろうといわれる『ロッキー』の大ヒットによる自信、10部門にノミネートされ、20数日後に迫ったアカデミー賞で他の候補作品に負けたくないという思いが、奴を雄弁にさせたのだろう。

 「私が『ロッキー』で描こうとしたのは、人間の尊厳(human dignityという言葉を奴は何回も何回も使った)であり、人間の愛である」 「大衆は真のヒーローを求めていたんだ。親が子供にあいつみたいな人間になれと言えるようなね」あまりに直載で正しくて、ちょっとシラケてしまうような言葉を連発するのだが、それがこのフランケンシュタインとポール・マッカートニーを足して割ったような怪男児の口から発せられると、あまり嫌味ではない。「ウム、オマエが言うのならまあいいや」という気分になってしまうから、私もかなり単純だ。そうだ『ロッキー』は、単純で力に溢れた素晴らしい映画だったと、やっぱり思う。

 出発前、<無名の新人が脚本・主演をやった低予算のボクシング映画>というぐらいの予備知識しか持たずに、私はユナイトの試写 室に入った。

 映画は圧倒的だった。試合の前夜、無人のリングからアパートに帰ったロッキーが、恋人にブツブツと頼りなげに告白する「俺は怖い、でもやる、やりぬ いてみようと思う」このあたりで私の涙腺は確実にゆるみ始め、大ラスト、15ラウンド戦いきってボロボロになった奴が、身も世もなく恋人の名前を叫ぶあたりでは、もういかにしてゴンゴンの涙大会に耐えようかという思いばかりであった。狭い試写 室などで映画を観る愚をこの時ほど痛切に感じたことはない。照れずに素直に言おう、私はメロメロに感動したのであります。

 しかし、と眼の前で喋り続けるスタローンを見ながら思う。この“感動”こそが曲者なんだぜ、スライ。『ロッキー』の感動が本物であったのは、オマエさん自身の意志−−−売れない三文役者から、そして誰にも相手にされないライターから這い上がろうとする意志が本物であったからであり、オマエさんが本当に最後まで自分の力で走ったからだ。しかし今やアンタは無名でもなければ、無一文でもない。むしろその真逆だ、アメリカン・ヒーローという特別 市民権をアンタは勝ちとってしまった。そのオマエが(と段々デカイ態度になってくる)一番してはヤバイ事は『ロッキー』の感動をリメイクしようとする事さ。

 市民権を得た人間によって、意図的にリメイクされた感動や善意ほど鼻もちならないものは無いからな。日本ではクロサワという大巨匠だってその過ちを犯して観客に説教たれるような映画を作ってしまったし、トラサン・シリーズという、おそろしく大衆を見下した、そのくせ“大衆の善意と感動”を売り物にした高等詐欺のような映画がまかり通 っているのだからな、と生意気な事を言おうかと思ったが、私の語学力ではとても無理なのでやめた。

 「日本映画など観たことはあるか?」「もちろんだ。『ラッシャウマン』が一番好きだ」「ラッシャウマン?」「イエス、ラッシャウマン」「何だそれは?」「オマエはラッシャウマンを知らないのか(本当にオマエは日本の監督なのか?という疑惑のまなざし)」「知らない」「クロサワとミフネのあのラッシャウマンだ」「ああ『羅生門』か」

 滞米中の会話は総てこの調子で、おかげで私の英会話能力は急速に向上した。

 「フェリーニの『道』も好きな作品のひとつだ」「マーロン・ブランドの再来なんて言われるのは嫌なんだ、俺はあんなにヒネクレ者じゃない。俺はむしろクラーク・ゲーブルのような役者になりたいんだ」なるほどと思った。奴はやはり脚本家というより、根っからの役者なんだ。ミフネにアンソニィ・クインに、クラーク・ゲーブルに自分の演じたいヒーロー像をダブらせて見てしまうんだ。奴は『馬』だ。サラブレッドではないが、根っから走る事の好きな愛すべき『イタリアの種馬』だ。とすれば奴の将来に絶対に必要なのは、奴を生かすことのできる素晴らしい調教師と騎士だろう。プロデューサー、監督、脚本家たちであろう。

 「『タクシードライバー』?俺はニューヨークにも住んでいたけど、あんな嫌な、気持の悪い運ちゃんに会った事ないぜ。俺のお手本はチャップリンさ、彼は笑わせ、泣かせ、最後には感動させてくれた」

 別れぎわに奴は『Gojira Keep Roaring!(ゴジよ、吠え続けろ) Silvester Stalone』と慣れた手つきでサインをしてくれた。奴があまりにも素直な好漢だったので、ちょっとシャクにさわった私は『俺は大丈夫だよスライ。俺はまだ400万ドルも稼いじゃいないし、万人に愛されるヒーローなんか、死ぬ まで創りゃしないさ。オマエこそ怒りを忘れるなよ、安全な役者になるな、吠え続けろスタローン!』と腹の中で毒づいたりしてみた。

 しかし、その晩ホテルの自分の部屋に帰った私は、奴がサインしてくれた色紙を、旅行カバンの一番底に大事にしまっておいた。考えてみると、役者にサインを貰うのは私のはじめての経験であった。

 

“ホリウッド”へ行こうと思った

 暗がりの中で電話のベルがうるさく鳴り続けている。半分眠ったまま受話器を耳にあてる。「ハロー、イエス……」とそれでもいっぱしに英語が口をついて出てくる。また今日もロクな知らせではない。MGMもFOXもユニバーサルも、総ての撮影現場は当分クローズド・セット、見学取材はお断りというわけだ。時計を見るともう11時半だ。ノロノロ起きあがってカーテンを開ける。眩しい外光が乱暴に差し込む。今日も又、雲ひとつない、アホのようなピーカンだ。ここはウェストウッドの中級ホテル、ホリディ・インの836号室。8階から見下ろすロスの住宅街には、人通 りはほとんど無い。芝生のグリーンばかりがいやにあざやかだ。ときおり大きな外車が、ギラギラとボディを光らせて走っていく。外国で外車はやっぱりオカシイか、とボンヤリ思う。ロスに来てもう10日以上になるというのに、おまえはいったい何をしているんだ。「ワタクシの今回の渡米の目的は」、ともう時差ボケとは言えないネボケた頭を振るい立たせるようにして考える。

 去年、映画生活を始めて9年目にして、やっと自分の監督作品を1本撮ることができた。『青春の殺人者』というタイトルだ。良くも悪くも色々な批評を受けた。なによりも嬉しかったのは、私の映画を支持してくれる人たちが確実に何人かは存在するという実感を持てたことだっだ。

 次の映画を作る前に、アメリカに行ってこようと思った。何故アメリカなのか、特に深い理由があったわけではない。低予算の、というよりもほとんど金の無い苦しいハードな撮影だったので60日の撮影期間の半ばあたりから、スタッフ・キャストの疲労は体力的にも精神的にも限界近かった。今どき1泊2食付2千500円の民宿に60日間も雑魚寝して、5時間寝ては30時間撮影を続けるという目茶苦茶なスケジュールを強行していると、監督の私でさえ本当に気持がいじけてきて、〈たかが映画じゃないか、何もそんな目の色かえてやるこたねえだろう〉 口にはださなくても、ふっとそんなニヒルな気持ち になったりする。〈マズイよなあ、元気ださなきゃ〉と思ってる頃ヤケのように口をついて出た言葉が「来年はみんな、ホリウッド(ハリウッドと言わないところがミソ)連れてってやるからな、ガンバレ」だった。この冗談は非常にうけた。メイキャップのナナは「カントク、あたしゃギャラ2万ドルはくれなきゃヤダよ」と言い、撮影助手の伊藤は「自分はスチールマン、主演兼任で5万ドルで手を打ちます」助監督の相米が移動車を押すのに失敗するとカメラマンの達ちゃんが「ゴジ、こいつはホリウッドの編成からはずそう」とさわぐ。おそらくホリウッド−−−ハリウッドという言葉の持つイメージがあまりに自分たちの現実とかけ離れていたからこの冗談は自虐的に受けたのだ。その後私たちの撮影はさらに一段と苦しくなり、メシ代は無い、宿代も無い、フィルム代なんかもちろん無い。というナイナイづくしになっていったので、この程度の冗談では誰も笑わなくなったが、きっとあの〈冗談ホリウッド〉の中には、ほんの1分か2分の本気が含まれていたのだ。それは〈ハリウッドなんか、そのうちのしてやるさ〉という健気な意気込みであったのかもしれない。そしてそれはフランス映画でもイタリア映画でもソ連映画でもなく、ハリウッド−−−アメリカ映画なのであった。それぐらいこの10年間のアメリカ映画の動向は興味深かったのだ。

 憧れや羨望やライバル意識というのとは違う、なにかもっと単純な好奇心で、私はハリウッドにやってきた。しかし……

 

カジノの壁に時計は無い

 「ミスター・ハセガワ、非常に気の毒ですが、我々は貴方の映画をこの第5回FILMEX映画祭で上映する事はできません」
 ミスター・エサートは上品な銀ブチの眼鏡を神経質にいじりながら、すまなそうに言う。FILMEXというのは毎年4月ロサンゼルスで開催される若い映画祭の名称で、エサート氏はその実行委員会のボスである。
 「しかし貴方は10日も前に私に上映を約束したではないか」
 「いや、上映できる方向に努力すると言ったのです」
 私の映画のプリントは事務的な手違いもあってエントリーの締切に遅れて到着したのだ。
  「委員会にも計りましたが、今年から例外的な上映は認めない事にし たのです」
 順位を決めたり賞を与えたりする映画祭ではないのがFILMEXの良いところで、審査員なんかの採点ではなく一般 の観客がどんな反応をするかに興味のあった私は本当にがっかりした。
 「委員会は私の映画を観てくれたのだろうか?」
 「もちろんです。皆、興奮していました。もし良かったら来年のFILMEXでは上映したい」
 
〈来年?来年は次回作を持ってくるつもりなんだよ、オッサン〉と、くやしいがじっと押えて
 「プライベートな試写会を企画してみようかと思うので、プリントを返して貰えるだろうか」
 「もちろんです、誰かに運ばせましょうか」
 「いや結構」
 借金までしてニュープリントを焼き、英語のスーパーを入れて持って来た、俺のプリントだ、俺が自分で運んでやるわい、とかなり感情的になって、全9巻の重いプリントをかつぎあげる。

 センチュリー・プラザビルの廊下は、やたら長く曲がりくねっていて方向音痴の私はどうしてもエレベーターにたどりつけない。誰かに聞こうにも誰も通 りかからない。プリントを持つ手はシビレてくるし、汗が眼にしみて痛い。〈異国でウロウロしているひとりぼっちの駄 目なボク〉と非常に軟弱で情けない気分になってくる。そんなに総てがウマクいくと思っていたわけではないが、なんでまあ、こうツカナイんだろう。そうだ、突然思いあたる。〈バクチをしないからだ!〉誤解してはいけない、この〈バクチ〉は比喩的な意味ではなく実に、バクチ、トバク、ギャンブルそのものの意なのである。去年あの苦しい撮影中でも、30時間ぶっ続けの徹夜撮影の後でさえ、我々はキチンと裏表の麻雀の後に寝たではないか。バクチさえやればきっと本来の生活のバイオリズムが取り戻せるに違いない。そうだ、ラス・ベガスへ行こう!急に私は元気になり、エレベーターなんかすぐ見つかって、ホテルの自室にプリントを投げ込むと、タクシーでLA空港へ直行だ。

 ラス・ベガスはロスから空路約1時間、砂漠のどまん中にある、飛行機の窓から、どこまでも広がる大西部の無人の砂漠を見ていると、〈ウム、こんな所を当てもなく幌馬車で走って西海岸までたどりついたアメリカ人たちというのはやはり非常に強い人間たちなのだろうか〉と思った、なんていうのはウソで、頭の中はギャンブルの事だけである。内ポケットには出発の時女房が、何かあった時にと渡してくれた、虎の子の×十万円が入っている。もちろん、もちろんそんなに使う気はないのだ。ただバクチはやはり金を持ってないと負けるから、念の為に入れて、あるだけである。

 ベガスの空港に着いて〈しまった〉と思う。明日の夜7時からMGMの撮影所でマーティン・スコシージ(タクシー・ドライバーの監督)の新作『ニューヨーク・ニューヨーク』のオールラッシュ試写 を観る約束があったのを思い出したのだ。30時間しかない。〈こいつはホテルなんかとってるヒマはないな〉タクシーでダウンタウンのカジノセンター街へ乗り込む。〈ショーを見るならストリップ(通 りの名前)、ギャンブルに勝つ気ならダウンタウン〉と聞いていたからだ。行きあたりばったりにカジノ“フォー・クィーンズ”に入った。迷わずブラック・ジャックのミニマム・ベット5ドルのテーブルに座る。

 カジノの壁には時計がひとつも無い。しかし私は腕時計を持っているので大丈夫だ。〈何が大丈夫なのだ。?〉5時間後、私は1000ドルちょっと勝っていた、15時間後、私は再び400ドルぐらい買っていた……。

 そして今、30時間後、真昼間のダウンタウン大通 りをフラフラになって歩いている。太陽とネオンが徹夜明けのクサレ眼に眩しくて痛い。〈バカヤロウ、昼間からチャカチャカ、ネオンなんか点けるな〉ポケットには、1ドル5ドルの小銭が数枚。クシャクシャになって残っているだけだ。〈空港までタクシー代はこれで足りるかなあ〉ボンヤリ考えている。〈足りなきゃ、見ぐるみはいで持ってきゃがれ〉もう完全にヤケである。「許せ 妻よ、子供たちよ、悪い父です、夫です」と冗談のように口に出して言ってみるが、頬がひきつってウマク笑えない。〈ああ、また今回の旅も、何のミヤゲも買って帰ってやれないか〉と自己嫌悪でいっぱいになる。〈バカ、ウジウジ後悔するぐらいなら最初からバクチなんかするな〉自己嫌悪する自分を自己嫌悪するから、自己嫌悪の2乗だ。ポケットに手をつっこむと、ロスへの往復チケットの復がまだ残っている。〈こいつをキャンセルしてもう一勝負〉立ちどまってしばしモダエたが、かろうじて思いとどまると、タクシーに手を上げた。あの時の私は、はたして強かったのか弱かったのか。

 

M・スコシージは目を真赤にして試写 室にかけこんできた

 オールラッシュ前の試写室のざわめきは、日本もハリウッドも同じ感じだ。不安と期待と緊張とで、皆がちょっとお喋りになる。まるで映画館みたいに広いMGM撮影所内の試写 室は、『ニューヨーク・ニューヨーク』のスタッフや関係者でいっぱいだ。一番うしろの席で主役のロバート・デ・ニーロが早口に誰かと喋っている。製作担当者みたいなオジサンがスクリーンの前に立って開始時間の遅れをわびる。「マーチン(スコシージ監督の愛称)はこの30時間、編集室にとじこもって編集を続けている、もう少しだけ待ってやって欲しい」そうか俺がベガスで眼を血走らせてバクチに狂っている間中、マーチンは 編集に精を出していたんだな、と授業をサボってばかりいた学生時代の劣等生のような気分を味わう。

 マーチンとは1週間ほど前、彼のオフィスで2時間くらい喋った。ヒゲ面 、小男、喘息持ち、34歳の彼は、信じられないくらいの早口だった。

 「『タクシー・ドライバー』は最初90万ドルの予算だったんだが、最後には106万ドルかかってしまったんだ、撮影は8週間の予定が10週間かかった。フィルムは15万フィートの予定を30万フィート使った。スタジオ側は使い過ぎだと怒って、しまいには僕がまだ撮っているのに、もう終りだと言ってカメラを持って帰るしまつさ」100万ドルというのが、アメリカの劇映画の最低予算らしい(『ロッキー』も100万ドル映画だ)。大体、日本映画の予算はアメリカ映画の約10分の1である事を勉強した。これは大作と呼ばれる映画の場合にも当てはまる。

 「『タクシー・ドライバー』のクライマックス、トラビスが殺戮を終えた後、非常に凝ったフカン移動撮影をしていたが、あれはセットなのか?」 「いや、あれは本物のアパートだ。取りこわし寸前のね、その天井を3ヵ月かけて取り外したのさ、スタジオ同様に撮影できるようにね」

 『青春の殺人者』の親殺しの長いシーンも、実際の空家を借りて撮影した。風呂場として使っていた部分は、本来玄関であったものをガラス戸を取り払い壁をタイルに張り替えて、風呂場にしたのだが、この辺の改造の規模もだいたい10分の1だなと納得する。

 「“In the Realm of the Senses”(愛のコリーダ)はいくつか好きな部分はあったが全体としてはあまり良いとは思わなかった。オオシマの映画では“Pleasure of Flesh”(悦楽)が一番好きだ。オヅの『東京物語』は大好きだ。しかしミゾグチの方がやはり天才だな。クロサワはやっぱり『七人の侍』だと思う。『生きる』は僕の編集方式に影響を与えてくれた。テラヤマの『田園に死す』からは3つばかりアイデアをいただいた。しかし何といっても監督としての僕に一番大きな影響を与えたのは、イマムラの“Insect Womch”(にっぽん昆虫記)だ」「ほう、彼は私の第1回作品のプロデューサーをやってくれたんだ」「本当か?! 本当に本当か? それではオマエも仲々大変な監督なのかも知れないな」とまでは言わなかったが、そんな感じの事を言って、奴の態度は急にヨロシクなった。しかし、なんだか〈親の七光り〉みたいで、あまり気分の良いものではなかった。

 それにしても奴らの日本映画に対する造詣の深さは驚くばかりである。〈恥ずかしながら、私は、オヅもミゾグチも観たことないのです〉なんてとても口に出せやしない。

 

 息せき切って眼を赤くはらしたマーチンが試写 室にかけこんで来た。どっと皆の拍手と歓声がわきおこる。やっぱり仕事してる奴はカッコ良いなあ。とこちらも寝不足で赤くはれた眼をこする。30分遅れて試写 は始まった。

 『ニューヨーク、ニューヨーク』はロバート・デ・ニーロ演ずるテナーサックス奏者と、ライザ・ミネリ演ずる女性歌手とのラブロマンスである。後半、劇中劇のような形でミネリが歌いまくるミュージカルが挿入されるが、全体はミュージカルではない。長くなるので、簡単に印象だけ書くと、期待が大きすぎたせいか、あまり出来は良くないように思った。ニューヨークロケはほんの2・3シーンで、ほとんど全シーン、ハリウッドのセット撮影なのだが、そのセットが意図的なものか予算のせいなのか、中途半端にちゃちいのだ。“Mean Street”『アリスの恋』『タクシー・ドライバー』の監督であるマーチンは、セット撮影はあまり得意ではないように思えた。それに、下司のカングリかも知れないが、今や大スターとなったデ・ニーロとミネリのバランスを気にしすぎて、全体の劇構成が破壊されているとも思った。  

 3時間近い試写を終えて、トイレで小便をしていると、マーチンが入って来て隣に並んだ。「やあ」「やあやあ」こうして並ぶと、マーチンの身長は私の肩ぐらいまでしかない。見上げるようにしてマーチンが聞く 「どうだった?」 「ウム」こういうオールラッシュ前後の監督というのは実に孤独で心細いものだから、やり直し不可能な批評はしてやらない方がいい。この場合、セットの美術問題がそうだ。それに相手がバカでないかぎりできるだけ優しくしてやった方がいいのだ。「面 白かったよ」「そうか、ありがとう」「面白い、しかしちょっと長いな」「そう、そうなんだ、最初の編集ラッシュから1時間は切ったんだが、もう30分はなんとか切ろうと思っている」「後半のライザ・ミネリは、もっとズバズバに切っていいんじゃないかな、モタレるよ少し」「ウム……」

 そこへ彼の編集マンが入って来て、会話は跡切れた。熱心に話し合いながら撮影所の奥に消えてゆくふたりを見送りながら、〈制作費が10分の1でも、面 白さが10分の1でなきゃいけない理由はない〉と思いたかった。

 

俺を撃とうとしたS&W38口径

 ベガスでテッテ的に負けたおかげで、なんとなく一皮むけた感じの私は(やっぱり負け惜しみかなあ)生活スタイルを少し変えることにした。まずホテルを、お上品なウェストウッドから、ロス市民も夜になるとひとり歩きはしないというハリウッド通 りのど真中の安いモーテルに移した。クローク・マネージャーのジムはうすらデカイ50がらみのドイツ系の白人で、左頬には10センチもあるナイフの古傷、半袖シャツからのぞく太腿のような二の腕にはどす黒いドラゴンの入墨、泊っている客はといえば、黒人の娼婦とそのヒモ、ホモ、ギャンブラーと、ヤバクて嬉しくなるような連中ばかりなのだ。

 私の皮ジャン、Gパン、長髪というスタイルも、ここではまるで普通 で、たいていの奴は私のことを、インテリのインディアンだと思っていたようだ。

 車もレンタカーを貸りて自分で運転することにした。ロスはタクシーで動きまわるいは広すぎて誰もタクシーを利用しないために、レンタカーを運転する方が、数等安あがりなのだ(タクシーでは、どこへ行ってもすぐ20ドル30ドルかかってしまう)。去年最大のタクシー会社〈イエローキャブ〉がつぶれたぐらいだから、車がないと動きがとれない。私が借りた車はオーズモビルの76年型、色はメタリックシルバーだ。

 自分で車をころがして動くようになって、ロスの街はかなり心地よいものになってきた。要はそれまでの行動半径があまりに狭すぎたのだ。

 映画はめったやたらに観まくった。入場料は封切ロードショー館が3.5ドル、ポルノ2本立が5ドル名画座的な館が2.5ドルというのが相場で日本とチョボ、あるいは少し安い感じだ。一番高いのはホモ映画館で6ドルだった。ホモ映画には絶対に女は出てこない、要は男だけのハードコア・ポルノだと思えばよい。ただ私は非常にノーマルな人間らしくて、ホモ映画には1回で食傷した。出演者が皆、実に楽しそうにやっているのが気味わるいのだ。

 アメリカの映画館では上映開始のブザーは鳴らない。なんとなく場内が暗くなって、なんとなく幕が開き、なんとなく映写 が始まる。この〈ブザー無し〉には最後まで馴染めなかった。〈ブー〉 〈ジー〉 〈リーン〉というあの合図があればこそ映画を観る楽しみは倍加するのに、アメリカ人は可哀そうである。 

 できるだけ日本に輸入されていない映画を選んで観てまわった。ジミイ・クリフ主演のジャマイカ映画“The Harder They Come” イタリアの女流監督、リナ・ウェルトシュラーの作品群“Love and Anarchy” “Swept away” “Seven beauties” 抱腹絶倒キッカイ映画としか言いようのない16mm映画“Pink Flamingos”等々、こんなの日本で配給しても絶対受けるけどなあと思う映画が、2年3年のロングランを続けている。何故日本の配給業者は、輸入しないんだろう。 〈スターが出ていないから〉というのはもう理由になるまい。新しい映画をヒットさせて、新しいスターを作ればいいのだか ら。

 ある日の午前3時頃、そんな深夜映画を観ての帰り、サンセット通 りをハリウッド通りの方へ曲がる交差点を、うっかり通り過ごした私は、まるで車は走っていないし、何のためらいもなくUターンして走っていた。ふとバックミラーを見ると、パトカーが1台、50メートルぐらい後から尾いてくる。ヤベエと思って速度を35マイルに落としたがもう遅い。サイレンを鳴らしてパトカーは迫ってくる。観念して車を道路の右端に寄せて止めた。パトカーも私の車のすぐ後ろに止まってふたりの警官が降りてくる。〈国際免許証とパスポートか、面 倒くさいことになったな〉と内ポケットをまさぐっていると、左のこめかみにゴチッと冷たいものが当たる。ギョッとして横目で見ると、スミス&ウエスタン38口径だ。ねえ、ちょっとオーバーでしょう、と警官の顔を見ると、まるで真顔の彼は興奮した声で言う「手を出せ、手をあげろ、手を見せろ!」言われるままにポケットから手を出す 「ゆっくりだ! ゆっくり出ろ!」車から出る 「両手を車につけろ、向こう向きだ、足を開け、動くな!」まるで映画みたいだなあ、思いながら言われるままにする。ひとりの警官が私の身体検査をしている間中、もうひとりの警官のピストルは私の顔を狙 っている。警官たちの顔があまりに真剣なので急に怖くなってきた。

 「殺されなくてよかったな、ゴジ」レンが大笑いしながら言う。レン−−−レナード・シュレイダーはシナリオライターだ。弟のポール・シュレイダーといっしょに、『ザ・ヤクザ』『タクシー・ドライバー』のシナリオを書いている。私がロスで一番親しくなった友人だ。「ハリウッド界隈でポリスに呼びとめられたら、絶対に両手を彼に見せてなきゃ駄 目だ。日本から来た真面目な旅行者が、内ポケットのパスポートを捜してただけで、脳天撃ち抜かれて死んだ事だってあるんだ」「そうか、ガンを抜こうとしてると思われるんだ」 「そうさ、ポリスだって怖いんだからな、自分の命がかかってるんだ。本当にガンを抜いてポリスを撃つ奴が、あの辺にはゴロゴロしてるんだから。ポリスも馬鹿じゃないから、半端な撃ち方はしない、撃つ時ははっきり殺すように撃つのさ、死人に口なしだからな

 昨夜の警官たちの拳銃が、いつも必ず私の頭を狙っていたのを思い出すと……オシッコに行ってこよう。

 

ハリウッド助監督に夢は無い

 カメラはもうとっくに廻っているというのに、50人ばかりのスタッフたちは特に慌てるわけでもない。ドピーカンのDAYシーンのくせに20キロライトが煌々と輝いている。ロス近郊のMGM映画“TELEFONE”のロケ現場である。うるさい主演のブロンソンがいないせいか、撮影はやたらにテンポがのろい。

 やがてカチンコを持った中年の助監督が悠然と登場。「皆さん、静かに!」間伸びしたチーフ助監(督)の声が聞こえて「アクショーン!」−−−やっと監督のドン・シーゲルが叫んだ。カメラが廻り始めてすでに軽く30秒。「わあ、やっぱりハリウッドは凄えや」私はすぐ単純に感心する。

 8年ほど前、私がまだカチンコ助監になりたてのころ先輩に教えられたのは「カチンコは3コマで打て」だった。24コマが1秒だから、8分の1秒で打ってカメラのフレームの外へ逃げろというのだ。運動神経が鈍いとは決して思わないが、そういう細かいコソ泥のような行為は生来不得手なのだ。どだい最初から図体がデカイというハンディ・キャップがある。隠れる場所を捜して、カメラ前をウロウロしていると「撮影のジャマしに来てるのか、オマエは!」と怒鳴られる。あまりにくやしいから、夜アパートに帰って鏡に映しながら何時間も練習した。日本映画のフィルム費節約は、このカチンコ助監督の屈辱の上に成立しているのだ。

 アメリカの助監は、そんな軽業修業をしかなくていい分だけ幸福だろう。しかしまた、彼らは不幸でもある。なぜなら、日本では助監が一本立ちして監督になる例がまだ多いが、アメリカでは今や殆ど皆無に等しいのだから。助監督業は完全にビジネスなのである。あるチーフ助監などは、カナダに農場を持っていて、1年の半分だけパートの助監をやるのだと言っていた。

 そんなことを思っていると、さっきからチラチラこちらを見ていた撮影助手と目が合った。「いいカメラを持ってるな」近づきながら目くばせする。「ああ」「こいつはオリンパスか」「そうだ、OM2モータードライブ付」手渡すと、数人の仲間と一緒におっかなビックリ触っている。(他人のことは言えないが〈現場の人間というのは、いつも子供みたいだ〉と思う)

 「やあやあ」とドン・シーゲル監督が寄ってきた。この『白い肌の異常な夜』『ダーティ・ハリー』等の監督は、ヒゲも黒々としてとても64歳には見えない。40年も映画を撮り続けてきたベテランに向かっては、スコーシージの時のようなデカイ口も叩けない。うつむきかげんに、彼の話を聞くばかりだ。「暴力?私のほとんどのフィルムでは、暴力は(両手を上げて)こんな具合に上からぶらさがっている。画面 には見せない。だけど、そこはちゃんと存在していて、いつ落ちるか判らない形でゆれている。一旦フィルムの中にこの暴力が落ちてくると、私はいそいでそれを取りのぞこうとするのだよ。ペキンパーは違う。スローモーションなんぞ使って、暴力をゆっくりと美しく描いて見せるだろう?『わらの犬』を見ろよ」口では毒づきながら、かつて内弟子だったペキンパーの成長を喜んでもいるような口ぶりだ。

 だが、このあたりからシーゲルの様子がおかしくなって来た。電話のベルの音を出す小道具を弄びながら「年取るにつれて私のハートも黒くなって来た」「映画なんて金のためさ」「体力的にもうシンドくてね」「ライターは楽だな、うらやましいな」などと、グチとも言い訳ともつかない調子で延々と訴える。そして思い出したように「君も監督だったね、映画何本撮った?」「1本」「いくつだね」「31歳」ここでオッサン、にわかに照れたような、気の毒そうな顔になって、私の肩に手を置いた。

 「まあ、私の言ったことは余り気にせんでくれ。きっと君は私よりも詩的かも知れないし、もっと才能豊かに違いない。私の出会った困難なんか簡単に克服できるかも知れんし……私は監督になるなと 言った訳じゃないんだ」

 狼狽したように、諭すドン・シーゲルが、急に親父のように見えた。

 

ニューヨーク、ニューヨーク

 自分の映画の試写会をやるために、ニューヨークへ来た。チャンバラでもカンフーでも、名作日本映画でもない、私の現代フィルムが、終末都市ニューヨークでどんな印象を与えるか、まさに興味があった。

 場所は近代美術館、2階の試写室。この美術館は、横尾忠則の個展で有名だし、1階にジャスパー・ジョーンズ、アンディ・ウォーホルなどのポップ・アートの代表作が並んでいる。ある意味では死んだ文化の象徴ミュージアムである。そこで私の映画がどのように見られるか?日本で付けていった英字スーパーは時間の制約があり、不安を覚える。しかし、日本でみる海外映画の日本語スーパーとチョボだろう、映画は映像で勝負だという自信はあったのだ。

 静かなレキシントン街、近代美術館の試写室は、試写 が終わった後、意外にも白熱した。 「若い俳優ふたりが素晴らしい、あの女優は何歳なのか?」 「音楽が不思議だ。(私は音楽に、ゴダイゴの英語で歌っているやつを使った)なぜ、日本語ではないのか? まるで、ウエストコーストの映画音楽だよ、あれは」 「とにかく、親殺しの理由がわかりにくい、家族制度の崩壊はニューヨークでも問題になっているんだが、“親殺し”というのは非常にリリジァス(宗教的)な感じがした」 「とにかく、君の映画は迫力がある。迫力はあるが、コミュニケイションとしての映像としてみた場合、西洋人とは合わない部分が残る」  等々、いろいろな意見が出た。意見は、大体予想していたものだったが、驚いたのは、一般 の映画愛好家の“映像センス”のレベルが非常に高いということだ。集まってくれたのは一応日本映画に関心がある層なのだが、ライターや俳優はもちろん、まるでシロウトの観客も“映画への意見”をはっきりと持っているのだ。それは、一言で言うと、「面 白いものは、面白い」という、単純で恐ろしい文句なのだ。“芸術映画であろうと、アクション映画であろうと(大体、このジャンル分けというのが私はにが手だが)、面 白い映画を作らねばならない、面白いやつ、エキサイティングなやつ、精神が意志が、理屈抜きに勃起できればいい。

 ニューヨークは病んだ町だと言われる。私もそれは感じた。あるタクシードライバーが言った。「マンホールから出る湯気、あれがなんだか知ってるか?あれはな、この街が地獄に一番近いって証拠なのさ」“地獄に近い町”、それがあたっている。しかし、私は、ロスよりも落ちつくことができた。それは、私が都市に住む人間、いや結局都市にしか住めない人間だからなのかも知れない。戦争のない30年間は都市と都市を結ぶ、不思議な汚さを作り出した。私はその中にいる。その狭く、雨が降り、寒く、汚く臭い都市の中に必死でうごめいく人間達がいて、それでもドラマが生まれていく。私はそれを撮りたいと思った。ニューヨークの連中がエキサイトできる映画、それを東京で作れる時代なのだ。キングコングが飛び移った世界貿易センターの窓ガラスに映る雨。それは切なくて哀愁があるのではない。リアルなのだ。

 

一点突破・全面展開

 10日振りにニューヨークから帰ってくると、変なものでこの寝ぼけたような街ロサンゼルスが妙になつかしく感じられた。

 留守の間に、レンが試写の準備をしてくれていて、バーバンクの撮影所の試写 室にはニューヨーク以上の人数が集まってくれた。試写の後、レンはまるでスタッフのひとりのように熱っぽく喋る。レンもはじめて観たのだ。「スゴイぞゴジ、パワフルだ、傑作だよ。出だしは良い、殺しにも力がある、ラストは完璧だ、しかし惜しいな、あちこちで映画が完全に死んでいる。たとえば、スナックでのチンピラとの乱闘だ、ケイ子の実家の芝居だ、それにいくつものシーンで意味がダブりすぎている、くどい」批評の内容には反論もあったが、私はともかく嬉しかった。それは奴が私の映画を、完全に自分たちの映画 として観てくれていたからだ。

 日本語に堪能なカリフォルニア大学の講師ピーター・ハイ氏は、英語のスーパーが何ヵ所か滅茶苦茶であると、自分の作品のように怒るのだ。「私でよければ、より正確な英語に翻訳しなおしてみたい」とまで言ってくれた。

 映画館“Picfair”の劇場主シータン氏が全米の配給を申し出てくれたのも大きな収穫だった。「正直言って私は配給の世界ではビギナーだ。大手の配給業者のように派手な売り方をする力は無い。しかしこの映画の為になるような地道な売り方にかけては誠意と自信を持っている。どうか信頼して任せて欲しい」36歳のトルコ系アメリカ人の彼と私は、3晩に亙って話し合った。私が提示した契約条件に対して彼は3週間以内に返答をくれることになっている。

 当たり前のことだが、私のロスでの人間関係は終わりになるほど拡がっていった。撮影助手をやりながら自分の映画を撮るためにシナリオを書いている29歳の黒人青年ジーン、どうしようもなくオッチョコチョイだが、気のいい若者キム(カルフォルニア大学映画科4年)ニューヨークからの家出娘サリー(女優志願・ウエイトレス)。

 帰国を1日のばしにする私にあきれて、レンは最後にこう言うのだ「ゴジ、オマエいつになったら日本へ行くのだ?」

 「映画館を持とう」ジャンボ機の機内トイレに坐って、私ははっきりと思う。二日酔で頭は少しフラフラするが気分は爽快だ。  小さくてもいいから自分たちの映画館を持とう。そこを拠点にして映画を作っていくのだ。その映画館では古い映画も新しい映画も、有名な映画も無名の映画も、アメリカの映画も日本の映画も、ジャマイカの映画もイタリアの映画も、ともかく面 白い映画であれば片っぱしから、どんどん上映していくのだ。もちろん自分たちの作った映画も。

 映画は作る人間と観る人間がいれば成立するんだ。そして作り手は同時に観客であるわけだし、観客がどんどん作り手になっていけばいいんだ。その間に入って金儲けにだけ熱心な奴が、長い間のさばりすぎたのさ。私たちの映画館は上映の拠点であると同時に製作本部をも兼ねるというわけだ。(おいおい何興奮して夢みたいなこと言ってるんだ)と二日酔いの俺が笑う。(そんな事が簡単にできればとっくの昔に誰かがやってるさ)。そうさ、その“夢”だとか“いつか誰かが”という根性が間違ってたのさ、と私はあくまで真面 目だ。いつかそのうち、もう少し力を蓄えてからと言いながら、どの巨匠がそれをしてくれたというのだ、〈いつか、いつか〉と思いながら、いつまでも映画作りをやれない人間が、どれだけいると思ってるんだ。 (そうリキムなって、たかが映画じゃないか) たかが映画だから言うのさ、映画は遊びさ、カン蹴りだ、陣取りだ、かくれんぼだ、遊びをめいっぱいでやらない奴は嫌いなんだ。(かくれんぼはひとりじゃできないぜ)もちろんさ、だから本気で遊べる仲間が欲しいんだ、大声で言ってみるか。

 映画やりたい奴、この指とまれ!

 スチュワーデスが運んで来たウイスキーを飲みながら、50日振りに日本の新聞を見る。「巨人破竹の快進撃!!」とデカイ赤見出しの下の方に小さく「カープ泥沼の最下位 」とある。〈情況〉は依然最悪だ。暗ぁい気持になって、グラスをあおる。4本目のミニボトルを注文する頃には、私は完全に新宿の雀荘にでもいるような気分であった。ジャンボ機は、まだやっとハワイ上空にさしかかったところだというのに−−−。

 


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