「太陽を盗んだ男」は要求のない時代に生きる
俺自身のメッセージだ。

[ 聞き手] 西村雄一郎

キネマ旬報1979年10月下旬号

 

「太陽を盗んだ男」はとにかくヤマが多いシャシンなんだ。

....デビュー作の「青春の殺人者」から3年が経ち、その間、いろいろな雑誌・テレビに出て対談をやったり、麻雀の雑誌にも顔を出したりしてましたね。映画の企画もずい分あったようでしたが ……。

長谷川 人と会うのは嫌いじゃないし麻雀も嫌いじゃないからね。(笑)映画の話もいろいろあったよ。龍(村上)と4稿、5稿まで行ったけれど“よし行こう”というところまで結局行かなかった。他にネタも3本くらいあったんだけれど、企画としてはこの「太陽を盗んだ男」が一番気に入っていたんだ。「青春の殺人者」を持ってカンヌに行った直後に、レナード・シュレーダー(原案・共同脚本) からこういう話を考えたんだけれど、どうだろうといってきたのがはじまりなんだけどね。

....あの時は、「コインロッカー・ベビー」という企画もありましたね。

長谷川 それは龍が3稿まで書いたんだけれど、結局うまくいかなかった。龍と2人で“コインロ ッカー・ベビー”をオカマに仕立てて何か悪いことをさせようと話し合いながら進めていたんだけれど決定的なアイディアが出なかった……。ストーリーから入るよりも気分から入っていったネタだからなかなかまとまりにくかったんだね。それで77年の6月にシュレーダーが、ゴジ用におもろいネタを思いついたといって日本にやって来た。どんな話だというと、「何でもない兄ちゃんが1人で原爆を作り、政府にプレゼンテーションして9番だと名乗る。つまり原爆保有国が8つあるけれどそいつは9番目の保有者というわけだ。それでそいうが最初に政府につきつけ要求はテレビのナイター中継を最後まで続けろということで、最後に金をかっさらって女とブラジルあたりに逃げる、という話だが、どうだ」という。こっちの方は明瞭なストーリーがあって「コインロッカー・べビー」と比べると面 白い話だけどそのラストではせっかくの原爆のネタが生きない、ということで、俺が2つの注文を出した。ひとつは原爆を作る過程でそいつを被爆させること、もうひとつはシュレーダーは三波伸介か伴淳三郎を想定してコミカルというかお人好しの刑事というイメージで沢田研二と敵対する刑事を作っていたんだけどそれでは、食いたりないので、むしろ「野良犬」の三船刑事が30年後に生き返ったような刑事にしてくれといったんだ。そういう男と男の対決のドラマにしてホモセクシュアルな関係になってもいいから、ある種の父殺しの話にしようじゃないかとシュレーダーにいった。

....1作目の「青春の殺人者」は父親も殺したけれど、どちらかといえば母殺しの話が主体だったですからね。

長谷川 父殺しというか、自分が憧憬を持った人間と対立させるドラマにしようといったら、シュレーダーはしばらくたって2稿をもってきたんだけれど、それはドストエフスキーばりの脚本になっている。主人公も俺がおもったより若くなりすぎていて少年の情緒不安定という感じで家族トラブルの話なんかも入っているんだ。だから、家族とか係累とかのしがらみは抜きにしてそこから飛び出して都会でポツンと生きている奴を主役にしようといったんだ。「青春の殺人者」の水谷豊の延長線上にある人間という頭があったからね。ただ2稿のラスト、沢田研二と菅原文太が対決し、沢田が歩いているとことにカット・アウトするというラストは捨て難いパワーを持っていたのでそいつを生かしながら俺が引き継いで4回書き直した……。

....その頃はまだ「笑う原爆」というタイトルだったと思いますが……。

長谷川 「笑う警官」という小説があったよね。あれが何となく頭に残っていたんだろうね。それで「笑う原爆」「笑う原爆」といっていたら、そのうち東宝が乗りそうだということになった。

....それはいつ頃のことですか。

長谷川 去年の暮れだな。だいたい沢田研二と文太さんを口説いたのが去年の2月だから、2人のスケジュールが合うまで1年以上かかっている。

....その間、ずっと待っていたんですか。

長谷川 俺もどう書こうかずっと迷っていた。主人公の職業を何にするか決らなくて、中学の物理の教師に落ちつくまで5つくらい書いてみた。ヘリコブターのパイロットとかコンピューターの技師とか、お巡りでも書いてみたんだけれどどうもうまくいかないんだね。それでも教師にしたことは今では正解だと思ってるんだ。

....原爆を作るわけですから科学の知識も必要でしょうからね。

長谷川 それもあるしね。それと最初主人公を2人にしようかとも考えたんだ。東海村にプルトニュウムを盗みにいく時その片割れが死ぬ ようにしようと思ったんだけれど、それも別の話になってしまいそうでね。普通 の映画なら3つくらいヤマがあればいいのに8つくらいヤマがあって、ともかくヤマが多い映画だから、そのためにも人物をこれ以上増やすのはつらいというのがあってね。 坂下門のバス・ジャックなんていう話も思いついちゃったでしょう。あのシークエンスは普通 だと沢田研二と文太さんの出会いがあればいいんだから道端ですれ違ってもいいようなもんだけれど、 それじゃどうしても興味が持てないんだな。銀行ギャングという手もあったんだけれど、それもずい分やられているし、「狼たちの午後」みたいにそれだけで1本映画が出来ちゃうからね。それもあまり新しくはないし、と思っていたんだけれど、ただ老人の犯罪にしようとは思っていたんだ。図式的にいうと、犯罪を犯した祖父を父が殺して、父と息子がずらかって最後は父を殺して息子が生きのびるという筋を自分では何となく考えていたんだ。それでその時の祖父の行為は何かというと “陛下にお話がある”ということになるだろうと思ったんだ。俺の中にそういう心情みたいのがあるんだろうね、きっと。それを書いちゃったから、5分ですむものが20分に伸びてしまった。

....あの主人公の出会いのシーンは長谷川さんらしい、力量 感溢れるシーンでしたね。皇居前での撮影はなかなか許可されないと聞いていますが、実際それをやっている。プロデューサーもずい分苦労したんじゃないかな。

長谷川 プロデューサーはすべてのシーンで苦しんだだろうね。あのシーンはヤバいかもしれないというので一番最後にまわしたんだよ。今晩はどうせ留置所かもしれないというんで、みんな歯ブラシ、手拭いを持って撮影にのぞんだんだよ(笑)。

 

俺たちは本当に要求のない時代に生きているんだと痛感したね。

....国を脅迫するにしても、祖父世代の伊藤雄之助はバス・ジャックで“天皇陛下に申し上げたいことがある”、息子世代は核ジャックで試合終了までナイター中継を要求する……旧世代と新世代 のその対比が面白いですね。

長谷川 そういうつもりではあったんだな。“じいさん、そういうやり方じゃだめだよ”という。しかも沢田がアソコあそこで文太さんという闘う価値のある好敵手をみつけるという意味もある。難しかったのはその次の段階だったね。“テレビのナイターを最後まで見せろ”というのは最初のジャブとしては悪くないんだけれど、その延長線上の要求には大きなアイデアが2つはいるなと話していたんだ。だけど、2年間考えてもないんだよね。そういう意味では現代ってのは要求のない時代なんだろうね。物質的な要求はたいがい金に置き換えられるから、金を要求するのは簡単なんだよ。だから金の他に何か要求できるものはないかと考えたんだけど、本当にないんだよね。おかしくて馬鹿らしくて向こうが困る要求というのが……。それじゃ、ないんならないと正直に言っちゃって、若い奴に聞いてみようということで池上季実子がやるゼロというDJを考えたわけだ。それで 彼女の口から出た出まかせを要求するということにしてみた。

....その前のシーンで、沢田研二が何を要求するか考えるシーンがありましたが、そこでは“受験戦争をやめる云々”とノートに書いてあってそれを消してましたね。

長谷川 教師像というのをわりと綿密に描いてみたわけだよ、ガキなんかとももっとからませてね。完成したフィルムはその残りなんだけれど、いろいろ調べていくと今の学校というのはかなりのものだというのがあって、そのへんをいじくるとそれはそれでまた1本違う映画ができちゃう。

....キャスティングのことを聞きたいんですが、菅原文太と沢田研二というのはかなり思い切った顔合わせですね。沢田研二は最初から決めていたんですか。

長谷川 主人公の誠の方は無名の新人でいく方がいいと思っていたんだよ。ただ俺が考えている通 りにやろうとすると2億から3億の予算がかかるわけで、そうするとセールス・ポイントということでもそこまでは冒険が出来ない。それと30近い男で無名でこれだけのキャラクターを演じられる奴はいないんだな。それだけ魅力的ならもう無名ではなくなっているわけだから。これが18や20なら話は別 だけれどね。そう考えていくと沢田しかいない、彼ならここまで荒唐無稽な話をやっ てもウソにならないだろうと思った。問題はジュリーというイメージをどこまで払拭できるかだった んだけど、その点はよく頑張ってくれたと思うよ。彼流の城戸誠という人間を作ってくれたからね。 そしてその沢田と対決できる役者はということで考えてみたんだけど、日本では高倉健と菅原文太ぐらいしかいないでしょう。渡哲也は若すぎるしね。

....しかし父殺しの話だと年齢的に菅原文太では若すぎるんじゃないですか。

長谷川 彼は若く見えるんだよ。まあ父というのは意味的なものであって、50才弱と30才弱 だからまあまあじゃないかと思う。そういう意味で文太さんもよくやってくれた。いわゆるチンピラ・ヤクザ芝居はなしでいきますから、ということだったんだけれども、そのへんもうまくいったと思うしね。あの人はわりと動きたがるんだけれど、「ちょっと動くと肩を押さえられるし、ちょっと凄むと凄むなといわれるし、しんどかった」をいってたよ。(笑)特に前半はバス・ジャック以外は電話のシーンが多いでしょ。電話の芝居というのはやりようがないからね。先日もテレビに一緒にでたんだけ ど、「3年に1本でいいよな、こういう映画は」といっていた。(笑) しかしその前に5年で1本といっていたから、完成した映画を見て2年間縮まったわけだ。

....確か製作発表したのが4月下旬だったから撮影期間約5ヵ月ですか。構想2年だからずい分時間をかけたわけですが、予算の方は大丈夫でしたか。

長谷川 3億円を出たね。大赤字だけれど、あとはチケットを売りあるいて、報いるしかないね。

....それとこの映画についていえることは、「ベルサイユのばら」で注目された山本又一朗と長谷川和彦という若手がコンビを組んだということだと思うんです。若いからいいということではないけれど、プロデューサーと監督共にエネルギッシュな組み合わせで……。  

長谷川 そういう意味では山本もよくやったよ。最初彼と会ったのはキティでだったんだけれど、その頃は俺は奴が何者か知らなかった。確かにその前に「神田川」などをプロデュースしていたんだけれど、劇画の小池一雄のところの若頭がという感じだったんだろうね。その後、国際的な映画プロデューサーになりたいということで自分で作った会社を出てキティに身柄をあずけていたんだ。多賀氏をアシストするという形だったんだけれど、俺の方の企画がうまくいかない間に、 奴はどうやって名乗り出るかということで、「ベルサイユのばら」を思いついた。「ベルサイユのばら」は何だかんだいわれはしているが、よくやったと思うよ。最初あいつに相談を受けたときは、また大ボラを始めたとしか思わなかったからね。その大ボラをともかく少なくとも誰にも損をかけない形で完成させたわけだから。でパリにいるころから次は一緒にやろうといってきていたけれど、ただどの程度の熱意があるのかわからなかったからね。だから「ベルサイユのばら」はプロジェクト自体は新しいもので冒険だったけれど、大ベストセラーで安全パイだから、次は危険パイでもいいから中身で冒険してみたいという気持ちがあったんだろう。他のプロデューサーだったらノイローゼになって首縊っても不思議ではないきつい時期が何回もあったからね。まあ最終的には、山本も思い俺も思ったことは、彼は彼で監督も兼ねて近々自分でやりたいというし、俺も俺自身でこう他人に迷惑かけるんじゃ自分でプロデューサーも兼ねてやらなきゃしようがないということだね。

....そんなに迷惑かけたんですか。

長谷川 迷惑というよりも、俺は誰のいうことも聞かないからね。他人のいうことを聞いていてはこっちも頑張れないから、喧嘩すれすれのところですり抜けてきたということだよ。だから外から見るほどうまくいったわけじゃないが、どっちも投げずにやってきたんだから、うまくいったということかな。だけどああいうタイプのプロデューサーが出てほしいと思うね。企業内のプロデューサーは “それは無理だよ”ということから始まるんだけど、あいつは“無理な方が面 白い”というところから始まるからね。俺もどっちかというとそのタイプだからね。

 

みんな本音を言わなくなったから映画がつまらないんだと思うよ。

....具体的な内容についてふれていきたいんですが、沢田研二と菅原文太と池上季実子は三角関係にあるわけですね。

長谷川 そういう意味では猫が死んで季実子が死んで文太さんが死ぬ わけだから、喜劇的だけど悲劇なんだね。よくわからないけど俺は喜劇よりも悲劇の方が合っているというか、そっちに気がいくんだね。

....長谷川さんの映画は、最初はコミカルな部分から始まるんだけど、終末が近づくに従っていつも壮絶な悲劇になるのはどうしてですか?

長谷川 喜劇というのは、チャップリンにしてもビリー・ワイルダーにしてもそうだけど、基本的にヒューマニズムの肯定といったようなことがベースにないと笑って終れないよね。ワイルダーのよき喜劇というのはハッピー・エンドじゃなくても、気持的にはそれを肯定したところで終るわけでしょう。俺はそれを信じ切ってないんだろうね、少なくとも今は。信じられるものがないというわけにもいかないから、何かないかと思って映画を撮っているんだけれど……。それとどちらかというとペシミスティックな人生感、というとオーバーだけど、そういう気分がどっかにあるんだろうね、きっと。 “どうせ死ぬんじゃない”というのが生の尻にある限りハッピー・エンドなんかあるわけがないという変な絶望があるんじゃないかな。言ってしまえば人間好きのペシミストという感じかな。例えばキューブリックのようなタイプの作家がいるね、にんげんじゃなくてマシンの方に興味を持っているよう な。非常にシニカルな透徹いた思想を持っている作家だと思うけれども、俺はそうではないんだね。 だから「時計じかけのオレンジ」も前半は面白く見たけれど、ああいう風にやるとけつのオチのつけ方がなくなるんだな。人間に興味がないわけだから人間のドラマで終ろうとしても終れない。だか ら俺なんか、どうでもいいからあの気狂い兄ちゃんをもう少し見せてくれんか、という感じになってくる。要するにキューブリックはこの気狂い兄ちゃんが好きじゃないんじゃないか、と思ってしまう。 メカニックで成功した「2001年宇宙の旅」のような作品はヒューマニズムとか何とかいう次元ではないところで追われるわけだけれどね。だから俺はどっちかというと、好きな人間だけを描いていたい方の人間だね。

....要するに長谷川さんは人間が好きなわけですね。

長谷川 そういうことだね。だからガキの頃は「二十四の瞳」などは感動して見ていたんだと思うよ。今でもそういうふうに見る客だもの、俺は。寅さんでも面 白いものは面白いと思うしね。ただどっか、「ウソつけ、そんなうまくいくわけねえじゃねえか」というのがあるんだろうな。だから言葉でいっちゃえば、ああいうヒューマニズムではないもうひとつのヒューマニズムがないかということなんだろうね。

....例えば連帯感のような……。

長谷川 そういうのとは逆なんだと思うね。連帯しなくても成立するヒューマニズムは個人主義に近いものの中にある筈だというようなね。何かそれは不定型なものだけど……。そういうことがなければ主人公が死ぬ ドラマを作っちゃえばいいわけだからね。

....「青春の殺人者」の主人公も、死ぬ ようでいてぬけぬけと死なずに生きちゃいますものね。

長谷川 最後に人間は愛し合わなければいけないんだといって立ち直るドラマはよくある古典的なドラマなわけだけれど、そうではなくて、あんなダメな奴でも、つまり何かを肯定しきれていない奴でも、分からないままで生き延びるドラマを、とりあえず描くしかないわけだよね。俺自身が分かってないわけだから。

....そうかといって、死ぬ 間際に作ったから死の映画ができるとは限らないでしょう。

長谷川 ただヴィスコンティみたいに死ぬ 間際まで正直に映画を撮れる人がいるわけだからね。あそこまで自分の迷いを形にして作品というのは成り立つわけだしね。まだまだヴィスコンティには勝てないけれど、要は自分の本音をいう映画が少ないと思うんだ、特にここ数年はね。誰が 撮っても同じような映画になっちゃう。例えばある作家が3本映画を撮ったとするね。結果 、その3本の映画からまったく違うものが伝わってくるというのは奇妙なもんじゃないのかと思うよ。要するにそれじゃ作った奴が本音を言ってないじゃないかということになるものね。本音をいうのは恥ずかしいけれど、本音をいう映画、少なくとも本音をいおうとする映画を作りたいと思うよ。上手に本音を言えないのは新人のせいだから勘弁してもらうとして、その努力はしてみる、ということかな。

....今回の「太陽を盗んだ男」でも主人公を殺してないですものね。

長谷川 第一殺してしまうと次が作り難いよ(笑)。もう1本は生かしておきたい。来年、「グッバイ・ニッポン」というのを豊(水谷)でやろうといっているんだけれど、1本目の「青春の殺人者」が家を飛び出す奴の話で、その延長線上に、係累もなくポツンと都市に住んでいて要は都市と戦うというのが「太陽を盗んだ男」だよね。3作目ではそんなにこの国がいやなら出ちゃえばいいじゃないかという話をやりたいと思っているんだ。気張らずに日本を飛び出して、さまよえるオランダ人ではないけれど、さまよえる日本人だね。スイートな旅ではなくズタズタになりながら旅してそれで アイディンティティの如きものが見つかるかどうか……ということを考えてみたいんだ。だから一応それを3部作としてそこまでやってみて、それから俺が次に撮れるものは何だろうかと考えられるのかなと思っているよ。

....視点はだんだんひろがってるわけですね。

長谷川 広がるというよりも、この映画で沢田研二が歩いた道の次の道を見たいという気がどこかでするんだよね。

 


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