『ベスト・ワン受賞の頃』

 

キネマ旬報増刊 1984年2月12日号
「戦後キネマ旬報ベスト・テン全史」

 

 「青春の殺人者」の製作が決まった時のマスコミの反応は一様に“若い監督の出現” だった。メジャーの映画会社が助監督を採用しなくなって数年が経っていたから人材 が払底していたわけで、考えてみれば“若手の出現”は当然の帰結なのだが、“若さ” だけが珍奇がられているふうがなくはなかった。助監督生活八年を経てもはや三十男 になっていた私は、「どこが若いんだ、本当に若い二十代にしか撮れない映画が俺に だってあったかも知れないのに」と、むしろ口惜しく、もどかしい思いすら抱いてい た。今のように新人が続々とデピューできる時代ではなかったことは確かで、自らが 「撮るぞ、撮るぞ」と騒いでいなければ、いつ撮れるか分からない危機感と焦躁感を つねに抱え込んでいた二十代だったのだ。

 製作が決まっても、すぐクランク・インできると思うほど純ではなかったが、シュー トするまでの紐余曲折は相当なものだった。野球の試合が始まろうとしているのに、 監督は野っ原の石を除いたリ革を刈ったりのグランド作リに追われているのだから、 監督本人が「本当に試合は始まるのか」と一番不安にかられているといった按配だっ た。

 予算も日数も大幅にオーパーして「青春の殺人者」は完成したが、正直、自分の映画もこれが最初で最後だろうと思っていた。どんな事情があれ赤字を出すのはプロ失格と思っていたし、当時始まっていた角川映画「犬神家の一族」の大宣伝を横目で見ながら自分の映画もまた同じ商業映画の一本なのだとはとても実感できなかった。ベストテンに入るなどとは考えてもみなかったし、事実、そんな気配は微塵もなかった。

 疲労困鱗、満足にギャラも手にしていない若手スタッフや主演の水谷豊の尻をたたき、女房まで引っぱリ込んで五千枚のチケットを売って歩いたのも、十年つき合ってきた「映画」という「女」ととことんキッチリやリまくってエンド・マークにするん だというヤケッパチの意地みたいな気分からだった。

 ベスト・ワンの知らせを受けた時は単純に嬉しかった。自分の作った映画を認めてくれる人間がいたという嬉しさと、もしかしたらもう一本撮れるかもしれないという 嬉しさに加えて、まだチケットを売リ歩いていた頃だったから、凱旋興行を打って多少なりとも赤字を埋められるかもしれない、という嬉しさも強かった。

 今、考えれば、賞をもらうことによって賞にコンプレックスを持たなくなったことは、少なくともメリットだったのかもしれない。

 あの頃にくらべれば現在の映画 状況は間違いなく面白くなってきている。メジャーのサラリーマン助監督を経なくとも欲とチエと運さえあれば誰でも映画監督をやれるんだと夢想できる時代が悪かろうはずがない。よくなったその状況に甘えず媚ない手前自身の映画作リを今こそやリたいものだ。

 


TOP更新履歴・新規掲載ゴジ・ビブリオグラフィー/転載にあたって/リンク掲示板スタッフについて
管理者e-mail : fantaland@mac.com