『ひでえ二日酔だ』

 

月刊シナリオ 1974年6月号  p.148

 

 昨日はやっと「青春の蹉跌」から解放されて、久しぶりに出会ったパキさんと深酒し、馬鹿な喧嘩をして別 れたような気がする。去年の暮、新宿のゴールデンゲイトで泥酔して袋だたきにされ、鼻が曲がり片目が潰れそうになってからというもの、喧嘩をするのが本当に怖くなり、今年は非暴力ゴジラを宣言し清く正しい日々を送ってきたのだが、昨夜は危うくパキさんを殴りかけたらしい。そういえば傍で若き作詞家喜多条が「映画屋ってのは真面 目だなあ」と笑っていたようでもある。真面目ねえ…。いい方は色々あるものなのだ。考えてみるとこの脚本の登場人物も手が無くなると悪酔いしてオダをあげる駄 目者ばかりだなあ。それでいいのか?!それでいいのだ。「甘ったれるなよゴジ」というイッチ(伊地智プロ)のコワイ声がもおう聞こえてくる。

 厳正な祖父の原作を、不肖の孫が脚色し、放蕩にも飽きた不良中年OBの父親が監督する……失礼かも知れないが、これくらいの世代のギャップが石川氏、神代氏と私の間にはある。今更、世代論を云々する気は毛頭無いが、「原作」というものを与えられて脚本を書いた経験の無い私には正直いってこの二週間は本当にしんどかった。例えばロマンポルノの開始当時、あの現場の八方破れの熱気は私に「性盗ネズミ小僧」というヤブレっ放しの夜這い強盗の話を書かせてくれたし、「浅間山荘」の衝撃が「濡れた荒野を走れ」という脚本で私を虚構の警察機構の中に潜入させてくれた。脚本の出来は別 にしても兎にも角にもその登場人物は私自身のものだった。誤解を怖れずにいえば、原作「青春の蹉跌」の人物は私にとってどうも好きになれない奴ばかりなのだ。石川氏の原作の中では、その真面 目さゆえの嫌らしさがむしろ人物相互の緊張関係を生んでゆき、ひとつの「ドラマ」を構築してゆく底力になっているわけだが私にとってはやはりそれは他人のドラマでしかない。

 という訳で、(どういう訳だ?)新たに作った数人の人物を含めて、強引に人間たちを自分自身のものにすることばかりに窮々としているうちにタイムアップを宣告された。(時間が足りなくて……という泣き言はいいたくてもいわない。怠け者の四回戦ボーイには、四回戦こそがふさわしいのだ)。まあなんとか“心優しき反逆者”を書いてみようと思ったのだが、心優しいばかりで、反逆する相手も見つからず、ただ闇雲に右往左往するばかりの、甘ったれた若者になってしまったようだ。その甘さをギリギリ閉めあげるのは、もう土下座してクマさんにお願いするしかない。「やらなきゃ人間じゃないとばかり、激しく盛りあがった戦後の左翼運動にどうも素直に入りこめなかった。六全協の時には正直いってザマアミロと思った」というクマさんが、その乾いた優しい眼で、甘ったれの若者たちをどう突き離してくれるか……これはもう無責任に楽しみなのだ。

 今年は我が酒乱の師、浦さんも、愈々「青春の門」を撮るというし、今平さんの「ええじゃないか」の脚本も着々進行中と聞く。おらっち若い者もしっかりせねば……。

 ああそれにしても俺の愛する、俺の日活はこれからどうなるのだろう。「俺の日活なんて生意気!」という奴にはいわせておけばいいのだ。去るも地獄残るも地獄といわれたこの数年間、あの撮影所で仕事を続けてきた人たちは、俺のような臨時雇いも含めて、みんな俺の日活と思ってやってきたのだ。そうでも思わなきゃ、とてもやっていけないのだ。メシが食えないのは一番苦しいが、これからもっと怖いのはそれを理由に俺の日活が俺の愛せない誰かの日活になってゆく事なのだ。何の事をいっているのか、わからない人には全然わからないが、それでいいのだ。クマさんも姫田さんも大傑作を作って、早く帰ってきて下さい。

 「調布が火事だよう!」


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