『非現実的な予算の中で』

 

キネマ旬報1976年9月上旬号「顔と言葉」より

 

 
 ATGの多賀祥介氏が「一本監督しないか」と声をかけてくれてもう丸一年、やっと「青春の殺人者」にクランク・インしようとしている。

 『青春』という言葉の嘘くささには自分でもウンザリしているのだが、結局このタイトルに決まってしまった。かくなる上は看板に偽りのない”本物の青春”を撮りあげるしかないと思っている。

 一昨年の十月三十日、千葉県市原市で実際に起こった両親殺人事件に取材した中上健次氏の短編小説「蛇淫」が原作である。プロデューサーが調査魔の今村昌平氏である事もあって、怠け者の私としては珍しく入念な事実調べを四ヶ月近くかけて行なった。田村孟氏の脚本は、原作にこの調査事実を大胆に取り入れて新しい真実に迫ろうとする久々の力作である。映画が完成する前に作品の狙いだテーマだを語るのもつまらない事だが、私はこの殺人事件を猟奇的で特殊なものとしてとらえる気はまるでない。ごく普通 の平凡な青年が何故か両親を殺害し、恋人とにげようとするところにこの事件の日常的な恐ろしさと悲しさがある。

 おそらく、どんな人間でも一度は親を殺して大人になるのだ。地方出身の私自身にしたところで、大学に入って家を出るという平凡な行為の中で、精神的にはなしくずしに親を抹殺しているのかも知れない。心優しいこの映画の主人公はたまたま実際に殺人を犯してしまった。この殺人者を自分自身としてとらえ得るかどうかが、作品を作る上での勝負どころだと考えている。

 ああ、それにつけてもこの製作条件の酷しさはどうだ。今や千六百万円という制作費は、とてもまともに映画作りのできる金ではない。殆どタダ同然に働くスタッフ・キャストがそのシワ寄せを全てかぶるのだ。苦しい苦しいといいながら、こんな非現実的な予算でも映画を撮りたがるバカが後を断たないからいかんのだと、自分自身の事は棚にあげて思う。久々に若い新人監督の登場だといわれる事にも、何か釈然としないものを感じる。映画でメシを食いはじめて九年目の私なんか、もう若くもなければ早くもないのだ。だいたい映画をカントクするなんて事がそれほど大それた事だと考えるのがおかしい。助監督を三年もやったら誰にでも一本監督させてみればいいのだ。一本ぐらいは誰だって一生懸命面 白いものを撮るだろう。駄目ならまたカチンコを叩かせればいいのだ。日本映画が魅力を失っている最大の責任が、本当に若い監督を生み出そうとしない映画界の閉鎖的な体質にあることは間違いない。二十五歳だからこそ撮れたかもしれない傑作は、その人間が三十五歳になった時には決してつくれないという事を、各映画会社の首脳陣は肝に銘ずるべきなのだ。

 しかし金も無く力も無い人間が、企業の外で一本の映画をつくる為には、なんと多くの人々の行為と助力を必要とするものか。

 いつクランク・インできるかわからない撮影を、他の仕事を断り続けてえんえん九ヵ月も待ってくれた鈴木達夫カメラマンをはじめ、沢山の人々の有形無形の助力にはただただ頭を下げて感謝するしかない。三ヵ月丸々体をあけてこの作品に賭けてくれている水谷豊、「監督が新人でどんな映画になるかわからないのが魅力で」と数ある出演依頼の中から私を選んでくれた原田美枝子、「後ろ姿だけしか映らなくてもガンバリ狂ってあげちゃう」を助演を心よくひきうけてくれた桃井かおり。聞くも涙、語るも涙の物語ばかりで、こっ恥ずかしいからもうやめよう。

 ともあれ、いよいよあと三日でクランク・イン。助走はやけに長かったが、レースは否応なしに四十日足らずで、あっという間に終わってしまう。あとはもう新人らしくひたむきに突っ走るだけだ。マラソンは大の苦手だが、短距離にはちょっとばかり自信があるのである。

 


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