日本国内では、漢字を読む際に「音」と「訓」を使い分けています。このうち「音」については、数種類の「音」を使用していて、それらは、時代、地域など条件の異なった、国内への流入状況を示しています。
これらのうちとくに有力な二種の発音「漢音」と「呉音」の成立とその時代状況について考察してみます。
(ちなみに例をあげると「男」を「ナン」と読むと「呉音」、「ダン」と読むと「漢音」であり、「武」を「ム」は「呉音」、「ブ」は「漢音」です)
まず現在の状況ですが、「漢音」と「呉音」の二大発音のうち、主流をなす発音は「漢音」のほうです。「呉音」のほうはいわば非主流派であり、傍流です。
この状況は八世紀大和朝廷の頃から変わらないで今日に至っているのです。
ではそれ以前は、というと、実は「呉音」のほうが日本国内の漢字発音の主流でした。当時漢字は仏教の経典その他の、その当時の文化の極致を表現する唯一かつ最高の手段であり、その発音は当時交流していた文化先進地である中国の最新流行の教養でした。この主流発音が「呉音」から「漢音」へと、七世紀の終りから八世紀の初めにかけて移り変わったのは、中国の権力闘争とその中国の権力と結びついていた日本国内の権力者の生存競争の結果であるといえます。
ところで、「呉音」とか「漢音」とか言う言葉は、一見すると一種の学術用語のように感じられるかもしれません。
確かに「漢音」と「呉音」という言葉は現在日本で言語学上の分類名として存在し使用されていますが、実は元々はそうではなく、「政治的」な用語(あるいは"レッテル")として使われた、と考えるほうが適切であるように思います。
そもそも「呉音」という言葉を最初に使用したのは「唐」王朝であり、この言葉は、「三国」時代の「呉」の音、というわけではなく、「南朝の発音」を意味する「政治的」な用語なのです。
つまり「漢音」と「呉音」という言葉は「唐」王朝(「唐」の高祖)が南朝「陳」の国の発音を蔑んで呼ぶのに使われたものなのであり、その呼称の中に「政治性」を含んでいるものなのです。
「唐」の「高祖」(「李淵」)は、六世紀後半に中国北半部および中国南半部(南朝)の双方を制圧して中国統一を成し遂げた「隋」(北朝系)皇帝配下の将軍であったのですが、いわばクーデターを起こして(「禅譲」の形式は踏んでいるものの)、皇帝「煬帝」を「太上皇」に棚上げした後自らが「皇帝」となって「隋」が成し遂げた統一をさらに確固たるものにしたわけです。
そして「唐」王朝自身が考える、自らの立場の「建前」というものは、「魏」の後継者である、というものであったようです。つまり、「漢」−「魏」−「晋(西晋)」と続いた(正当な)王朝が匈奴の侵入により絶えた後を「魏」(北魏)として「再興」したという意識があり、その「北魏」という存在を非常に重く考えているのです。だから「後継者」である自分たちの存在、由来は正当であり、大義名分がある、というものであったと考えられます。
それに対し、「(南朝)陳」に対する認識は「魏」に反旗を翻していた「呉」の末裔であり、大義名分のない国であって、「南朝」を称するに足らない、それどころか「天子」に逆らう反逆の国である、というものであったわけです。
これらのことは「唐」の「高祖」の詔にも明らかですが、いわば一種の「イデオロギー」となっていて、それに基づいて、自らの発音(唐の都長安の発音)を、「漢音」と称し、南朝「陳」の国の発音は「呉音」と称されるべきものである、とした一種政治的な用語なのです。
しかし「南朝」の始原をたどると、「匈奴」の侵入により崩壊した「西晋」の王族の一部の者(「司馬睿」)が江南地方へ脱出しその地に新たに建国したのが「南朝」の始まりとなるのですから、「大義名分」のある漢民族の王朝であったのはむしろ「南朝」の方であると考えられます。周辺の諸国はその「南朝」の皇帝の配下の諸侯王の一人として「将軍」号を受けていたものです。
特に、「宋書倭国伝」等に明確なように、倭国と「南朝」の結びつきは、長く深く続いてきており、倭国王が「南朝」の天子に差し出した上表文に、倭国王自らを「南朝」の天子の配下の諸侯王の一人に数え、「臣」として仕える旨書かれており、またそれが宋書内に特筆大書されている点などは、「南朝」からも信頼の篤い国であったといえるでしょう。
そもそも「前漢」の「武帝」時代に、半島に「帯方郡」を設置して以来、「倭国」でも多くの「国」が「建国」されたと考えられ、それらの中には「邪馬壱国」のように「中国」と深い関係を築き、各種の制度を導入したと考えられる国もありました。
その後「西晋」が「匈奴」(鮮卑族)により滅亡し、揚子江以南に移動して「南朝」を創始した際にも「倭国王権」は交流を継続しています。
このとき「臣事)することとなった理由の一つとして、「東晋」の王朝の言語(発音)が「魏晋朝」と変わらなかったこともあるのではないかと考えられます。
「東晋」建国当時「王族」「貴族」はもちろん、一般民衆(漢民族中心)も大量に「江南」後に流入していました。「華北」には異民族が次々と流入し、混乱が長期間続いていたからであり、先祖以来の地を捨てて移住する人々が絶え間なかったものなのです。それは「王族」である「司馬睿」が「皇帝」として「晋朝廷」を守り続けていると言うことが彼らの「希望」の灯火でもあったと思われます。そのような「南朝」ですから、「王権」とそれを支える「漢人」達の「言語」も以前のままであったと考えられ、(本来の江南人との割合はほぼ半々であったとされています)これらのことから「東晋王朝」の「公的」な発音は「魏晋朝」と変わらず、共通であったと考えられ、このため、「倭国」ではこれを「皇帝の国の発音」であると認識したものであり、「西晋王朝」の継続と見なしたということがあるのかもしれません。
このようにして五〜六世紀の日本国内に「南朝」から直接・間接に「仏教」を中心とした先進文化が流入したものです。
また、仏教関連に「呉音」が強く遺存しているのは、その関連の事物が多量に国内に流入したこともあるでしょうが、歴代の倭国王が「仏教」を厚く信奉したことがその淵源をなしていることは間違いないと考えられます。特に「隋」皇帝に対等性の主張の文書を送った倭国王(阿毎多利思北孤)は「座禅」を組んでいた、と記されており、仏教に深く帰依していたものと思われます。彼が倭国の全土に強く仏法を推進したであろうことが推測され、彼の影響により「呉音」が国内に深く浸透することとなったものと推察されます。
また、「仏教」に関連した単語以外にも日本の生活習慣に深く結びついている単語が現在も非常に数多く残っています。たとえば日付です。「月」を「がつ」、「日」を「にち」と呼ぶのは「呉音」です。(「漢音」では「げつ」「じつ」です。)また家族関係を表す単語にもあります。たとえば「長男」を「ちょうなん」と呼び、「兄弟」を「きょうだい」と呼ぶなどの例があります。(いずれも漢音では「ちょうだん」「けいてい」です)
このことは「漢音」が導入される相当以前から「呉音」というものが日本人の生活に深く取り入れられ、日本の文化の一部になっていたことを示しているものと考えられます。
その後「六世紀」の終わりごろになってついに中国北半部を統一して「隋」王朝が成立し、周辺諸国にその主張を伝般させてゆくようになります。いわく“中国を代表する国はただ「隋」だけであり、唯一の天子は「隋」の国にいる。わが国の天子を唯一の天子と認めよ”。
これに対し周辺の国々は、従来からの「南朝」との関係もあり、積極的な対応をしたのは、「新羅」だけでした。
「新羅」は以前より自主独立を目指して運動していましたが、この領域の覇権を「倭国」に握られており、「南朝」も「倭国」の主張を是認していた経緯があるため 、「新羅」も長年不満を燻らせていました。このため、いちはやく「隋」を承認し、見返りにこの地域における「統治実績」を承認させようとしたのです。
他の朝鮮半島の国々は、とりあえず「柵封」(主従関係を結ぶ)されて「隋」の体面を保たせたのですが 、結局倭国は「柵封」されませんでした。逆に時の隋皇帝(これは「文帝」と思われる)に国書を送り、「日出ずるところの天子、書を日没するところの天子に致す。つつがなきや云々」という、「天子の対等性」、「天子の多元性」の主張を行い皇帝の不興を買うこととなってしまいます。
隋はこの直後、使者(文林郎「斐世清」)を倭国に派遣して「宣諭」つまり無礼をたしなめ、「天子」標榜を糾弾するという厳しい措置を行ったものであり、この両国の関係は、結局『この後遂に絶つ』という、いわば「国交断絶」状況となってしまいます。
その後の中国(唐)との国交回復は「六四八年」まで待たなければならず、しかも「新羅」に仲介を要請してやっと実現したものなのです。
このような外交態度はそれまでの対「南朝」政策ではけっして見られなかったものであり当時の倭国政権が「南朝」を正当な天子の国と見る立場に固執していたことが分かります。
当時の倭国が(倭国王が)このような態度を取ることとなった大きな原因の一つとしては先にも述べたように、「新羅」が「唐」により「柵封」され、「侯王」(楽浪郡公新羅王)として認められたことが大きな原因と考えられます。「新羅」についてはそれまでの「南朝」の各歴代王朝から「倭国」による軍事支配を認められていたものであり、それがまったく考慮されなかったことが、「倭国」が「隋」により「柵封」されることを拒んだ大きな理由と推測されるのです。
その後「隋」が「唐」に替わったわけですが「唐」の内実は「隋」王朝と同一であり、前述したように「唐高祖」は唐のキ「長安」の発音を「漢音」と称するようになります。しかし、倭国は「唐」王朝にも柵封されることなく、遣唐使など送っても、なかなか倭国には「漢音」が浸透することはありませんでした。
しかし、「白村江の戦い」で倭国が敗北してからは「親唐」政権に代わったわけであり、柵封されたわけではありませんが、実質的には「従属国」として存在するようになったものと推察されます。ただし、この間「遣唐使」は行われていません。遣新羅使は増加していますから、「間接的」に「唐」の文化を摂取してはいるようですが、直接的な交渉は絶えています。理由は不明ですが、戦争当事者としてのプライドなのでしょうか。戦った相手(しかも敗北した)から文物をとりこむ事への抵抗ないしは嫌悪があったのではないでしょうか。
しかし、倭国から「新・日本国」への行政府交替により方針転換が行われ、八世紀に入ってすぐに遣唐使を派遣しています。彼らは当時の唐のキ「古都『洛陽』」より数々の資料等を持ち帰っています。そして、それらの資料によりいろいろな制度等が作られました。たとえば長安の条里制が平城京に強い影響を与えていたりしています。漢字の発音は当然「漢音」です。これらの資料を駆使して書かれた史書が「日本書紀」です。(成立は七二〇年)この本は純粋な漢文で書かれ、「漢音」で読まれることを前提にして書かれています。
この本を始め、これ以降に書かれた史書はすべて貴族等の必須の教養とされ無条件に「漢音」を唯一正当の漢字発音として意識させられ覚えこまされました。そして「唐」王朝が政治的イデオロギ−により、「声高」に自己の王朝の正当性を主張し、「南朝」の漢字発音を称して「呉音」とレッテルをはり、自分たち(唐の都長安)の発音を「漢音」と称していることを知ると、「新・日本国」王権(大和朝廷)は、口真似のように同様の主張をし始め、南朝を指して「呉国」と呼ぶなど(「書紀」に「呉国奉貢朝賀す」などの記事があります。これは南朝を指して言っている記事です。)唐王朝の主張に「過激」に追随していくことになるのです。そして国内には「呉音」禁止令を何度となく出し 、「漢音」を正当な漢字発音として押し進めていったのです。
この間の動きには、「唐」には自らの正当性を「声高」に主張しなければならぬ必然性があったわけであり、裏を返せばそれだけ実質的な正当性に欠ける状況であって(漢民族ではないのです…「鮮卑」族か)、だからこそ政権を安定に維持していくためには、当時の状況では「大義名分」というものが是非とも必要であった、と言う事でしょう。彼らには漢民族、漢文化に対する畏敬のようなものがあり、それが旧南朝の権威に結びついて復活するような事態を恐れたのでしょう。
この「唐」の主張とまるで歩調を合わせるかのように大和朝廷も「声高」に自己の正当性を主張するようになるのです。あたかも自らも大義名分に欠けるかとでも言うようであり、「唐」王朝が「南朝」の復活を恐れたように、彼らは「九州倭国王朝」の復活を恐れたのです。
(この項の作成日 1999/12/20、最終更新 2012/04/23)