「書紀」に「續守言」と「薩弘恪」という唐人が出てきます。彼らについては当初「捕虜」であったとされます。
「(六六三年)二年春二月…是月。佐平福信上送唐俘續守言等。」(天智紀)
しかし、彼らがもし捕虜なら「郭務宋」達の来倭の際に帰還したはずと思われます。なぜなら彼らの来倭の目的は「和平」を講ずるためであり、戦争状態の終結であったと思われますが、このようなときには「捕虜」の交換がしばしば行われていたからです。
「隋」と「高句麗」の間に戦いが行われた際は「唐」に代わった直後に捕虜交換が行われていることが「唐」の高祖が「高麗王」に当てた「書」から窺えます。
「(武徳)四年、又遣使朝貢。高祖感隋末戰士多陷其地、五年、賜建武書曰; 朕恭膺寶命、君臨率土、祇順三靈、綏柔萬國。普天立下、情均撫字、日月所照、咸使又安。王既統攝遼左、世居藩服、思稟正朔、遠循職貢。故遣使者、跋渉山川、申布誠懇、朕甚嘉焉。方今六合寧晏、四海清平、玉帛既通、遺路無壅。方申輯睦、永敦聘好、各保彊[土易]、豈非盛美。但隋氏季年、連兵構難、政戰之所、各失其民。遂使骨肉乖離、室家分析、多歴年歳、怨曠不申。今二國通和、義無阻異、在此所有高麗人等、已令追括、尋即遣送;彼處有此國人者、王可放還、務盡撫育之方、共弘仁恕之道。
於是建武悉捜括華人、以禮賓送、前後至者萬數、高祖大喜。」
このように「和平工作」が行われる場合には「捕虜」の処遇についても話し合われるわけですが、この「白村江の戦い」を含む「百済を救う役」では「唐」と「倭国」との間に戦闘があったのですから、和平協議が行われたとすると必ず捕虜交換について話し合われたはずです。もしそうなら「六六五年」以降「唐人捕虜」はその多くが帰国したこととなるでしょう。
しかし、「續守言。薩弘恪」という二人は帰国しなかったこととなります。そうすると彼らがここで残留した理由が不明となるでしょう。
そもそも「捕虜」はどこの国でも「官戸」ないしは「官奴婢」となるのが通例であり、「良人」として「政権」の中枢に存在していることが異例といえます。彼らは「唐人」捕虜とされる中で唯一氏名が書かれていますから、そのように特記すべきレベルの高官であったと思われますが、それでも「戦時捕虜」の対象であることは変わりなく、同様に「官戸」というような扱いであってしかるべきであったと思われるのに対して、このときは例外的に「良人」として扱われ「官職」を得て政権内部で活動していたものと考えられています。
「(六九一年)五年九月己巳朔壬申。賜音博士大唐續守言。薩弘恪。書博士百濟末士善信銀人廿両。」(持統紀)
「百済禰軍」の例もありますから、この当時忠誠を誓えば官戸として扱わない場合もあったと思われますが、しかしいかにも不自然と思われます。
このことは元々彼らが(書紀の記述とは裏腹に)「捕虜」ではなかったという可能性を考えるべきことを示しています。
ところで、「森博達氏」の論によって「書紀」は「唐人」によって一部が書かれていることが明らかとされました。いわゆる「α群」とされる「唐人」が関与したと思われる部分は広範囲にわたりますが、「續守言」「薩弘恪」の両名は「音博士」とされ、「漢文」なとの専門家として存在していたと思われ、かれらが最後に名前が出るのが「持統紀」であり、そのため「持統紀」に彼らによって「書紀」の「α群」部分が書かれたという考察がされているわけですが、その「持統紀」も含め「書紀」全体にわたって「太宗」「李世民」の「諱」が全く避けられていないことが知られます。
三代皇帝「高宗」の時(顕慶二年(657))に、それまでの「世民」と連続するもの以外は「諱字」としないとされていたものを、「世」「民」単独でも「諱字」とし「人名」「組織名」等からその使用を避けるようにと云う「詔」が出されたものです。
唐ではこれ以降「民部省」が「戸部省」へ変更されるなどの他、重臣である「李世勣」が「李勣」とされ、「裴世清」も「裴清」とされるなど多くの改姓や省略が行われました。「世」が「代」へと云う書き換えや表記変更もあったとされます。
しかし「書紀」ではそれが全く避けられていないのです。
「續守言」「薩弘恪」」の参加したとされる「白村江の戦い」はその「詔」から数年を経ているわけであるから、それに参加した唐人(特に彼らは高官であったと思われる)の彼らがそれを知らなかったはずがないと思われます。
にもかかわらず彼らがその編纂に参加したとされる「書紀」で「世・民」という「諱」が避けられていないのはどういうことでしょうか。
「後漢書」などからの引用や借用部分(引用元には複数の説がありますが)に「世・民」が避けられていないのは「高宗」の通達の時期以前の資料を参照しているからという考え方も不可能ではありませんが、ことはそれだけに留まらず、「書紀」の全体にわたって「世・民」は全く避けられていないのです。
可能性としては色々考えられるでしょう(無視したのかも知れませんがかなり考えにくいものです)。しかし、「世・民」の諱を避けていないのはその様な通達(「詔」)を知らないからであるという可能性も考えられるでしょう。
その場合、彼ら唐人は「孝徳」以前から倭国にいたからということも考えられます。
つまり彼らは「戦争捕虜」ではなかったとすると、政権中枢にいる理由も納得できるものです。その場合彼らはいつから「倭国」にいるのでしょうか。
可能性としては「高表仁」の随員だったと考えることもできるでしょう。
「高表仁」の来倭(六四一年か)の際にはもちろん「高表仁」だけが来倭したのではありません。この時随行したのが誰で総員が何名であったかは不明ですが、唐代における一般論から云うとこのような海外へ派遣される使節の場合、正使・副使とその各々についての判官、書記(史生)や医者・占い師など総勢十数名はいたはずです。(例を見ると必ず「宦官」も随行の中にいるようですが、これはいわゆる「色仕掛け」を防ぐ意味ではないかと思われます。)
しかしこのときは「高表仁」が倭国王子と(礼をめぐって)対立したため、激怒した「高表仁」はそのまま「表(国書)」を奉ぜず帰国したとされます。
「高表仁」が勅命を果たせなかったため同行した随員の中にはペナルティーを恐れて帰国しなかったものもいたのではないでしょうか。
通常「使者」には「判官」という「監察」する職掌の人員(監察御史など)が付随するものであり(副使がいれば彼にも同様に判官が付く)、使者の言動に不適当な部分や粗相があった場合(唐の法律に従って)それを指摘し是正させる役割があったと思われます。
このときの判官はそれができなかったということになるわけですから、使者以上に責任を問われる可能性があったと思われます。(彼らは「高表仁」の説得を試みたと思われますが、彼は「隋」の高祖下の大臣であった「高ケイ」の息子であり、また「皇太子」であった「楊勇」の娘を妻にしていましたから、プライドが高くそれを受け入れなかったものと思われます)
そのためそれを恐れた「判官」など関係者の中には「高表仁」と同行して帰国せず、倭国王権と折衝をする名目で残留した者がいたと云うことも考えられます。
「倭国王権」としても失態を演じた「対唐政策」の立て直しもしなければならず、「唐人」を政権内部に抱える方がプラスと考えたとしても不思議ではありません。双方の思惑が合致した結果彼らは政権内部で働くこととなったと云うことではないでしょうか。
その後彼らのアドバイスに従って「新羅」を通じて「謝罪」し、再度「唐」との国交回復を果たしたものと見られます。
こう考えた場合、「郭務宋」達の和平交渉時点で帰国しなかったとしても不思議ではないこととなりますし、その後の「高宗」の出した「諱字」についての知識がなかったとして当然ということにもなるでしょう。
しかし上のように思惟進行すると、「書紀」の成立そのものがかなり早かったという可能性が出てきますが、その可能性がゼロではないことは別の観点から既に考察しました。
ここに述べた推論はそれとは矛盾しないものと思われます。
(この項の作成日 2014/10/15、最終更新 2014/10/16)