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「評督」授与の事情

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 また、ここでは「国造」で「追大壹」であった「韋提」が「評督」に任命されていることとなりますが、この「評督」という「称号」(制度)は「利歌彌多仏利」によって造られた制度であると考えられ、当然彼は「九州倭国王朝」の権力者であり、なおかつ「統一王」として「東国」(「陸奥」もその時点で入ったという可能性もあります)までもその直接統治下に収めたと考えられ、そうであるとすると「碑文」に見える「飛鳥浄御原宮」というものが「九州倭国王朝」の系譜につながる存在であることがわかります。(これは「九州」の「筑紫朝庭」のことを意味すると考えられます)
 逆に言えば「八世紀」の「新日本国王権」につながると考えられる「近畿王権」がこの「評督」を授与したのではないことは明白です。そうでなければ「なぜ」彼らの正規の史書である「書紀」に「評」の片鱗も見えないのかが説明不能となります。
 明らかに「評」という制度は「隠されて」います。それほど忌み嫌った制度を、ここで自分たちの制度として「授与」することはあり得ないでしょう。このことは「飛鳥浄御原宮」という表現が「近畿王権」ではなく「九州倭国王権」を指すものである事を示すものであり、当時(六八九年四月)に「九州倭国王権」が「筑紫なる」「飛鳥浄御原宮」から「全国統治」を行っていた事を示すものです。
 
 「持統朝廷」からの「評」に関する「官職」の任命に関しては、「阿蘇氏系図」(田中卓著作集二巻付図 異本阿蘇氏系図 より)にも書かれています。
 つまり「朱鳥二年」(六八七年)二月以前に、「真理子評督」の存在が書かれており、その後「角足阿蘇評督朱鳥二年二月為評督改賜姓宇治宿禰」と続きます。
 この記事は「朱鳥二年」(六八七年)という年次に「阿蘇角足」が「評督」に任命されまた「賜姓」されたことを示しています。ここで「国家上層」において何らかの「変革」があったものの、そのことによって従前と地位が変更されることがない、ということを改めて示すとともに「宿禰」という「姓」を与え「求心力」を保とうとしたと考えられます。
 この文章はまた、「那須直韋提」の石碑の文章とよく似ています。「角足」の場合は(真理子)「評督」から「評督」ですが、「韋提」の場合は、「国造」であったものが「評督」に「横滑り」したものと考えられます。

 ところで、この段階になって「那須」のような「北関東」(群馬、埼玉、栃木)付近に「評」制が施行されたように見えるのは「奇異」に映るかもしれません。
 この付近は元々関東の王者の勢力範囲であったことから、「九州倭国王朝」の権威が届きにくい地域であったことがあり、「難波朝廷」による「評制施行」の際に「漏れていた」という可能性があるでしょう。
 それが何故この「六八九年」という段階で「評制」が施行されたのかと考えると、その翌年の「庚寅年」の改革が「予定」されていたということと関係があると思われます。
 明らかにこの「六八九年」段階では、次年度の予定として「遷都」とそれに伴う「機構改革」が行われる予定であったと思われます。「遷都」するためにはなによりも「統治範囲」の安定化と拡大がその前提と考えられ、たとえば「上野」という地域を「評制下」に置くようなことが求められていたと思われます。
 この時の「遷都」の動機ないしは条件というものは、それまで延伸と拡幅が行われていた「古代官道」の整備がほぼ完了したことにあると考えられ、それは(当然)「東方」への支配の強化のためであったものであり、それを現実のものとするように「東山道」の末端に位置する「上野」地域の「有力者」を「倭国王権」の一端に加えるという作業が強く求められていたものと思料されます。
 「近畿」を始めとして「東国」も含む全ての「列島」諸国を「倭国王」が「直接」統治する、という「利歌彌多仏利」以来の「政治改革」を行ったのが「六九〇年」(庚寅年)という時点であり、この「評督」任命はその「趣旨」に則ったものと言え、今まで「統治」の網がかかっていなかった場所に対して「評督」という地域代表者を決めて任命し、「統治」の最下層の構造を確定させることとしたものと思われます。
  
 この碑が発見されたときこの石碑は「碑文面」を下にして、埋もれていました。これがなぜ倒れていたのかは不明ですが、可能性としては「倒れていた」のではなく「倒されたのではないか」とも考えられます。そして、それは建てた当の本人が自ら行ったのではないでしょうか。
 これが建てられた「七〇〇年」の翌年に「九州倭国王朝」から「新日本国王朝」に「行政府」が切り替わり、制度も切り替えられたのです。「七〇一年」に「新日本国王朝」(近畿王権主体)が成立して以降、「評」制が廃止され、替わって「国−郡−里制」となったのです。
 そして「評」に関する事物の「隠蔽」の指示が来たのだと思われます。彼らに対して「碑」の文章を削るように、という指示があったのかもしれません。しかし、彼らは(「韋提」の息子達)は自分の父親の韋業を顕彰するためにせっかく建てた「碑」とその「碑文」を残したかったのではないかと思えます。彼らは「碑文」を疵付けるには忍びなかったので、碑文を「下」にして「倒して」対応したのではないかと思われます。


(この項の作成日 2011/01/12、最終更新 2014/01/19)

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