古田史学派の定説は「改新の詔」は「六九五年」に出されたというものです。その「根拠」とされているものは以下の徴証からであると思われます。
(ア)「九州年号」「大化」の元年が「二中歴」によれば「六九五年」とされること。
(イ)「書紀」で「改新の詔」が「六四六年」に出されたとされ、その時の年号が「大化」であること。
(ウ)「藤原京」遷都が「書紀」によれば「六九五年」であり、「大化」改元理由として「遷都」が考えられること。
(エ)「評」から「郡」への切り替わりが「七〇一年」と考えられること及び「代制」から「町段歩制」への「地割制」の切り替わりが同じく「七〇一年」と考えられること。そしてそれは「六九五年」に改新の詔が出されたとすると、年次の推移において「整合性」があると考えられること。
もっぱら以上のような事柄からの推測であると思われます。
しかし、この考え方では、以下の事実を整合的に説明できないと思われます。
(A)「暦」の使用開始が「六九五年」を遡ること(「六九〇年」と「書紀」に書かれ、また「六八九年」の「具注歴木簡」が出土していること)
(B)それに基づく「戸籍」の作成も「六九五年」を遡ること。(正倉院木簡の解析から「庚寅年籍」(六九〇年)の「造籍」が確実視されていること)
(C)さらに、それらを基礎としている「班田」の頒布開始が「六九五年」を遡ること。(「書紀」によれば「六九二年」記事に「四畿内班田大夫」記事が存在すること)
これらはいずれも「六九五年」の「以前」に「制度改正」が行われていることを示唆するものであり、「改新の詔」が出される以前に「プレ」「改新の詔」とでも言うべきものが出されたことを想定する必要があります。あるいは予定段階で「慣熟」のため部分的に先行施行したというような理解をする必要も生じるものです。
それに対し当方の仮説は、『「改新の詔」は「六九〇年」(庚寅年)に出された』とするものです。この考えで行けば、上の(A)(B)(C)とは整合します。
また、「庚寅年」に改革が行なわれたということは、この「改新の詔」以外にも、各種史料に「庚寅年」に諸制度改正が行われていると考えられる「徴証」が確認されることからも推定できます。
@「常陸風土記」に見える「庚寅年」の改革。これは「神戸」の戸数の変遷から推定されるものですが、「難波天皇」「飛鳥朝庭」「近江朝廷」と加増を受けていたものが「庚寅年」に「二戸」減戸されています。これがそのまま「令」(大宝令)に継承され定められています。
A「播磨風土記」に見える「庚寅年」の改革。「播磨国風土記」によると「餝磨郡小川里条」に「地名変更」に関する話が書かれてあり、「(志貴)嶋宮御宇天皇世」の時に定められた地名を「上(野)大夫為宰之時」という「庚寅年」に改名した、と書かれてあり、この「庚寅年」は「六九〇年」の事を指すと考えられます。また、同じく「播磨風土記」によれば、「餝磨郡少宅里条」にもそれまで「漢部里」であったものが「庚寅年」に「少宅里」に変えられたことが記されています。この年次における「制度変更」により「里」名が変更されたとされていますが、これは「五十戸制」から「里制」への変更を意味するものと考えられます。
B「大嘗祭」年次の矛盾と「周正仮説」による「庚寅年」「大嘗祭」実施の推定。「書紀」による「六九〇年」大嘗祭と「六八九年即位」との間には「実施月」において「決められた制度」と「乖離」があり、これは「庚寅年」に「周正」つまり「十二月」を「正月」とする「暦」の改定を行なったと考えると整合するものであり、これも「改革」の一部であると思われます。
一般に「行政制度」の改定は「戸籍」の改定と同時であるべきですし、それはまた「班田」を行うためにも必要なものです。「境界線」の確定が行われて初めて「班田」を授与することが出来るものであり、その「境界線」の確定により「里」の領域が変更等になると言う事もあったでしょう。そうであればその機会に「里名」が変更になったとしても不思議ではありません。
また、「改新の詔」は、基本的に「遷都」に関わる「詔」であり、「遷都」に基づいて「新しく」「畿内」とされる地域に対して行われた制度改正が主であり、「全国的」なものではなかったというのが当方の主張です。
つまり、「改新の詔」は「畿内」に向けられたものであり、それは「班田」記事が「四畿内」と表現されていること及び「郡司」制定記事が「諸国」と表現されていることなどから分かると思われます。
「続日本紀」「文武二年(六九八)二月己巳。詔。筑前國宗形。出雲國意宇二郡司。並聽連任三等已上親。
庚午。任諸國郡司。因詔諸國司等銓擬郡司。勿有偏黨。郡司居任。必須如法。自今以後不違越。」
この記事では「諸国」と書かれていて、「畿内」とは書かれていません。つまり「畿内」の「郡司」はすでに「改新の詔」によって「任命済み」であったと考えられ、この時点が実質的な諸国に対する「郡制」移行の詔と考えられるものです。
つまり、「評制」と「郡制」の切り替わり及び「代制」と「段町歩制」の切り替わりが遅れるように見えるのはそれが「畿内」への施行ではなく(これは既に行われていると考えられる)、「全国展開」の時期であることによると考えられるものです。
以上のことを整理すると、想定される「庚寅年」の「改新」は以下のように行なわれたこととなると考えています。
@「筑紫」から「近畿」(この場合「副都難波京」へ「遷都」を行い、「難波」を中心とした「畿内」の制定とその「畿内」に対して「制度改正」を行ったとみられること。(ただし「遷都」は「六八六年」に行なわれたもの)
Aその後「畿内」以外の「諸国」に対しても同様に「畿内」に準じた形で「制度改正」を行う。(その場合元の「首都」である「筑紫」も含むもの)」
そして、@が行なわれたのが「庚寅年」(六九〇年)であり、Aが行なわれ、完全実施となったのが「大宝元年」(七〇一年)であると考えられます。
そして、この「庚寅年」改革の主体と、「大宝元年」改革の主体は異なり、「大宝元年」改革を主導したのは「近畿王権」の「王」であったと思われ、この時点で「政権交代」の「足がかり」ができたものと思料します。
このように考えたわけですが、ではなぜ「書紀」では「改新の詔」が「七世紀半ば」に置かれ、且つ「大化」という年号と強く関連して書かれているのか、と言う事が問題になります。
「書紀」の立場は「八世紀新日本国王権」の「権力」の「正統性」の確保が最大の目玉であり、そのためには「庚寅年」改革は「伏せられる」こととなったものです。「庚寅年」の改革の主体は「倭国王権」そのものであり、それが「明確」に判ってしまうことがないように「時期」をずらして書かれていると考えられます。「主体」が明らかになることは、「八世紀王権」との継承性について「疑義」が発生する余地があり、それを隠蔽するために「六四六年」まで移動させられたものです。この年次付近にもかなりの「制度改革」が行われたと考えられ、それは「難波副都」という場所から出されたものと思われますが、「庚寅年」に行われた改革の主体も「難波副都」を舞台にしたものであり、双方に共通する「難波副都」からのものという類似点を最大に利用したものと推察します。
また「利歌彌多仏利」の改革もこの「改新の詔」として書かれていると思われ、結果的に「三回分」の「改革」についての「詔」が「まとめて一個所に書かれていると考えられることとなりますが、「利歌彌多仏利」も「難波天皇」あるいは「難波朝廷」と呼ばれるなど「難波」と深い関係のある「倭国王」でしたから、この三回の制度改革についての「詔」は実はいずれも「難波」から出されたものであることが推定されます。そのことから、「書紀」編者からは「まとめやすい」性格を元々持っていたことが考えられます。
(この項の作成日 2013/01/10、最終更新 2013/08/14)