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「書紀」編纂過程の解析からわかること

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 「森博達」氏によれば「書紀」は「持統朝」に「唐」の人間(「續守言」と「薩弘恪」)により正確な漢文で書かれたもの(「α群」と命名しているようです)が最初であり、「皇極朝」から「天智朝」までが完成した、とされています。(計六巻)
 彼がこう主張する根拠は、この「續守言」と「薩弘恪」の二名が「持統朝」で「音博士」であったことと、彼らが「文武朝」まで「存命」していなかったと考えられるからのようです。
 この二人に対する「恩賞」記事は「六九二年」が最後であり、この恩賞が「書紀」の編纂に関するものと考えられること、また「薩弘恪」に関しては「続日本紀」に「大宝律令」の選定に関わった記録はありますが、「書紀」の編纂に関わった記事は見あたらなく、また「続守言」に関しては「六九二年」以降その名前も見なくなるなどの理由により、彼らが「書紀」編纂に関わったのは「持統朝」においてであろうと主張しているわけです。
 この主張は重要であり、このことは「改新の詔」その他の「詔」も同様に「持統朝」において「当初」から「原・日本紀」の中に書かれていたと考えられることとなり、これは「原詔」が「文武朝」ではなく、「持統朝」に出されたものであることの「徴証」でもあります。

 「持統紀」に「原詔」が出され、それが「そのまま」「原・日本紀」に記載されていたものを「八世紀」に入って、「日本人」編纂者により「天武紀」「持統紀」が新たに書き加えられた際に、併せて「編集(潤色)」され、その「編集時点」の「大宝令」の語句を使用して「改新の詔」などが現在見る形に書き改められたものと推定されます。
 「森氏」によれば「八世紀」に入ってからの編集時の「潤色」と考えられるもの(ミスも)がかなりあると考えられているようです。(この事から「唐人」の手になる記事ではないと考えられる、とのことです)

 これらのことは「文武期以降」に「改新の詔」が書かれた(造文)とする視点に強い疑いを突きつけるものです。
 「本格漢文」を書くことができたのが「唐」の人間だけではなかったことなどを証明しなければ、「書紀」の「皇極紀」から「天智紀」は「持統朝」に「唐」の人間により書かれたもの、と言う説を認めなければなりません。その証明は一見著しく困難です。

 「持統紀」に「続守言」と「薩弘格」への「褒賞」記事があります。これは「六九二年」という年次に書かれているもので、「続守言」と「薩弘格」へ「水田」を下賜した記事です。

「(持統)六年(六九二年)十二月辛酉朔甲戌。賜音博士續守言。薩弘恪水田人四町。」

ところで、この記事の直前記事は

「(持統)六年(六九二年)冬十月壬戌朔壬申。授山田史御形務廣肆。前爲沙門學問新羅。」

 というものであり、「山田史御形」という人物を「還俗」させ冠位を与えたことが書かれています。
 「国家」の命によりその知識と経験を生かすという意味で、「還俗」させているわけですが、彼は「八世紀」に入って「文章博士」なども歴任することとなっており、おそらく「続守言」「薩弘格」などについて「漢文」の勉強をしたものと考えられ、ここでなされた「褒賞」はそのことに対するものと推測され、それは「日本紀」の執筆・編纂を行うための準備作業であったと考えられます。これ以降この三人で(「山田史御形」は助手か)「原日本紀」を編纂(執筆)し始めたというわけです。
 しかし「書紀」本文中に挿入されている「割注」は「八世紀」段階のものと推定されます。つまり「八世紀」に入ってからの「潤色」「変改」の一端として「割注」が書かれているわけです。
 「伊吉博徳」の「書」や「言葉」が「注」として書かれたのも「八世紀」に入ってからと考えられますが、そのことから「持統紀」部分の追加、という作業はそれ以降と考えられると推定されます。理由は、「持統紀」には「伊吉博徳」の「大津の皇子謀反事件連座」と云うことが書かれているからです。
 「謀反」に「連座」したという、いわば非常に不名誉な記事であるわけですが、そのような記事が、当の本人である「伊吉博徳」の在任中に書けただろうかと云うと、はなはだ疑問であると考えるものです。
 「伊吉博徳」という人物は最終官位が「正五位上」という「中級官人」であり、また「倭国外交」の第一線に長くいたことや、「大宝令」撰定など重要な職務をこなしてきていた経緯もあり、彼については当時の「新日本王朝」の中枢からの覚えもめでたいと存在であったと考えられ、その彼にとって「不名誉」とも言える記述を含んだ「持統紀」追加という作業が、彼の在任中に行いうることであったかについては否定的にならざるを得ないと思われ、そのことは「持統紀」の編纂時期の判断にも影響してくると考えられます。
 これに関しては「白雉年間」の遣唐使に関する「割注」として書かれている「伊吉博徳言」という中に書かれている「今年」が「七〇四年」と推定されること、「伊吉博徳」が「続日本紀」に最後に登場するのが「七〇三年」であること(大宝令編纂に対する褒賞記事)、「後継者」と考えられる「伊吉連子麻呂」という人物が最初に登場するのが「七〇七年」であることなどから考えて、彼が「引退」したと考えられる「七〇四年」以降に「持統紀」追加と変改が行われたと考えられます。

 また「書紀」の「国譲り神話」では「大国主」の子供である「武御名方神」は国譲りに反対し、武力で抵抗しますが、打ち負かされ、「諏訪」まで逃げ延びて降伏したとされています。この「建御名方神」が「宗像氏」を意味するというのは定説ですが、その「宗像氏」は「書紀編纂時」に有力者であった「長屋王」(長屋親王)とその父「高市皇子」に非常に近い存在です。(曾祖父であり祖父でもあります)
 彼等が「目の黒いうちに」このような神話が書けるものでしょうか。とてもそうは思えません。この「国譲り神話」は明らかに「長屋王失脚」以降に付加された部分と考えるべきでしょう。
 そう考えた場合、この「国譲り」という行為そのものが「遠い過去」の出来事を記したものと言うより「長屋王失脚」という事件に直接関係する事象をあたかも「遠い過去」に投影して書いたものではないかという疑いが生じます。
 
 既に述べ来たったようにこの時の「潤色」と「変改」はまず、「改新の詔」について行なわれ、その最初のものは「七世紀初め」の「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」の時代のことであり、これについては「書紀」の記事は「二十七年」移動されて書かれていると考えられます。
 さらに、「庚寅年」に出されたと考えられる「改新の詔」を書き換えて「四十四年前の」「孝徳紀」とその前の「皇極紀」に移すこととしたもようです。これで「七世紀末」の事業と「七世紀初め」の事業がいずれも「七世紀半ば」の孝徳朝のこととして書かれることとなったものです。こうすることで「七世紀全体」に亘る「倭国王」の支配の実情が完全に「隠蔽」することができるようになりました。
 「八世紀」に入って初めて「列島」の覇者となった「近畿王権」を主力とする「新日本王権」は、それ以前に存在した「統一王者」の存在が「邪魔」であったのです。そのため、「七世紀」を通じて日本列島に存在した「統一権力者」を隠蔽しなければならないこととなったというストーリーが考えられます。

 その後「伊吉博徳」から提供された資料を追加するような「割り注」編集作業が続き、その後「天武紀」を削除して(これは「薩耶麻」の削除です)「三十四年前の」「孝徳紀」から移動させ、その後同様に「持統紀」を「三十四年前」の「斉明紀」から移動させて完成させているようです。(「持統紀」の隠蔽)

 「薩耶麻」の治世の隠蔽には、「薩耶麻」の「捕囚」を隠したかった「倭国王権」の「意図」と「方法」を利用しているとも考えられます。
 つまり、「倭国王権」が作り上げた「原・日本紀」にもそもそも「粉飾」があったものと考えられます。それは「薩耶麻」についてのものであり、「薩耶麻」の「捕囚」事件についての部分です。「倭国王」が敵の捕虜になったことを正確に書くわけにはいかなかったものと思慮されます。
 また、「捕囚」によって「倭国王」が不在となった時期の「帝紀」と「起居注」は存在していないわけですから、正確には書ける道理がないわけです。これを隠蔽するために「当初」の「原日本紀」でも何らかの「潤色」「変改」があったと考えられることとなります。
 「薩耶麻紀」の「空白」となるべき部分の「捕囚期間」を埋めるために記事を「十二年前」から「移動」させ、「薩耶麻紀」を構成していたものでしょう。この記事移動部分はその後の「変改」実施の際にも残されたものと推察されます。

 上に見たように「孝徳朝」に「改新の詔」などが置かれているのは「八世紀」に入ってからの「潤色」「改変」時になされたことと考えられるものですが、その「難波副都」完成時に「改新の詔」らしきものが出されたものと推量します。というのはこの時点で「評制施行」がなされ、「屯倉」が多量に設置されているわけであり、また「推測」によると「都督」が任命されるなど大幅な制度改革などが行われたものと考えられるからであり、それらが「何らかの」「詔」の元に行われたと考えるのはそれほど不自然ではないと考えられるからです。
 そして、その「詔」を「利歌彌多仏利」や「庚寅年」の「詔」と置き換える形で「隠蔽」「粉飾」が行われたと考えられます。この作業により実際の「詔」が出された時期と「朝廷」を「カムフラージュ」することが可能となったと考えられます。

 つまり、「八世紀」の「新日本国王朝」は「前王朝」である「持統朝廷」の「史書」を書くこととなり、それまでにすでにある程度完成していた「九州倭国王朝」の側から見た「当初」の「原・日本紀」に、「持統紀」と「天武紀」を書き加えたのです。そして「持統紀」は「三十四年遡上」して「斉明紀」付近から持ってきているため、「森氏」によれば「特殊」であり、「β群」でありながら、字句構成は「α群」によく似ているとされています。
 「α群」から記事を切り取ってきて主要な部分を構成しているわけですから、似ているのは当然でもあるわけです。(天武紀も一部記事移動がありますが全体に亘るものではなく、後半部分のみのようです)
 このようにして、「新」「日本紀」を造ったわけですが、しかし、その付加部分の内容は「空疎」なものであり、「三十四年前」の「孝徳紀」と「斉明紀」から記事を切り取ってきて貼り付けるという手法で記事を構成しています。このため、この時代に実際に起きた出来事は(特に重要な記事は特に)ほぼ何も書かれていません。
 なぜそのようにしたか、というとそこには「重要」な事項がそこにあったが故に書かれなかったと考えられます。正確に書くと現在の自分たちの政権の「正統性」に支障となる可能性がある「事績」があったため、それを「なかったことにする」ためにそれらの事績を正確に記さず、「移動」あるいは「削除」されたと考えられます。
 
 推測すると、この時最初に書かれた(その後捨てられた)「原・日本紀」には「九州年号」が使用され、「倭国王」の正確な歴史が書かれていたと考えられます。
 「史書」の作成動機は、新王朝の「正統性」の主張に利用するものであり、「現在」の「倭国王」の権威が「弥生以来『連綿』と続く」倭国王家の正当な「権威」と「伝統」に立脚したものである、ということを明確に表現したものであったことは疑いないところです。このようなものが「持統朝廷」において造られたのは、それまでにない「首都」の移動という空前の出来事を行なったためであり、「倭国王権」の統治体制の「大義名分」を明確にするために必要であったと考えられ、「倭国王権」の及ぶ範囲が「元々」この日本列島の全てを覆っているのだ、という主張であったと思われます。
 それまで「諸国」内は、「阿毎多利思北孤」と「伊勢王」の時代に同様な趣旨の「全国再統一」事業が行われたものですが、「首都」が「筑紫」という時代に行なわれたものであり、「近畿」以東の統治は「難波」ないしは「飛鳥」という「副都」からの「統治」でした。このため、「権威」の及ぶ「範囲」と「強度」に違いがあり、もっとも強力な「統一国家」を作ろうとしたのがこの時の「持統朝」であったと考えられます。
 近畿周辺各国にしてみれば「大地震」の傷跡も癒えぬ間に劇的な政治体制の変化があったわけであり、それにより「九州倭国王」とその周辺の一握りの高貴な人たちだけが潤うと言うこととなったことに対し、反発と抵抗があったものと見られます。


(※)森博達氏『日本書紀の謎を解く-述作者は誰か』中公新書


(この項の作成日 2011/06/16、最終更新 2014/10/16)


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