ホーム :「天武紀」の出来事 :「壬申の乱」とは :


「古京」と「倭京」(一)

前へ 次へ

 「壬申の乱」の記述によると「東宮大皇弟入東国」という事態を承けて、「近江朝廷」からは「東国」「筑紫」「吉備」「倭京」という四箇所へ使者を派遣しており、そこでは「…並悉令興兵。」とされ、「軍を出動」するように指示を出したとされます。
 但し「筑紫」と「吉備」についてはその指示に従わない可能性を考慮しています。そこでは「吉備国司」として「当摩広島」の名が出されていますが、この時点では「吉備」には「惣領」ないしは「大宰」として「石川王」がいたはずであり、彼の名が出ていないのは不審ですが、彼であったとしてもやはり「命令」に随わなかった可能性があるでしょう。(彼はその後「死去記事」で「天武」から手厚い惜別の辞を受けています)
 彼らにはいざとなったら「殺せ」という指令が出されていました。それに対し、「東国」と「倭京」にはそのような強硬な態度を示していません。
 この時「倭京」には「留守司」として「難波皇子」の子供とされる「高坂王」(及び「稚狭王」)がおり、彼は「近江朝廷」からの指示に応え(使者である「穂積臣百足」と共に)「軍」を出動させ「飛鳥寺」の「西の槻の下」で「営」(屯営)していたとされます。
 つまり、彼は兄弟(多分「兄」)である「筑紫大宰」である「栗隈王」とは異なる対応をしており、指示により「軍」を出動させ「倭京」防衛体制を築いたように見られます。ただし、これは「倭京」が戦場になることを恐れたことがその理由と思われます。あくまでも「混乱」と戦火を助長することを避ける意義であったのではないでしょうか。それは「大海人軍」からも想定の範囲のことであったもののようであり、特に敵視されているというわけではありません。

 この場合の「倭京」は「書紀」の「壬申の乱」を記す他の記述から「明日香」の地全体を指すものとして使用されているようです。(「小墾田宮」をも含むか)
 ところで、「高坂王」は「倭京」の「留守司」であったわけですが、この「留守司」という呼称も重要な意味を持っていると思われます。
 一般に「留守司」とは「倭国王」が行幸等で「京師」を離れる際に文字通り「留守役」として任命されるものです。この用語がここで使用されていることから判ることは、ここでいう「倭京」が「倭国王」の「京師」(首都)であること、「倭国王」はこの時点で存在(生存)しているものの、何らかの理由により「京師」を不在にしているらしいことが読み取れます。
 「王」「皇帝」などが死去して後、次代の王などが即位しない間に「京」を預かる人間を「留守司」あるいは「留守官」「監国」などと呼称した例は後にも先にも見あたりません。このことから、この時点において「倭国王」が存在している事を示しますが、その「倭国王」とは「天武」(大海人)ではあり得ないと思われると共に、「大友皇子」でもないと思われます。それはまだ「大友皇子」の即位が行われていなかった可能性が高いからであり、そうなると可能性があるのは「天智」の皇后であった「倭姫」が即位していたという場合と、もうひとつ、まだ「天智」が存命していたという場合です。

 「大海人」は「吉野」に下る際に「天智」に対して「倭姫」を「倭国王」とし、「大友」に補佐させるという案を提示しています。これが実現していたとするなら、彼女が「倭国王」として「高坂王」を「留守司」として任命したと理解できます。ただし、その場合「倭姫」がどこにいるのかが問題となります。考えられるのは「殯宮」に籠もっているという場合です。
 「天智」の「殯」に関する記事は以下のものしかありません。

「(六七一年)十年十二月癸亥朔乙丑。天皇崩于近江宮。
(同月)癸酉。殯于新宮。…」

 その後「山陵」の造営記事らしきものがそのおよそ「半年後」の「六七二年五月」に出てきます。

「(六七二年)元年夏五月是月条」「朴井連雄君奏天皇曰。臣以有私事獨至美濃。時朝庭宣美濃。尾張兩國司曰。爲造山陵。豫差定人夫。則人別令執兵。臣以爲。非爲山陵。必有事矣。若不早避。當有危歟。或有人奏曰。自近江京至于倭京。處處置候。亦命菟道守橋者。遮皇大弟宮舍人運私粮事。天皇惡之。因令問察。以知事已實。…」

 通常「殯の期間」は「陵墓造営期間」とするとされていたようですから、この時点ではまだ「殯」の期間内であったと思われます。つまり「皇后」である「倭姫」は「殯宮」に籠もっていたという推測が可能でしょう。
 「用明紀」には「用明」の死去後「殯宮」に籠もっていた「推古」に無理に逢おうとした「穴穂部皇子」が阻止される逸話がありますが、このような場合に「皇后」は「殯宮」に籠もって「魂鎮め」「魂送り」などの霊的儀式を行うとされていたようです。この「殯宮」がどこに設けられたかはまったく「書紀」に記載がないため不明という他はありませんが、通常「死去」した場所に近いところに設けるのが常のようですが、彼の場合「死去」の場所そのものが不明です。というより、前述したように「帰国」した「薩夜麻」に面会するため「筑紫」に赴いたとも考えられるわけですから、その時点で「死罪」となったとすると「筑紫」に殯宮が設けられたでしょうし、「薩摩」へ「流罪」となったという場合は「倭姫」は後を追って「薩摩」にいったという可能性もあります。というより最初から「倭姫」と共に「薩夜麻」に面会に出かけたという可能性さえあると思われます。いずれにしろ、その間「近畿」の「宮」を空けていたわけですから、その間「留守官(司)」を指名していたと言うことと考えられます。つまり彼らは生存していた時点の「天智」から「留守官」として任命されたということと推察され、「天智」が生きている限りそのまま継続して「留守官」の地位にいたものと思料されます。(このことから「倭姫」と「大宮姫」が同一人物ではないかという可能性が出て来ます)
 

(この項の作成日 2013/06/20、最終更新 2014/05/13)


前へ 次へ
「壬申の乱」とは に戻る