伊勢神宮の「式年遷宮」は二〇一三年に行われており、それまで二十年に一度遷宮が行われ続けてきたと理解されています。確かに『皇太神宮雑記帳』などを見ると「二十年に一度」という文言が確認できますが、実体は少々異なります。 記録(『太神宮諸雑事記』)を見ると鎌倉時代までは実は「十九年に一度」の遷宮であったのです。この「十九年」という年数は明らかに「太陰暦」における「朔旦冬至」から次の「朔旦冬至」までの期間を示すものであり(これは「章」と称されていたもの)、この「朔旦冬至」という現象は旧暦十一月一日の日の出の時刻に冬至となるというものであり、このような「天体の運動」に関する事も「皇帝」の支配下にあるという中国の伝統的考え方によって「皇帝」の権威を示すものです。加えて、その「章」の期間である「十九年」という年数が「皇帝」の治世と絡めて考えられていたものであり、新しい「章」の始まりはその皇帝の「治世」がまた改めて始まるということを示すものとされ重要視されていたものです。
「書紀」の「六五九年」の年次に「伊吉博徳」が参加した「遣唐使」記事があり、そこに彼が書いた「記録」からの引用と思われる文章があり、「唐」の「宮中」で「冬至之會」が行われていたと書かれています。
当時の「倭国」においても同様に「朔旦冬至」に政治的意義を与えていたとして不思議とはいえないと思われます。
この「伊勢神宮」の式年遷宮の年数が当初十九年に一度であったということは、単に「伊勢神宮」にとってというだけではなく「倭国王権」にとって重要であったことは間違いないこととなるでしょう。
「式年遷宮」の当初の形が「十九年」に一度であったと言うことは、この「暦」における「章」の期間が意識されていたことは確実であると思われます。しかし、そうであれば単に「十九年」という年数だけではなく、「朔旦冬至」が盛り込まれていなければならないはずです。しかし「式年遷宮」の確実な最初の年次は「持統四年」とされており、これは「六九〇年」と考えられていますから、「朔旦冬至」の年ではありません。
七世紀代においては「朔旦冬至」の年は「六九七年」「六七八年」「六五九年」「六四〇年」「六二一年」「六〇二年」となっています。「戊寅元暦」が「唐」の正式な暦となったのが「武徳二年」(六一九年)とされていますから、これ以降のどこかで(「章」の持つ意義から考えて)「倭国王」の権威を示す意味でも「朔旦冬至」の年に「式年遷宮」を行うとされていたとも考えられます。
また「六四〇年」の「朔旦冬至」はさらにその日が「甲子」であるという「甲子朔旦冬至」という非常にまれな日でした。「甲子」は「暦」の(干支の)始まりであり、そのことから「皇帝」の「治世」の始まりと関連して考えられ、特別な意味合いを持たされていたのです。そう考えれば「少なくとも」この「六四〇年」という年次には「式年遷宮」が行われたと考えるのが正しいと思われます。
そう考えると、「書紀」などに書かれていない年次に「式年遷宮」が行われていたと言うこととなりますが、これは記録から漏れていると言うより、実際に行われた年次から移動されているという可能性があるのではないでしょうか。
『太神宮諸雑事記』などに書かれた内容を見ると「天武」「持統」など「漢風諡号」で書かれており、「元々」の「浄御原天皇」などの名称を「解釈」して書き換えているという可能性があります。これは『三国仏法伝通縁起』など多くの史料に見られるものであり、その解釈を無批判には受け入れられません。
「天皇名」は本来統治の期間多く所在した「宮名」と「天皇」という号名ではなかったかと思われ(それは「元正」の遺詔にもあり、彼女は「…謚号稱其國其郡朝庭馭宇天皇。流傳後世。…」と述べています。)、「天武」や「持統」というようなものではなく「飛鳥浄御原宮治天下天皇」「藤原宮治天下天皇」などという名称が採用されていたと思われます。
このような元々の名称を「書紀」などの記述と照らし合わせて解釈しているものと見られ、それは「書紀」「続日本紀」に記事移動があると見られる現状では素直に受け入れられないものであるといえます。
後でも述べますが、「書紀」においては「年次」の移動が推定されており、さらに「六九〇年以降」と「六八九年」以前ではその移動年数に差があることが推察されています。
「六八九年」以前では「三十四年」の遡上と思われるのに対して、「六九〇年以降」ではちょうど「五十年」の移動が措定されます。
これを「持統紀」の「式年遷宮」に適用してみると「六四〇年」となって、上に見た「甲子朔旦冬至」の年である「六四〇年」に合致します。
この年に第一回の式年遷宮があったとすると、上に見たようにこれが「倭国王権」に深く関係していると考えると、
あるいは「伊勢神宮」と「倭国王権」の関係が緊密になったのがこの時期であったと云うことかも知れません。
この年次付近の当時の「倭国王」は「利歌彌多仏利」であったと推察されますが、彼の病とその死によって「皇后」が「太皇后」として政権運営に携わっていたとも考えられ、彼女が「伊勢神宮」へ助力を求めたという経緯があった可能性があります。そうであれば「王権」として「伊勢神宮」のいわば「直轄」がこの時以来行われるようになったと云うことも考えられるでしょう。(「持統」の「伊勢行幸」が式年遷宮に関連していると言うことも考えられます。この行幸も「五十年」の移動の可能性を考えるべきであり、その場合「六四〇年代」のこととなります。
「(持統)六年(六九二年)…
二月丁酉朔丁未。詔諸官曰。當以三月三日將幸伊勢。宜知此意備諸衣物。賜陰陽博士沙門法藏。道基銀人廿兩。
乙卯。詔刑部省。赦輕繋。是日中納言直大貳三輪朝臣高市麿上表敢直言。諌爭天皇欲幸伊勢妨於農時。
三月丙寅朔戊辰。以淨廣肆廣瀬王。直廣參當麻眞人智徳。直廣肆紀朝臣弓張等爲留守官。於是。中繩言三輪朝臣高市麿脱其冠位。■上於朝。重諌曰。農作之節。車駕未可以動。
天皇不從諌。遂幸伊勢。」
このように強く反対するものもいる中で「伊勢」へ行幸したわけですが、これは「三月三日」という日付からも明らかなように「河」で「沐浴」などをして「汚れを祓う儀式」を行うためであり、それは「伊勢神宮」への祭祀の一環であったという可能性があるでしょう。
「伊勢神宮」はそれ以前から「日神」として「奉祭」されていたものと考えられます。
たとえば「用明前紀」に見られるように「皇女」が「三十七年間」「日神」に「奉仕」していたとされています。
(用明前紀)
「詔曰。云々。以酢香手姫皇女拜伊勢神宮奉日神祀。是皇女自此天皇時逮干炊屋姫天皇之世。奉日神神祀。自退葛城而薨。見炊屋姫天皇紀。或本云。卅七年間奉日神祀自退而薨。」
ここでは「日神」が「伊勢神宮」の主神である事が明示されているわけであり、「日神」であるならば「正月朔日」の「旦」(初日の出)を遙拝する儀式を行っていなかったはずがなく、「元日朝拝」という儀式は古来(六世紀代)から行われていたものと考えて間違いないでしょう。しかし、太陰暦に基づいて「朔旦冬至」の儀式をも行っていたとは考えにくく、それが「定例化」されたのは七世紀第二四半期のことではなかったかと考えられるものです。
(この項の作成日 2014/08/31、最終更新 2014/11/17)