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双方の軍勢と「軍防令」について

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 「壬申の乱」では双方「数万」という軍隊同士が正面から衝突したものであり、このような戦いにおいては「双方」に共通の「軍制」があるものと推量します。
 『「難波朝」と「軍制」』の項でも触れたように、この当時既に「軍防令」と思しきものが存在していたと考えられ、双方の勢力はこれに則って編成されていたものと推量します。
 たとえば、「壬申の乱」の際の「将軍」に関する記事を見てみると、以下の文章があります。

「…遣山背部小田。安斗連阿加布。發東海軍。又遣稚櫻部臣五百瀬。土師連馬手。發東山軍。…」

 ここでは、「東海道」への軍も「東山道」への軍も「二人」の人名が書かれています。「軍防令」によると「将軍」の率いる「軍」の「兵員数」が「一万人以上」の場合には「副将軍」が二人、五千人以上一万人以下では「副将軍」は一名に減員されるとされていました。
 この事から考えて、これら二名の人名は各々「将軍」と「副将」という組み合わせと考えられ、その各兵員数は「五千人以上」「一万人未満」であると推定されます。可能性が高いのは当時の「軍団」の規定人数と考えられる「九千人」という兵員数であり、もしそうであったとすると合計一万八千人程の兵員で「東海道」と「東山道」を押さえさせたこととなります。
 この両軍については「体系」の「注」のように「東海道」「東山道」諸国から「徴発」した軍勢と解釈する考え方もあるようですが、これは逆に「不破」から発せられたものであり、「東海」「東山」両官道を移動する「近江方」の「東国軍」を牽制するためのものと考えられるものです。それは「近江朝廷」側に、「東国」に逃げ込もうとするものがいたとする以下の記事からも推察できるものです。

「是時。近江朝聞大皇弟入東國。其群臣悉愕。京内震動。或遁欲入東國。或退將匿山澤。…」

 「東国」から軍勢が来るという状況であるのに、その「東国」に逃げ込もうというのは「矛盾」を示すものであり、この記述は彼らの「本拠」或いは中心勢力が本来「東国」であることを示すものです。

 また、以下の記事によると「別將及軍監」を選定したとされています。

「…是時。三輪君高市麻呂。鴨茂君蝦夷等。及羣豪傑者。如響悉會將軍麾下。乃規襲近江。因以撰衆中之英俊爲別將及軍監。…」

 これによれば、新たに「別將及軍監」を指名しており、「軍防令」では「兵員数」が「五千人以上」の時に「軍監一人」とされていますから、この記事からは「当初」は「五千人以下」であったものが、敵側から寝返った「三輪君高市麻呂。鴨茂君蝦夷等。」の軍が合流したことにより、「五千人以上」に増えたことを示していると思われます。そのため「別将」(これは「副将」にあたるものでしょう)及び「軍監」を選定したと言う事と理解されるものです。

 また「軍防令」では「兵満一万人以上将軍一人。副将軍二人。」としか規定されていません。以下の文章からは「伊勢」と「不破」の軍は各々「将軍」が四人いるようですが、これについては「一万人以下五千人以上」の場合の「将軍」「副将」各一人という場合編成が「二軍」いたものと考えるべきか、それぞれが「将軍」で計四軍あったと考えるべきかやや悩みます。
 「三軍」以上の編成であれば「大将軍」が一人任命されているはずですが、それは見あたりません。しかし、「数萬」という言い方からは「五萬」前後の総勢であったことが推定され、そうすると各軍一万人以上はいたと見られます。(一軍のみ二萬近くの勢力で残りは九千人程度とも考えられますが)
 
「秋七月庚寅朔辛卯。天皇遣紀臣阿閇麻呂。多臣品治。三輪君子首。置始連菟。率數萬衆。自伊勢大山越之向倭。且遣村國連男依。書首根麻呂。和珥部臣君手。膽香瓦臣安倍。率數萬衆。自不破出。」

 これによれば「各軍」が「伊勢」と「不破」から、「近江」に向けて進撃したと言う事を示すと考えられます。そして、さらに当初発せられたこれらの「東海」「東山」二軍の「兵員」に以下の「尾張」の兵が合流したものと見られます。

「尾張國司守小子部連鋤鈎率二萬衆歸之。天皇即美之。分其軍塞處處道也。」

 ここにも「二萬衆」というように書かれていますから、「二軍編成」であったと見られ、各軍九千人を超える程度の勢力であったと思われます。

 この戦闘の描写中「甲斐」の将兵が出てきます。また他の資料には「信濃兵」という言葉もあり、「東海道」「東山道」諸国から援軍が来ているようにも見えますが、この地域から本格的に「軍」が編成されたとしたら「二万」をはるかに超える「軍団」が参加するはずと考えられるわけであり、この「兵員数」はそれらの地域の「一部」からしか来ていないことを示すものです。
 
 「高市皇子」に関する文章として「先遣高市皇子於不破。令監軍事。」という部分があり、ここで使用されている「監軍事」という言葉から、「高市皇子」は「将軍」ではなく「軍監」であったことが分かります。この「軍監」とは「軍団」では「将軍」「副将」に次ぐ位の存在であり、「軍」の進退などを監督し、また「戦い」が終った後には「論功行賞」などを行なったり、「敵味方」の「不法行為」(敵前逃亡なども含むか)などを摘発する役目などといわれ、後の「軍目付(いくさめつけ)」に相当するものです。
 ただし、いずれにしろ「軍」における1ではなかったと見られ、そのような立場に置かれなかったのは彼の「年齢」から来るものであったと思われます。(当時十九歳と見られ、「未成年」です)
 また、この「不破」の部隊には「軍監」として「高市皇子」一人がいたように理解されますから、兵員数としては「五千人以上一万人未満」であったと推量され、これもまた「九千人」であったものでしょう。

 また、対する近江方も同様に軍防令に則って隊を編成していたものと見られます。

「…時近江命山部王。蘇賀臣果安。巨勢臣比等。率數萬衆將襲不破。…」

 「近江方」も将軍三人で数万の兵員とされていますから、これも三軍構成であったと見られます。また、「副将」の存在が書かれていませんが、そのネームバリューからも各々が将軍であったと考えられ、各九千人で少なくとも二万七千人いたものと推定できます。

 これらのいずれも「軍防令」の規定がこの段階で既に機能していることを示すものでもあります。これは既に考察した「難波朝」の軍制という中で言及していますが、この「壬申の乱」をかなり遡上する段階で「軍制」ができていることから来る当然の帰結であり、この「壬申の乱」ではそれに則り双方が軍を構成していたことが推察されるものです。

 また、「壬申の乱」の際の双方の軍勢を見てみると、双方の軍勢に地域的偏りがあるのが分かります。たとえば「反近江朝廷」側の構成を見てみると「高市皇子」がおり(彼は「宗像の君」の「孫」です)「大分の君」、「筑紫太宰」という肩書きの「栗隈王」、彼の息子という「美濃(三野)の君」、さらに、「吉備太宰」という肩書きの「当摩の君」があり、「伊勢国司」という三宅連、他にも上毛野君、丹比君、対馬国守、難波吉士、出雲臣、三輪君、紀臣、というように「九州」から「瀬戸内」、「近畿」、「東国」など広範囲に渡っていることがわかります。これに百済王「善光」などの有力な渡来系氏族も合流し、これに「宗像氏」と友好関係にある「阿曇勢力」も加わったであろう事を推察すると、大変強固なものになったと考えられ、この勢力をよく見ると、「反近江朝廷側」は「西日本中心」の「旧倭国勢力」と言って良い喪であると思われます。
 それに比べると「近江朝廷側」の顔ぶれは、広範囲な地域を制圧しているようなものではなく、「蘇我」「大伴」や「物部」など「親近畿王権」勢力が中心であり、わずかに「壱岐史」「伊那の君」「若狭王」「羽田の君」などがいましたが、この後「羽田の君」や「若狭王」などは「寝返って」しまい、戦いは一気に決したものです。
 陣容から見ても「壬申の乱」は「倭国勢力」が圧勝し、その結果「薩耶麻」が「倭国王」である体制が継続することとなったと思われます。
 

(この項の作成日 2010/12/29、最終更新 2013/09/02)


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