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「薩夜麻」の帰国と近江朝廷

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 「六九〇年」に「大伴部博麻」が帰還したときの「持統天皇」の詔によると、彼が捕虜になったのは「斉明七年の百済を救う役」となっており、これは通常「六六一年八月」に出兵した「阿曇比邏夫」等が率いる遠征軍を「百済」に派遣した際の戦闘と思われていますが、この戦いは「百済」が「唐」と「新羅」の連合軍により包囲され、壊滅的打撃を受け「滅亡」することとなった時点の「直後」を意味するものと考えられ、この時の戦いで「大伴部博麻」が捕虜になったとされているわけですが、彼と一緒にいたとされる「薩夜麻など他の四人」もこの時点で同様に「捕虜」となったという可能性が示唆されます。
 つまり、彼等は「白村江の戦い」で捕虜になったのではなく、その前々年にすでに「捕虜」になっていたのではないかと推察されるのです。

 「書紀」によれば「阿曇連比羅夫が軍船一七〇隻を率いて豊章を百済に送り『勅』して百済王位を継がせた」とあります。これは上に見たように「旧唐書」や「資治通鑑」の記載などから、「百済」滅亡後まもないことと推測され、「六六〇年」の「冬」であったのではないでしょうか。そして、この「書紀」の記事から判断して、ここで「勅」するという用語が使用されており、そのようなことができるのは「倭国王」だけですから、このときは「阿曇連比羅夫」に同行する形で「筑紫君薩夜麻」が「軍船一七〇隻を率いて」「親征」したものと考えられます。
 以下その前後の事象を「書紀」により時系列に並べたものです。

「斉明六年」(六六〇年)七月または八月 唐・新羅の連合軍により百済滅亡
「斉明七年」(六六一年)八月。遣前將軍大華下阿曇比邏夫連。小華下河邊百枝臣等。後將軍大華下阿倍引田比邏夫臣。大山上物部連熊。大山上守君大石等。救於百濟。仍送兵杖五穀。
「天智称制元年」(六六二年)夏五月。大將軍大錦中阿曇比邏夫連等。率船師一百七十艘。送豐璋等於百濟國。宣勅。以豐璋等使繼其位。又予金策於福信。而撫其背。褒賜爵祿。于時豐璋等與福信稽首受勅。衆爲流涕。

 この「天智称制元年」の記事の文章を素直に読めば、この時この場所に「倭国王」がいたことが理解されるものです。ここに書かれた「阿曇比羅夫」の動作(「送る」、「勅」するあるいはその「勅」を「宣する」、「継がせる」「撫でる」「褒める」「賜う」などの動作)は、その内容を考えると、その動作の「主体」が「至高」の存在であると考えられるものであり、「阿曇比羅夫」が「成り代わって行った」というよりも、「倭国王」本人が行なったという可能性が高いものと考えられます。
 「阿曇連比羅夫」は「筑紫君薩夜麻」直属の部下でありまた「盟友」であったと考えられ、彼らは共同してこの闘いに臨んだものと思われます。(推測するとこの時「薩夜麻」は二十歳前後の若者と考えられ、「阿曇比羅夫(漢皇子)」は四十代半ばぐらいではなかったかと考えられ、亡き父「伊勢王」から「薩夜麻」のサポートを頼まれたのではないかと思慮されます。)
 
 「漢皇子」(阿曇比羅夫)は「百済を救う役」という国難にあったときに「前軍」の大将としていわば「切込み隊」のような役目を負って、自ら戦地へと赴いたのですが、それは同じように先頭を切って戦いに参加した「薩夜麻」をサポートするためであったと思われます。しかし、戦いに負け、「薩夜麻」も捕虜にされてしまったわけです。
 その後「六七一年」になって「捕囚」の身となっていた「薩夜麻」が帰国します。彼が帰国したことが当時の倭国内に「激震」をもたらしたのは間違いないと思われます。

「書紀」では「天智十年十一月」に「薩夜麻帰国」の記事があります。

天智十年(六七〇年)十一月甲午朔癸卯。對馬國司遣使於筑紫太宰府言。月生二日。沙門道文。筑紫君薩夜麻。韓嶋勝娑婆。布師首磐。四人從唐來曰。唐國使人郭務■等六百人。送使沙宅孫登等一千四百人。合二千人。乘船册七隻倶泊於比智嶋。相謂之曰。今吾輩人船數衆。忽然到彼恐彼防人驚駭射戰。乃遣道文等豫稍披陳來朝之意。

(この時派遣された「唐使」以下の「六百人」は「唐人」であり、「送使沙宅孫登」以下の「一千四百人」は「百済人」と考えられ、いずれも「熊津都督府」から差し向けられた人員と考えられます。また先述したようにこれらの人員はほぼ全員「戦闘員」と考えられ、「平和目的」とばかりは言えないと考えられるものです。)
 この「薩夜麻」の帰国に関して「近江朝廷」からは何のコメントも出ていません。「六九〇年」に帰国した「大伴部博麻」や「八世紀」に入ってから帰国した人物など、この「白村江の戦い」や「百済を救う役」などで「捕虜」となった人物達の帰国に際しては「顕彰」する「詔」と共に「多大な褒賞」が与えられています。であるとすれば、帰国した「薩夜麻」にも同様に「褒賞」なりが与えられたり、その長期の「捕囚生活」をねぎらう「詔」が発せられても良さそうなものですが、それらは「全く」記載されていません。
 「百済を救う役」及びそれに続く「白村江の戦い」で捕虜になった人物で「君」の称号で呼ばれるような「高位」の人物の帰還はこの時点では(以後も)彼が初めてです。であれば、「王」とか「天皇」とかの「最高責任者」がその帰国を歓迎しないのはあり得ないものと思われます。しかし「書紀」では「一切」それらについては触れられていません。しかし「何も記載されていない」事が「薩夜麻」に対する「ただならぬ」扱いを示すものでしょう。

 「書紀」には何も記載されていないわけですが、実際にはこの時「天智天皇」は「筑紫」に「薩夜麻」を歓迎するために「本人」が直接「筑紫」へ向かったのではないかと思われます。少なくとも彼の帰国を無視して、何の意思表示もせず「近江」に居続ける事はできなかったでしょう。そしてそれは「天智」にとって厳しい現実となるであろう事が予想できたものと思慮されます。
 それを示すものと思われるのが、「帰国記事」の「直後」の記事である、「書紀」の十一月「丙辰」(二十三日)と思われる条の記事です。

天智十年(六七〇年)十一月丙辰。大友皇子在内裏西殿織佛像前。左大臣蘇我赤兄臣。右大臣中臣金連。蘇我果安臣。巨勢人臣。紀大人臣侍焉。大友皇子手執香鑪先起誓盟曰。六人同心奉天皇詔。若有違者。必被天罸。云々。於是左大臣蘇我赤兄臣等手執香鑪隨次而起。泣血誓盟曰。臣等五人。隨於殿下奉天皇詔。若有違者。四天王打。天神地祇亦復誅罸。卅三天證知此事。子孫當絶。家門必亡。云々

 ここでは、「大友皇子」が「右大臣」「左大臣」など重要閣僚を集め、「泣血誓盟曰」をしていますが、そこには「天智」が存在していません。
 また、ここで彼らが行った、「天智」の「詔」を互いに奉じる事を確認するために行った「誓いの儀式」は、はなはだ「異例」であり「異常」と思われます。これは「手に香廬」を持って、と表現されているように「天智」が死去したか、すでに死を覚悟して「近江」を離れたかどちらかの状況であったと考えられ、「大友皇子」に何らかの「遺詔」を残していったものと推察されます。
 ちなみにここで彼等が「泣血誓盟曰」を行った「内裏西殿」については、後の「平安京」では「安福殿」という「医師」などが待機している「薬殿」が「紫宸殿」の南庭の西にあったとされており、ここが「西殿」と呼ばれていたものです。ここでも同様に「医療」に関係した場所ではないかと思われ、「天智」の健康に異常があったことを「示唆する」ために書かれたものと推察されます。(実際に死去したかどうかはともかく)

 「薩夜麻」が「対馬」に到着したことを「対馬」から「筑紫太宰府」へ知らせてきたのが「天智十年十一月十日」であったと思われ、「大友皇子」等の「泣血誓盟曰」はこの二週間足らず後のことです。これについては「山陽道」を使用して「早馬」により「筑紫」から「近江」へ知らせが来たものでしょう。これに対する「措置」というのが「泣血誓盟曰」というわけですから、早々に「天智」は「近江」を離れているものと考えられます。
 この後「十二月三日」に死去した、という記事になるわけですが、それはこの「泣血誓盟曰」からわずか「一週間後」の事であり、「天智」の運命に「薩夜麻」が深く関わっていると考えるのは当然と言えるものです。


(この項の作成日 2011/01/16、最終更新 2012/05/08)

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