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「千躰仏」と「三十三間堂」

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 前述したように「法隆寺」は「南朝尺」で造られている事が明確になっています。また「大宰府政庁」や「観世音寺」の遺跡から判断して、これらの建物も同様に「南朝」の「法式」で造られていることが分かります。
 このことは「法隆寺」が元々あった場所を如実に示していると考えられ、やはり「移築元」としては「観世音寺」ではないものの、同じ「筑紫地域」の建物を想定する必要がある、ということになるということと思われます。
 しかし、では「観世音寺」が「法隆寺」と全く関係がないか、というとそうではないと考えられます。それは「千躰仏」を収容する「大房」が「観世音寺」にあったと考えられるからです。

 「観世音寺」には「大房」があったとされ、それを示す「基礎」が残っています。
 「観世音寺」の発掘調査により東西三十三間(103.8メートル)×南北四間(10.2メートル)の東西に非常に細長い礎石が確認されており、これは平安時代に書かれた「観世音寺資材帳」に記載されている「大房」寸法とほぼ近似するものです。そこには「長三十四丈二尺」「廣三丈五尺五寸」と記されており、これは「曲尺」と考えられ、メートル法で表示すると「103.6メートル」と「10.8メートル」となり、これは発掘の結果の数字とおおよそ近似していると言えるものです。
 また、「養老絵図」という「絵図」にも「観世音寺」の姿が書き残されていますが、その中にも「長大」な「堂」のようなものが描かれています。そして「観世音寺資材帳」によればこの堂が該当すると思われる「大房」の中に「千躰仏」があったとされているのです。
 
 「千躰仏」というと「孝徳紀」に「千躰仏」に関する記事があります。そこでは「難波宮殿」建設の際に「山口直大口」が「奉詔」して「千躰仏」を刻んだとされています。

「白雉元年(六五〇年)…是歳。漢山口直大口奉詔刻千佛像。…」

 彼は「法隆寺」の「金堂」内陣の「四天王像」(広目天)の「光背」に作者としてその名がある人物です。
 さらに、「法隆寺」の「玉虫厨子」に「千躰仏」が「レリーフ」されています。「玉虫厨子」は「金堂」の完成模型という説もありますが、実際の「金堂」には(法隆寺全体としても)「千躰仏」はありません。このことからこの「千躰仏」がどこにあるかが問題となっていたのです。
 この「白雉元年」記事はこの年に刻んだのか、刻むよう詔勅がでたのかやや曖昧ですが、文意としては「是歳」は「刻」むという動詞に係っていると考えられ、そうであれば、それ以前から出ていた「詔」により「千躰仏」を刻み終わったのがこの年であったと考えられます。つまり「完成年次」を示すものと考えられるものです。
 「千躰」の仏像を刻むのにどれだけの時間を要するか定かではありませんが、「三十三間堂」の場合、後の「戦禍」(源平の合戦)にあった際に復興事業として「千躰仏」の再作製が行われました。(実数は八百程度か)その時点で造られた「仏像」の銘を見ると仏師一門総出で行っているようであり、それでも十数年を要したとされていますから、「白雉元年」の際にもやはり同程度の年数を要した可能性があるでしょう。(たとえば千体作成するためには十人が各々年間十体作製しても十年かかるわけです)
 この「千躰仏」作成は、その趣旨から考えて「阿毎多利思北孤」が健在であった時点から刻み始めたと考えられ、「元興寺」創建と同時点で製作が開始されたと見ることができるでしょう。つまり、当初の設計にあったという可能性が高いと思われます。そうすると「六〇七年」とされる「元興寺」創建から十数年後の完成と考えると、およそ「六二〇年前後」が想定され、「書紀」の記事が「一世代分」ずれているという可能性が高いと思料されます。
 また、この完成が「書紀」の言うように「六五〇年」であったとすると、この時点では「観世音寺」は「まだ存在していない」わけですから、納められる道理がなく、この「千躰仏」は「元興寺」つまり後の「法隆寺」に(予定通りに)入ったと考えられ、「観世音寺」に「千躰仏」が入るのはその後のことと思料されます。(つまり、「観世音寺」に「千躰仏」が入ったのもまた「移築」であったものと考えられるものです)

 前記「米田氏」の研究では、「京都」に所在する「三十三間堂」は元々「観世音寺」にあったとされており、そこで使用されている「寸法」(尺)も「法隆寺」に使用されているものと同基準であるとされています。
 先に計算したように、「三十三間堂」は「南朝」の「三等材」が使用されていると考えられ、「法隆寺」の中の「大房」であったとすると理解できる基準長と思われます。
 
 「法隆寺」と「筑紫都城」とは深い関係があり、「筑紫宮殿」が当初「都城」の中心部付近に造られたことが推定されていますが、それはまた「勅願寺」と推定される「法隆寺」(というより「元興寺」)もまた「都城」の至近に造られた事を意味します。
 この段階で「千躰仏」が刻まれ、「元興寺」の寺域内に「大房」が造られ、その中に納められたと推定されますが、「七世紀」半ばになり、「難波副都」が造られる際に、「筑紫都城」の改修と拡大が行われることとなり、「宮殿」を「拡張都城」の北辺に移動し、「元興寺」の「大房」もそれに併せ「新都城」の「北東隅」に先行して移築された時点で、「半島」の情勢が急展開し、中途で止まってしまったと見られます。
 それに対し「観世音寺」の建設は、それとほぼ時を同じくしてこの「筑紫」で亡くなった「斉明」の「菩提」を弔うためとされ、「六六〇年」付近にその作業が開始したものと考えられています。
 その際、「天智」はその「移築」されていた「大房」の中の「千躰仏」に目をつけ、それを取り込んだ形で「観世音寺」を造ろうとしたものではないでしょうか。

ところで「二中歴」に書かれた「天王寺」と「観世音寺」に関する記事には明白な違いがあります。
まず「天王寺」の場合、以下のように書かれています。

「倭京五戊寅(六一八〜六二二)(二年難波天王寺聖徳造)

そして、「観世音寺」の場合

「白鳳二三辛酉(六六一〜六八三)(対馬採銀観世音寺東院造)

上に見るように表現方法が両者で異なっています。
 「観世音寺」記事の方では「筑紫」という地名が入っていません。それに対し「四天王寺」は「難波」という地名が入っています。
 このことは、この「二中歴」の原資料となったものの成立時点では、「筑紫」は「言うまでもない」ものであり、何もつけなければ「筑紫」のことを意味したものと思料されます。それに対し「筑紫」以外の地についてはその「地名」を前置すると言うことが必要であったと考えられ、そうであれば「難波」が「筑紫」以外の土地であることの証明とも言えます。
 もしこれが「近畿中心」の視点で書かれていたとすると「観世音寺」には「筑紫」と前置きし、「天王寺」(四天王寺)には何もつけない、という事となったはずと思われます。実際にはその「逆」になっているわけですから、「視座」の中心が「筑紫」にあることは明白です。
 このような記事の書き方は「筑紫」に日本の中心があった時代の名残をとどめる資料が「二中歴」の原資料となったものであることを意味するでしょう。

 また、「天王寺」記事の方は、明らかに「聖徳」という人物(これは「利歌彌多仏利か」)が「天王寺」を造ったと判断できるわけであって、それはとりもなおさず、「観世音寺」の方の記事においても「東院」が「観世音寺」を造ったという記事であると判断されることとなります。もしこれを「観世音寺」の「東院」が造られたと「受け身」で判読するなら、ここには造った「主体」が書いていないこととなります。
 「日本帝皇年代記」などもそうですが、「寺院」の創建については必ず「主体」となる人物や組織が存在し、それが明記されるものです。この「東院」を人物と想定しないかぎりその創建の主体が不明とならざるを得ず「不審」というべきです。また、「東院」以外はいつ造られたのか「二中歴」では何も語っていないことにもなるでしょう。それは明らかに「不自然」です。この事は「東院」が「聖徳」同様、個人名であり、また「聖徳」が「利歌彌多仏利」の「法号」である可能性が指摘されているところから、この「東院」についても同様であると考えられるものです。
 この「院」という「称号」が「出家」した「天子」や「天皇」を指す用語と考えられることも(法王「法皇」と同じものと考えられます)、「東院」が「法号」であることを示唆しています。
 ところで、「観世音寺」創建に関する他の資料では全て「天智」の発願とされています。それはとりもなおさず、この「東院」が「天智」を指す事を意味するものであり、「東国」に支援勢力があった「王権」の「王」であったと考えられる「天智」について「東」という単語が使用されているのも首肯できるところです。

 「書紀」等にはありませんが、「天智」も深く仏教に帰依していたものと考えられ、そのために「三十三間堂」を「観世音寺」に移築するという事業を実施したとも考えられます。
 彼は「三十三間堂」に展開されている「法華経世界」を深く理解していたからこそ、これを熱望したのではないでしょうか。しかし、「薩夜麻」帰国後(「書紀」によれば)「天智」は死去し、その後「壬申の乱」により再度倭国王として「薩夜麻」が君臨する事態となったため、「観世音寺」については工事が停止され、与えられていた「寺封」についても停止されたと思われます。
 自らの「宮殿」の至近に、「反乱」を起こした側の「シンボル」たる「寺院」が存在するのを認めることは出来なかったものでしょう。


(この項の作成日 2003/01/26、最終更新 2013/07/29)


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