ホーム :七世紀の倭国の外交と遣唐使 :「唐」・「新羅」との戦いについて :


「白村江の戦い」に至る経緯とその原因

前へ 次へ

 「半島」の政治情勢については以前から「三国」が相互に侵略を繰り返す不安定な情勢が歴年続いていましたが、「六四二年」になって、「百済」の「義慈王」と「高句麗」の「淵蓋蘇文」との間に「麗済同盟」が締結されます。これは、特に「対新羅」に重点を置いて結成されたもので、相互防衛条約とでも言うべきものであり、互いに軍事行動を起こした際には共同してこれにあたる、という内容であったようです。これにより、直接攻撃の矢面に立たされることとなった「新羅」の「善徳女王」は「唐」に援軍を求め、後に「唐羅同盟」が結成されることとなります。
 倭国は唐使「高表仁」との折衝に失敗し、「唐」との関係が緊迫化して以来国交が途絶えており、結果的に「百済」に偏した外交となっていたため、これら半島各国と「唐」との間の緊張関係の高まりが「倭国」に及び、その結果「新羅」と「唐」を敵に回す可能性が出て来たのです。
 倭国は「高表仁」の事件以来の「唐」との関係を「緩和」させる必要が生じ、それまで絶えていた国交を回復させ、正常化させようとしたものでしょう。その「仲介役」を新羅に依頼しようとしたのだと考えられます。新羅も「倭国」を「麗済同盟」に組み込ませないようにするために、「唐」との仲介に乗り出したものと考えられます。

 「六四六年」になり「利歌彌多仏利」と考えられる「倭国王」が死去し、それを知らせる「使者」(高向玄理)を「新羅」に送り、翌年葬儀のため来倭した新羅の「金春秋」をもてなし、「新羅と起居を通じ」と旧唐書に書かれたように「新羅」に対し友好関係回復のメッセージを送り、あわせて、「金春秋」に「表」(国書)を託し、「新羅に表を付して唐に使いを送」ると「旧唐書」にあるように「唐」との橋渡しを頼んだ訳ですが、「倭国」側の意図通りに進んだかは疑問であり、この直後には「唐」・「新羅」との関係の緊張緩和が大きく進んだようには読み取れず、これらの目論見は不調に終わったと判断されます。
 それは仲介を依頼された「新羅」との関係がそもそも良好なものにならなかったからと考えられ、「金春秋」と「高向玄理」との個人的友好関係以上には発展しなかったものと判断されます。その原因としては「利歌彌多仏利」を継いだ新「倭国王」のプライドの高さに「新羅」側としては辟易したのではないかと思えます。
 この「新倭国王」は「高表仁」と「礼」を争ったと伝えられる「倭国王子」本人と考えられ、このことからもその性格がかなり「高慢」なものであったものと想像されるものです。そして、そのことがその後の対新羅関係の悪化の一因とも思われます。

 「唐」は「麗済同盟」に対抗するため「新羅」との間に「唐羅同盟」を結び、「百済」や「高句麗」の動きに神経をとがらせていました。そして「六五九年正月」になると新羅王「金春秋」から「麗済同盟」による攻撃を受けた連絡があり、唐は「程名振」「蘇定方」らを遣わして「高句麗」を攻撃させています。
 このように朝鮮半島では「唐」と連係した「新羅」の勢力が非常に強くなり、「六六〇年」には「唐」「新羅」連合軍により実質的に「百済」という国は滅んでしまいます。これに対し倭国は、「百済」が滅亡の危機にさらされた時点から既に「連合」して「唐」「新羅」との戦いに臨んでいたと思われる訳ですが(「百済禰軍墓誌」などに明らか)、「初戦」で「倭国王」(薩夜麻)が捕囚になるなどの大敗北を喫し、ますます「引くに引けない」状態となってしまっていたものです。
 「九州倭国王朝」では「宋書倭国伝」に記載されている「武」の上表文などで明らかなように、戦いの際には王とその嫡男は先陣を切って戦いに臨む風習があり、当時の倭国王と考えられる「薩耶麻」はそれを実践したのでしょう。(彼自身は未成年であり子供はこの時点ではいなかったと思われます)
 さらに、「旧百済」国内の各地に分散していた「百済」の遺臣が挙兵したのに併せ、倭国に人質としてきていた「百済王子」「扶余豊」に軍隊をつけて送り、「新百済王」として擁立しようとしたのです。

 ところで、この「扶余豊」という人物については「義慈王」の子供であり、「質」として「倭国」に送られてきたのが「六三一年」とされます。しかし、「義慈王」が「百済国王」となったのは「六四一年」であり、それから考えると「扶余豊」が「質」とされたのは「皇太子」時代のこととなります。しかし、人質はそれなりに位の高い人物でなければならず、現国王の「孫」というのではそれこそ多数に上る訳ですから、ある程度相手国の政治的行動範囲を制約せざるを得なくなるほどの近親の人物でなければ「質」としての意味がないと思われます。そう考えると、「義慈」が「百済王」となった時期(六四一年)という段階以降に「倭国」へ「人質」を差しだしたと仮定しなければ不合理と言えるものではないでしょうか。 その場合であれば「新百済王」としての「倭国重視」というその後の大動乱につながる政治的スタンスが良く理解できることとなるでしょう。その場合、可能性としてはこの「百済王子豐章爲質」記事は「義慈王」即位時点付近の記事という可能性も考えられます。その場合は「十〜十二年ほど」の年次移動が行なわれているという可能性があることとなります。
 また「三国史記」の「義慈王十三年」(六五三年)に「倭国」と「通好」したという記事があり、この時点で「質」として来倭したという可能性を考える向きもあるようですが、ここで云う「通好」、つまり「よしみ」を「通わせる」という記事が具体的に何を意味するかと云うことが不明な訳であり、「人質」を差し出すというようなことを意味するとは断定できません。たとえば、それ以前にも「百済」が「高麗」と「通好」したという記事がありますが、「義慈王」が「高麗」に「人質」を出していたという記録は見あたりませんから、「倭国」との「通好」も「人質」ではない別の何かを意味すると云えるのではないでしょうか。
 それを僅かに示唆するのが「書紀」に出てくる「百済」からの「弔使」記事であり、その人数が「六五三年」以降「一〇〇人以上」と大人数となっているのが注目されます。

「(斉明)元年(六五五年)秋七月己已朔己卯条」「於難波朝饗北北越。蝦夷九十九人。東東陸奥。蝦夷九十五人。并設百濟調使一百五十人。…」

「同年是歳条」「高麗。百濟。新羅。並遣使進調。百濟大使西部達率余宜受。副使東部恩率調信仁。凡一百餘人。蝦夷。隼人率衆内屬。詣闕朝獻。新羅別以及■彌武爲質。以十二人爲才伎者。彌武遇疾而死。是年也太歳乙卯。」

「(斉明)二年(六五六年)是歳条」「於飛鳥岡本更定宮地。時高麗。百濟。新羅。並遣使進調。爲張紺幕於此宮地而饗焉。遂起宮室。天皇乃遷。號曰後飛鳥岡本宮。…西海使佐伯連栲繩。闕位階級。小山下難波吉士國勝等。自百濟還獻鸚鵡一隻。」

「(斉明)三年(六五七年)是歳条」「使使於新羅曰。欲將沙門智達。間人連御廐。依網連稚子等。付汝國使令送到大唐。新羅不肯聽送。由是沙門智達等還歸。西海使小華下阿曇連頬垂。小山下津臣傴僂。傴僂。此云倶豆磨。自百濟還獻駱駝一箇。驢二箇。石見國言。白狐見。」

「同年是歳条」「越國守阿部引田臣比羅夫。討肅愼。獻生羆二。羆皮七十枚。沙門智踰造指南車。出雲國言。於北海濱魚死而積。厚三尺許。其大如■。雀喙針鱗。々長數寸。俗曰。雀入於海化而爲魚。名曰雀魚。或本云。至庚申年七月。百濟遣使奏言。大唐。新羅并力伐我。既以義慈王。々后。太子爲虜而去。由是國家以兵士甲卒陣西北畔。繕修城柵斷塞山川之兆。又西海使小花下阿曇連頬垂自百濟還言。百濟伐新羅還時馬自行道於寺金堂。晝夜勿息。唯食草時止。或本云。至庚申年。爲敵所滅之應也。」

 以上の記事で判るように「大人数」となることや、「鸚鵡(オウム)」「駱駝(ラクダ)」「驢馬(ロバ)」等珍物が献上されるようになること、さらに「西海使」として「倭国」からも毎年使者が「百済」を訪れているというように両国の関係が明らかに緊密になっていることが推定できます。「通好」するとはこのような一連の交流を示すものと思われ、「質」そのものとは別と考えられるものです。
 そう考えると、「扶余豊」が「質」として来倭したのは「六四〇年付近」のことと考えられますが、「書紀」でこの「扶余豊」の人質記事の「翌年」の事として書かれている「高表仁」来倭記事についても疑問が生じることとなります。
 その派遣時期について「旧唐書」では「貞観五年」(六三一)となっているのに対して、「唐会要」では「貞観十五年」(六四一)であり、「冊府元亀」だと「貞観十一年」(六三七年)となっているなど史書によりバラバラなのです。また記事内容についても「高表仁」と「禮」を争った相手が「旧唐書」だけが倭国「王」ではなく、倭国「王子」となっているなど明らかに違いがあります。(「資治通鑑」は「旧唐書」に信をおいて書いていると見られます)
 このうち「旧唐書」の年次については「貞観五年」(六三一)に倭国の使いが来た、という記事がメインであり、「高表仁」派遣がこの年のことなのかは不明です。(但し十年後とは考えにくいことも確かですが)
 これらについてはすでにみたように、「六四〇年」の来倭と見るのが相当であり、そう考えてみると、「高表仁」の派遣時期としては「六四一年」が推定されます。
 つまり「豐章(扶余豊)」が人質になった記事と「高表仁」記事はリンクしている可能性が高く、この人質記事の本来の年次が「六四〇年」であった事を示すものではないかと思われます。(この意味では一部に説があるように「阿曇比羅夫」が引率して来たという「百済弟王子翹岐」という人物との近似が注意を引きます。彼は「放逐」されたとされますが、「人質」に名を借りた追放であったのかも知れません)


(この項の作成日 2011/07/27、最終更新 2014/11/25)


前へ 次へ
「唐」・「新羅」との戦いについて に戻る