「白雉五年」(「六五四年」)の「遣唐使」団の「押使」(高位の大使)として派遣された「高向玄理」については、この「東宮監門」による「問いかけ」記事の直後に「死亡記事」があります。病死とも何とも書かれず、その死因は不明ですが、上の問答の直後に書かれていることには意味があるのではないでしょうか。
平安時代後期の説話集である「江談抄」(「大江匡房」の談話集と伝えられます)という書物には「吉備入唐問事」という行があり、それによれば「吉備真備」が「唐」に行ったとき、「唐」の官人などからその才能を恐れられ、その余り無理難題を突きつけられた際に、「天命鬼」と化した「元遣唐使」から助力を得て困難を払いのけることができたと書かれています。この「天命鬼」というのは一般には「阿部仲麻呂」の事と考えられているようですが、彼は「吉備真備」と同時代人であり、ここでいう「以前に遣唐使として唐に来たが食料も与えられず餓死した」という人物とは合致せず、該当しません。この「天命鬼」は「元遣唐使」で、なおかつ「大臣」という地位にあったと書かれています。それに該当すると考えられるのは「遣唐押使」という高い地位で入唐した、高位の官人であったと思われる「高向玄理」しかいません。
彼は「新羅」に派遣された際の肩書きが「小徳」と書かれており、これは「推古紀」に定められたという「冠位十二階」の上から二番目です。
また、彼は「僧旻」と共に「八省百官」を定めたとも書かれており、「国博士」という高位にあり、大臣クラスであったことは確かでしょう。
「六四五年」天豐財重日足姫天皇四年六月庚戌 以沙門旻法師 高向史玄理爲國博士。
「六四六年」大化二年九月。遣小徳高向博士黒麻呂於新羅而使貢質。遂罷任那之調。黒麻呂更名玄理。
「六四九年」大化五年二月 是月。詔博士高向玄理與釋僧旻。八省百官。
同じように「小徳」という冠位であったことが記されている「巨勢臣徳太」「大伴連馬飼」はその後「左大臣」「右大臣」となっており、彼らとこの頃まではほぼ同格の扱いであったものと考えられます。
「六四九年」大化五年夏四月乙卯朔甲午。於小紫巨勢徳陀古臣授大紫爲左大臣。於小紫大伴長徳連。字馬飼。授大紫爲右大臣。
ところが、この「六五四年」の遣唐使の際の「冠位」は「大華下」となっており、これは上から「八番目」です。これは「巨勢臣徳太」「大伴連馬飼」が「左右大臣」に任命される前の「小紫」であったのに比べ二段階低くなっており、さらに彼らは「大紫」に昇格したわけですから、いっそう差がついていることとなります。
また、「六五〇年」の「白雉」が献上され、「改元」される際に、「倭国王」から「故事」に類似の瑞祥の出現があったか問いただされているメンバーの中には「高向玄理」の名前はありません。「国博士」という地位にあったものであれば、当然この場にいなければならないものと思えますが、この当時かなりの年齢に達していたと考えられますので、(「六〇八年」に遣隋使として派遣されていることから考えて、かなりの老齢であったと考えられます)それが原因かもしれませんが、朝廷内での発言力が相当程度低下していたと考えられるものです。
この時「唐」に赴いた「高向玄理」は「書紀」には詳細が書かれないまま、「唐」で死去した、とだけ書かれています。
「天命鬼」の伝承と、「全員」に「日本國之地里及國初之神名」を聞いたという記事とを併せて考えると、「高向玄理」は「唐」の官憲の取調中に死去したのではないかと疑われるものです。なぜ取り調べを受けていたかというとそれは「日本國之地里及國初之神名」を正確に答えられなかったのではないでしょうか。このため、「スパイ」の疑いにより「取調べ」を受け、その途中で拷問として食料を与えられないことがあって、餓死ないし栄養失調で死亡したものではないかと考えられます。
「難波」を副都として建設した時点で「倭国」の「主流」は「近畿王権」となったと考えられます。「六五三年」(白雉四年)の遣唐使団は、久しぶりの「遣唐使」でした。「六三一年」に派遣されて以来の「倭国」からの遣唐使であったのです。彼らは「鴻櫨寺」の官僚から「地里及國初之神名」を訊かれたことでしょう。夷蛮の国の朝貢には必ず「確認事項」としてあったことですから、当然行われたものと推察されます。
ここで答えた内容と、その直後に「唐」に派遣された「高向玄理」たちの遣唐使団が答えた内容に食い違いがあったものと思料されます。(特に団長である「高向玄理」の答)
「百済」系氏族たちで構成された前回の「遣唐使」達と違って、彼らは「親新羅」系という基準で集められたメンバーですから、「筑紫」周辺の勢力で主体が構成されていると考えられ、彼らは「日本國之地里及國初之神名」を聞かれた際、彼は当然のように「倭国」の「固有の伝承」を答えたものと推察されます。
しかし、前回の遣唐使団が「近畿王権」の「固有の伝承」を答えていたため、食い違うこととなったものと推察します。それは「書紀」の「伝承」と「古事記」の伝承の違いであったかも知れません。
このことから彼は「他国人」(百済人)と疑惑を持たれ、結果的に「江談抄」に言うように「牢死」してしまったのではないかと考えられるものです。
(この項の作成日 2011/07/21、最終更新 2012/03/19)