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「持統」の「伊勢」行幸と「曲水の宴」

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 「書紀」の「持統紀」に「持統」が「伊勢」へ行幸しようとして「三輪高市麻呂」に「冠位」を賭けて制止されるという記事があります。
 一連の記事は以下のものです。

「(持統)六年(六九二年)二月丁酉朔丁未(11日)。詔諸官曰。當以三月三日將幸伊勢。宜知此意備諸衣物。賜陰陽博士沙門法藏。道基銀人廿兩。
乙卯(19日)。詔刑部省。赦輕繋。是日中納言直大貳三輪朝臣高市麿上表敢直言。諌爭天皇欲幸伊勢妨於農時。
三月丙寅朔戊辰(3日)。以淨廣肆廣瀬王。直廣參當麻眞人智徳。直廣肆紀朝臣弓張等爲留守官。於是。中繩言三輪朝臣高市麿脱其冠位。■上於朝。重諌曰。農作之節。車駕未可以動。
辛未。天皇不從諌。遂幸伊勢。
壬午。賜所過神郡及伊賀。伊勢。志摩國造等冠位。并兔今年調役。復兔供奉騎士。諸司荷丁。造行宮丁今年調役。大赦天下。但盜賊不在赦例。
甲申。賜所過志摩百姓男女年八十以上稻人五十束。
乙酉。車駕還宮。毎所到行。輙會郡縣吏民。務勞賜作樂。
甲午。詔。兔近江。美濃。尾張。參河。遠江等國供奉騎士戸。及諸國荷丁。造行宮丁今年調役。詔賜天下百姓困乏窮者。稻男三束。女二束。
夏四月丙申朔丁酉。贈大伴宿禰友國直大貳。并賜賻物。
庚子。除四畿内百姓爲荷丁者今年調役。
甲寅。遣使者祀廣瀬大忌神。與龍田風神。
丙辰。賜有位親王以下至進廣肆難波大藏鍬。各有差。
庚申。詔曰。凡繋囚見徒一皆原散。
五月乙丑朔庚午。御阿胡行宮。時進贄者紀伊國牟婁郡人阿古志海部河瀬麿等兄弟三戸服十年調役雜徭。復兔筴抄八人今年調役。」

 最後の「御阿児行宮」記事において、「体系」の注では同様の出来事を記した「万葉集」の「左注」について「誤り」と断定しています。つまり、この記事は上に書いたように「三月」の行幸の際の出来事であり、それに対する褒賞を授与したのが五月の時点だというわけです。
(以下万葉集「四十〜四十四番歌」までについての「左注」)

「右日本紀曰 朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰浄<廣>肆廣瀬王等為留守官 於是中納言三輪朝臣高市麻呂脱其冠位E上於朝重諌曰 農作之前車駕未可以動 辛未天皇不従諌 遂幸伊勢 五月乙丑朔庚午御阿胡行宮」

 つまり、「左注」はこの「阿胡行宮」記事を、その記事が書かれた「日付」である「五月」の出来事と解釈しています。これを「誤り」としているわけですが、しかし「体系」の言うように「三月」の出来事であるなら、他の「褒賞」記事と同様その時点で記せばいいことであり、五月といういわば時期外れの褒賞記事ははなはだ「不審」といえます。しかも「車駕還宮」記事の前に「阿児行宮」に直結する記事が全くないのはさらに疑わしく、この記事が「三月」の「伊勢行幸」とは別途に行われたと見るのが至当と思われます。
 また、この記事は「古田氏」などによる解釈では、「体系」の「注」とは異なり、三月から五月までずっと「伊勢行幸」を続けていたと考えられています。「筑紫」から「瀬戸内」をあちらこちら寄りながらゆっくりと進んだというわけです。しかし、「還宮記事」を無視しないとすると、上で見たように「阿胡行宮」記事を「別」と考える方が合理的であり、「伊勢行幸」からは「三月中」に「還宮」したと考えるべきではないでしょうか。

 そもそも、この記事の中では「持統」は「三月三日」という日付を出して、この日に「伊勢」に行くと宣言しています。『當(まさ)に三月三日を以て伊勢に將幸(いでま)さむ。』とは、単にこの日に出かけると言うような意味ではなく、この日の内に「伊勢」に到着しているという意を多分に含んでいると思われます。それは「干支」ではなく「数字」で日付が書かれている事からも推定できます。つまり、「三月三日」というように日付を明確に設定していることには「意味」があったはずであると思われます。
 「書紀」の「本文」としての記事中に、「干支」ではなく「数字」で日付が書かれている例は非常に少なく、この「三月三日」以外には「推古紀」と「天智紀」に「薬猟」の行われたという「五月五日」だけなのです。それ以外は「補注」部分や「百済系資料」からの引用部分及び「伊吉博徳書」からの引用部分だけであり、「本文」としてはこのような「数字日付」は希有な例なのです。
 この事から、この「三月三日」という表記も「薬猟」同様「節」(節句)であったものと思われ、今で言う「桃の節句」が該当するものと思われますが、これは中国の古代では「疾病」などを祓う儀式を行うべき日とされていました。
 「藝文類聚」の「三月三日」の項には、「應劭」の「風俗通義」が引用されていますが、そこには以下のようなことが書かれています。

 「…應劭風俗通曰.按周禮.女巫掌歳時以祓除疾病.禊者潔也.故於水上盥潔之也.巳者祉也.邪疾已去.祈介祉也.…」

 つまり「三月三日」という日には(昔は)「女巫」つまり「巫女」のような「祝子」(ほうり)(神と人の仲立ちをする人物)が、川の水の中に「盥」(たらい)を浮かべ、そこで「沐浴」をすることで「疾病」を祓うことができるとされていたのです。
 つまり、「女巫」が「疾病」を「祓除」するために「水上」で「みそぎ」の儀式が必要であったものであり、そのために「川」へ行く必要があったものです。
 ここでは「周礼」が引き合いに出されていることからも分かるようにかなり古くからあった儀式であると思われ、このようなものは相当早期に倭国に流入していたと考えられます。
 この事から考えて、この時の「伊勢行幸」は、「伊勢」のどこかで「沐浴」し「祓除」を行なうという目的があったのではないでしょうか。
 「持統」の「詔」の中には「宜知此意備諸衣物。」という指示があり、これは「沐浴」に使用する「練衣」(ねりぎぬ)の準備をするようにという意味を含んでいるという可能性もあります。
 このような典拠のある儀式であるとすると「日付」が重要であり、「三月三日」という日付が特に言及されている理由はそこにあると思われ、三月三日には「伊勢」にいなければならなかったものではないでしょうか。そうであれば「五月」に「仮宮」にやっと到着したという解釈では「三月三日」という日付が宙に浮いてしまうでしょう。
 
 このことから、当初目的としていた「三月三日」は「儀式」を行うべき日と推定されますが、実際には「出発日」として記事中には出てきます。この日に「留守官」などを定めたとしており、実際に出かけようとしていたと見られます。(これを「三輪高市麻呂」に阻止されたものと見られます)
 このことから考えて、「持統」は当初は「目的の儀式」を行う日と出発日を「同日」と設定していたように見受けられ、そうであれば「伊勢」はかなり近いところにあると考えなくてはいけなくなるのではないでしょうか。
 少なくとも「一両日」程度で行けるような範囲の中に「伊勢」はあると考えざるを得ないと思われます。

 後の「養老令」の規定によれば「車駕」による行程は「一日三十里」、「人が歩く」場合は「五十里」とされていました。また、「古代官道」の「駅間距離」も同じく「三十里」とされていますから、基本的には「車駕」であれば「官道上」を移動する際は「一日一駅」、「歩く」場合は「二駅」程度ていどとされていたようです。 「倭国王」などの場合は「輿」に乗ったと見られ、これは「人が担ぐもの」と思われますから、「歩く」という場合に相当するかと思われます。すると「二駅」程度が一日で移動できる距離となり、「伊勢」は「都城」(宮殿)からその程度の距離に存在していたと考えられることとなります。
 そもそも中国の古代においてもこの「儀式」ははるか遠方の場所で行なうのではなく、都城の「郊外」で行なわれるのが常であったと思われますから、この場合においてもそれほど遠距離の場所を想定するべきではないと考えられるものです。

 ところで、この「三月三日」の「儀式」は「曲水の宴」の原型でもあります。つまり「沐浴」すると「身体」が冷えてしまいますから、その後「暖」を取る意味で「宴」が催されたと見られ、「盥」を「杯」に変え、それを水に流してその間に歌を歌うという趣向が考えられたようであり、これはかなり早期にそのような様式が確立していたと見られます。
 この「曲水の宴」という儀式は古来、「三月上巳」というように「三月」の最初の「巳」の日に行われていたものですが、「魏」の時代に「三月三日」という日付に固定されたものであり、それ以降については「日付表示」となったはずのものです。
 このことについては「晉書」の「禮志」(巻二十一志十一禮下)に以下のようにあります。

「漢儀,季春上巳,官及百姓皆禊於東流水上,洗濯祓除去宿垢。而自魏以後,但用三日,不以上巳也。晉中朝公卿以下至于庶人,皆禊洛水之側。趙王倫簒位,三日會天泉池,誅張林。懷帝亦會天泉池,賦詩。陸機云:「天泉池南石溝引御溝水,池西積石為禊堂。」本水流杯飲酒,亦不言曲水。元帝又詔罷三日弄具。海西於鍾山立流杯曲水,延百僚,皆其事也。」

 つまり「周代」以降「上巳」の日に行っていたが、「魏以後」「三日」と固定されたとされているものです。干支では「年毎」に日付が一定しませんから、宮廷儀式としては「日付」を固定する必要があり、そのため「三月三日」と固定したとされたようです。
 この「魏」の時代以降「曲水の宴」の要素が増したとされているようですから、この「持統紀」で「日付表示」が為されているということは、その内容に「曲水の宴」の要素が多分に含まれているということを推察させるものです。
 
 この「曲水の宴」については「書紀」では「顕宗紀」において「曲水の宴」という用語を明示している例があります。

「顕宗天皇元年(四八五年)三月上巳(「乙巳」これは二日)。幸後苑曲水宴。」

「同二年(四八六年)春三月上巳(「乙巳」これは七日)。幸後苑曲水宴。是時喜集公卿大夫。臣連國造伴造爲宴。羣臣頻稱萬歳。」

「同三年(丁卯)三月上巳(「癸巳」これは七日)。幸後苑曲水宴。」

 以上のように三回「連年」で開催しているようですが、ここでは「三月三日」ではなく「三月上巳」と「干支」表記になっています。これは上でみるようにいずれの日も「三日」にはなりません。
 このように「日付」表記が「古制」であることから、この時の「曲水の宴」は「沐浴潔斎」が主体の「古式」に則ったものであったと一見考えられますが、それにしては「是時喜集公卿大夫。臣連國造伴造爲宴。」とも書かれており、後代的要素もあるように見られます。
 また、「後苑」と書いてありますから「宮殿」の「背後」に「苑池」があったと見られ、そこで行なったと考えられますが、古式では郊外の「川辺」で行なうものとされていたようですから、その点もまた「後代的」です。
 このことからこの記事を以て、かなり早期に「曲水の宴」を倭国に取り入れていた証拠とは断言はできないこととなるでしょう。(この「顯宗紀」の記事については、同じ「顯宗紀」に「銀銭」記事があり、その貨幣価値の記述からそれが「後代」の「偽入」であった可能性が考えられ、そのことから推察してこれも同様である可能性はあると思われます。)

 この「曲水の宴」については「久留米市」の「筑後国府」跡から「遺構」が出ていることが注目されます。この「曲水の宴」遺構は「八世紀」以前のものと考えられており、また遺跡からも「七世紀後半」と考えられる建物跡なども見つかっており、「持統紀」記事といろいろな関連が考えられるものです。
 この時の「王城」(首都)と考えられる「筑紫」(「太宰府」)からの距離としても、「久留米」であれば、出発したその日のうちに到着して儀式を行うことも可能であり、この時の「伊勢行幸」の候補地としては可能性がかなり高いといえるのではないでしょうか。
 この久留米という場所は、「古代官道」の駅としては太宰府から「二駅目」、距離にして約二十五キロメートル程度であり、これは先に見た「一日」にして行くことが可能な範囲の中にまさに存在している事となります。
 
 ところで、この時「持統」は「三輪高市麻呂」の「職を賭した制止」を(多少予定からは遅れたものの)結果的に振り切って「伊勢」に行ったこととなるわけですが、その様な事を敢えて行わなければならなかった「事情」とはどのようなものでしょう。
 この「六九二年」という年次の「書紀」の記事は後でも述べますが、諸々の「解析」から「実際」の年次と「四十八年」ずれているという指摘があり、実際には「六四四年」のことであったと考えられます。
 この時の「潔斎」(沐浴)ということを行う動機となったことは、多分にすぐその後に「褒賞記事」のある「陰陽博士」(「沙門法藏」、「道基」の二人)の示唆によると思われ、この「六四四年」という年次が「九州年号」の「命長五年」であり、その「年号」の字義が「利歌彌多仏利」の「病気平癒」と「延命」を願ったものと考えられるところから、この「行幸」も「利歌彌多仏利」の「疾病」を「祓う」のが目的であったのではないでしょうか。
 つまり、この「行幸」は「善光寺」への「助命嘆願」(下記参照)を行ったことと同じような意味があると考えられ、年次も接近していることから、(善光寺文書の命長七年は「六四六年」となり、この行幸の二年後のこととなります)同一人物による行動と推定されるものです。つまり「斑鳩厩戸勝鬘」と「持統」に擬されている人物は同じ人物ではないかと思料されるのです。
(以下「善光寺文書」による「聖徳太子」からの手紙と伝わるもの)

 「善光寺」
          御使 黒木臣
名号称揚七日巳 此斯爲報廣大恩
仰願本師彌陀尊 助我濟度常護念
   命長七年丙子二月十三日
進上 本師如来寶前
       斑鳩厩戸勝鬘 上

 「古田氏」が指摘したように「長命」を願って「和歌」(「我が君」)や「願文」が作られ、また「命長」と改元される、ということは、「倭国王」(我が君)の現状として「病」に倒れていることを推測させ、この「伊勢行幸」による「沐浴」と「祓除」を行なうということもまたその回復を願う為になされた一連の作業であったのではないかと思慮されるものです。それは「書紀」で「舒明紀」に急に「温泉行幸」記事が増えることでも推察されるものです。つまり、「温泉」の「薬効」を治療に役立てようとしていたと見られ、温泉名としてその名が見える「有馬温泉」はその薬効として「筋肉痛や運動麻痺」などが知られており、この時の「利歌彌多仏利」も手足に「麻痺」症状があったのかも知れません。
  
 ここで「善光寺如来」に対してわざわざ「使者」を派遣し「願文」を「進上」している訳ですが、これについては「善光寺」の縁起とも関連していることが指摘されています。
 「善光寺」はその起源をめぐる伝承でも「百済」から将来したものとされていますが、当時(六世紀後半)における「百済」の「仏教」の状況は既に「阿弥陀信仰」が盛んであり、「請観音経」にもとづく「造仏」などが行なわれていたと見られています。そのような中には「韓国黄海道谷山郡花村面蓬山里」から出土した「一光三尊像」があります。この「三尊像」の「背面」には銘文が書かれており、それによると「景四年在辛卯、比丘道口、共諸善知識那婁賎奴、阿王、阿据五人、共造無量寿像一躯、願亡師父母、生生心中常知遇弥勤、所願如是、願共生一処、見仏聞法」とあるとされます。
 この「景四年辛卯」は「五七一年」と推定されており、またその「造仏」の動機として「願亡師父母」とあるところから「師」や「父母」の追善の為のものであることが考えられますが、善光寺如来はこの像に近似していると見られており、その由来・縁起等に共通の基盤があるものと思われますが、少なくともそのうちの一つは「請観音経」の存在ではなかったかと考えられます。
 その「請観音経」では「弥陀」の「名号」を「称揚」することで「病苦」から脱却できるとする文言があり、これを捉えて「平安時代」には「疫病」や「疾病」などの苦しみを救うために、「請観音経」の読経や転写などが行なわれているのが記録にあります。
 上の願文でも「名号称揚」とされ、「阿弥陀如来」の「名前」を「称揚」したものと考えられ、また「此斯爲報廣大恩」と表現されていますから、「師」や「父母」に対する「恩」に報いるという考え方が示されていると思われますが、これらは「善光寺如来」(これも一光三尊形式とされる)が「請観音経」に基づいて造られており、またそれを「厩戸勝鬘」がよく承知していたと言うことと理解できるものです。このため「善光寺如来」に対して「願文」を「進上」するということとなったものでしょう。

 また、この「行幸」を強行した「持統」に擬された「人物」は(結局は「皇極」と同一人物と考えられますが)「沐浴」を行う予定であったとされますから、古式に則ればそれは女性の役割であったものであり、その意味でも「厩戸勝鬘」は「女性」であったと考えられることとなります。このことからも彼女が「利歌彌多仏利」の皇后であったという可能性が高いものと思われます。
 「書紀」で「皇極」は「舒明」の「后」とされていますから、これは「利歌彌多仏利」と「厩戸勝鬘」の関係に置き換えて考えることもできると思われ、「利歌彌多仏利」の「夫人(后)」であることを示唆するものと理解できます。そうであれば「病気」からの回復を願って「模索」しているように見えるのも理解できるものです。
 
 後代の「曲水の宴」はその前半の「沐浴潔斎」が脱落して、単に「杯」を浮かべて歌を詠むというような一種「娯楽」の様相を呈するようになりますが、この時の「伊勢行幸」は上に見たように「利歌彌多仏利」の「病気平癒」を祈願したものと考えられ、この「持統」に擬されている人物は実際に「沐浴」して「疾病」を祓う儀式を行ったものと見られます。 それが終了した後「曲水の宴」を行ったということではなかったかと考えられます。

 ところで、この「伊勢行幸」の目的としては以上のようなことと理解できるものですが、ここで特に「伊勢」に行幸したわけはなぜでしょうか。
 それを考える上で重要なことは、「伊勢」という土地の意義であり、特徴です。既に述べたように「伊勢神宮」の祭神(「内宮」)は「天照大神」ではなく「元々」は「宇迦之御魂神」であり、これは「阿毎多利思北孤」の「神格化」されたものであったと考えられます。つまり「利歌彌多仏利」の「父王」であった人物と考えられますから、「利歌彌多仏利」の「延命」を祈願するならば、彼の「父」である「阿毎多利思北孤」が祀られている「伊勢」で、「潔斎」し「沐浴」するというのが重要な要素であったことを意味すると考えられ、それは「天地」の神に捧げたものですが、特に「宇迦之御魂神」へのものであったと言う事が推測されるものです。それは「宇迦之御魂神」が祀られていた「廣瀬大忌神」が「水の神」であり「河曲」に祀られているとされていることと重なるものと考えることができます。
 つまり、この「久留米」付近には「伊勢」があると共に「宇迦之御魂神」を祭る「神社」ないしは「霊廟」があったのではないでしょうか。そこで「拝礼」すると共に、川辺で沐浴して「利歌彌多仏利」の快復を祈ったと言うことと理解できるでしょう。
 また「善光寺」への手紙を持参したのは「黒木臣」であるとされていますが、この事は「伊勢行幸」においても「黒木臣」が重要な役割があったのではないかと思料されるものであり、その「黒木」という地名が「畿内」(千里四方)の範囲に存在していることもまた注意すべきでしょう。(「朝倉」付近)つまり「久留米−黒木町」の間はかなり近距離であり、この場所が「黒木臣」の勢力範囲のうちに入っていたという可能性もあると思われます。


(この項の作成日 2013/01/27、最終更新 2013/04/23)

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