「孝徳紀」によると「白雉改元」儀式の際に「執輿後頭置於御座之前」、つまり、「白雉」が入った籠が乗った御輿を担いで「天皇」と「皇太子」の前に置く、と言う重要な役どころで「伊勢王」という人物が登場します。
(以下白雉献上の儀式)
「白雉元年(六五〇年)(中略)甲寅。朝庭隊仗如元會儀。左右大臣。百官人等。爲四列於紫門外。以粟田臣飯中等四人使執雉輿。而在前去。左右大臣乃率百官及百濟君豐璋。其弟塞城忠勝。高麗侍醫毛治。新羅侍學士等而至中庭。使三國公麻呂。猪名公高見。三輪君甕穗。紀臣乎麻呂岐太四人代執雉輿而進殿前。時左右大臣就執輿前頭。伊勢王。三國公麻呂。倉臣小屎。執輿後頭置於御座之前。天皇即召皇太子共執而觀。皇太子退而再拜。使巨勢大臣奉賀曰。公卿百官人等奉賀。陛下以清平之徳治天下之故。爰有白雉。自西方出。乃是陛下及至千秋萬歳。淨治四方大八嶋。公卿百官及諸百姓等。冀磬忠誠勤將事。奉賀訖再拜。詔曰。聖王出世治天下時。天則應之。示其祥瑞。曩者西土之君。周成王世與漢明帝時。白雉爰見。我日本國譽田天皇之世。白烏樔宮。大鷦鷯帝之時。龍馬西見。是以自古迄今。祥瑞時見。以應有徳。其類多矣。所謂鳳凰。騏■。白雉。白烏。若斯鳥獸及于草木有苻應者。皆是天地所生休祥。嘉瑞也。夫明聖之君獲斯祥瑞。適其宜也。朕惟虚薄。何以享斯。蓋此專由扶翼公卿。臣連。伴造。國造等。各盡丹誠奉遵制度之所致也。是故始於公卿及百官等。以清白意敬奉神祇。並受休祥。令榮天下。又詔曰。四方諸國郡等。由天委付之故。朕總臨而御寓。今我親神祖之所知。穴戸國中。有此嘉瑞。所以大赦天下。改元白雉。仍禁放鷹於穴戸境。賜公卿大夫以下至于令史各有差。於是褒美國司草壁連醜經授大山。并大給祿。復穴戸三年調役。」
輿は担ぐ際には左右対称な人数が担がなければ安定しないわけですから、必ず「偶数」とならなければなりません。しかし、記事によれば「殿前」までは確かに「四人」で担いできたにも関わらず、「御座の前」まで持ってきたときには「五人」になっています。(前左右が「左右大臣」、後ろが「伊勢王。三國公麻呂。倉臣小屎」の三名です)
つまり、「輿」の後ろを担ぐべき人間の数が一人多いのです。この後ろを担いでいる三人の内「三國公麻呂」はその前から担ぎ続けているため、この時点で新たに後ろ側の担ぎ手となったのは「伊勢王」と「倉臣小屎」の二人です。このどちらかが「余計」であると考えられるわけであり、それは「伊勢王」ではなかったかと考えられるものです。
「余計」な人物を書き加えている、ということは、その人物が「重要」で意味のある人物である証拠です。そういう意味では「倉臣小屎」は「書紀」の中にはここ以外には全く出てきませんし、何の事績も書かれていません。このような人物をわざわざ書き加える理由がなく、彼が「余計に」追加させられた人物であるはずがないこととなります。つまり、追加させられた人物は「伊勢王」である可能性が強いでしょう。
つまり、「伊勢王」が輿を担いでいる、と言う事を強調したいがために(別の言い方をすると「輿を担ぐ身分である」と言うことを強調するために)「改変」されたものと考えられます。にも関わらず「死亡記事」では「官位未詳」とされており、これらの情報が欠如している(書かれていない)のは明らかに不審であり、「意図的」なものと考えられます。
この「孝徳紀」からおよそ三十年離れた「天武紀」にも「伊勢王」に関連する記事が多く書かれています。この「天武紀」は「八世紀」に入ってから「付加」された部分とみられ、その内容は「孝徳紀」からの切り貼りであることが強く推量されます。つまり、「伊勢王」も本来は「白雉改元」の儀式で判るように「孝徳朝」の人物であったと見られるわけです。
これを裏付けるのが「威奈大村」の「骨蔵器」に書かれた文章です。これは「壬申の乱」に登場する「伊那公高見」という人物の「子」に当たると思われる人物に関わるものと考えられていますが、「七〇七年」に埋葬されたことがその「骨蔵器」に書かれたものであり、ほぼ同時代資料と思われ、信頼性は高いと思われます。
「卿諱大村檜前五百野宮/御宇 天皇之四世後岡/本宮聖朝紫冠威奈鏡公之/第三子也卿温良在性恭/倹為懐簡而廉隅柔而成/立後清原聖朝初授務広/肆藤原聖朝小納言闕於/是高門貴兜各望備員(スペース)/天皇特擢卿除小納言授/勤広肆居無幾進位直廣/肆大寶元年律令初定/更授従五位下乃兼侍従/…以慶雲四歳在丁未/四月廿四日寝疾終於越/城時年?(四十)六■其年冬/十一月乙未朔廿一日乙/卯帰葬於大倭国葛木下/郡山君里狛井山崗天■/…」
これで見ると「威奈大村」は「七〇七年」で「四十六歳」であったというのですから、生年は「六六一年」となります。(日付から考えると「七〇七年」という年次には間違いがないと思われるため)
また彼は「三子」とされますから、「父」である「威奈鏡公」はこの「六六一年」当時いわゆる「壮年」であったと思われ、四十歳前後ではなかったかと考えられますが、彼は「白雉改元」の儀式の際に「輿」を担いでいる「猪名公高見」と同一人物という説もあります。それが正しければ、「白雉改元」儀式は「六五二年」とされますから、この当時「威奈鏡公」という人物はその時点で三十歳程度と思われ(もしこれより若かったとしても「二十代前半」より若くはないと思われます)、年齢に関する点はそれほど不自然がありません。
そもそも彼は「書紀」では「多治比王」と共に「宣化天皇」の「玄孫」とされており、「血筋」は卑しくなく、このような華やかで重要な儀式に参加したとして何ら不思議ではないと考えられるでしょう。
その「猪名公高見」と共に「輿」を担いでいるのが「伊勢王」なのですから、彼もこの「猪名公高見(威奈鏡公)」と同時代を生きた人物であり、「孝徳朝期」に存在した人物であることは間違いないと考えられます。
そう考えると、「天武紀」の「伊勢王」関連記事には「記事移動」があると考えなければなりません。
また「伊那公大村」の墓誌では「後岡本宮の聖朝の紫冠威奈鏡公」と書かれています。このことから「高見」は「大村」が生まれる以前に既に「紫冠」(大紫ないしは小紫)の地位にいたこととなります。
また、「天武紀」の記事中に「伊勢王」が「天下を巡行」した、という記事があります。
「六八三年」十二年十二月甲寅朔丙寅。遣諸王五位伊勢王。大錦下羽田公八國。小錦下多臣品治。小錦下中臣連大嶋并判官。録史。工匠者等巡行天下而限分諸國之境堺。然是年不堪限分。
ここで使用されている「巡行天下」というのは「天子」(ないしは「皇帝」)に関わる用語であり、「臣下」ができることではありません。それは「天下」という単語が「天子」や「(皇)帝」に関する用語だからです。普通の人が諸国を回っても「巡行天下」とは言わないのです。
この「天下」という言葉の起源について言うと、「古代中国」の「戦国時代」に遡ります。このころ「周王朝」の持つ「威厳」が衰えてき始めたため、各諸国は「力」で各々の「勢力」を維持・拡大しようとしました。そのような際に使用された用語が「天下」であり、これはそれまでの「周」を中心としてその「四方」に「諸国」があるという世界観からの転換が行なわれたことを示すものとされます。
『孟子』梁恵王によれば「天子適諸侯曰巡狩、巡狩者、巡所守也、諸侯朝於天子曰述職、述職者述所職也」とあり、「諸国」から「天子」への朝献と「天子」の諸国巡狩(巡行)とは「対」で語られており、この両者は一体となった観念であることが推察されます。
その後「天子」と「皇帝」の峻別は行なわれなくなり、「天子」でありまた「皇帝」でもあるとされるようになりました。ただ、養老令などにもあるように「外」に対する「天子」、「内」に対しては「皇帝」というような使い分けが行なわれていたと思料されます。
このことからここで「巡行」したのは「天子」であり、また「皇帝」でもあるような存在であると思われると同時に、この「巡行天下」という用語が適用されているのは、ここで出てくる複数の人名の「先頭の人物」に対してのものと考えるのが妥当と思われますから、「伊勢王」が「天子」であり、「皇帝」であるということを示すものと考えられます。
また「天武紀」には「天武」の葬儀記事があり、そこにも「伊勢王」が出てきます。
「(朱鳥)元年(六八六年)…
九月甲子。平旦。諸僧尼發哭於殯庭乃退之。是日。肇進奠。即誄之。第一大海宿禰蒭蒲誄壬生事。次『淨大肆伊勢王』誄諸王事。次直大參縣犬養宿禰大伴惣誄宮内事。次淨廣肆河内王誄左右大舍人事。次直大參當摩眞人國見誄左右兵衞事。次直大肆釆女朝臣筑羅誄内命婦事。次直廣肆紀朝臣眞人誄膳職事。…」
「(持統)二年(六八八年)八月丁亥朔丙申。甞于殯宮而慟哭焉。於是。大伴宿禰安麻呂誄焉。
丁酉。命淨大肆伊勢王奉宣葬儀。」
いずれにおいても「淨大肆」という冠位(官位)が書かれています。この冠位は「六八五年」に定められたという「冠位四十八階」の十一番目のものです。
この「冠位」は「明位二階」が最上位にあり、その後が「浄位四階」となっていますが、通例では「明位二階」は誰も授与されなかったということになっています。しかし、そんなはずはないと思われます。明らかにその考えには無理があるでしょう。
「冠位(官位)制」は天子の元の最高側近ないし最高重要人物が「最高位」を授与されてしかるべきでしょう。「最高位」の冠位を授与されるべき人物が誰もいないのにも関わらず、そのような冠位を制定するということが想定されていることが不思議に思えます。
明らかに「諸王」は「最高側近」ではありませんから、「浄位四階」を授かって当然と考えられ、たとえば「親王」以上が「明位二階」を授かったと考えるのが自然です。つまり、「書紀」でだれも「明位二階」を授与されていないのはそこに書かれた人物達が「倭国王権」から見ると「諸王」であって、「親王」などではないためであると理解せざるを得ません。
ところで、「白雉改元」の際の「詔」の中に「瑞祥」の過去の例が上げられており、その中の「倭国」の例として「応神」と「仁徳」の時代のものが挙げられていますが、いずれも「書紀」にはその「瑞祥」の記載がありません。その点でも不詳ですが、なぜ彼等なのかという点も疑問に思われている部分です。
しかし、この二人が「伊勢王」の「父」と「祖父」である「利歌彌多仏利」と「阿毎多利思北孤」の「投影」と言える人物像であるとすると、理解しやすいとも言えるでしょう。彼らが「例」としてあげられているのはそのような「直接」「伊勢王」に「繋がる」事例であるということが理由と考えられ、また、「祖父」「父」と継承された大義名分が自分にもつながっているということを明確にする意図も含んでいると思われます。
(この項の作成日 2011/07/03、最終更新 2013/11/25)