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複都制(副都制)創設の動機と唐使「高表仁」

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 「天武紀」に「複都制(副都制)」の詔があります。

「天武十二年(六八三年)十二月甲寅朔(略)庚午(十七日)(略)又詔して曰く、凡そ都城・宮室、一処に非ず、必ず両参造らむ。故、先づ難波に都造らむと欲す。是を以て、百寮の者、各往りて家地を請はれ。」

 この「詔」は既に述べたように「正木氏」により「三十四年」移動された記事であると推定されていたわけです。ここで「複都制(副都制)」を採用することとなった理由を考えてみます。
 第一に当時の倭国王が「半島」や「唐」との関係において、「危機感」を持ったのではないかと言うことです。

 「六三二年」に唐皇帝「太宗」(二代皇帝)が倭国に使節「高表仁」を派遣したとされますが、これは「六四一年」ではなかったかと考えられることとなっています、
 この時「倭国王子(王)」であった人物が「高表仁」と「礼」を争い、それに気分を害した「高表仁」が「朝命」を果たさず帰国する、という事件があったとされます。
 この「高表仁」という人物は「旧唐書」という史書の中では、以下のようにかなり明確に「けなされて」います。(「遠方の国を安んずる才能がない」という言い方をされています)

「旧唐書」「東夷伝」
「貞觀五年(六三一年)、遣使獻方物。大宗矜其道遠、勅所司無令歳貢、又遺新州刺史高表仁持節往撫之。表仁無綏遠之才、與王子爭禮、不宣朝命而還。至二十二年(六四八年)又附新羅奉表、以通往起居。」
 
 ここで「高表仁」の役職として書かれている「新州刺史」の「新州」とは現代の香港よりさらに南の地域を指すものであり、彼は言ってみれば「左遷」されてここにいたものと考えられます。
 彼は「隋」皇帝「煬帝」の宰相であった「高ケイ」の子息であり、当時「皇太子」であった「楊勇」の娘を妻に迎えており、そのことから辛うじて地方の刺史として生き残ったものと思われ、そのような生い立ちが彼自身の評価に影響している可能性はあるでしょう。 
 「唐朝」の意図としては、真に有能な人物であったなら、重用しようという意味合いから「試験的」に倭国への使者として選抜したのではないでしょうか。
 彼は「刺史」というかなり地位も高い人物であり、またある意味「重要人物」でもあったと思われます。このような人物を派遣する場合は「国書」が持参されていたとして不思議ではなく、「唐皇帝」の特命全権として「倭国王」との会談に臨もうとしたものと見られます。(「持節」という称号が与えられており、そのことからも「詔書」を所持していたと推察できます)
 「唐皇帝」がこのように「倭国」との国交に取り組もうとした最大の理由は「半島情勢」と深く関連しているものと思われ、「高麗」との対決姿勢を強めるための「前提条件」として、その背後にいる「倭国」との「友好」が不可欠と考えたからではないでしょうか。(ここに至って始めて倭国の地政学的重要性に気がついたのではないでしょうか)
 「高表仁」は「外交実務」を試す意味で使者として選ばれたものと思われ、「ある意味」「優秀」と思われる人材発掘の場として「倭国」が選ばれているわけですが、そのことは、「唐」にとっての「倭国」というものが、「隋」以来の一種「宿題」となっていた国として映っていた事を示すものと思料されます。
 つまり、「倭国」は「前王朝」である「隋」に対して「対等性」の主張を盛り込んだ国書を出すなど、「問題」のある国と認識されていたことは確かであり、そのような国への「人材」派遣という事業は、その人物の問題処理能力を試すには絶好であったと言えます。しかし、派遣された「高表仁」は中国皇帝の代理としての意識が強すぎたことと、「前王朝」の「皇帝」の「身内」という意識があったため、せっかくの与えられたチャンスを何とかものにして「失地回復」を図ろうとして「意識」過剰であったという可能性などがあるでしょう。
 「旧唐書」の記述によれば、「禮」を争ったとありますから、正式な外交儀礼を「倭国」(の「王子」)に要求し、その「厳格」な執行を求めたものと思われます。
 後の「開元礼」の中の「嘉礼」には「皇帝遣使詔蕃宣労」の礼というものがあり、これによれば「蕃主は唐の使者を迎えるにあたり、使者が詔有りと称したら蕃主は再拝し、使者が詔を宣したら改めて再拝し、その後北面して詔書を受け取る」とされています。
 彼(高表仁)はおそらくこの時このような「禮」を「倭国(王子)」に要求したものと見られますが、「王」ないし「王子」はこれに従わなかったという可能性が高いものと見られ、それに立腹した「高表仁」は「不宣朝命而還」ということとなったのではないでしょうか。
 この時「王子」が「詔書」を受け取る立場であったとすると「倭国王」の代理(摂政であったか)ものとみられますが、彼は「天子」として振舞おうとしていたものと見られ、「皇帝」の代理としての「高表仁」と正面からぶつかった可能性が高いと思われます。
 このことはまた「倭国王」(王子)の「気位」(プライド)の高さが知れる話でもありますが、また「外交儀礼」に関して「無知」であったことも示すと思われます。

 ところで、「法隆寺」の「阿弥陀三尊像」の「光背銘文」によれば、「六二二年」に倭王(上宮法王)「阿毎多利思北孤」は亡くなっているのですから、この時点での倭国王は、「阿毎多利思北孤」の「太子」であった「利歌彌多仏利」と考えられ、礼を争った「皇子」とはその子息と考えられます。
 この事件は従来「軽視」されているようですが、倭国上層部としては「不測の事態」というか本意ではなかった可能性があります。つまり、倭国王子のプライドが優先された結果、思わぬ方向に問題がこじれてしまったものではないでしょうか。 「倭国王朝」としては「隋」との一件がありますから、「唐」の使者とは友好的交渉を行い穏便に済ませる方針であったと思われますが、結果的に高圧的態度で追い返すこととなってしまったわけであり、そのような事態は想定されていなかったことと思われます。
 また「唐」朝廷としては「高表仁」からの報告内容を苦々しく聞いたこととは思われ、「高表仁」個人への評価とは別に「倭国」に対する印象はかなり悪くなったものと思われます。
 「唐」は歴代の中国王朝が継続して交渉してきた「倭国」と改めて皇帝と臣下の関係を構築しようとしたと考えられます。
 「倭国」の「唐」の前代には「遣隋使」を送るなど「南朝」一辺倒の政策から転換していたものであり、「隋」王朝成立時に朝鮮半島各国が「柵封」された際にも、「遣使」はしたものの「柵封」されることはなかったものの、これはあまりにも遠距離であったためという地理的理由によるものと思われ、特に「隋」に対して強圧的であったとは思われません。
 また「隋」に対し「天子自称」により「宣諭」されるという失態を演じていたわけですから、外交儀礼には気を使っていたはずであると思われるのにこのような「礼」を争うことなった理由がよくわかりません。
 想像ですが、「倭国王」というより「王子」が「若気の至り」ということで強気に出てしまい、「れを」失することとなったものと思われ、「高表仁」の突然の帰国は「倭国王権」にとっても「衝撃」であったと思われます。

 ところで、上のように「旧唐書」では「高表仁」の派遣記事の最後「不宣朝命而還」の後に「至二十二年〜」という記事につながるわけであり、これはこの遣使が「失敗」に終わったその「直後」、一時的に国交が絶えたことを示していると考えられます。
 また「唐会要」でも「不宣朝命而還。由是復絶」とあり、「国交」が途絶えたことと「不宣朝命而還」が「因果関係」があるように書かれています。このことは「国交」が途絶えた時期が、この「高表仁」の遣使の「直後」であった事を示すものでしょう。
 この後は「貞観二十二年」(「六四八年」)になって「附新羅奉表、以通往起居」というように「新羅」を通じて「国交」を回復させたようです。

 この「国交回復」の試みについては、「利歌彌多仏利」が死去し「礼」を争った本人である「倭国王子」が新王朝継承者となった際の出来事と考えられます。
 彼は「高表仁」と「礼」を争った当人であると考えられますが、彼はそのことで「唐」「新羅」との関係が悪化したことを「憂慮」していたものと見られ、関係の改善を企図したものであり、前天皇の葬儀のため(と考えられる)来倭した「新羅」の「金春秋」と友好関係を結ぶ事を画策し、まず「新羅」に友好関係回復のメッセージを送り、なおかつ唐との橋渡しを頼んだものとみられます。(「旧唐書に拠れば、新羅に表を付して唐に使いを送ったとされています)、結局いずれも不調に終り、結局「唐・新羅」との関係の緊張緩和策ははかばかしくなかったものと考えられます。
 そのため、「唐」「新羅」との関係悪化を考慮し、「筑紫」に都を構えている場合の「リスク」を分散させる意味において「複都制」を企図し、「筑紫」からかなりの距離離れていて、「安全地帯」と思われた「難波」に実質的遷都を行うことにしたものではないでしょうか。
 「難波」は「利歌彌多仏利」以来「東国支配」の「出先」として重要視されていたものであり、ここを「本格的」な「都城」として整備し、「副都」という形で「対外防衛」と「「東国支配強化」といういわば「一石二鳥」を狙ったものと思われます。

 「難波」を副都にしようとした理由として更に考えられるのが、歴代の北朝の皇帝が「古都」「洛陽」に「遷都」する願望を持っていたことです。「洛陽」は「魏晋」の頃からの「古都」であり、この領域を「世界の中心」と考えてきていたものです。北魏の高祖においても周囲の反対を押し切り「洛陽」に遷都していますが、彼の本心としては「北魏」の都である「平城」は「外界」であって、辺鄙な場所にあると考えてきていたものです。「隋唐」に至っても、「洛陽」を「東都」という扱いとしていますが、「洛陽」は「中心」であるという観念は変わりませんでした。そのことは「長安」が「西の外れ」にあるという感覚が継続していたことを示すものです。
 このようなことから「古都」「洛陽」を「副都」としたわけですが、「倭国王」においても「難波」に対して「東都」という観念を持っていたのではないでしょうか。
 つまり、「難波」は「古都」であり、また一時的には「倭国の中心」であったものであり、自分達がいるところは「西の外れ」であるというものです。
 
 「倭国」の発展史を考えてみても、「倭の五王」の頃には関東の領域まで「勢威」が届いていたものであり、その時の「倭国九州王朝」の「出先」は「難波」にあったのではないかと考えられます。五世紀代にはまだ「旧河内湖」が広がっていたと考えられ、その基地となりそうな場所は、「上町台地」上にあったものとみるのが相当であり、そこから「関東」などへの「騎馬」と「鉄剣」等による威圧を柱とした「征服策」を実施していたと考えられます。
 時代が移り変わり「倭国王朝」がまた「東国」への進出政策を前面に押し出すこととなったわけですが、「難波」を再度「前身基地」として「機能」させる事が必要になったものと考えられ、その時「過去の記憶」としての「古」の「前身基地」を「東都」と理解する考え方が発生したのではないかと思われるのです。


(この項の作成日 2011/01/07、最終更新 2014/04/23)

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