ホーム :「阿毎多利思北孤」王朝 :法隆寺の創建について :


法華経講話と「法隆寺」創建について

前へ 次へ

 「五重塔」心柱伐採年次が「年輪年代測定法」により「五九四年」と確定したわけですが、「書紀」の中で「五九四年」の前後の項を見てみると「法興寺の用材を切り出しに山に入った」旨の文章など「法興寺」の関係の記事で埋められており、「法隆寺」の影も見えない状態です。
 「書紀」によればこの頃は「法興寺」の建築が最大関心事であり、重要なスケジュールとなっていたようです。しかし、実際には「五九四年」に伐採された材料が「法興寺」ならぬ「法隆寺」に使用されているわけです。
 仏教用語として「法興」と「法隆」とは対語です。「法興」とは最初に「仏法」を「興す」ことであり、「法隆」とは一度「興された」「仏法」を再び活発にすることです。このことからもこの二つの寺に、ある特別な関係があることは容易に想像されます。
 
 「法隆寺伽藍縁起竝流記資材帳」(西院資材帳)によれば、「五八九年」に行われた法華経講義を受け、「高施徳陀」大臣が「播磨国」の「五十万代」(一代は八尺四方の広さ、一町が三百尺四方) を施入し、それにより「法隆寺」を建てた、という風に書かれており、「法華経講義と法隆寺」の関係が深いように書かれています。当然「法華経」の伝来との関係は深いものと考えられますが、その「法華経」が「法華義疏」の資料として使用されたとすると、それが南朝系のものであるのは「百済」からの伝来ではないことを示し、「隋」が「陳」を平らげた後「南朝」の仏教を「洛陽」に招聘したことと深い関係があると考えられます。
 つまりこの「法華経」講義は「遣隋使」が「隋初」に派遣された「成果」であると考えられる事となるでしょう。
 また、この「五八九年」という年次は「年輪年代測定法」で決定された「五重塔」の「心柱」(最下端部)の「伐採年」である「五九四年」という年次とも矛盾しません。
 しかし、「法隆寺」はこの心柱以外の部材については(「六二四年」伐採のものもありますが)、他については「かなり遅い」年代のものが多く、それを詳細に眺めると「金堂」に関しては一番新しい部材でも「六七〇年より以前」に伐採されたものが使用されていると考えられ、「五重塔」の場合は「六七三年より以前」の部材が使用されていると考えられます。(「光谷拓実氏」「年輪年代法と文化財」『日本の美術』421 号2001 年など)
 このことは「金堂」と「五重塔」には、その建立年代に違いがある、という事を示しています。

 また、これらのことは「書紀」が言う「法隆寺」の火災における表現「一屋余すなし」という「全焼」記事とも大きく矛盾するものです。「法隆寺」ではこの寺は「聖徳太子」創建のままであるという伝承を持っていました。つまり「火災」になど遇っていない、と言うのです。この伝承に従えば「六七〇年」に焼けたとされているのは「別」の寺院である、という事となります。
 そのことに関しては「斑鳩寺」という寺の存在が注目されます。
 「舒明」死去後「田村皇子」と「山背大兄皇子」の間で後継争いが起き、「山背大兄皇子」が立てこもったのが「斑鳩寺」とされます。この直前に「聖徳太子」の宮であった「斑鳩宮」が焼かれ、同様に「聖徳太子」ゆかりの寺である「斑鳩寺」についても攻撃を受けます。

「(皇極)二年(六四三年)十一月丙子朔。…「巨勢徳太臣等燒斑鳩宮」…。」

 そして、この寺はその後「書紀」で「法隆寺」に火災があったと記す一年前に同様に「火災」に襲われているようです。

「(天智)八年(六六九年)是冬。修高安城收畿内之田税。于時災斑鳩寺。」

 ところで、「書紀」中でも「斑鳩寺」と「法隆寺」が同一であるとはどこにも書いてありません。
 「法隆寺」については「聖徳太子」との関連も「書紀」中では触れられていないのです。
 しかし、一般には「斑鳩寺」と「法隆寺」は同一視されているわけですが、(それは「聖徳太子」に関する各種の伝記などの影響と考えられますが)明らかに、この両者は「別」の寺院であると考えられます。なぜなら、「法隆寺」の地下から別の寺院跡が発見されており、こちらが「斑鳩寺」であると考えられるからです。
 また、「法隆寺東院」の地下からも「遺構」が発見され、これについては「斑鳩宮」跡と推定されているようです。この「遺構」には火災の痕跡が確認され、「書紀」の記事から、「皇極二年」(六四三年)のことと考えられています。
 この「斑鳩宮」は「書紀」によれば「聖徳太子」が自身の宮として営んだものとされています。

「六〇一年」九年春二月。皇太子初興宮室于斑鳩。

 これに拠れば「斑鳩寺」とほぼ同じ時期に「造られた」と見られます。

 ところで、「聖徳太子傳補闕記」の記事によれば「乙卯年」の記事に連続して「庚午年四月卅日夜半有災斑鳩寺…」という記事が書かれています。しかし、「乙卯」の次の年は「庚辰」であり「庚午」ではありません。ここには明らかな錯誤か混乱があるわけですが、「東野治之氏」は其の論文(「文献資料から見た法隆寺の火災年代」)の中で、「火災記事」が「乙卯年」の翌年に配されているにも拘わらず「干支」が「庚午」であるのは、「書紀」に記された「法隆寺」火災記事が「庚午」であることとの関連で、「正しい」とされ、そのまま「六七〇年」の「庚午年籍」と結びつけられました。しかし、それでは「太子在世中」ではなくなるはずですが、それにはコメントされていません。
 これは「乙卯年」の翌年なのですから「本来」は「庚辰年」であったものを、「補闕記」の作者が「書紀」の表記に「引きずられ」た結果、「庚午年」と誤記したと考えるのが正しいと思われます。そうなると、「太子在世中」という考えからはこの「乙卯年」は「六一九年」、その「翌年」である「火災記事」は「庚辰年」の「六二〇年」と推定されます。この「直後」の「太子」の「愛馬」の記事も「辛巳」の年のこととして書かれており、この「辛巳」という干支が「六二一年」を示すことから、「前後」の干支の連続性が確保されているという点では「庚辰」年と解釈する方がはるかに良いと思われます。
 そもそも、この「補傑記」の「年次」は全て「六世紀後半」から「七世紀初め」の事と考えられますので、ここに「庚午年」という年次で記事が挿入されている事自体が甚だ不審であり、疑わしいものです。

 また、後半部分には「寺」に仕える「奴婢」同士の「争論」があり、それを「寺」つまり「斑鳩寺」の「法頭」が裁定している様子が描かれています。

「聖徳太子伝傳補闕記」
「…家人馬手 草衣之馬手 鏡 中見 凡波多 犬甘 弓削 薦 何見等 並爲奴婢。黒女 蓮麻呂 爭論。麻呂弟万須等 仕奉寺法頭。家人奴婢等根本妙ヘ寺令白定。麻呂年八十四 己巳年死。子足人 古年十四年壬午八月廿九日出家大官大寺。 麻呂者聖コ太子十三年丙午年十八年始爲舍人。癸亥年二月十五日始出家爲僧云云…」

 記事の中ではそれ以前に「斑鳩寺」は焼亡してしまっていますから、一般にはこの「争論」記事はその後のことと考えられていますが、「補傑記」の冒頭にもあるように、この「元」となった資料は「ふたつ」あり、この後半部分は、「火災」を記した「前半」とは別資料と考えられ、年次が連続しているとは断言できません。
 この段階で「寺」と言って何の注釈も入れていないのは、まだ「斑鳩寺」が存在していることを示すとも推測され、「斑鳩寺」がまだ存在している段階で起きた争論に対して、その解決に中心的役割があったとする「付会」の文章であると考えられ、「年次」を拘束するものではないと考えられます。
 これについて「東野氏」は「庚午年籍」造籍と関連しているものと考えられたようですが、推定される年次が「干支一巡」繰り上げて考える必要がある事や、また「斑鳩寺」があった時期を考慮する必要があるとすると、「庚午年籍」ではないこととなります。
 「六二〇年」という年次に「急いで」「奴婢達」の身分について確定する必要があったとすると、やはり「造籍」と関連しているのは確かであると考えられますが、そうであれば「正倉院」に残る戸籍からの分析として「女子人口」のピークが確認される「最古」の年が「六三〇年」であることとつながります。これはその十年前に「造籍」が行なわれ、戸籍がその時点で確定したことを示すものであること、その際「班田給付」も行なわれたことも示すと考えられます。その時点以降「十年後」の再造籍までに生まれた子供達を「一括」して記録したものです。この「六二〇年」はその「起点」となった年であり、この年次で最初の造籍が行なわれたことを示すと思われます。
 更に、同じく「正倉院戸籍」における「筑紫」地方の戸籍の様式が「両魏式戸籍」と近似していると判断される事ともつながるものでしょう。この「両魏式戸籍」は「隋」の時代以降は行なわれていないわけですから、「遣隋使」によってしかもたらされるはずのないものだったと言えます。であるとすると「六二〇年」という年次は、まさに「遣隋使」によりもたらされたその瞬間と言っても良いぐらいのものですから、ここでの造籍を想定することは合理性があることとなります。
 
 またこう考えると、六七〇年の「火災記事」は「事実ではない」ということとなります。
 確かに「法隆寺」に伝わる伝承では「創建以来」「火災」には遇ってはいないとされています。火災にあったのは「法隆寺」の「前身寺院」であり、「法隆寺」そのものではないということです。
 そもそも、「若草伽藍」と「法隆寺」はその「配置様式」から全て異なるものであり、同じものを再建したものではないわけですから、この時点では「新築」か「他からの移築か」いずれかしか考えられないのは明らかです。
 それを考える場合、「法隆寺」の各所に使用されている部材の年代が参考になると考えられます。その中には、かなり「新しい」ものも含まれており、これは「創建のままである」という伝承とは矛盾することとなります。ただし、古い部材もかなりの割合を占めており、逆に考えると、「法隆寺」がもし新築された建物であるなら、このように古い部材がなぜ多いのかを説明する必要がある事もまた確かでしょう。
 伐採された部材を「寝かせる」期間は、それが「太く」「長い」部材である場合は「あばれる」量が多くなり、寸法に狂いが出るものですから、長めに取るでしょう。(十年以上など)しかし、端材などの場合はそのような懸念も少ないわけですから、それほど長い期間は必要ないものと考えられ、せいぜい二〜三年と考えられます。
 「法隆寺」の場合「年輪年代測定」された部材の一番早期(古い)のものは、「金堂」の場合で「六五〇年」と測定されており、「最新」との差は二十年以上となるわけですが、「五重塔」の場合はもっと広く「心柱」を除いても「五十年」以上の年代差があります。
 もし「新築」であるとするともう少し伐採年代が揃っているものと思料され、そのことからも「新築」ではないと推察され「移築」である可能性が高くなります。そう考えると「新しい」と考えられる部材の年代は限りなく「移築」の年次に近いことが考えられます。
  一般に新築の場合は「法興寺」などがそうであったように「山に入る」などして「新しい部材」を調達します。しかし「法隆寺」には逆に「新しい」と考えられる部材もまた少ないわけですから、「少なくとも」「新築」された建物ではない、という事が言えると思われます。「新築」された建物でなければ、それは「移築」としか考えられません。
 「最新」の伐採年代が「六七〇〜六七三」年付近であると言うことは、その「直後」付近の年次が「移築」の年次ではないかと推定されるものであり、「六七五年」付近が想定できるものです。

 つまり、「斑鳩寺」は「六二〇年」に火災に遭い、焼失してしまったものであり、その跡地に「法隆寺」を移築したのです。その「法隆寺」は「筑紫」に「六〇七年」に建てられたものであり、それは「阿毎多利思北孤」のために「利歌彌多仏利」が建てたものと考えます。
 そして「火災」があったとされる「庚午年」(六七〇年)という年次は、「移築」が「決定」した年次であったのではないでしょうか。そして、以前からここに「法隆寺」があったことを「装う」為に「火災記事」を置いたものと思料します。
 
  また「法起寺露盤名」によると「上宮聖徳王」の遺言により「福亮法師」が「法起寺」の「堂宇」(金堂)を建てたとされていますが、この「法起寺」はその「形式」が現行の「法隆寺」の形式と違い、「東面金堂」と考えられています。この形式は「法隆寺」の解体調査から判明した「法隆寺」の元々の形式に非常に近似していると思われ、参考にされたのが少なくとも「現行」の「法隆寺」でないことは明確です。
 逆に言うと、「原形式」で建っていた時点における「法隆寺」に「準拠」しているとも考えられ、建立された「戊戌年」(六三八年)という時点で「移築」前の「原・法隆寺」が建っていた証拠であるとも考えられます。


(この項の作成日 2003/01/26、最終更新 2012/08/07)


前へ 次へ
法隆寺の創建について に戻る