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「狭山池」との関連

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 これら「官道」の時期を推定するのに参考となるのが「狭山池」の造成年代です。
 「狭山池」については「記紀」では「垂仁紀」に記載されていますが、「東側」の「樋」に使用されていた木部(コウヤマキ)の年輪年代測定の結果から「六一六年」という年代が得られており、また「難波大道」につながる「大津道」「丹比道」や「飛鳥盆地」を南北に貫通する「上ツ道」等の「古代官道」の盛り土からは「七世紀初頭」と思われる「土器」が出ているなどの考古学的事実があります。
 また「狭山池」の「堤」の構造を見ると「基層部分」に「敷き枝工法」が使用されており、「筑紫」に築かれた「水城」や「古代官道」の基礎構造と共通した技術が使用されていると見られ、それらを踏まえると(特に土器編年は盲信できませんが)、これらがほぼ同時期の施工である可能性が強く、「阿毎多利思北孤」とその「太子」「利歌彌多仏利」の為した事業である可能性が強いと思われます。
 (最も「敷き枝工法」そのものは「壱岐」の「原の辻遺跡」から確認されるなどかなり時代を遡る年次から使用されていたと見られますから、この事だけからは時代特定はできませんが)
 
 また、発掘の検討からの推論として、そこが以前から小規模な池であり、それが「推古朝」に拡大、整備されたというような推測が成立できないことが判明しています。このことは「垂仁紀」記事には「潤色」があることが明確になったと考えなければなりません。(それは「埴輪」記事から既に明らかですが)
 それと同時に、「依網池」についても複数の起源が書かれていて、その最終が「推古紀」であることも重要です。それは「狭山池」と同じ性格の記事である可能性が高いことが示唆されるものであり、「狭山池」同様「推古朝期」(七世紀初め)という時代に整備された池であるという可能性が高いことを示すものではないでしょうか。
 このような「各諸国」を貫通するような「官道」というものが、それら「諸国」を統合するような、「強大」な権力者の元で構築されたと考えるのは当然ですが、他方、このような「官道」がその「強大な権力者」の構築した「階層的行政制度」と共にあったと考えるのも不自然ではありません。
 そのような人物が「国郡県制」を施行し、律令を諸国の末端のまで行き渡らせようとしたと考えると、「制度」もさることながら、物理的に中央と各諸国を結びつける「道路」の存在は不可欠であったと考えられるからです。

 また、この「官道」整備事業が「書紀」に(全く)記されていないこともまた重要です。その時期、労働力の確保と資金調達の方法、等々が一切不明となっています。この事は「評制」などと同様「八世紀」の「新日本王権」から「忌避」「隠蔽」されていると考えられることを示しています。
 このことに関して「改新の詔」の中に「駅伝」と「騨馬。傳馬。及造鈴契」が定められたと言うことが書かれています。

「其二曰。初修京師。置畿内國司。郡司。關塞。斥候。防人。騨馬。傳馬。及造鈴契。定山河。(中略)凡給驛馬。傅馬。皆依鈴傅苻剋數。凡諸國及關給鈴契。並長官執。無次官執。」

 この「改新の詔」にはその「時期」と「内容」について疑いの目が向けられていますが、「改新の詔」自体は「六世紀末」から「七世紀終わり」まで「複数回」出されたものと考えられ、「阿毎多利思北孤」によって出されたものが「最初」のものであったと見られます。その中に既に上に見るような「駅伝」や「騨馬。傳馬。及造鈴契」などについての規定が定められていたと考えるのは、上で見た「考古学的史料」と整合するものであり、これが事実である可能性はかなり高いといえるでしょう。

 「古代官道」のうち「難波大道」に続いて「筑紫」(太宰府周辺)と「畿内」及び、それを繋ぐ「山陽道」が造られたと考えられる訳ですが、「筑紫」では「外国使者」の迎賓館である「鴻廬館」と「筑紫宮殿」を結ぶものを始め、各所に「網目状」に建設されていたのが確認されています。
 この「官道」は「筑紫都城」の「南端」と「北端」に二本とりつくように伸びているのが確認されており、しかも「南端」側の「官道」は「鴻廬館」にまっすぐつながっており、「外国使者」などが「宮殿」に来る際に「都城」の南端から「都城中心軸」である「朱雀大路」を北上していくコースをとることとなるように造られており、「使者」に対してある種の「威圧」効果があったものと推定されます。
 更に「肥前」へ伸びるものなど「太宰府」から「六本」の官道が伸びているのが確認されていますが、これは「近畿」から放射状に伸びる「官道」(東山道など)が「六本」であることと共通しています。これを「太宰府」が「模倣」したものという説もありますが、実態はその「逆」ではなかったかと考えられ、その「官道」の性格から考えて、当初「太宰府」から各方面に伸びる「軍事的計画道路」であったものと考えられますが、それが「近畿」に到達した時点以降は「東国」などの「統治」のために「二次的」に延伸されたものと考えられ、それが実現するのが「難波朝廷」の時代のことと考えるべきものと推察します。


(この項の作成日 2012/03/15、最終更新 2014/11/29)

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