「書紀」によると「六四七年」に「冠位」が改定されていますが、それから「僅か」二年後に更に「再改定」されたこととなっています。
「(大化)三年(六四七年)是歳。制七色一十三階之冠一曰…」
「(大化)五年二月。制冠十九階。…」
このような、異常な短期間で「冠位制」が「全く」異なる体系に改められたということは、「無批判」には受け入れがたいものです。このような短期間での改定には「明確な」理由があるはずですが、それらを提示・説明したものはいまだ見あたりません。(書紀にもその契機となるようなことが何も書かれていません)
またその前の改定(制定)が「六〇三年」の「冠位十二階」であり、「六四七年」まで「四十三年間」という長きに亘って何の改定もされずに来たことになりますが、それも甚だ考えにくいことです。特に「阿毎多利思北孤」から「利歌彌多仏利」というように代が移っているわけですから、なお、「冠位改定」がその時点で行われなかったとすると不審といえるのではないでしょうか。
さらにいえばこの「冠位十二階」の制定が「隋」との国交開始時点付近ではなかったかと推定されることから、その年次はさらに遡上することとなり、「六九〇年」付近がその年次として考えられることとなります。そうであれば、六四七年の改定は約六十年近い期間を経て改定されたこととなり、その期間の長さは不審といえるものです。
そもそも「冠位」の改定は「六四九年」以降についていえば、「六六四年」「六八五年」「七〇一年」とほぼ「十五年−二十年」ほどの間隔で行われ続けてきていたものであり、このことはそれ以前も同様であった可能性を示唆するものです。つまり、この「六四九年」の改定の直前の「改定」である「六四七年」についていえば本来「五九〇年」付近から約二十年程度を経て行われたと見るのが相当であり、「七世紀初め」の「六一〇〜六二〇年」付近が想定されます。さらにその次の改定は「六三〇〜六四〇」年付近ではなかったかと考えられることとなりますが、これは「唐使」として「裴世清」が再度「倭国」を訪れたと考えられる年次の至近とも考えられることとなります。
これらの状況は「冠位」の改定という事業の動機として十分であると考えられるとともに、「冠位改定」の「間隔」からしてもかなり合理的なものとなります。つまり、「六四七年」ではなく「六二〇年」付近であったとすると「隋」から「唐」へという中国の情勢変化への対応と言うことも考えられる点などからも不自然ではなくなります。
そもそも「冠位制」は本来固定されるべきものではなく、「時代の進歩」に追随して変化対応するべきものと考えられますから、一定の変遷があって然るべきですが、それが「書紀」に書かれているような「不規則」な変遷となるとすると、はなはだ「不審」ではないでしょうか。
さらに、この「冠位改定」記事(大化三年是歳条)(六四七年)の末尾に「四月七月齋時所着焉」というように書かれている事にも注目です。これは新しく制定された「冠」と「朝服」について、「四月」(灌仏会)と「七月」(盂蘭盆会)の際に着用するように、という規定が定められたというわけですが、この「四月」と「七月」の「斎時」の「儀式」については以下の「推古紀」の「六〇六年」の記事が初出です。
「(推古)十四年(六〇六年)夏四月乙酉朔壬辰。銅繍丈六佛像並造竟。是日也。丈六銅像坐於元興寺金堂。時佛像高於金堂戸。以不得納堂。於是。諸工人等議曰。破堂戸而納之。然鞍作鳥之秀工。以不壌戸得入堂。即日設斎。於是。會集人衆不可勝數。『自是年初毎寺。四月八日。七月十五日設齊。』」
つまり、「元興寺」に「丈六銅像」が納まった時点以降、「灌仏会」と「盂蘭盆会」が始まったというわけです。(仏陀の誕生日に併せて「仏像」を金堂に納めるという計画であったようです)
そして、この記事以降にはこの「灌仏会」と「盂蘭盆会」についての記事は全くなく、「孝徳紀」のこの冠位制改定記事の中で「唐突」に「四月七月」というように書かれているわけですが、これもまた不審な事と思われます。この「冠位改定」の時まで「灌仏会」と「盂蘭盆会」の際に着用する「服」等が決まっていなかったとも考えにくいものであり(それは上に見たようにこの「設斎」がきわめて「フォーマル」なものだからです。)、そう考えると、使用すべき「服」の制定とそれに対応する「冠位」というものが同時期に決められたものと考えるべきであり、それは「推古紀」の「法会」が国家的行事として決められた時点が最も相当するのではないでしょうか。
この「丈六」の「佛像」は「天皇」の發願を初めとして「皇太子以下諸臣に至るまで」「相發願した」とされ、そのような経緯で搬入されることとなったわけですから、それを「記念した」とも考えられる「灌仏会」と「盂蘭盆会」が「私的」な催しであるはずがなく、それに参加するために着用する衣服等についても国家的な決まりがあったと考えて当然です。
この「元興寺」の「丈六仏像」建設については「隋」の「高祖」(文帝)からの援助があったと考えられ(後述)、そう考えるとその本来の建設時期は「開皇年間」であると思われ、「開皇末年」に「文帝」を激怒させる事件の以前であることが推察されますから、「五九四年」付近ではないかと考えられるでしょう。この時点ですぐに「服」が決められたはいいきれないものの、少なくとも次回の冠位改定の時期と推定される「六二〇年」付近において「法会」に使用する服装について決められたものと推量します。。
(この項の作成日 2011/08/28、最終更新 2014/11/26)