「薄葬令」についての考察から、この「詔」が「六世紀後半」及び「七世紀初め」の二回に渡って出されたものと推定したわけですが、その時代に造られた、いわゆる「古墳時代終末期」の古墳である、「方墳」と「円墳」について見てみると、この「薄葬令」の中では規定している「寸法」と著しく相違しているのが分かります。
いわゆる「古墳時代終末期」(六世紀後半から七世紀)には「前方後円墳」以外の各種の古墳が確認されますが、その中でも特に良く見られる「方墳」と「円墳」のうち、代表的なもの(サイズの大きいもの)について調べてみると、以下のようになっています。
(ア)「方墳」
「方墳」では「龍角寺岩屋古墳(千葉県)」:「78メートル四方」、「宇摩向山古墳(愛媛県)」:「70メートル×46メートル」、「駄ノ塚古墳(千葉県)」:「62メートル四方」、「山田高塚古墳(大阪府)」:63メートル×56メートル」)、「石舞台古墳(奈良県)」:「50メートル四方」などがあります。
(イ)「円墳」
「円墳」では、「山室姫塚古墳(千葉県)」:(以下いずれも直径)「66メートル」、「ムネサカ一号墳(奈良県)」:「45メートル」、「峯塚古墳(奈良県)」:「35メートル」、「牧野古墳(奈良県)」:「50メートル」などが代表的なところのようです。
これらはいずれも「薄葬令」に言う、最大長でも「其外域方九尋」という規定には則っていないように見えます。
「薄葬令」の「大きさ」(外寸)に関する部分の抜粋
「甲申。詔曰。朕聞。(中略)夫王以上之墓者。其内長九尺。濶五尺。其外域方九尋。高五尋役一千人。七日使訖。其葬時帷帳等用白布。有轜車。上臣之墓者。其内長濶及高皆准於上。其外域方七等尋。高三尋。役五百人。五日使訖。其葬時帷帳等用白布。擔而行之。盖此以肩擔與而送之乎。下臣之墓者。其内長濶及高皆准於上。其外域方五尋。高二尋半。役二百五十人。三日使訖。其葬時帷帳等用白布。亦准於上。(以下略)」
ここで「大きさ」の単位として使用している「尋」は、「両手を広げた」長さと言われ、主に「海」の深さの単位として知られています。
その長さとしては「1.8メートル程度」という説もありますが、この長さはおよそ身長に等しいとも言われ、古代の人がそれほど高身長だったとは思えず、実際にはおおよそ「一歩」(=六尺)と変わらなかったものと考えられます。(但し「説文」では「八尺」が「尋」であるとされています)
前記したように「周尺」として「18cm」ほどが倭国で地長期間に亘り使用されてきたと推定したわけですが、「尋」は「説文」では「八尺」とされています。これを採用した場合「一尋」は「1.44m」ほどとなります。(「六尺」というのは「23cm」ほどの場合ではないでしょうか)
これから計算すると、「薄葬令」に規定する「諸王以上」の墳墓の「外域」の大きさとして書かれた「九尋」は「十三メートル」ほどにしかなりませんから、上に見る「終末期古墳」の大きさとは、まったく整合していないのが分かります。
もし、これらの「方墳」や「円墳」がこの時点で「薄葬令」が出され、それに基づき造られたものとすると、その規定に合致しない理由を別に考える必要があります。
これを「薄葬令」を「無視」した、あるいは「令」の値は「単なる基準値」であり、堅く守る必要がなかったと考えられなくはないですが、この時代の「倭国王」の「権威」の強さを考えると、そのような「無視」ないし「軽視」が通用するものか、かなり疑問です。
この時の倭国王「阿毎多利思北孤」あるいはそれを嗣いだ「利歌彌多仏利」は、それまで「倭国」で決して見られなかった「全国一斉」に何事かを為すということを可能とした最初の人物であり、それまでの「倭国王」とは「権力」の強さに大きな差があると考えられます。そのような中で出された「詔」がしっかり守られないということは考えにくいものです。そうであれば、「大きさ」の違いには別の理由があると考えなければいけなくなります。
たとえば、「薄葬令」中に示されている基準値(13m程度)に対する「比」を算出してみると、上の「方墳」や「円墳」の大きさは最大でも「6倍」程度の値となります。
このように「基準値」に対してある一定以上大きくはないということから、「上限」が「ルール」として存在しているように見えます。このように「墳墓」の大きさに「上限」があるように見える事と「薄葬令」とはやはり関連していると思われ、そこで示された基準値との違いは、考えられるものとして、「短里」と「長里」という「単位系」の違いがあるように思えます。
たとえば、これらの墳墓造成の際に使用された「尺」ないし「歩」(尋)は「長里」系に属するものであると考えると整合するかも知れません。あるいは、それまで「短里」系であったものをこの時点の至近の年次に「長里」系に変更したという可能性も考えられます。
古墳の大きさに示されている「最大比」としての「六倍」という値は、「短里」と「長里」の大きさの比を表しているという可能性があるように思えます。
「隋書倭国伝」によれば「開皇二十年」(六〇〇年)及び「大業三年」と「四年」に「遣隋使」が「倭国」から派遣されてきています。(但し、この派遣記事はそれ以前に行われたものが、この年次に移動されて書かれていると推定されます)
彼らにより「隋」の制度等が持ち帰られ、それを「倭国」に適用・導入したと考えられるわけですが、その場合「隋」から「度量衡」も導入され、「長里」系に変わったという可能性が考えられます。
例えば「戸籍」については「正倉院文書」中の「大宝二年戸籍」の解析から、「北部九州諸国」は「隋代」まで北朝で使用されていた「戸籍」(両魏式)と「様式」が酷似していることが確認されていますが、この「戸籍」が「隋」では「班田制」の前提であったことを考えると、「倭国」でも「班田制」やそれに必要な「地割制」などについても「隋」から学んだという可能性が考えられます。(全国的展開が行われたかどうかは別として)そうすると、「地割」に必要な「長さ」や「距離」の単位も含めて導入されたと考えられる事となり、その場合「単位系」が変更になったという可能性があります。逆に「遣隋使」派遣により各種の知識を吸収したとすると、この時点で「隋」で使用されていた「基準尺」が導入されなかったとすると不審でさえあります。
上に見たようにそれまで「倭国」で使用していた「魏晋朝」の「単位系」(「古周制」)では、「尺」(周尺)は「18-23cm」程度であったと思われます。それに対し「歩」(周歩)は「77m」の三百分の一、つまり「25.7cm」程度であったと思われ、このように「周尺」と「周歩」は似たような長さであったものですが、「隋制」が導入された時点で「尺」と「歩」の関係は「六尺一歩」という規定に拘束されることとなったと考えられます。
それまで、「尋」は「六尺」ないしは「八尺」とされていたものですが、この時点で「倭国」では「尺」と「歩」が「そのまま」互換されることとなり、「尋」は「六歩」で表されることとなったと思われます。
そうすると「尋」は「三十六尺」に等しいこととなり(「六尺一歩」ですから)、「10m」程度まで拡大したものと思料されます。その結果「薄葬令」に示す基準値である「九尋」は「約13m」から「約90m」程に拡大されることとなり、さらに「七尋」は「70m」ほど、「五尋」は「50m」ほどとなったものと思料されます。
これらの数字は、上に見た現存する「終末期古墳」の大きさを超えないものであり、「上限値」として機能していることが推定されます。つまり、「薄葬令」は確かに「六世紀後半」に出されたものであり、その時点において、「単位長」及び「建築系」と「測地系」の換算を「変更」を併せて行なったものと思料されます。
ところで、この「薄葬令」による「墳墓造営」については「邪馬壹国」の「卑弥呼」の墓についても言える可能性があります。
当時「倭国」は「魏」から軍事顧問団を受け入れており、自分も部下も「魏」の天子から印璽を受け、「魏」の軍隊の「階級」をもらっています。これらから見ると、「卑弥呼」が、というより「倭国政権」が「魏」の配下の諸王国のひとつとして存在していたことは間違いなく、(少なくとも)宮廷内部では「魏」の法令に拠っていた可能性は高いと思われます。そして、その代表的なものが「葬制」であったと考えられます。
「魏志倭人伝」には一般の民衆の「葬制」については書かれていますが、王のレベルではどうであったのかと言うことが不明です。しかし、「卑弥呼」に限って言えば、彼女は「魏」の配下の「諸王」として生き、そして死んでいったわけですから、「魏」の「薄葬令」に則ってその「墓」が作られた可能性が高いものと思われます。
「魏」では「曹操」の遺詔により定められた「薄葬令」(「二〇五年」に、「石室・石獣・碑銘」などを設置したり、豪奢な葬礼を行なったり、あるいは墓碑を立てることを禁止する、などの事が詔として出されたもの)をそのまま「文帝」も受け継いでいたのです。
当然「卑弥呼」もその「詔」に則った「墓」を造成することとしていたでしょう。
そして「倭人伝」中には「卑弥呼」の墓の大きさとして「径百余歩」という表現が使われています。「三国志」全体から帰納した結論によると「墓」(ないしは塚または冢)の大きさに「径」という表現を使用している場合は「円墳」、つまり全体の形が円形であると言うことを表しています。(というより「当時の魏晋朝」には「円墳」しか存在していません)
この用語が使用されている、ということは「卑弥呼」の墓も「円墳」(少なくとも円に近い形)であったという証明になるものと考えられます。
この「百余歩」とは実際には「百八歩」を意味するのではないかと考えられます。それは「孝徳紀」の薄葬令で「王墓」としての大きさの指定が「方九尋」とされていて、これを含む「薄葬令」全体が「魏の文帝」の遺詔の換骨奪胎として知られていますから、この「魏」の段階に於いても、その大きさについて「王墓」としては「九」×「単位長」となっていたという可能性が考えられるからです。(「九」は易経で極値として考えられいることから、最大値を表す寓意があると思われます)
そうであれば「単位長」とは「十二歩」であることとなります。そう考えると実体としては「二×六歩」である可能性が高いと思われます。
「二」とは「静歩」と「動歩」の換算であり、両足の大きさ(足長)を足して「一歩」とする考え方によるものと思われ、それを「六倍」して初めて「歩測」幅となったと見られます。この部分が「歩」とは別の単位で呼称されていたものと思料されます。これが「尋」だったのではないかと考えられ、当時から「六歩」つまり「1.44m」という長さであったと思われます。
「尺」は「手指」の長さから作り上げられた基準尺であり、「歩」は本来「足」の大きさからできた「基準尺」です。「手」より「足」の方が大きいのですから、当然「尺」より「歩」の方がやや大きい数字となると考えられます。
「周尺」は「18.0-23.1cm」ほどと(時代によりやや異なる)復元されていますが、「周歩」の方は「原器」となるものが見つかっておらず「直接」「復元」できていません。逆に言うと「周髀算経」などから「復元」する方向で論理展開する必要があるのです。
これに関しては「周髀算経」からは「76−77m」程度という「里」数が導き出されており、さらに「筑紫都城」の「坊」の規格として「90m」という数字が存在しており、その長さは「隋」の「大興城」の「朱雀大路」の両脇の「坊」の長さからヒントを得て造られたと考えられることから、と「三百歩」としての「一里」は「77.1m」として復元できます。(一歩は25.7cmとなります)
この事から考えて、「卑弥呼」の墓の大きさは「0.257×108」つまり「27.76m」ほどとなる可能性が強いと思われます。
(この項の作成日 2012/10/23、最終更新 2012/12/29)