「七世紀」に入ってすぐの頃に「全国」で一斉に「前方後円墳」の築造が停止されます。正確に言うと「西日本」全体としては「六世紀」の終わり、「東国」はやや遅れて「七世紀」の始めという時期に「前方後円墳」の築造が停止され、終焉を迎えます。
西日本(特に北部・中部九州地域)では「六世紀」を通じて徐々に減少していたものではありますが、この時期になり、「前方後円墳」に限って全く作られなくなるわけです。
この列島の「東西」での「時間差」の原因は、この「築造停止」の「発信源」が「近畿」ではなく「筑紫」であったことと、「東国」の「行政組織」が「未熟」であったことがあると思われます。
この時の「権力中心」が「近畿」にあるのなら、列島の「東西」に指示が伝搬するのに「時間差」が生じる理由がやや不明ですが、「発信源」が「筑紫」にあったと考えると「時間差」はある意味必然です。
当然「権力」の及ぶ範囲が「西日本」側に偏ることとなるものと思われ、「倭国」の本国及び近隣の「諸国」と「遠距離」にある「諸国」との「権力ベクトル」(向きと力)の「差」がここに現れるものとなったと考えられます。
また、より重要なことは「推古二年」に出されたとされる「寺院造営」を督励する詔です。
「(推古)二年(五九四年)春二月丙寅朔。詔皇太子及大臣令興隆三寶。是時諸臣連等各爲君親之恩競造佛舎。即是謂寺焉。」
この「詔」により、「前方後円墳」で行われていた「祭祀」が取り止められることとなったと考えられます。つまり、「前方後円墳」で行われていた「祭祀」は「統治−被統治関係」を表す非常に重要なものであったものであり、上の「詔」を承ける形で書かれている「諸臣連等各爲君親之恩。」という言葉がキーワードとなるでしょう。
そもそも「前方後円墳」で行われていた「祭祀」は、「服属儀礼」の意味合いが強いものであったと思われ、上の「詔」の「君親の恩」というものを「形」として表したものであったと思われます。それを今後は「仏教形式」で行うように、という指示であったと思われ、そのため「前方後円墳」が築造されることがなくなったものと考えられるものです。
当初「西日本」が先行するのは「阿毎多利思北孤」の仏教行脚の影響と思われますが、その時点(五九二年前後)東国には「行政組織」が未熟で、倭国王の指示が貫徹されなかったものと思われると同時に、東国の各地域の王達との間に強力な「統治−被統治関係」がまだ構築されていなかったという可能性があるでしょう。
その後「阿毎多利思北孤」が「派遣」した「遣隋使」が携えた国書をめぐりトラブルとなった結果、責任をとって「隠居」し「法王」となり、「天子」の座を「利歌彌多仏利」に譲った後、彼により積極的な「隋」の文化の導入を図った結果、「州県制」を模した「国県制」が導入され、それとともに「東国」に「総領」を派遣して「代理」統治させたことによって、「行政制度改革」が実施され、きめ細かな統治が可能となったものです。この時点で「倭国中央」からの指示・指令である「前方後円墳」の築造停止と「寺院建築指令」が強力に伝わったと推測されます。これが「七世紀の初め」という時期に「築造停止」に至る主たる要因であったと思慮されるものです。
つまり、この時点で「明確」な形で「前方後円墳」についての「築造停止」が出されたと思われるものであり、それが「薄葬令」であったと考えられるのです。
「薄葬令」は「書紀」では「七世紀半ば」の「孝徳紀」に現れるものですが、従来から「薄葬令」に適合する「墳墓」がこの時代には見あたらないことが指摘されています。そのため、より遅い時期である「持統紀」付近に出されたものではないかという見方もありました。
しかし、考古学的に見て「六世紀末」という時期に「西日本」を中心として「前方後円墳」の築造が停止されるという事象が存在しているわけであり、その年次と「薄葬令」とは「三十年」ほどの時間差があることとなりますが、それが何によるものかは理由として「説明」できていませんでした。実際にはそれは「書紀」編纂者による「潤色」という資料操作によるものであると考えられるわけです。
この「薄葬令」の中身を見てみると、「前方後円墳」の築造停止に直接つながるものであることが分かります。
「甲申。詔曰。朕聞。西土之君戒其民曰。古之葬者。因高爲墓。不封不樹。棺槨足以朽骨。衣衿足以朽完而已。故吾營此丘墟不食之地。欲使易代之後不知其所。無藏金銀銅。一以以瓦器合古塗車蒭靈之義。棺漆際會。奠三過飯。含無以珠玉無。施珠襦玉■。諸愚俗所爲也。又曰。夫葬者藏也。欲人之不得見也。迺者我民貧絶。專由營墓。爰陳其制尊卑使別。夫王以上之墓者。其内長九尺。濶五尺。其外域方九尋。高五尋役一千人。七日使訖。其葬時帷帳等用白布。有轜車。上臣之墓者。其内長濶及高皆准於上。其外域方七等尋。高三尋。役五百人。五日使訖。其葬時帷帳等用白布。擔而行之。盖此以肩擔與而送之乎。下臣之墓者。其内長濶及高皆准於上。其外域方五尋。高二尋半。役二百五十人。三日使訖。其葬時帷帳等用白布。亦准於上。大仁。小仁之墓者。其内長九尺。高濶各四尺。不封使平。役一百人。一日使訖。大禮以下小智以上之墓者。皆准大仁。役五十人。一日使訖。凡王以下小智以上之墓者。宜用小石。其帷帳等宜用白布。庶民亡時收埋於地。其帷帳等可用麁布。一日莫停。凡王以下及至庶民不得營殯。凡自畿内及諸國等。宜定一所。而使收埋不得汚穢散埋處處。凡人死亡之時。若經自殉。或絞人殉。及強殉亡人之馬。或爲亡人藏寶於墓或爲亡人斷髮刺股而誄。如此舊俗一皆悉斷。或本云。無藏金銀錦綾五綵。…」
この「薄葬令」は中国に前例があり、最初に出したのは「魏」の「曹操」(武帝)ですが、それは子息である「曹丕」(文帝)に受け継がれ、彼の「遺詔」として出されたものが「三国志」に見られます。この「薄葬令」の前段にもそれが多く引用されているのが確認できます。倭国でもこれを踏まえたものと見られます。但し、それがこの時期に至って参照され、前例とされているのには理由があると思われ、「仏教」の拡大政策が始められることと関係していると思われます。
この「孝徳」の「詔」では、たとえば「王以上」の場合を見てみると、「内」つまり「墓室」に関する規定として「長さ」が「九尺」、「濶」(広さ)「五尺」といいますからやや縦長の墓室が想定されているようですが、「外域」は「方」で表されており、これは「方形」などを想定したものであることが推定される表現です。「体系」の「注」でも「方形」であると明言しています。もっとも、この「方〜」という表現は「方形」に限るわけではなく、「縦」「横」が等しい形を表すものですから、例えば「円墳」等や「八角墳」なども当然含むものです。
「易経」によれば一から十までの数字を「奇数」と「偶数」に分け、「奇数」が「陽」であり「天」であるとされました。「九」は「天数」の中の最大であり「極値」です。このため「最大値」を表す意味で「長径」を「九」という数字で表していると思われます。
ちなみに「方」で外寸を表すのは以下のように「魏志倭人伝」にも現れていたものです。
「…又南渡一海千餘里、名曰瀚海。至一大國。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。『方可三百里』、多竹木叢林。有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。…」
このような表現法はこの「島」の例のようにやや不定形のものについても適用されるものです。ただし、「墳墓」が不定形と言うこともないわけですが、かなりバリエーションを含む表現であることは確かでしょう。
ただし、主たる「墳形」として「円墳」を想定しているというわけではない事は、「倭人伝」の卑弥呼の墓の形容にあるように「径〜」という表現がされていないことからも明らかです。大きさに「径」を用いる表現は「円墳」に特有のものと考えられますから、このような表現がされていないこの「詔」の場合は「円墳」を想定したものではないと思われます。ただし、いずれにせよ、明らかに「前方後円墳」についての規定ではないことも分かります。
この「薄葬礼」に従えば「墳墓」として「前方後円墳」を造成することは「自動的に」できなくなるわけですが、「前方後円墳」の築造が最終的に停止されるのが考古学的に見て「七世紀前半」と考えられるわけですから、この「墳墓」の形と大きさを規定した「薄葬礼」が出されたことがその直接の「理由」ないし「原因」と考えるのが自然です。つまり、実質的にこれが「前方後円墳禁止令」であったものと思われるわけです。
このような「令」を出すこととなった背景としては、一般には「盗掘」を恐れたこと、墳墓の造成に伴う多大な出費と人民の労力の負担を哀れんだ為であるとされているようですが、その実は「仏教」推進のためであり、それまでの「王族」クラスの「墳墓」であった「前方後円墳」に付随する伝統的な「祭祀」を禁止するためという目的もあったと考えられます。
この「前方後円墳」で行なわれていた「祭祀」の内容については「春成秀爾氏」により「復元的」研究がなされ、「竪穴式石室」を伴う古墳の場合、本来「円頂部」で行なわれていたものであったと考えられるようになりました。
これは「前王」が亡くなったあと行なわれる「殯」の中で「新王」との「交代儀式」を「霊的存在の受け渡し」という、「古式」に則って行なっていたものと考えられ、「仏教」的観念からは遠く離れたものであったことが推測できます。
それはこのような祭祀が仏教的観念からは遠く離れたものであり、それが仏教布教を推進するのに障害となると考えられたことと、「王」の交代というものが「神意」によるということになると、相対的に「倭国王」の権威が低下することを恐れたということもあり得ます。
この時「倭国王」は「統一王権」を造ろうとしていたものと推定され、「王」の権威を「諸国」の隅々まで行き渡らせようとしていたと推察されるからです。そのことは「冠位」の制定と関係していると考えることができます。
「書紀」によれば「冠位」の制定は「六〇四年」とされています。しかし「隋書倭国伝」には「六〇〇年」に訪れた「遣隋使」からの情報として「隋代」開始時点付近の「冠位制定」が記されています。
(以下隋書倭国伝の一節)
「開皇二十年(六〇〇年)…上令所司訪其風俗。使者言…頭亦無冠 但垂髮於兩耳上。 至隋其王始制冠 以錦綵為之以金銀鏤花為飾。…」
これによれば、「六〇〇年」に派遣された「遣隋使」が述べた「風俗」の中に「冠位制」について記されており、そこでは「至隋其王始制冠」とされており、文脈上「其王」とは「阿毎多利思北孤」を指すものと考えられますから、彼により「隋」が成立して以降の「六世紀後半」に「冠位制」が施行されたことを意味していると考えられます。(既に述べたようにこの「開皇二十年記事」は本来隋初のものであった可能性が考えられますから、その意味でも「隋制」を学んだ結果という可能性が考えられます、)
それはすなわち「諸国」の王達も「倭国王」支配下の「官人」として階級が定められたことになったものとなるわけであり、「倭国王」を頂点とする権力のピラミッド構造を構築しようとしていたと考えられるものです。
そうであれば「王」の交代というものに「倭国王」が介在しない形の「祭祀」が存在するのは問題であったかも知れず、これを避けようとするのは当然かも知れません。そのため、「古墳造営」に対して「制限」(特にその「形状」)を加えることで、そのような「古式」的呪術を取り除こうとしたものと推測され、そのため「前方後円墳」が「狙い撃ち」されたように「終焉」を迎えるのだと考えられます。
そのことは「埴輪」の終焉が同時であることからも言えそうです。「埴輪」の意義については各種の議論がありますが、「前方後円墳」で行われていた「祭祀」の重要な要素であると言う事と、「墓域」を「聖域」化するためのパーツであるというものがあります。これらについても「前方後円墳」の築造停止と共に消滅するものであり、これは「祭祀」が停止されたことに付随する現象であると考えられるものです。
ところで、「隋書倭国伝」では「殯の期間」として「貴人は三年」と表現されているのに対して、この「孝徳紀」の「薄葬礼」を見ると「凡王以下及至庶民不得營殯。」とされており、ここでは「王」以下については「殯」そのものが否定されています。さらに「隋書倭国伝」では「八十戸制」であると考えられるのに対して、「薄葬礼」では「五十人」の定数倍の人数が「役」(えだち)として決められており、ここでは「五十戸制」の可能性が強いと思われます。
これらの点などから見ても「薄葬令」は「遣隋使」により持ち帰られた制度であり、「北朝」の制度であると思われます。
既に見たように「遣隋使」の派遣時期についての考察から(※)、「六世紀末」の「隋初」段階で「遣隋使」が派遣され、「隋」から大量の文物が流入していたらしい事が推察されることとなりましたが、そのことから「墓制」についても「隋」に倣ったという可能性も考えられます。
「薄葬」は「唐代」に入って「厚葬」に漸次替わっていきますが、「南北朝」時代は「魏晋」以降の「薄葬」が継続していたと見られ、「隋」においても同様であったものと見られます。
「隋代」の高官の遺詔にも「薄葬」を述べたものが確認され、まだこの時代は「薄葬」が標準的であったものと思われますし、「隋」の「高祖」(文帝)もその遺詔の中で「…但國家事大,不可限以常禮。既葬公除,行之自昔,今宜遵用,不勞改定。凶禮所須,纔令周事。務從節儉,不得勞人。…」としており、基本的には「葬儀」を簡便にし、大規模な墳墓の造成や副葬品の埋納を禁止しているようです。実際に彼の墳墓なども発掘されていますが、(泰陵)副葬品は同時代の諸国の王とさほど変わらないという報告もあります。(※)
また「中国」では「王」クラスの墳墓は「方墳」が一般的であり、それが「薄葬令」に影響していると考えられるものでもあります。
これらのことから「阿毎多利思北孤」の治世期間と思われる「隋初」という時期に「薄葬令」が出され、それに基づき「前方後円墳」の築造が停止されたものと見て何ら不思議はないこととなります。
それに対しこれを「書紀」の記述の時期として「七世紀半ば」と想定すると明らかな「矛盾」があると考えられます。それは、この「薄葬令」の後半に書かれている「人や馬」などについての「殉死」禁止の規定です。
「…凡人死亡之時。若經自殉。或絞人殉。及強殉亡人之馬。或爲亡人藏寶於墓或爲亡人斷髮刺股而誄。如此舊俗一皆悉斷。…」
ここでは「殉葬」(あるいは「殉死」)等の「旧俗」の禁止が明確に書かれているわけですが、そもそも「殉葬」は「卑弥呼」の頃から「倭国」では行なわれていたものと考えられるものの、出土した遺跡からは「七世紀」に入ってからそのような事が行なわれていた形跡は確認できていません。「倍葬」が即「殉葬」とは考えられないものの、「殉葬」と「明確」に考えられる例や「馬」を「追葬」したと考えられる例などは「六世紀後半」辺りが時期的に限度であり、それ以降は見あたらないとされます。(※)
このことから考えて、この「詔」が出されるにふさわしい状況は「六世紀後半」段階までであったことが推定されます。また「少なくとも「七世紀半ば」にこのような内容の「詔」が出されたり、またそれにより「禁止」されるべき状況(現実)が存在していたとは考えられないのは確かでしょう。それが「七世紀終わり」ならなおさらです。
(この項の作成日 2011/08/28、最終更新 2014/05/19)