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「冠位制」について

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 「隋書倭国伝」の中では「官僚制」について、「内官有十二等 一曰大コ 次小コ 次大仁 次小仁 次大義 次小義 次大禮 次小禮 次大智 次小智 次大信 次小信 員無定數」と書かれており、「徳」及び「仁義礼智信」により冠位が定められています。これは「儒教」の五徳そのものです。
「聖徳太子」が定めたという「冠位十二階」は階の並び方が違っており、「徳」以下は「仁礼智信義」という順番になっていますが、この順番は儒教などに基づくものではありません。儒教の教典などで「仁礼智信義」という順番で出てくるものなどないのです。これらの順序は根拠不明というべきでしょう。明らかに、「隋書」に書かれた「倭国」の制度の方が普通であり、また納得できるものです。ただし、官位の順が異なっている以外は全て同じですから、これを別制度とまではいえないと思われます。これは相互理解が不十分の結果起きた誤解であったと考えられるでしょう。(またこれは「聖徳太子」の王権が「儒教」に基づいて制度を作ったものではないことを示しています)

 また、「隋書倭国伝」の別の部分(これは「隋使裴世清」の見聞を記したものと思料されます)に記すところによると、「隋使」が来たことを知ると、まず「十二階」中「二番目」である「小徳」という高位の人物を向かわせ、「倭国王」の「代理」として「歓迎」の「意」を表わさせた後、「旅の疲れ」が癒えたころに「七番目」という地位の「大禮」という「実務方」とも云うべき位の人物に「引率」させ「倭国王」に面会させているように見えます。
 これが「書紀」に記載する「冠位」でいうと「大禮」は「五番目」の高位の人物となりますから、格段に「丁重」な扱いをした事となるでしょう。

「隋書倭国伝」「…倭王遣小コ阿輩臺、從數百人、設儀仗、鳴鼓角來迎。後十日、又遣大禮哥多?、從二百餘騎郊勞。…」
 
 しかし来倭した「裴世清」は下級の官人でしたから「隋書」の順位でほぼ対等な関係ともいえ、「推古紀」では少なからず高すぎると云えるではないでしょうか。

 またこの記事が「推古紀」の「六〇八年記事」と同じ事象を記したものと考えるには、「書紀」の「裴世清」を迎える儀式に登場する人物には「冠位」が記されていないこと、また儀式に参列する「人」「馬」とも「推古紀」と数字が異なるなどの違いが確認できます。

「(推古)十六年(六〇八年)夏四月。小野臣妹子至自大唐。唐國號妹子臣曰蘇因高。即大唐使人裴世清。下客十二人。從妹子臣至於筑紫。遣難波吉士雄成。召大唐客裴世清等。爲唐客更造新舘於難波高麗舘之上。
六月壬寅朔丙辰。客等泊于難波津。是日。以餝船卅艘迎客等于江口。安置新舘。於是。以中臣宮地連摩呂。大河内直糠手船史王平爲掌客。…
秋八月辛丑朔癸卯。唐客入京。是日。遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢。額田部連比羅夫以告禮辭焉。」

 つまり「隋書」では「二百餘騎」とされているのに対して「推古紀」では「七十五疋」というように「裴世清」を迎えた馬の数が異なっています。また「推古紀」では「飾馬」と共に「飾船」による歓迎風景も書かれていますが、「隋書」の方ではそれが(全く)ありません。さらに「日数」においても「隋書」では「倭国」のキ付近に到着後「十日」ほどで「宮殿」に案内されたように書かれていますが、「推古紀」では「六月壬寅朔丙辰」(十五日)に「難波津」(難波館)に到着後一ヶ月半ほど経過した「秋八月辛丑朔癸卯」(三日)になって「入京」したと書かれていますから、これもまた大きく異なるものです。
 これらはこの二つの記事が本来「別」の事象であったことの証左ともいえるものです。これは「推古紀」の方が「国交開始時点」であるとした場合、そこに「冠位」が書かれていない事も了解できますし、人数なども「隋制」以前であればその基準と異なっていたとしても不思議ではないこととなるでしょう。(日数がかかっていることも準備に時間が余計にかかったと見れば不思議はありません)
 
 また官制と服装の制度に関する事としては「隋書」の「開皇二十年記事」においては「故時衣幅、結束相連而無縫。頭亦無冠、但垂髮於兩耳上。至隋、其王始制冠、以錦綵為之、以金銀鏤花為飾。」という記事が重要です。ここでは「故時」つまり古くは衣服は縫わないで「結んで」つなげただけであったとされており、さらに「冠」も以前はなく、ただ「髪」を左右に垂らしていた(「みずら」を指すか)だけであったとされています。そして、それが「至隋」、つまり「隋」に至って「冠制」が導入されたらしいことが記されているわけです。
 ここに書かれた「至隋」の意味がやや不明確ではあるものの、すでにみたようにこれは「隋」からの伝搬あるいは「導入」ではなかったかと考えられるものであり、そのことから「隋」の建国の年である「五八一年」以降の導入が想定され、「九州年号」の「端正元年」が「五八九年」であるところから、この改元が「阿毎多利思北孤」の即位によるものであることが推察されますので、この時点付近で「冠位制」が施行されたものではないかと推定できることとなるでしょう。

 仮に、「年次」が「隋書」の記述通りであったとしても、「遣隋使」が「六〇〇年」に「隋」に行き、「皇帝」に面会したその時点では「冠位制」は既に存在していることとなりますから、「六〇四年」に「聖徳太子」が「冠位」を定めたという記事は、実際の年次とは異なっていることとなります。
 この「冠位制」が「五八九年」付近で制定されたものであるとすると、この「移動年次」は実際には「十年以上」であることが推定されます。そのことは、この付近の記事の年次が全体として「ズレて」いるという可能性をも想起させるものです。
 (これについては「書記」の記述に基づいてこの「開皇二十年記事」そのものを「架空」だとして疑う立場もあるようですが、そのような考え方が有効なものではないことは「自明」です。「書紀」は「隋書」から大きく下った時期の「史書」であり、「隋書」を視野に入れて書かれたものであると同時に、「書紀」と「隋書」を見比べるということ、そのような読者を想定していないこともまた確かです。それは「書紀」の他の部分においても「改定」「潤色」などの徴証が確認できることと合わせ、この問題部分においても「改定」が加えられている可能性を考えるべき事を意味するものです。)
 
 また上の記事中に見える「衣服」についても「男女とも」「裙襦」を着用しているとされることが注目されます。

「…其服飾,男子衣裙襦,其袖微小,履如?形,漆其上,?之於脚…婦人束髮於後,亦衣裙襦,裳皆有?…」

 この「裙襦」という服装は「半島」の各国の服装について触れた以下の部分から考えて、それらとはかなり異なる習俗であることがわかります。

 「隋書/列傳 凡五十卷/卷八十一 列傳第四十六/東夷/高麗
「…服大袖衫,大口袴,素皮帶,素革帯。婦人裙襦加〔示+巽〕。…」

(同百済)「…其衣服與高麗略同…」

(同新羅)「…風俗、刑政、衣服,略與高麗、百濟同…」

 つまり、「高麗」以下半島諸国では「袴」を基本としており、「裙」つまり「和服」様のものとは全く違う形状をしていると思われます。この「高麗」の服装は「隋・唐」に通じるものであり、北方系の習俗と考えられるものです。それは「乗馬」の習慣と深く関係していると思われるものであり、馬に「跨る」という必要性から発達したものといえるでしょう。
 それに対し「裙襦」は中国(漢民族)の伝統的服装とされ、中国北半部が「胡族」に制圧された「南北朝」以降は「南朝側」の服装として著名であったものです。
 「裙」とは「裳裾」をいうものであり、和服(呉服)様のものを指すといえます。また「襦」は「短衣」とされますから、腰から下よりは長くない上着をいうものです。それは袖が「微少」という形容からも窺えます。このよう形態は乗馬には全く適さないものであり、「南方系」の習俗であることを推察させます。
 「衣服」という重要な部分が「半島」からの伝搬ではないらしいということは、南朝との結びつきがかなり強かった過去があったことを推定させます。
(女性の服装は「半島」も「倭国」も共通であり、それは「漢文化」の影響であるといえますが、上の考察からは「高松塚」のような遺跡の壁画などから「女性」の服装だけを見て、「半島」の影響であるとは断定できないこととなります。)

 これと関連しているのは「天武紀」の以下の記事です。

「(天武)五年(六七六年)春正月庚子朔。羣臣百寮朔拜朝。
癸卯。高市皇子以下。小錦以上大夫等。賜衣袴褶腰帶脚帶及机杖。唯小錦三階不賜机。」

 ここでは「朝廷」から各位に「袴褶腰帶脚帶」が支給され、服装が一新されたらしいことが記されています。この「服装」が「隋・唐」の様式であるのは言うまでもありませんが、それが「倭国」の正式な服装として導入されるまで長年月かかったのはなぜでしょう。
 「遣隋使」「遣唐使」はこの「天武紀」まで幾度となく派遣され、また「隋・唐」からも使者が幾度となく来ているにもかかわらず、これだけの時間を要したと考えるのは不審と言わざるを得ないのではないでしょうか。
 後でも触れますが、この「天武紀」など「書紀」で「七世紀後半」とされる時期の記事は実はもっと早い時代のことではなかったかと考えられるものであり、「潤色」と「改定」の手が大幅に入っていると考えられます。


(この項の作成日 2011/01/07、最終更新 2014/09/13)

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