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「大業三年」記事について

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◇「開皇二十年記事」
 「隋書?国伝」の「大業三年記事」は、その年次が「書紀」の「遣隋使」記事と一致しているため、従来から疑われたことがありません。それに対し「開皇二十年記事」は「書紀」にないこともあり、特に戦前はその存在は疑問視と言うより無視されていました。近年はこの「開皇二十年記事」についてもその存在を認める方向で研究されているようですが、この「大業三年記事」については言ってみれば「ノーマーク」でした。しかし、この「大業三年記事」については、他の資料(「通典」・「冊布元亀」)には「開皇二十年記事」と一括で書かれているなどの点が認められ、記事として確実性がやや劣ると見ることができると思われます。
 それは「起居注」との関係です。これらの「史書」の元ネタとも言うべき「起居注」については「大業年間」のものが「唐代初期」の時点で既に大半失われていたという説があります。「隋書経籍志」中にも「開皇起居注」はありますが、「大業起居注」は漏れています。
 また、「隋」から受禅した段階では「秘府」(宮廷内書庫)にはほとんど史料が残っていなかったとさえ言われています。特に「大業年間」の資料の散逸が著しかったとされ、それは「隋代」から「唐初」にかけての人物である「杜宝」という人物が著した「大業雑記」の「序」に、「貞観修史が不完全だからこれを書いた」という意味のことが書かれている事や、「資治通鑑」の「大業年中」の記事に複数の資料が参照されており、「起居注」以外の資料を相互に対照されていることなどからの「推測」されていることです。

 また同じことは「隋書」の末尾に書かれた「跋文」からも窺えます。それによれば「隋代」に「隋書」の前身とも云うべき書が既にあったものですが、そこには「開皇「「仁寿」年間の記事しかなかったと受け取られることが書かれています。

(「隋書/宋天聖二年隋書刊本原跋」 より)
「隋書自開皇、仁壽時,王劭為書八十卷,以類相從,定為篇目。至於編年紀傳,並闕其體。唐武コ五年,起居舍人令狐コ?奏請修五代史。《五代謂梁、陳、齊、周、隋也。》十二月,詔中書令封コ彝、舍人顏師古修隋史,緜?數載,不就而罷。貞觀三年,續詔秘書監魏?修隋史,左僕射房喬總監。?又奏於中書省置秘書?省,令前中書侍郎顏師古、給事中孔穎達、著作郎許敬宗撰隋史。?總知其務,多所損益,務存簡正。序、論皆?所作。凡成帝紀五,列傳五十。十年正月壬子,?等詣闕上之。…」

 つまり「隋書」の原史料としては「王劭」が書いたものがあるもののそれは「高祖」(文帝)の治世期間である「開皇」と「仁寿」年間の記録しかないというわけです。その後「唐」の「高祖」(李淵)により「武徳年間」に「顔師古」等に命じて「隋史」をまとめるよう「詔」が出されますが、結局それはできなかったとされます。理由は書かれていませんが最も考えられるのは「大業年間」以降の記録の亡失でしょう。

 さらに「旧唐書」(「令狐徳菜伝」)によれば「武徳五年」(六二二)に秘書丞となった「令狐徳菜」が、「太宗」に対し、「経籍」が多く亡失しているのを早く回復されるよう奏上し、それを受け入れた「高祖」により「宮廷」から散逸した諸書を「購募」した結果、数年のうちにそれらは「ほぼ元の状態に戻った」とされています。

(「舊唐書/列傳第二十三/令狐コ?」より)
「…時承喪亂之餘,經籍亡逸,コ?奏請購募遺書,重加錢帛,搨u楷書,令繕寫。數年間,羣書略備。…」
 
 ここでは「亡逸」とされていますから、それがかなりの量に上ったことがわかります。
 しかし、同様の記述は「魏徴伝」(旧唐書巻七十一)にも書かれています。

(「舊唐書/列傳第二十一/魏徴」より)
「…貞觀二年,遷秘書監,參預朝政。?以喪亂之後,典章紛雜,奏引學者校定四部書。數年之間,秘府圖籍,粲然畢備。…」

 ここでは「粲然畢備」とされ、「魏徴」等の努力によって原状回復がなされたように書かれていますが、全ての史料を集めることができたかはかなり疑問であり、失われて戻らなかったものもかなりあったものと思われます。
 結局「武徳年間」の「高祖」による「隋史」の修史事業は不成功に終わったわけですが、それは上にあるように「隋」の「高祖」の治世期間の記録は既にまとめられたものがあったと見られるのに対して、その後のものがなかったため、それを捜索したものの見つからず「隋書」としてまとめられなかったということのようです。(そのため捜索しなければならなくなったものでしょう)
 その後「魏?」等により「隋書」がまとめられたというわけですが、この「隋書」でも「大業起居注」に限らず多くの史料がなかったか、あっても一部欠損などの状態であったことが考えられるものであり、これに従えば「大業三年記事」もその信憑性に疑問符がつくものといえるのではないでしょうか。
 実際には「開皇年間」(及び仁寿年間)の記事しかなかった、あるいは「大業年間」記事はわずかしかなかったとするなら、この「大業三年記事」を含む多くの記事はいったい何を元に書かれたものでしょうか。
 これについては推測するしかないわけですが、「大業起居注」が欠落した中で「史書」を書かざるを得なくなったという事情の中、やむをえず「開皇起居注」から記事を移動して「穴埋め」をしたという可能性(疑惑)が考えられるでしょう。その結果「開皇年間」に書かれるはずの記事が「大業年間」にみられるという「事象」が発生していると思われるわけです。つまりその多くが本来もっと「以前」のこととして記録されていたものではないかという疑いが生じることとなり、それはこの記事についても「隋」の「高祖」の治世期間のものであり、そこに書かれた「遣隋使」はまさに「遣隋使」だったという可能性を考えるべきということになると思われます。

◇「重興仏法」
 ところで、「隋書?国伝」に書かれた「倭国王」の言葉に「聞海西菩薩天子重興仏法」というのがあります。

「大業三年,其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰聞海西菩薩天子重興佛法,故遣朝拜,兼沙門數十人來學佛法。」

 ここで言う「菩薩天子」とは「菩薩戒」を受けた「天子」を言うと思われ、最も該当するのは「隋の文帝」であると思われます。(古田氏は「阿毎多利思北孤」としますが、それでは「重興」の意味が不明となるでしょう。)
 彼は「開皇五年」に「菩薩戒」を受けています。「二代皇帝」である「煬帝」も「天台智」から「授戒」していますが、それは「即位」以前の「楊広」としてのものでしたから、厳密には「文帝」とは同じレベルでは語れないものです。さらに、「文帝」であれば「重興仏法」という言葉にも該当すると言えます。
 「北周」の「武帝」は「仏教」を嫌い、「仏教寺院」の破壊を命じるなど「廃仏毀釈」を行ったとされます。「文帝」は「北周」から「授禅」の後、すぐに「仏教」の回復に乗り出します。「出家」を許可し、「寺院」の建築を認め、「経典」の出版を許すなどの事業が矢継ぎ早に行われました。
 そのあたりの様子は、例えば下記のような史料にも書かれています。

(攝山志/卷四/建記/舍利感應記 王劭)
「…皇帝曰今『佛法重興』必有感應其後處處表奏皆如所言?州於棲霞寺起塔鄰人先夢佛從西北來寳葢旛花映滿寺衆悉執花香出迎及舍利至如所夢焉餘州若此顯應加以放光靈瑞類葢多矣」

 また「大正新脩大蔵経」の中にも類例が散見できます。

(大正新脩大藏經/第四十九卷 史傳部一/二○三六 佛祖?代通載二十二卷/卷十/詔三十州建塔)
「(開皇)二十四 辛酉改仁壽
初文帝龍潛時遇梵僧。以舍利一裹授之曰。檀越他日為普天慈父。此大覺遺靈。故留與供養。僧既去。求之不知所在。帝登極後。嘗與法師曇遷。各置舍利於掌而數之。或少或多。竟不能定。遷曰。諸佛法身過於數量。非世間所測。帝始作七寶箱貯之。至是海?大定。帝憶其事。是以岐州等三十州各建塔焉
是年六月十三日。詔曰。仰惟正覺大慈大悲。救護?生津濟庶品。朕歸依三寶『重興聖教』。思與四海之?一切人民?發菩提共修福業。…」

(大隋業報差別經一卷《開皇二年三月譯是第二出。與罪業報應經大同小異》)
「右一部一卷。元魏世婆羅門優婆塞瞿曇般 若流支長子達摩般若。隋言法智。門世已來 相傳翻譯。高齊之季為昭玄都。齊國既平佛法同毀。智因僧職轉作俗官。冊授洋州。洋川郡守『大隋受禪』。『梵牒即來』。『顯佛日之重興』。彰國化之冥應。降敕召智還使譯經。…」

(大正新脩大藏經/第五十二卷 史傳部四/二一○六 集神州三寶感通?卷上/振旦神州佛舍利感通序)
「…隋高祖昔在龍潛。有神尼智仙。無何而 至曰。佛法將滅。一切神明今已西去。兒當為 普天慈父『重興佛法』神明還來。後周氏果滅佛法。及隋受命常以為言。又昔有婆羅門僧。詣宅出一裹舍利曰。檀越好心。故留供養。尋爾不知所在。帝曰。『我興由佛』。故於天下立塔。…」

 これらによれば、「重興」という用語が「隋高祖」と関連して使用されていることは明白です。
 また「唐」の「宣帝」についても「重興仏法」という用語が使用されています。

(大正新脩大藏經/第五十卷 史傳部二/二○六一 宋高僧傳卷十二/習禪篇第三之五正傳二十人 附見四人/唐衡山昂頭峯日照傳)
「釋日照。姓劉氏。岐下人也。家世豪盛。幼承庭訓博覽經籍。復於莊老而宿慧發揮。思從釋子。即往長安大興善寺曇光法師下。稟學納戒。傳受經法靡所不精。因遊嵩嶽 問圓通之訣。欣然趨入。後遊南嶽登昂頭峯。直拔蒼翠便有終焉之志。庵居二十載。屬會昌武宗毀教。照深入巖窟。飯栗飲流而延喘息。大中宣宗『重興佛法』。率徒六十許人。還就昂頭山舊基。結苫蓋構舍宇。復居一十五年。學人波委。咸通中示滅。春秋一百八?。至三年二月三日入塔立碑存焉。天下謂其禪學為昂頭照是歟 」

 彼の場合は「武宗」により発せられた「廃仏令」(「会昌の廃仏」)を廃し、「仏教保護」を行ったとされます。これも「隋」の高祖と同様の事業であったことが知られ、「重興仏法」の語義が「一度廃れた仏法を再度興すこと」の意であることがこの事から読み取れます。
 これに対し「煬帝」に関連して「重興仏法」という用語が使用された例が確認できません。また彼は確かに「仏法」を尊崇したと言われていますが、「文帝」や「唐の宣帝」のような宗教的、政治的状況にはなかったものであり、「重興仏法」という語の意義と彼の事業とは合致していないと言うべきです。このことから考えると、「倭国」からの使者が「煬帝」に対して「重興仏法」という用語を使用したとすると極めて不自然と言えるでしょう。
 この点については従来から問題とされていたようですが、その解釈としては「煬帝」でも「不可」ではないという程度のことであり、極めて恣意的な解釈でした。あるいは「文帝」同様の「仏教」の保護者であるという「賞賛」あるいは「追従」を含んだものというようなものや、まだ「文帝」が在位していると思っていたというようなものまであります。しかし「追従」や「迎合」などの解釈は同じ使者が「日出ずる国の天子云々」の国書を提出した結果「皇帝」の怒りを買う結果になったこととの整合的説明になっていません。また、「九州年号」のうち「隋代」のものは全て「隋」の改元と同じ年次に改元されており、それは当時の「倭国王権」の「隋」への「傾倒」を示すものと言えると思われますが、(別記)そうであれば「文帝」の存否の情報などを「持っていなかった」というようなことは考えにくいと言え、この「重興仏法」という言葉は正確に「文帝」に向けて奉られたものとか考えるしかないこととなります。
 そのような思惟進行によれば、この記事については『本当に「大業三年」の記事であったのか』がもっとも疑われるポイントとなるでしょう。つまりこの記事は「文帝」の治世期間のものであり、そこに書かれた「遣隋使」はまさに「遣隋使」だったのではないかと考えるべきではないかということです。
 (また、そう考えることによって「裴世清」の昇進スピードはよりわかりやすくなると思われます。つまり「隋初」に「鴻臚寺掌客」として派遣の後(少なくとも十年以内)に「文林郎」となっているわけであり、それであれば特に遅すぎるとは言えなくなります。そしてここから「六三八年」までの間に「三品」まで昇進するとしたら、四十年近い年数で二十位階程度の上昇となるわけですから、至ってノーマルであると同時にそれまでのスピード共ほぼ一緒になると思われますので、その意味でも自然であると思われるのです。)

 この推測の傍証と言えるのは(一見関連が薄そうですが)「元史」に書かれた「日本」への使者派遣の記事です。
 「元」はいわゆる「元寇」と呼ばれる「文永の役」「弘安の役」の以前に日本「招慰」のためとして「使者」を派遣していますが、それが「趙良弼」という人物でした。彼が日本へ着くと(博多湾近隣の島でしょうか)「大宰府」から人が来て「国書」を見せるように要求したのに対して、「趙良弼」は「倭国王」に直接会ってお渡しすると言ってはねつけたとされます。その時の彼の言葉が「元史」に残っています。

(元史/列傳 第四十六/趙良弼より)
「隋文帝遣裴清來,王郊迎成禮,唐太宗、高宗時,遣使皆得見王,王何獨不見大朝使臣乎」

 これによれば「裴清」(裴世清)は「隋の文帝」が派遣したと明確に書かれており、このことからも「大業三年記事」に対する「疑い」が正当なものであることが言えると思われます。(この「元史」は「杜撰」というような評価があり、これを補筆・改定するために改めて「清代」に「新元史」が編纂されましたが、この部分はその「新元史」でもやはり「随文帝」と書かれており、修正はされていないようです。)
 「趙良弼」や「元史」の編纂者が「隋書」を見ていなかったとは考えにくく、彼らは「別の史料」(これは不明ですが)によってこのような知識を彼らの教養として身につけていたものではないでしょうか。

◇「大隋禮義之国」
 来倭した「裴世清」に向かって倭国王が言ったという「大隋禮義之国」という表現も重要であると思われます。これが「唐」を表すとすると、「禮義之国」という表現は似つかわしくないのではないでしょうか。「禮制」は「北魏」以降「南朝」の制度を取り込んで体系化していったものですが、「北斉」である程度の完成をみた後、「隋」がさらに継承・発展させたものです。例えば「朝服制度」なども「隋代」にまとめられたとされています。「唐」はそれらをただ継承し、あるいはそれをさらに簡素化した程度であり、「禮義之国」という表現とは少なからず齟齬するものと言えるでしょう。
 またこの「禮義」がその前年に派遣した「使者」が持参した国書において「日出ずる国の天子云々」に対して「皇帝」が「無禮」という表現をしたことと関係していることは確かと思われ、「裴世清」が「宣諭」するために派遣されたことを知って、「皇帝」の怒りを和らげるために述べたものと思えます。
 そこでは「我夷人僻在海隅不聞『禮義』」としており、彼が発した「日出ずる国の天子云々」という(国書に書かれた)言葉とはかなりニュアンスが変化しています。
 この国書では「天子」の多元性が標榜されています。「皇帝」(この場合「文帝」)を「菩薩天子」と呼称した上で自らを「天子」としていることから、彼もまた「菩薩戒」を授戒していたのではないかと思われますが(注)、その意識から「天子」が複数いる表現となったと思われ、それが「中国皇帝」の権威を疵付けるものとなったことに、いまさら気づいたと言う事ではないでしょうか。
 また「禮義」とは「禮制」(儀礼など)を言うと思われるものの、それ以外の「道徳律」なども含んだものと思われ、「隋」時点ではさらに「刑法」と関連したものとして考えられていたようです。

隋書卷二十五 志第二十/刑法

「夫刑者,制死生之命,詳善惡之源,翦亂誅暴,禁人為非者也。聖王仰視法星,旁觀習坎,彌縫五氣,取則四時,莫不先春風以播恩,後秋霜而動憲。是以宣慈惠愛,導其萌芽,刑罰威怒,隨其肅殺。『仁恩以為情性,禮義以為綱紀,養化以為本,明刑以為助。』…」

ここでは「仁恩」と「養化」、「禮義」と「明刑」とが対句として使用されています。「養化」が「本」であり、「明刑」はその「補助」であるというわけですが、その「養化」の為には「仁恩」が必要であり、「明刑」が生きるためには「禮義」が「綱紀」とならなければならないというわけです。
 このような例から考えると、ここで「倭国王」が述べているのは「隋」には「綱紀」の基準として「刑法」がしっかり機能しており、その「綱紀」は「禮義」によって維持されているということではないでしょうか。その場合「念頭」に置かれているのは「開皇律令」というものの存在であったと思われます。
 「開皇律令」は「開皇」の始めに造られたものであり、「律令」そのものはそれ以前からあったものの、この「隋」時点において「法体系」として整備、網羅され、ひとつの「極致」を示したとされます。
 これを「倭国」が取り入れようとしていたと言うことも充分考えられ、その意味で「隋」を「禮義」の国と呼称したという可能性が考えられるでしょう。これを「唐」として受け取るには、少なくとも「禮制」や「律令」が「唐」に至って完成したものとは言えず、「唐」に対して「禮義之国」という形容は違和感のあるものと言えるでしょう。


(この項の作成日 2014/03/15、最終更新 2014/06/21)

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