ホーム :「阿毎多利思北孤」王朝 :隋書倭国伝 :遣隋使と遣唐使 :


「高祖」は「隋」か「唐」か(四)

前へ 次へ

◇「裴世清」の肩書き
 「書紀」による「遣隋使」の記事では「肩書き」(「隋皇帝」から「推古天皇」に送られたという詔書の記載による)では「鴻廬寺掌客」となっており、「隋書」の記載の「文林郎」とは食い違いを見せています。
 「文林郎」は秘書省に属するのに対し、「鴻臚寺掌客」というのは正式な外務官僚です。この両者では階級というべき「品(ほん)」が異なっており、「文林郎」の方が上です。(「文林郎」が「従八品」であるのに対して「鴻臚寺掌客」は「正九品」です)
 これについては通常「兼務」などという解釈もされているようですが、それは(古田氏も言うように)大いに不審であるわけです。そのため従来の解釈では、「倭国」への使節に任命された際に「鴻臚寺掌客」という「外務」に携わる「職掌」を併せて与えられたと見ているわけですが、そのような場合元の職掌よりも上位の「冠位」に相当する職掌が与えられて然るべきであろうと思われ、そうなっていないのはやはり不審です。
 「裴世清」は「倭国王」などと対面する際、自己紹介したでしょうし、それは書かれたものでなければ「正確」なものとはならないはずですから、そのような資料(書状)が「倭国側」に渡ったはずです。これが「書紀」中に出てくるものの参考資料となったものと考えられます。これが「兼務」であるとすると「冠位」の高い方が先に書かれ、また名乗られたと考えなければならないでしょう。そうであれば、名乗った冠位と職掌は「文林郎兼鴻櫨寺掌客」となるはずであり、その逆ではないでしょう。しかるに「書紀」の「国書」には「兼務」した職掌である(後に書かれた「冠位」の低い方の)「鴻臚寺掌客」だけが書かれたとしなければならなくなりますが、それは明らかに不合理であると思われます。
 そもそも「外交使節」などに抜擢する場合、冠位を飾るのはよくある話ですが、本来の職位より低い冠位の職掌を充てたのでは「飾る」こととなりません。こう考えるとこの「倭国側資料」にある(しかも皇帝からの「詔」の文中に存在する)「鴻臚寺掌客」というものが「派遣」時点における彼の本来の「職掌」そのものであると考えざるを得ないことと思われます。
 つまり「倭国」に「国書」を持参した際の「裴世清」は「文林郎」ではなかったと考えざるを得ません。この「鴻臚寺掌客」が彼の本来の職分であり、決して「文林郎」と兼務していた訳でもなく、また「文林郎」が正式の職掌でもなかったという事が推定されることとなります。
 そう考えると、元々「隋代初期」には「鴻臚寺掌客」であったものが次の来倭時点(大業三年)では「文林郎」となったと考えるとスムースではないでしょうか。その場合「官位」の矛盾は起きません。
 つまり「唐」の時代に来倭したとするより「隋代初期」に来倭したと考える方が無理がないと言えると思われます。
 ただしその場合、「鴻臚寺掌客」という官職名が「煬帝」以前には「なかった」と一部で考えられていることは要注意です。しかし「煬帝」は「四方館」という「夷蛮」からの朝貢などに対応する役所を新設したらしいことは確かですが(これは「鴻臚寺」とどういう関係にあるかやや不明の部分もあるようですが)、この時点まで「鴻臚寺掌客」が存在しなかったという意味ではないと思われます。
 「隋書」には「鴻臚寺」という官職名が「隋」に始まるとされ、また「掌客」つまり「対応を担当する職掌」という意味の「典侍署」があったとされています。
 つまり、これが「鴻臚寺典客署掌客」という正式な官職名の縮約であったとすると、これは「隋」の始めに「文帝」により制定された官制にあるものであり(隋書百官志下)、その意味からは「隋代初期」という時期がもっともふさわしいともいえるでしょう。
 そもそも、この「鴻臚寺掌客」という職掌は、「周代」にも「掌客」と称したとされる記事があるなど、実は古典的な名称であることがわかります。

 魏書/列傳 凡九十二卷/卷五十三 列傳第四十一/李孝伯 父曾 兄祥 祥子安世 安世子? 郁

「蕭?使劉?朝貢,安世美容貌,善舉止,?等自相謂曰 不有君子,其能國乎? ?等呼 安世為典客,安世曰 三代不共禮,五帝各異樂,安足以亡秦之官,稱於上國。曰 世異之號,凡有幾也? 安世曰 『周謂掌客,秦改典客,漢名鴻臚,今曰主客。』君等不欲影響文 武,而殷勤亡秦。」

 つまりこの記事に拠れば「周」「秦」「漢」の間でも官職等に呼び名に変遷があったものであり、「安世」という人物が「北魏」においてその任に着いていた「典客」については「周」の時代には「掌客」と呼ばれたもので、それが「秦」になって「典客」と変わりその後「漢」では「鴻臚」とされたというのです。つまり「北魏」の「典客」は「秦」の制度の復活であったわけです。この事例からもわかるように古代中国では官名は変遷しながら時に繰り返すパターンが往々にしてあるようです。これが「隋」でも現れたとも考えられます。

 また、こう考えると、「隋書?国伝」の記載の説明が付くという可能性もあります。そこには「至隋、其王始制冠、以錦綵為之、以金銀鏤花為飾。」とあり、「隋」との関係の中で「冠位」が制定されたらしいことが触れられています。そうすると、「開皇二十年」に訪れたという「倭国」からの使者が述べた中に既に「冠位」が存在しているわけですから、これより以前の段階で「隋」の制度の情報収集が既に始まっていたと考えざるを得ないこととなります。つまり、「六〇〇年以前」の時点で「遣隋使」が発せられ、その時点で官位制度が導入され始めていたらしいことが推定できるのではないでしょうか。
 
 これに関して「唐代初期」の時点で「大業起居注」は大半失われていたもののそれ以前の「開皇起居注」は参照可能であったという説があります。(※)それは「隋代」から「唐初」にかけて活躍した「杜宝」という人物が著した「大業雑記」の「序」に、「貞観修史が不完全だからこれを書いた」という意味のことが書かれている事や、「資治通鑑」の「大業年中」の記事に複数の資料が参照されて校異が対照されていることなどからの「推測」です。しかし、「杜宝」が主張していることは「自己の知りうる範囲」における「大業年中」の記録と「貞観修史」とは食い違っており、「質」「量」とも「自己」の所有するデータの方が優秀であると言うことと思われますが、「開皇年中」については何も言及していません。これが「開皇起居注」が完全であるとかデータの漏れがないというような結論に直結しないのは当然です。「大業年中」の方は彼の活躍年代として後半であり、年次的には近いものがありますから、収集できる資料としてその数が多かったことは間違いないでしょうけれど、それが「開皇年中」の記録においてもそうであったかは少なからず疑問です。
 そもそも「開皇年中」の方が年次として古いわけであり、資料的には「大業年中」の記録に比べて一般的には残りにくいと言えるでしょう。その意味では「開皇起居注」についても、それが完全であると言うことを彼が保証していると言うことではないのはもちろんであり、何が欠けているのかそれ自体が「唐初」の段階では判然としなくなっていたという可能性もあるでしょう。少なくとも「開皇年中」に載せられていない記事があるという可能性を否定できるものではないと思われます。
 
 また「古田氏」が言うように「唐」の「高祖」からのものであると考える事も当然可能です。
 「旧唐書」には、「唐」の「高祖」が「高句麗王」に宛てた国書が残っており、その文面と「書紀」に載っている「隋」の「煬帝」からの国書とを比較してみると、この二つが非常によく似ているとされます。

「旧唐書高麗伝」「(武徳)五年(六二二年)賜建武書曰 『朕恭膺寶命』 君臨率土、祇順三靈 綏柔萬國。普天立下 情均撫字、日月所照 咸使又安。王既統攝遼左、世居藩服、思稟正朔 遠循職貢。故遣使者 跋渉山川、申布誠懇 朕甚嘉焉。方今六合寧晏 四海清平、玉帛既通 遺路無壅。方申輯睦 永敦聘好、各保彊[土易] 豈非盛美。但隋氏季年 連兵構難、政戰之所 各失其民。遂使骨肉乖離 室家分析、多歴年歳 怨曠不申。今二國通和 義無阻異、在此所有高麗人等 已令追括、尋即遣送 彼處有此國人者、王可放還 務盡撫育之方、共弘仁恕之道。」

 ここでも「寶命」という用語が使用されており、また「恭膺」という用語も使用されており、これは単に「恭しく」「膺」つまり「胸で受け止める」意とされています。つまり「継承」の意義は見いだせないわけですが、彼は「初代皇帝」であり、「同一王朝」の「前皇帝」からの権力移動について書かれた訳ではないこととなりますから、そこでは「継承」の意義を持つ用語は使用されていないのも当然なわけです。
 この「寶命」使用からは「唐」の高祖も「禅譲」、つまり「隋王朝」から「権力」を委譲されたと主張しているかのように見えます。「旧唐書」にその権力交替の様子を見てみると、確かに「隋皇帝」から「禅譲」されたように書かれているのが判ります。

舊唐書/本紀 凡二十卷/卷一 本紀第一

「…(大業十三年)十一月癸亥,率百僚,備法駕,立代王侑為天子,遙尊煬帝為太上皇,大赦,改元為義寧。甲子,隋帝 詔加高祖假?鉞、使持節、大都督?外諸軍事、大丞相,進封唐王,總?萬機。以武コ殿為 丞相府,改教為令。以隴西公建成為唐國世子;太宗為京兆尹,改封秦公;姑臧公元吉為齊公。…」

「(義寧二年)二月,清河賊帥竇建コ僭稱長樂王。?興人沈法興據丹陽起兵。三月丙辰,右屯衞將軍宇文化及?隋太上皇於江都宮,立秦王浩為帝,自稱大丞相。徙封太宗為趙國公。戊辰,隋帝進高祖相國,總百揆,備九錫之禮。唐國置丞相以下,立皇高祖已下四廟於長安通 義里第。」

舊唐書/本紀 凡二十卷/卷一 本紀第一/高祖 李淵/武コ元年

「夏四月辛卯,停竹使符,頒銀菟符於諸郡。戊戌,世子建成及太宗自東都班師。五月乙巳,天子詔高祖冕十有二旒,建天子旌旗,出警入蹕。王后、王女爵命之號,一遵舊典。 戊午,隋帝詔曰:天禍隋國,大行太上皇遇盜江都,酷甚望夷,釁深驪北。憫予小子,奄造丕愆,哀號永感,心情糜潰。仰惟荼毒,仇復靡申,形影相弔,罔知?處。相國唐王,膺期命世,扶危拯溺,自北徂南,東征西怨。致九合於諸侯,決百勝於千里。糾率夷夏,大庇? 黎,保乂朕躬,?王是ョ。コr造化,功格蒼旻,兆庶歸心,?數斯在,屈為人臣,載違天命。在昔虞、夏,揖讓相推,苟非重華,誰堪命禹。當今九服崩離,三靈改卜,大運去矣,請避賢路。兆謀布コ,顧己莫能,私僮命駕,須歸藩國。予本代王,及予而代,天之所廢,豈其如是!庶憑稽古之聖,以誅四凶;幸?惟新之恩,預充三恪。雪冤恥於皇祖,守?祀為孝孫,朝聞夕殞,及泉無恨。今遵故事,遜于舊邸,庶官羣辟,改事唐朝。宜依前典,趨上尊號,若釋重負,感泰兼懷。假手真人,俾除醜逆,濟濟多士,明知朕意。仍敕有司,凡有表奏,皆不得以聞。遣使持節、兼太保、刑部尚書、光祿大夫、梁郡公蕭造,兼太尉、司農少卿裴之隱奉皇帝璽綬于高祖。高祖辭讓,百僚上表勸進,至于再三,乃從之。隋帝遜于舊邸。改大興殿為太極殿。
甲子,高祖即皇帝位於太極殿,命刑部尚書蕭造兼太尉,告於南郊,大赦天下,改隋義寧二年為唐武コ元年。官人百姓,賜爵一級。義師所行之處,給復三年。罷郡置州,改太守為刺史。
…」

 以上をみると、「唐」の高祖の場合も「前王朝」の最後の「皇帝」(これは「煬帝」ではなく「煬帝」から禅譲を受けた隋帝「楊侑」)からの「禅譲」であることがわかります。それがたとえ「傀儡皇帝」からであっても形としては「禅譲」となっていることが重要であったと思われます。
 このことから「唐」の高祖が「寶命」を使用しているのは「禅譲」であるということの主張であり表明ではなかったかと思われるわけですが、その意味では「書紀」に書かれた国書の内容と矛盾するわけではありません。しかし、「無礼」問題とそれに対応した「宣諭」という経過を考えると、これが「唐代」のことであったとは考えにくいと言うべきではないでしょうか。さらに、上に述べた「官位」の変遷及び「呉国問題」を通じて考えると、「隋代」初期のことと考える方が蓋然性が高いものと思われます。

(※)榎本淳一「『隋書』倭国伝の史料的性格について」(『アリーナ 2008』、2008年3月)


(この項の作成日 2004/10/03、最終更新 2014/03/26)

前へ 次へ
遣隋使と遣唐使 に戻る