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「隋の文帝」の用例の検討

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 以上見たように「寶命」と「天命」はその意義が異なり、「天命」は「禅譲」を受けずに新たに王朝を創始したなどのいわゆる「革命」に限定されるのに対して、「寶命」は「前皇帝」との関係を意識した用語であり、「二代皇帝」においても「初代」の持つ大義名分を自らの権威の保持に利用するために使用される場合があると考えられるわけですが、このような用法の「例外」とも言えるのは「隋の文帝」です。
 彼は「禅譲」により「隋王朝」を創始したわけですが、彼はほとんどの場合「天命」を使用し、「寶命」はごく少数です。彼が前例を覆して「天命」を多く使用している理由は、彼が「仏教」に深く帰依していたことと関係があると思われます。
 彼は「即位」して直ぐに「仏教」を保護・回復したわけですが、その彼について「三十三天」から守護を受けたために「天子」と称したという記事があり、このことと「天命」自称は関係しているのではないかと思われます。

(大正新脩大藏經/第四十九卷 史傳部一/二○三四 ?代三寶紀/卷十二譯經大隨)
「開皇十七年翻經學士臣費長房上
大隋?者。我皇帝受命四天護持三寶。承符五運宅此九州。故誕育之初神光耀室。君臨已後靈應競臻。所以天兆龜文水浮五色。地開泉醴山響萬年。雲慶露甘珠明石變。聾聞瞽視?語躄行。禽獸見非常之祥。草木呈難紀之瑞。豈唯七寶獨顯金輪。寧止四時偏和玉燭。是以金光明經正論品云。因集業故得生人中。王領國土。故稱人王。處在胎中諸天守護。或先守護然後入胎。三十三天各以己コ分與是王。以天護故稱為天子。…」

 このように「隋」の「文帝」の場合は、「仏の保護者」としての意味合いから「天子」を名乗ったものであり、そのため「天命」という用語が使用しやすかったとも言えるでしょう。つまりこの「天」は「三十三天」の「天」であると見られるわけです。さらに、彼は「前朝」から「王権」を「禅譲」されたものの、「廃仏毀釈」を全面的に改めるという一種「大改革」を行ったものであり、このことは「前朝」からの「継承」という意識を捨てていた部分があったものと受け取られることなります。そのため「天命」という用語を使用しやすい立場(心境)にあったともいえるでしょう。

 このように「文帝」は「天命」という使用例が多いのは確かですが、「隋書」に現れる「寶命」の使用例は二つあり、一つは「文帝」自身の言葉として表れる「考元矩」(皇太子婦人の父)に対するものであり、一つは「煬帝」の治世下で「薛道衡」という人物が先帝である「文帝」の治世を賞賛する「頌」を上表するという場面で現れ、これに「煬帝」が不快の念を示すというものです。つまりいずれも「文帝」に関連して使用されているものであり、「煬帝」との関係は確認できません。このことから「寶命」という用語と「文帝」とが特に関係が薄いというような判断はできないと思われ、「倭国」への国書で「寶命」が使用されていても取り立てて「不審」とは言えないと思われます。
 以下にその二例を示します。

(隋書/列傳第十五/元孝矩)
「元孝矩,河南洛陽人也。祖修義,父子均,並為魏尚書僕射。…高祖重其門地,娶其女為房陵王妃。及高祖為丞相,拜少冢宰,進位柱國,賜爵洵陽郡公。時房陵王鎮洛陽,及上受禪,立為皇太子,令孝矩代鎮。既而立其女為皇太子妃,親禮彌厚。俄拜壽州總管,賜孝矩璽書曰:「揚、越氛?,侵軼邊鄙,爭桑興役,不識大猷。以公志存遠略,今故鎮邊服,懷柔以禮,稱朕意焉。」時陳將任蠻奴等?寇江北,復以孝矩領行軍總管,屯兵於江上。後數載,自以年老,筋力漸衰,不堪軍旅,上表乞骸骨,轉州刺史,高祖下書曰:「知執謙ヒ,請歸初服。恭膺寶命,實ョ元功,方欲委裘,寄以分陝,何容便請高蹈,獨為君子者乎!若以邊境務煩,即宜徙節郡,養コ臥治也。」在州?餘,卒官,年五十九。諡曰簡。子無竭嗣。」

 これは「隋」の高祖の使用例ですが、ここでは「引退」を願い出ていた「元孝矩」に対して「恭膺寶命」つまり「自分の命令をしっかり受け止めている」という評価をしていると言うことを伝え、「負担」の軽い地域への転勤を認めたという趣旨と受け取れます。つまりこの「寶命」は「皇帝の命令」を意味するものといえるでしょう。

(隋書/列傳第二十二/薛道衡)
「…虔心恭己,奉天事地,協氣流,休?紹至。壇場望幸,云亭?位,推而不居,聖道彌粹。齊跡?文,登發嗣聖,道類漢光,傳莊寶命。知來藏往,玄覽幽鏡,鼎業靈長,洪基隆盛。??問道,汾射?然,御辯遐逝,乘雲上仙。哀纏率土,痛感穹玄,流澤萬葉,用教百年。尚想叡圖,永惟聖則,道洽幽顯,仁霑動植。爻象不陳,乾坤將息,微臣作頌,用申罔極。
帝覽之不ス,顧謂蘇威曰 道衡致美先朝,此魚藻之義也。於是拜司隸大夫,將置之罪。…」

 ただし、同じ「東夷」でも「高麗」への国書では「天命」が使用されています。

(隋書/列傳第四十六/東夷/高麗)
「… 開皇初,頻有使入朝。及平陳之後,湯大懼,治兵積穀,為守拒之策。十七年,上賜湯璽書曰 朕受天命,愛育率土,委王海隅,宣揚朝化,欲使圓首方足各遂其心。王?遣使人,?常朝貢,雖稱藩附,誠節未盡。王既人臣,須同朕コ,而乃驅逼靺鞨,固禁契丹。諸藩頓?,為我臣妾,忿善人之慕義,何毒害之情深乎?太府工人,其數不少,王必須之,自可聞奏。昔年潛行財貨,利動小人,私將弩手逃竄下國。豈非修理兵器,意欲不臧,恐有外聞,故為盜竊?時命使者,撫慰王藩,本欲問彼人情,教彼政術。王乃坐之空館,嚴加防守,使其閉目塞耳,永無聞見。有何陰惡,弗欲人知,禁制官司,畏其訪察?又數遣馬騎,殺害邊人,?騁姦謀,動作邪?,心在不賓。…」

この「書」は「開皇十七年」という時点での「高麗」に対する「詰問」が書かれており、それはそれまでの関係の見直し(再構築)を視野に入れていることがわかります。このような場合には「天命」が使用され、しかもそこには「恭」「欽」などの「謙譲」の語が全く使用されていません。「居丈高」ともいえる語調となっています。
 ここでは明らかに「天命」を受けたことを背景に「武力」を前面に出して「威圧」ともいえる態度に出ており、それは以前からの「中国北朝」と「高麗」の関係の「刷新」を前提としていると考えられるものですが、それに対して、「推古紀」の国書が「文帝」からのものであるとすると、「倭国」に対しては「寶命」が使用され、しかもその内容は友好的な言辞に終始しており、対照的な内容となっていることがわかります。
 「文帝」にとって「寶命」という用語はまさに「前朝」などからの継承を意識した言葉と思われ、「倭国」と「歴代中国王朝」の関係を今後も同様に継続するという意義で使用されていると推測できるものであり、それが「高麗」に対する「天命」使用との「差」になっているのではないでしょうか。
 「倭国」は歴代「南朝」との関係が継続していたものの「北朝」とは「国交」がなく、それがこの「隋」成立という事態を承けて「使者」を派遣してきたものであり、「隋」にとって見ると「格別」の喜びがあったのではないかと思われます。またそれは「倭国」が「周」「漢」の時代から「遠路」朝貢してきていた伝説の国であり、その朝貢は「皇帝」の徳の高さを示す例として長く記憶されていたものと思われ、その「倭国」から「自分」の元へ「朝貢」の使者が訪れたことは、彼(文帝)にとって見ると、それらの偉大な皇帝や天子と自分が並び称せられる位置に到達したというある種の感慨に似たものもあったのではないでしょうか。このようなことから「倭国」との間にあえて「天命」は使用せず「寶命」を使用して、従前から南朝と続いていた関係を自らの王朝と再度「緊結」する姿勢を示したものと思われます。

 以上のことから、この「国書」は「初代皇帝」からのものであるとは言えなくなったわけですが、では従来の解釈通り「煬帝」からのものと考えるべきなのでしょうか。ところが、そうは考えられないのです。


(この項の作成日 2014/03/26、最終更新 2014/03/29)


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