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「推古紀」の「一二〇年」遡上と「二倍年歴」

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 「書紀」の日付記事を分析すると「推古」の前代まではその日付に「偏り」があったことが明らかとなっています。(貝田禎造氏の研究による)
 その研究を改めてなぞってみると、「書紀」の日付入り記事の分析から、「崇峻紀」を含んでそれ以前においては「月」の前半(十五日以前)の記事しか現れないのに対して、「推古紀」以降は後半(十六日から三十日)の日付も現れ、元となった暦には明らかな違いがあるとされています。つまり「推古」とそれに続く「舒明」「皇極」などは月の後半の日付も確かにある程度存在し、それは明らかに「太陰暦」に基づいて記事が書かれていることを示しますが、それ以前は「太陰暦」ではない「暦」に基づいて書かれた可能性が高いとされます。(但しいくつか例外となる「代」は存在するようです)
 これは当然古田氏のいわゆる「二倍年歴」に相当するものではないかと推量されるわけです。しかし、「崇峻紀」の終わりまで「二倍年暦」が継続していたとすると、「矛盾」が発生することとなります。既にみたように「二中歴」の「年代歴」によれば「年号」と「干支」の使用開始は「六世紀前半」と見られるからです。この「年号」と「干支」が「太陰暦」と関係があることは言うまでもないものと思われ、そうであれは「年代歴」の「干支」についての理解が「通常のもの」としても「六世紀前半」という「太陰暦」と「六世紀後半」の「二倍年暦」の終焉とは全く時期として整合しないといえるものでしょう。(「六十年遡上」した場合であればなおのことですが。)ここに年代のずれが生じることは避けられないと思われます。

 ところで、すでに見たように「古賀氏」及び「中小路氏」の研究により「仏教」の初伝は「五世紀初め」(四一八年と推定されています)と考えられる事となりましたが、そのことについて言及している「百済僧」「觀勤」の上表は実際には「六世紀初頭」のことと推定されることとなりました。つまり、実年代として「百二十年」程度遡上して考える必要があるということとなったわけです。
 そのことは「日付」の分析からの帰結として得られた「二倍年暦」終焉の時期として「崇峻紀」と「推古紀」の間に存在している境界線についても「遡上」する可能性を示しています。
 もしこれが「百二十年」程度遡上した場合、時期としては「四七〇年」付近のこととなります。これはすでに考察した「年始」から「結縄刻木」が止められる「明要年間」までの期間に入っています。
 このことは「二倍年暦」と「結縄刻木」には密接な関係があるという考えに至ります、つまり「結縄」が数字あるいは日付を表すとした場合、その日付とは「古暦」つまり「二倍年暦」ではなかったかと考えられる訳です。
 「年号」と「干支」が使用されるようになった時点では確実に「太陰暦」(元嘉暦)が導入されたと考えられる訳ですが、当然それ以前は「古暦」の時代であり、それは「二倍年歴」であるわけですから、「結縄」は「二倍年暦」を表記するものであったと考えざるを得ません。

 そもそもこの「二倍年歴」と「結縄刻木」は倭国においては不可分のものではなかったかと思われ、これらは「稲作」と一緒に「列島」へ伝来したものと推量されます。つまり、「九州」で列島の先頭を切って「弥生時代」が始まったときから「二倍年歴」と「結縄刻木」は「九州島」の内部では行われていたものと考えられます。
 上に見た「倭人伝」の表現からも「二倍年暦」と「稲作」とが密接した観念であることがわかります。
 また、「結縄刻木」の始原が相当古いものであり、古代中国や周辺の夷蛮諸国という「無文字」文化の中ではポピュラーなものであったと見られることからも「二倍年暦」という古暦についてもかなり遡上する時期にその始原があると考えられるものでしょう。

 「二中歴」では「年始」の当初は「無号、不記干支」とされており、ただ「結縄刻木」だけであったとしています。これは当然「年始」とされる時期から「結縄刻木」が始まったと理解すべきではなく、それ以前においても「結縄刻木」が行われていたと考えるべきものであり、それは「隋書倭国伝」の記事からも強く推測できます。
 そこでは「百済」から「仏法」を得るまでは「結縄刻木」していたとされていますから、「古賀氏」が論証した「四一八年」という仏教公伝以前には「結縄刻木」が国内で行われていたこととなるでしょう。

 「二中歴」によれば「明要」年間に「結縄刻木」が止められたとされています。

「明要 十一 元辛酉 文書始出来結縄刻木止了」

 ここに書かれた「辛酉」は「干支一巡」(六十年)遡上して「四八〇年」付近のことと考えられることとなったことはすでに述べました。それに対して「二倍年暦」終了と推測される時点は(百二十年の遡上を含んで考えると)「四七〇年」付近となりますから、ほぼ重なっていると言えるでしょう。

 「結縄刻木」はこの時点で終焉を迎えることとなります。これは「元嘉暦」の導入に伴い、「二倍年歴」も行われなくなったという経緯が推定できるものです。
 つまり「二倍年暦」と「太陰暦」とは両立しない事柄であり、「元嘉暦」を受容したと言う事は「二倍年暦」が止められたことを示すものですが、また同時に「結縄刻木」も行われなくなった事を示すものと言えるでしょう。
 それはちょうど「武」の時代のこととなるわけですが、それは「二中歴」の「明要」の項に「文書始めて出来る」とあることと関係しており、彼の時代に「王権」の内部で「公文書」(それは紙とは限りませんが)が使用されるようになり、そのため「漢字」を使いこなす必要ができ、「漢和辞書」が完成したことが推測されるものです。(「明要」の語義もそこにあると推定したわけです。)
 また、それを活用して「国記」が書かれるようになったものとも思われるわけです。
 「国記」は「推古紀」に造られたという記事があります。

「(推古)廿八年(六二〇年)是歳条」「皇太子。嶋大臣共議之録天皇記及國記。臣連伴造國造百八十部并公民等本記。」

 実際にはこれも「遡上」の対象記事と考えられ、「武」の時代(五〇〇年)に策定されることとなったものであったと推量します。また、それは「古事記」の原型のものであったと思われ、「古事記」が「推古」で終わる理由、いいかえると「推古」までが「『古』事記」とされていることも、「二倍年歴」と「結縄刻木」がその時代まで続いていたと考えられることと無関係ではないでしょう。
 そのタイミングで「文字」と「太陰暦」が導入されたことにより、新時代へと移行したという「武」を中心とした倭国王権の意識が「原・古事記」を編纂する動機となったものと理解されます。

(ただし、推古紀において「聖徳太子」関連記事は「隋」と倭国の交渉の歴史を反映したものと思われますから、年次年遡上の対象ではないことは明らかです。)

 さらに、これらの考察はすでに見た「隅田八幡画像鏡」の銘文解釈とも関係しています。
 そこに示された「癸未年」は「五〇三年」と考えられると同時に、「男弟王」という表記からその時点の王は「女性」ではなかったかと考えられる訳であり、それは「百二十年遡上」した場合に「推古」という「女性」の王の存在がこの時期ではなかったかと考えられることに重なるものです。
 「推古」は「崇峻」が暗殺されたため急遽仕立てられた王であり、予定外の即位でした。それは「武」の即位の事情と似ているとも言えるのではないでしょうか。


(この項の作成日 2014/07/19、最終更新 2014/07/27)

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