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「年代歴」の真の年次B

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 「年代歴」の真の年次について考察しているわけですが、ここでは「和僧五乙酉/(此年法師始成」という記事に注目します。
 この「乙酉」についても、通常考えられている「五六五年」ではなく「五〇五年」の出来事とした場合、以下のような理解が可能です。
 ここには「尼僧」ではなく「男性」の「僧」が始めてこの国に誕生した、と言う事を意味しているわけですが、ここでは「和僧」ですが、「善光寺縁起」では「知僧」と書かれています。それによれば「僧」というものがどのようなものであるか始めて知ったので「知僧」と改元したと、書かれています。

「剃髪染衣形始知僧故改元號知僧元年」 續群書類従 巻八百十四 善光寺縁起第二

 つまり、髪を剃り、衣を染めた(何色か不明)格好が僧の正式の姿である、と始めて知った、と言うわけです。そのような格好をしたものがこの国に始めて現れた、という事であり、「二中歴」の「細注」と同じ趣旨と考えられます。

 この記事によれば当初は「尼僧」しかいなかったとするわけですが、「書紀」によっても「最初」の僧は「尼僧」です。
 「推古紀」の「司馬達等女嶋。曰善信尼。年十一歳」とあるのが初見です。
 また、「元興寺縁起」に記される「法興寺」建立説話では「丁未年」(これは一般に五八七年とされる)「用明天皇二年」に「百済」から使者が訪れ、彼が「『法師寺』(尼僧ではなく男性の僧の寺)を作るべき」と「天皇」に語った事から、建てられる事となったと書かれています。つまり、それはそれまでの寺院が「尼僧」の寺(尼寺)であったことを示唆しています。

 「書紀」によれば「五七七年」という年次に「百済」から「律師」等とともに「比丘尼」が来倭していますが、当然この「年次」にも疑いが生じます。すでに「推古紀」の「仏教関連記事」については「一二〇年」の年次移動が考えられることを指摘したわけですが、この「比丘尼」献上の記事も同様に「一二〇年」ほどずれて「四五七年」前後の事ではなかったかと考えられるものです。その場合これは「済」の晩年の出来事と考えられ、外交活動の一環として「比丘尼」を「百済」より「招聘」したものと見られます。(あるいは自分が「病」に倒れ、寄りすがるものとして「仏教」を選んだのかもしれません。)
 そして、これ以降国内には「尼僧」はいても「男の僧」がいなかったのでしょう。「比丘尼」と一緒に来倭したとされる「律師」も「僧尼」の管理を行う担当の僧であり、当初より「尼僧」が「倭国」の希望するところであったという可能性があります。それは「倭国内」には古くから「古神道」的な祭祀に関わる職掌の立場のものがおり、これは「卑弥呼」から連なる「巫女」の歴史でもあったと考えられ、国内の「常識」として「神」に「祝子」(ほうり)として「仕える」のは「女性」と「決まっていた」という可能性もあります。
 「仏教」も導入当初は同様に考えられ、「女性」が「主役」であったものではないでしょうか。「男性」が「神」や「仏」に「仕える」という「巫女」的な立場で携わることに「倭国」では(「倭国王」には)「心理的抵抗」があったという可能性もあるでしょう。
 (「百済」から最初に渡ってきた者が「比丘尼」であったと言うことは、事情は「百済」でも同様であった、と言う可能性もあります。つまり、それまでの国内信仰が倭国と同様「巫女」的な人物が主宰する者であったものであり、「百済」でも仏教が入ってきたときにはやはり「女性」がそれを「主宰」すると言うことになったという可能性が考えられるものです。)
 それがこの時期(五〇五年)に「法師」や「法師寺」ができるなど「時代の進展」とも言える状況になったのは、広く仏教が受け入れられる実態が形成されたこと、特に「王権」により「受容」されるという事が起きたことが大きかったのではないかと考えられます。
 倭王「武」がその「晩年」になり、「仏教」に帰依したから、と言う可能性もありますし、あるいは「後継者」と目される「磐井」も同様に「帰依」したのかもしれません。そのようなことが「仏教」の浸透と拡大に影響を与え、「法師」とそのための「寺院」の発生ということとなったのではないでしょうか。

 つまり「書紀」の年次移動と「二中歴」の年次移動の間には関係があると見られ、その「原因」となるものについて考えると、「新日本国王朝」への列島代表権力の交替のいきさつが関係していると思われます。
 この詳細を明らかにしたくなかった「新日本国王朝」により、「難波朝」の「倭国王」により編纂された「日本紀」は消され、またそれと「原資料」を共有していた「二中歴」についても「年次」が変更されたのではないでしょうか。
 また、それと併せて考えなければならないのが「五三一年」に起きた「磐井の乱」です。これにより「倭国王」は「筑紫」の地から追われ「肥後」に「蟄居」せざるを得なくなり、「権威」が著しく失墜することとなったと考えられます。これは「物部守屋」が滅ぼされる「五七八年」までの約「六十年間」続くものであり、この間の「年号」は制定されなかったか、記録されなかったものと推察されます。この「汚点」を消すためにも「干支一巡」(六十年)ずらして「偽史」を作成したのではないでしょうか。
 この期間は「近畿」で「阿蘇」の「凝灰岩」を使用した「古墳」が作られなくなるなど、「倭国王」の権威が著しく損なわれた時期であり、「肥後」に押し込められていた「倭国王」にとって「改元」などの行為が可能であったか、かなり疑問でもあります。
 「葛子」以降の倭国王にとっては「雌伏」の時期であったと考えられます。

 このズレは「二中歴」(及び「現行日本書紀」と「続日本紀」及び「百済本紀」)の原資料となったものがすでにそういう資料状況となっていたものと思われ、先ず第一に「阿毎多利思北孤」の「倭国再統一」という中で「年号群」の「整理」が行われた後、「新日本国」王権により再度書き換えられるという事となったものと思料します。
 「阿毎多利思北孤」ないしはその後継王朝である「利歌彌多仏利」段階では、各種の制度導入と共に「万葉集」「風土記」などの収集と編纂が行なわれたものと見られますが、それらと同時期に「史書」の作成が行われたとして不思議ではないと思われます。それが「原・古事記」とでもいうべきものであったとみられるわけです。
 彼等は「書紀」で「天孫降臨神話」を重要な位置づけとしていることから考えても、そこに使用されている「天降る」という用語の用法から考えても、明らかに「革命王朝」ともいえるものですから、「神話」も含めた「帝王日継」などを「新たに作成」したと考えられます。しかし彼等が「革命王朝」という性格を持っていたとすると、「帝王日継」の中身としては相当「稀薄」なものであった可能性が高く、「倭国本流」の記録ないしは「近畿王権」の記録を借用したという可能性があるでしょう。
 「物部」に支配されていた「六十年」は屈辱であり、これを「消去」しようとしたという想定も有り得るでしょう。そのような思想で「倭国」の史書が書かれたとすると、その年次や記事内容が「百済本紀」や「二中歴」に反映しているという可能性はかなり高くなると思われるものです。


(この項の作成日 2011/07/16、最終更新 2014/11/28)


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