前述したように「関東」一円にはこの地域を制圧していた「大王」が存在していたようであり、「倭の五王」の存在が希薄です。独立性の高い地域である事が判明しているわけですが、しかし「常陸」の領域は別格です。ここには「装飾古墳」が存在しています。ここで見られる「文様」は九州で見られるものと「酷似」しており、関係性が高いのは明白です。
この「類似」が「偶然」である、という「根拠」のない主張をする学者もいまだにいるようですが、もしそうなら、全国にかなりの数の「装飾古墳」が「満遍なく」あってしかるべきと考えられますが、「偏在」、つまり、大きく偏って存在しているわけであり、これは「筑紫」からの「伝搬」とか「系統発生」というようなとらえ方の他には有力な考え方はないものと思われ、それ以外の理解の仕方をする場合は「根拠」を示す必要があるのは当然と考えられます。単なる「偶然」で済ますわけにはいきません。
さらに、「遺跡」から出土する「琴」についても「五弦琴」しか出土せず、「四弦琴」が存在していません。明らかに「関東の王権」の領域には属していないことがわかります。また、「常陸国風土記」も「筑紫風土記」の体裁や語句使用法などと非常によく似ており、明らかに「倭国王権」の影響が強く「直轄地」と言ってもいい状況であったと考えられます。
「常陸国風土記」というのは他の「郡風土記」と同様「元明天皇」の「風土記撰進の詔」により選定されたもののようですが、その中では「倭武天皇」という人物が登場し、「常陸」国内を巡行したとされています。
従来はこの人物については「日本武尊」のこと、ないしはその投影であると考えられているようですが、「倭の五王」の「武」である、という可能性もあるでしょう。「倭の五王」の征服領域には「関東」も含まれるはずであり、「関東」全体はともかく「常陸」については「九州」と関連する文化もあり、当然「征服」された領域の中にあるものと考えられるからです。
この当時「東山道」は「信濃」付近までしか整備がされていなかったと見られ、「東国」へは「東海道」と「海路」を利用していたと推定されます。「静岡」付近までは「陸路」を使用し、そこからは「海路」を利用して「房総半島」へ上陸するというのが当時の東海道ルートであったと思われます。このため、「千葉」「茨城」付近に「倭国中央」(筑紫)との関係を物語るものが存在している(いた)と考えられます。
「常陸国風土記」には、「倭王権の命」により、「物部氏」が筑波山の山麓を拠点に国造りをしたと書かれてもいます。
また「普キ大神」が「降臨」したとも書かれていますが、「筑紫」には「普キ大神」を祭る神社もあり、そのような「神話」の世界のこともまた共通性があるものです。
ところで、日本の古代史の中で最も有名で伝説の多い人物は、「倭建命」(古事記)、「大和武尊」(日本書紀)でしょう。「書紀」では国名は最初から「大和」であったかのように書いていますから、実際の名前は「倭武尊」であり、さらに「尊」の敬称は天皇かそれに次ぐものという用法が記されていますから、「倭武天皇」と書けます。宋書倭国伝などによると倭王の名称はたとえば「武」ならば「倭王倭武」というような表記になります。これを国内的に漢語を使用して呼ぶならば「倭武天皇」ということになるでしょう。この結果倭の五王の一人である「武」の投影というべき存在が「日本武尊」という人物ではないかという推測が成り立ちます。「日本武尊」をめぐる神話についての登場人物の構成も「よく似ている」と言えます。
歴史上の登場時間帯はこの両者では一見違うようですが、(「武」は兄である「興」のあとをついで倭王になったのが四七八年のことで、通常の理解では「武」に擬せられているのは「雄略天皇」ですが、日本武尊はそれより遙か以前に九州一円を統一した「景行天皇」の王子です。)彼らに共通している点はともに広い地域の統一を果たした天皇の第二皇子である、ということです。
(後にも述べますが、「書紀」の成立の事情から考えると「武」が「景行天皇」に重ねて書かれていると考えられるものであり、上の推定を裏付けているようです)
倭王「武」の、宋書に記載されている上表文には倭国の発展、征服の歴史が書かれており、その内容は「景行天皇」とその王子である「日本武尊」の行動とよく重なるといえます。
この征服戦は当初は「近隣の諸国」を相手に行っていたものと思われますが、当然のことながら、その後は次第に「遠い国」に対して行われるようになったと考えられ、「武」の上表文にある「昔より祖禰躬から甲冑を環き、山川を跋渉し、寧処に遑あらず。」という文章が真実味を帯びてくるのです。
「讃」以来の征服戦も終わりに近づき、「武」の段階ではすでに「関東」のあたりが残っていた未服地域かもしれません。このような想定からも「常陸風土記」の「倭武天皇」が倭王「武」であるという可能性はかなり高いのではないかと思われます。
その「日本武尊」の出生時のエピソードとして次のような話が「書紀」に載っています。それによると皇后の出産時「景行天皇」が「臼」を背負って家の周りを回っていたところ一人目が生まれたのに続いて二人目が生まれ始めたので、(双子であった)歩き続けなければならなかったため怒りのあまり臼に向かって罵りの言葉を発した、ということからこの二人の皇子を「大碓の尊」及び「小碓の尊」と命名されたと伝えられています。(碓=臼)
このように出産の際に亭主が石や臼を背負って家の周りを回る、というような風習は「栃木」や「茨城」に今でも残っているものであり、「北関東」の風習と考えられます。 つまりこれは「関東」の権力者であった人物である「関東の大王」の生誕説話、伝承を反映していると考えられ、言い換えると、この生誕説話の主な本拠地は「関東」である、ということであり、「日本武尊」とは何の関係もない、といえると思われます。
「書紀」編者かその材料提供者は、彼についての伝説的記憶を「日本武尊」の行動として記述することにより、「近畿」の権力者が「九州」や「関東」を征服したというイデオロギーを「書紀」に盛り込もうとしたのです。
(この項の作成日 2010/12/25、最終更新 2014/01/23)