平安時代の「算博士」「三善為康」(西暦一〇四九〜一一三九年)という人が著した書に「二中歴」があります。 そこに書かれた「年代歴」には「年始」から「三十九年後」に「年号」と「干支」を始めたとする記述があります。
「年始五百六十九年内、三十九年無号、不記支干、其間結縄刻木、以成政」
この記述の意味の解釈と年始はいつかということで解釈がいろいろありますが、後に見るように「仏教」の伝来からの年数を把握するためのものとした誕生したということができると思われます。そして「結縄刻木」については其の「年始」以前にも当然行われていたものと考えられ、それは「弥生時代」からのものであったということが言えるのではないでしょうか。
当時「稲作」と「王権」が一体のものであったことは間違いなく、「王の即位何年に何が起きた」とか言うものを記録する必要があったものと思われます。当時もいろいろな公的な場や記念の式典で「王の治績を顕彰する(つまり、声に出して言う)ために」日付が必要になったものでしょう。その補助として「結縄刻木」していたものと考えられます。
「三宅利喜雄氏」などの「新撰姓氏録」の研究により「孝元天皇」の「子孫」を称する氏族が大量に存在していたことが判明し、このことはいわゆる「天孫降臨」と称する「国の始まり」が「孝元天皇」の頃であったことを示すと考えられることなりました。そして、その時代とされているのが「紀元前二世紀頃」とされていますが、この時代付近には「漢王朝」が「半島」に「楽浪郡」を設置するという事業が行なわれています。これらには深い関係があると考えるべきでしょう。
「漢書」地理志、燕地の項には有名な「楽浪海中、倭人有り、分れて百余国を為す。歳時を以て来り献見すと云う。」という文章があります。
「漢」は朝鮮半島に「出先機関」として「半島支配」を確固たるものにするために「楽浪郡」を設置しました。(紀元前一〇八年から紀元三一三年まで存在)
この「漢書」の記事によれば当時の倭国は百国以上の小国に分立していたもので、彼らは「楽浪郡」に毎年時期を定めて朝貢しに来ていた、というのです。そして、その「貢献」の反対給付として「漢字文化」や「鉄文化」に接したのではないでしょうか。
そもそも彼らが「楽浪郡」において「漢字文化」に接しなかったと考えるのは無理があると思われます。ただそれらをどの程度に「こなしていったか」であると思われ、「漢字受容」には倭国内の諸国の間にあってもかなりの程度の差があったと思われます。その中には積極的に取り入れていこうとしたものもあったと思われ、そのような中から「王」を名乗って征服・統合を企図したものが出てくることとなったと思われます。その者が「漢」の「年号」と「干支」の使用を開始したものでしょう。(いわゆる「室見川の銘板」には「後漢」の年号が書かれており、そのことを裏付けています。)
このように海外から積極的な文物を導入した国が、その後中心的王朝としてその勢力を広げていった結果が、その後「紀元後五十七年」に「光武帝」から金印を授与されることとなったと思われます。
「後漢書倭伝」には「建武中元二年(紀元五十七年)倭奴国、奉貢朝賀す。使人自ら大夫(たいふ)と称す。倭国之極南界。光武賜うに印綬を以てす。」とあり、倭国の「大夫」つまり、倭国王のすぐ下の地位にある「高位」の人物が、直接「光武帝」に会うために「洛陽」に行った事が解ります。
倭国王の使者が「朝献」つまり「楽浪郡治」ではなく直接王都へやって来るのは「周の成王」以来であり、この「金印授与」は「一代セレモニー」であって、大イベントであったと想像されます。
夷蛮の地から遠距離を超えて朝貢してくるのは、それだけ天子の「徳」が高いことを示すわけであり、「光武帝」が、聖天子として名高い「周の成王」に匹敵する存在であることを国の内外にアピールする絶好の機会になったと思われます。
このように「後漢王朝」に「臣事」するようになったと言うことは、「暦」についてもこの時点付近で受容したとして不思議ではなく、その当時使用されていた「太初暦」が導入されたものと推定されます。
この「太初暦」はその後「狂い」が目立ち初め、「紀元八十五年」になってより精度の高い「後漢四分暦」に取って代わられます。倭国でも、追随してこの暦に変更したものでしょう。少なくとも「帥升」の貢献段階(紀元一〇八年)で「四分暦」が導入されたと見るのは不自然ではありません。そして、この「後漢四分暦」は以後倭国内で継続使用されていったものと考えられます。
「大宝令」の注釈書である「古記」という記録(七三八年頃に成立)に書かれている暦の説明に「儀鳳暦」に当てはまらない記述があります。(置潤法についての説明)
ここで注釈されている暦は「後漢四分暦」なら当てはまるものであり、このタイプの暦が「漏刻」と共に倭国内で使用されていた時期があったことが知られます。
「金印」を授与された「倭奴国王」以来「後漢」と関係ができ、それに伴って(公的に)、「太初歴」及びそれに引き続き「四分暦」という「太陰暦」の導入となったものと思われます。
ただし、この間、従来の「二倍年暦」による「日読み」も継続して記録され、使用されていたと思われます。
稲作と王朝の継続には深い関係があり、二千年以上経過した現在の天皇家の行事にも、数々の稲作関連のものが遺存しているわけですから、当時としてみれば「暦=日読み」が王朝にとっての重大な行事(行政)であったものと考えられます。このような中で日付とそれにリンクした宮廷行事を記録する、ということが王朝の伝統と正当性の保持に一役買っていたものでしょう。
太陰暦導入に当たっては「暦博士」のような人材も配置されたのでしょうが、「王朝内の地位」という点では従来の「日読み」者のほうが高かったではないか、とも考えられるわけです。
「古事記」序文に「稗田阿礼」という人物が出てきますが、彼がそうであるかははっきりはしませんが、「日読み」をする担当の人物(職掌)がいて、日付だけではなく、「日付入りの宮廷に関する記録」というものを記憶する、というものであったと思われます。このような仕事をする人材は太陰暦の受容とは別の次元として存在が必要と考えられていたものと推察されます。
彼のような仕事がその元になる「暦」を「取り換えて」、記録者として仕事を継続するというのは実際にはかなり困難であったのではないでしょうか。
(この項の作成日 2011/01/26、最終更新 2014/09/10)