「魏志倭人伝」の伝えられる写本の中には、「五世紀」南朝「劉宋」の史官であった「斐松之」という人物が他の史書を参考にして「注」をつけたものがあります。その中に「魏略」という書からの引用があり、「倭人、春耕秋収を記して年紀となす」という文章が書かれてあります。これについては「年紀」が「年数」を意味するものであり、「春耕」から「秋収まで」を計ってそれを一年としているという意味と考えられます。これが即座に春と秋の二回年の変わり目があって、一年に二回年をとるという意味にとっていいのかどうかはやや微妙であるとも言えるでしょう。後にも触れますが、「貸食」(貧民に対する支援としての「米」や「種籾」を貸与する慣習ないしは制度)の期間としてこの「春耕」から「秋収」までというものが設定されていたという可能性があり、そうであれば(一年の反対側である)「秋収」から「春耕」までが「一年」に設定される意味がないとも言えるでしょう。ただし少なくとも「魏晋朝」とは異なる暦があった、あるいは「魏晋朝」で使用されていた暦は「倭国」にはなかったということは確かであると思われます。
「西村秀己氏」及び「泥憲和氏」の研究に拠れば、「北宋」の「太平御覧」に引用されて残っている「三五暦紀(記)」(「呉」の「徐整」の書)に「盤古伝説」というものがあります。それによると「太古、一日に一丈づつ成長する盤古と天が有り、一万八千年後その身長と高さが九万里に達した」、とあるようです。これを普通に一年が三六五日で一里が一八〇丈で計算すると答えが合わないため、「実数ではない」…つまり、合わなくてもよい、という考え方が定説となっていたのですが、逆にこの計算が合うためにはどのような条件が必要かと考えてみると、@「二倍年暦」を導入し、Aかつ一年を「周」以前の「殷暦」の「三六〇日」としB「一里を『三十六』丈」とした場合に成立するというのです。
つまり、「二倍年暦」と「短里」(定説の一/五)の双方を導入した場合成立する話であり、「三五暦紀(記)」の中では、「殷」の時代は「二倍年暦」であって「短里」が採用されていたと言うことを表していると考えられます。そしてこれを復活させたのが「いわゆる」「魏晋朝短里」であると考えられるわけです。
(ただし、「倭国」には「魏晋朝」時代に「短里」が伝わったわけではなく、それ以前の「殷・商」の時代のものが既に伝来していたと考えるべきと思われます。それは「尺」の長さが「殷」から「周」そして「魏晋」と(漢時代を除き)徐々に長くなっているのが確認され、そのうち「殷」の時代のものと「倭国内」の「縄文時代」後期の建物跡などの柱間隔なから帰納、推察される「尺」のとの比較をしてみるとほぼ等しいことが判明しているからです。この事から「倭国」には「殷周革命」付近で大量に人と文化が流入したことが推定され、それが遺存したものと考えられることを示しています。)
この「二倍年暦」については「古賀達也氏」の研究があり、それによれば元々「南方系」の暦と考えられています。たとえばそれは「仏陀」の生没年研究などでも、有力な二説の差として現れています。ひとつは南方セイロン(現スリランカ)の伝承(「島史」と「大史」)や、「パーリ語」で書かれた資料などに基づくもので、「アショーカ王」の即位を「紀元前二六六年」と推定し、その年と「仏滅」つまり「仏陀の没年」との間を伝説により「二一八年間」とし、それにより計算した結果、「仏滅」の年を「紀元前四八三年」と推定したものです。
この「パーリ語」の資料とは「パーリ聖典」などを言い、その中にはその成立がきわめて古いとされるものがあると推定されています。また、この「パーリ聖典」は南方の諸国(スリランカミャンマー、タイなど)に広がっているのが特徴です。
この「パーリ語」は「サンスクリット語」にきわめて近く、伝説では「仏陀」がこの言語を使用していたとさえ言われています(真偽は不明ですが)
別の説は「アショーカ王」の即位年を「紀元前二六八年」とし、「仏滅」の「一一六年後」に「アショーカ王」が即位したという『十八部論』などに記された説に基づき、「仏滅」の年次を「紀元前三八四年」とするものです。
つまり、「南方系」の伝説を基にした推論では仏滅後「約二〇〇年後」にアショーカ王が即位した、というのに対し、「北方系」の資料には(インド・中国)では仏滅の「約一〇〇年後」と伝えられていることとなります。
当然これらの現象は、「南方系所伝」が二倍年暦で伝えられ、「北方系所伝」が一倍年暦により伝えられたため生じたと理解するべきでしょう。つまり「正しい」年次は北方系諸伝である「十八部論」や「部執異論」などの方であるという可能性が高いものと思料します。
このように「二倍年暦」の始原も南方では非常に古くに遡るものであることが推測されます。
これらのことは「本来」の資料が「二倍年暦」で書かれていた可能性を示唆するものであり、「仏陀」自身が「二倍年暦」の世界に住んでいたことを示唆するものでもあります。
その後後代になり、「二倍年暦」とは異なる世界に信仰の中心が移った時点以降「一倍年暦」に書き改められたと思われ、それは「アショーカ王」時代を過ぎ、「マウリヤ王朝時代」付近(紀元前三世紀から二世紀頃)の出来事と思われます。この時代は「原始仏教」の分裂時代であり、諸部派で各々異なる解釈などが発生した時期であります。この時点付近で「暦」を変換するということが併せて行われたという可能性が考えられるでしょう。
ところで、「魏志倭人伝」が書かれた三世紀段階で、「二倍年暦」などの南方の慣習を強く残しているのは日本列島の中でどの地方か、ということを考えると、「稲作」そのものが「南方系」であり、この「二倍年暦」は「稲作」に関係していると考えられるものですから、「弥生時代の始まり」という点においても、「南方」の慣習などを積極的に受け入れていたのが「九州北部」であるのは明らかです。
このことは、「二倍年暦」がもし遺存していたとすると、「稲作先進地帯」においてであり、それは「九州北部」をおいて他にはないと言えるでしょう。
この時代「卑弥呼」の率いる「倭国」では「租賦」(収穫した稲か)が徴集されていたと考えられ、そのための「戸籍」もあったと考えられますが(後述)、それはまた「暦」(太陰暦)の存在が推定されるものです。しかし、それにも関わらず「一般」には「二倍年暦」が行われていたものであり、「弥生」時代の初めから(稲作と共に)行われてきていたと考えられる「二倍年暦」が民衆の生活から消えることはなかったものと思われます。
現代でも日本各地の年中行事の中に「一年が両分される」という事例があるのが確認できます。それらの事例では、「正月から十二月まで」を一年と考えないで、六月を切れ目として二分して考えるという習慣あるいは伝承が現代にまで伝えられているのです。
たとえば、佐賀県のある地方では六月一日を「半歳ノ元旦」とよんでいます。この行事では、「水につけて」保存しておいた正月の餅を「雑煮」として食べ、「半歳の内祝い」を行っていたということです。
この暦(二倍年暦)は「稲作」に大いに関係した暦と思われますから、「弥生時代」の始まりと共に使用されていたと考えられますが、それに伴い「王権」お抱えの「語り部」(口承により宮廷記録などを記録(記憶)する係)により、「日付」を記録していたと思われ、その補助として「結縄刻木」があったと推量します。
(この項の作成日 2011/08/18、最終更新 2014/09/10)