ところで中国の史書には古代の日本に関する情報が所々にちりばめられており、興味を強く引きます。(たとえば「山海経」、「漢書地理志」、「魏志倭人伝」、「後漢書東夷伝」等々)
それらの記事の内容によると、日本は元々(紀元前千年から数百年程度か)百以上の小さな国の集合体であったらしいことや中国(特に周)の影響を受けていたようで、官制なども周の制度に習っていたことが推察できます。
中国で「周」が廃れ、その後制度などが移り変わっても、日本から来た使者が「周」の制度にもとづく官命を自称して中国の当局者を驚かせまた感心させていたりする事が記録に残っています。(「漢書地理志」に「使人自ら大夫と称す」と書かれている)
「委奴国王」は「後漢」の皇帝(光武帝)から、各部族の統帥の証として「漢委奴国王」という金印を拝受したわけですが、それは百以上あった国々のうち使訳が通じている三十国程度について彼の支配下に入れ、「統合」した事が認められたものと思われます。
ところで、従来この金印の解読が「漢の委の奴の国王」と細切れに呼んでいますが、(今でも高校教育などではそれは変わらないようです)「金印」は単一部族とか地域限定の権力者に贈られるものではなく、広い範囲に権力を及ぼす事が可能であるような「統一王者」に授けられるものであること。また、「金印」は贈る側である「漢」と贈られる側の「委奴国」との関係が直接関係であり重要で親密である、ということを互いに確認するため授与されるものですから、「漢の委の奴の国王」というように「漢」と「奴」国の間に「倭」国が入るのは印章を各部族に授与するときのルールに反していると言えます。(この点「古田氏」の研究によります)
あくまでも当時の日本の中心王朝の国名が「委(倭)奴国」であった、ということを示していると考えるべきです。
その「漢委奴国王」の印は江戸時代(天明年間)筑紫の志賀島から出てきました。当然、その「倭奴国」自体もこの地域に存在したと考えるのが順当というものです。(但し、出土の経緯には不審点があることは事実ですが、いずれにしろ「筑紫」地域でいつの時代かに出土していたことは不変と思われます。)
ちなみにこの当時の「漢字発音」はいまだ確定してはいないものの、ほぼ「呉音」に殉じて考えて大きくは違わないとされますから、「倭」は「い」でしょうし、「奴」は「ぬ」という発音と思われますから、「わのな」国などという国名はそれ自体がナンセンスであることとなります。これは「いぬ」国と発音するのが正しいと考えられます。
現在私たちにとってなじみの深い動物である「犬」の訓が「いぬ」であるのは偶然ではありません。「犬」は従順で古くから人間のよき仲間であり、従者でした。「金印」に彫られている「委奴」という字は「従順である」という意味の「委」と「従者」の意味を持つ「奴」という字で構成されており、「犬」という動物を表すのに大変適切な字の組み合わせであるといえます。このことから考えて「委奴」という国名の意味は中国文明に非常に敬意と憧れを持っていて、自分たちは「犬」のように忠実に仕えます、というメッセージを含んでいると思えます。
(卑弥呼に敵対していた「狗奴国」は「狗」という字が「子犬」を表現するものですから「邪馬壹国」に敵対はするものの「弱小な」国、という侮蔑的意味を含んでいるといえるのではないでしょうか。)
また、「後漢」の「王充」が書いた「論衡」という書物には「周のとき、倭人鬯草を貢す」という記事があります。一般にはこんな古い時代に中国へ朝貢していた、という記事の信憑性が問題になっていたようです。しかし、古田氏も言うように「漢書」と「論衡」は同時代書であり、両書に共通に現れる「倭人」が同一地域に居城する人達(民族)であるということは言うまでもないことと思われ、「漢書」と記述年代が異なる事を以て一概に信憑性がないとは言えないこととなります。
「放射性炭素年代測定法」の改善により従来「縄文」とされていた時代区分が「弥生」へと大きく変更となったわけですが、それにより「現実性」が大きく増したこととなります。もっとも、「縄文」時代であったとしてもそれほど大きな問題とは考えられません。というのは日本の歴史時代区分の中で「縄文」時代ほど誤解されている時代はないと思われるからです。
通常の理解では、「移動」「採集」「狩猟」の生活であり、農耕生活ではないため、富の発生、集中がなかった、と思われているようです。しかし各地の遺跡の発掘などにより、従来のそのような認識のいかに真実から遠いものであるかが徐々にではありますが、知られるようになってきています。たとえば同じ縄文時代(それも中期)に、黒曜石や硬玉(ヒスイ)またゴホウラの貝などが広い地域を介してやり取りされていたことが明確になっています。
たとえば狩猟に必要不可欠な道具である「鏃」は、その最高の材料である「黒曜石」が、どの地域にでも産出するというものではないため、(主要な産地は「佐賀県腰岳」、「長野県諏訪峠」、「北海道赤井川村」など限られています)他の地域の人々はこれを手に入れるためには、「工夫」が必要でした。人々は、この貴重な、しかも必要不可欠な道具である「黒曜石」を手に入れるために、あるいは直接訪れ物々交換により入手する、あるいは他の人々を介して入手する、という事になったものと考えられます。その結果「海」を越えて遠く離れた場所からも「黒曜石」の「鏃」が発見される事になりました。たとえば朝鮮半島や沿海州などで発見の報告があります。(X線蛍光分析器などにより黒曜石は産地の特定が可能です。)
同様に南方の海にしか生息していない貝(ゴホウラやイモガイ…主な生息地は奄美諸島以南のサンゴ礁)でできた腕輪がはるか北方の北海道の遺跡から発見されていることなどがあります。
また遺跡から出土した遺体には「ゴホウラ」の飾りを腕に多数つけた状態で発見されているものがありました。このような場合は幼少のころに腕に通したまま成長したものと考えられ、成人してからはその腕輪を取ることができない(取るためには壊さなければならない)状態となっています。このままでは「狩猟」などは不可能と考えられ、この人物が「労働」する必要がなかったことを意味しており、すでに「生産階級」と「非生産階級」とに社会が「分化」していたものと考えられています。このようなこともまた、従来の考え方からすると「非縄文的」です。
これらのことは、通常考えられていた「縄文」に対する認識について大幅な変更を迫るものであり、史書に書かれた縄文時代の情報についても積極的な捉え方をする必要があるものと考えられるものです。
「朝貢」という言葉についても時代が下がった時期、国家体制がより近代的になった時期の「朝貢」とは当然意味合いは異にするでしょうが、広い意味で文化的影響を受けている地域同士の「儀礼的交渉事」として考えることは可能と考えられます。
ところで、「論衡」という書物に書かれた記事の中で、貢物として「倭人」が「周」に持ち込んだ「鬯草」というものは、いまだ不明であり、各方面で検討されていますが、推測すると一種の「香草」と思われます。現在これと深い関係を持つと考えられる植物に「鬱金草」という植物があります。(現在も漢方薬で使用されている「ウコン」です。)
「鬯」という字と「鬱」という字は部首が同じであり、部首名は「においぐさ」です。この「鬱金草」という植物は辞書によれば止血、健胃の効能を持つ漢方薬であり、これは日本では「九州」と「沖縄」にしか自生しない種類のものなのです。
また中国には「鬱鬯酒」というものがあります。これも同じく辞書によれば「鬱金香を煮て黒黍に混ぜ、醸造した酒。中国で宗廟に捧げた。」とされています。
これは明らかに「周」王朝のとき(周の成王)以来のものであり、そのきっかけとなったものは「倭人」が貢ぎ物として持参した「鬯草」であったものと思われ、「鬯草」(あるいはそれに準ずる物)を「宗廟」に捧げるのがそれ以降絶えざる伝統となったものでしょう。
(この項の作成日 2003/01/26、最終更新 2014/07/11)