Workshop for Nipponianippon Communicative Language& Culture Studies


ポカポカ春庭のニッポニアニッポン事情

日本の歴史と文化史

| 日付2008 |
田園讃歌 |
言及作品 |
言及作家 |
| 02/16 |
近代絵画にみる自然と人間 |
落ち穂拾い・積み藁夕日 |
ミレー・モネ |
| 02/17 |
積み藁と落ち穂拾い |
落ち穂拾い夏・種播く人 |
ミレー・ゴッホ |
| 02/18 |
藁塚放浪記 |
藁塚放浪記 |
藤田洋三 |
| 02/19 |
「ジヴェルニーの積み藁夕日」と「三丁目の夕日」 |
続三丁目の夕日 |
・ |
| 02/20 |
志によって築く藁塚 |
・ |
・ |
| 2008 |
近代を駆けた女性たち |
作品 |
作家 |
| 02/21 |
近代美術館散歩・日本彫刻の近代 |
老猿ほか |
高村光雲ほか |
| 02/22 |
近代彫刻の女性像 |
女・日本婦人像 |
荻原守衛・ラグーザほか |
| 02/23 |
女性芸術家 |
カミーユ・クローデル |
クローデル・ロダン |
| 02/24 |
モデル智恵子 |
裸婦座像 |
高村光太郎 |
| 02/25 |
ゆっくり東京女子マラソン |
近代美人伝ほか |
長谷川時雨ほか |

田園讃歌
2008/01/21
ぽかぽか春庭ことばと文化>田園讃歌(1)埼玉県立近代美術館・近代絵画にみる自然と人間
各地の県立美術館には、その地方出身の画家の絵などが集められていたり、県展、市民絵画展など、地方の特色を生かした展覧会が開かれることが多い。
目玉となる「客が集まる絵」は、だいたい一館に一作くらい。
山梨県立美術館には、ミレーの『落ち葉拾い』がある。
埼玉県立近代美術館には、モネの「積み藁・夕日」がある。
だが、最近はどこも地方財政緊縮のあおりを受けて、「今年度の新作購入は予算ゼロ」という美術館も多い。
埼玉県立近代美術館で「田園讃歌」というテーマの展覧会を見た。北九州市立美術館、ひろしま美術館、山梨県立美術館の4館共同企画だ。
「田園讃歌・近代絵画に見る自然と人間」
4館の所蔵絵画・写真を集めた企画で、近代絵画のなかで、「田園風景」をテーマにしている。 キュレーターのセンスが展覧会の善し悪しを左右する最近の美術展のなかでも、とてもまとまりのよい、すぐれた作品の集め方がなされていると感じた。
山梨県立美術館所蔵のミレー「落ち穂拾い」と、埼玉県立近代美術館所蔵のモネ「ジベルニーの積み藁・夕日」の2点を核に構成されている。
「田園風景の美」は、近代になって発見された。
「田舎のけしき」なんて、大昔からそこにあったものだ。農業がはじまったときから、農村風景というものは、存在したし、農耕儀礼の絵や耕作収穫の絵は豊饒祈願の宗教絵画として、メソポタミアの時代から残されている。
しかし、その景色を「美の対象」として画家が意識して眺めるようになったのは、農村の時代から産業都市の時代へと移り変わって以後のことである。
マリーアントアネットがベルサイユ宮殿のなかに「プティトリアノン」と呼ばれる「農村のままごと」を行う場所をつくり、自ら農婦の衣裳を着て農村ごっごをした、というころから、ブルジョア層に田園趣味が広まった。
近代国民国家が成立して以後、市民層が絵画を買うようになってからは、かっての宗教画にかわって風景画の購入が喜ばれるようになってきた。
近代とは、「田舎を美の対象として眺める目をもった時代」でもある。
ミレーたちがバルビゾン村へ移り住んだのも、世が「産業都市の時代」へとなっていたからこそ、意味のあることだった。
日本の美術愛好者にとって、ミレーの「落ち穂拾い」は、図工や美術の教科書で眺めてきた「絵画の代表作品」のように感じる作品のひとつだ。
リンクは、オルセー美術館所蔵のもっとも有名な作品
http://www.asahi-net.or.jp/~hw8m-mrkm/kate/gallery/11.gathering.grain.html
<つづく>
2008/01/22
ぽかぽか春庭ことばと文化>田園讃歌(2)積み藁と落ち穂拾い
ミレーの「落ち穂拾い夏」を、一地方都市の山梨県立美術館が購入したと知ったときから、ぜひ見にいこうとと思っていた。
でも、なかなか甲府まで足を伸ばすことはできなかった。
やっと今回見ることができた。
http://www.rere.net/museum/yamanashi-museum.html
「落ち穂拾い夏」は四季連作の中のひとつ。四季4連作とは、「ぶどう畑にて春」「落穂拾い夏」「りんごの収穫秋」「薪集めの女たち冬」から成り、いずれも貧しい農民たちのささやかな収穫を描いている。
また、ミレーの「種まく人」は、絵に興味がない人にとってもなじみ深い。岩波書店のロゴマークデザインのもとになったので、多くの人に親しまれている。
「種まく人」http://www.pref.yamanashi.jp/barrier/html/kigyo/34955923008.html
バルビゾン派から印象派、ポスト印象派(Post-impressioists)へと時代が移っていっても、「外光による自然描写、田園光景」は、主要なモチーフとして絵画を彩った。
ゴッホもミレーの「種まく人」や「一日のおわり」を模写しており、「田園風景」は、この時代の画家たちにとって、大きなモチーフだった。
ミレーが農民を描いた絵も、ゴッホの絵も、私には「宗教画」のような印象がある。
複製画をみるたびに、農作業を行う農民の一日も、それを絵に描く画家の一日も強い宗教心のなかにあるように感じた。
今回の展示の解説プレートで、ミレーの「落ち穂拾い」も、旧約聖書の「ルツ記」の中の詩篇にもとずいたモチーフなのだと知った。
フランスへ渡って近代絵画を学んでいた日本の若い画家たちは、ミレーたちバビルゾン派の絵を、よく模写した。
今回の展覧会でも、和田英作や高田力蔵が、ミレーの「落ち穂拾い」を模写した作品が展示されていた。黒田清輝によるミレーの「小便小僧」の模写もあった。
日本の近代絵画における「農村風景」は、南画など伝統的な日本の絵画の「農村風景」に西洋の視線を取り込んできたもの、という特徴をもつ。
浅井忠らの描く農村風景には、「神への敬虔な祈り」というより、ノスタルジーを呼び起こされる。
明治の画家たちがバルビゾン派にならって描いた農村風景を、いま日本のなかでさがすのはむずかしい。藁屋根の家、小川にうたう水車、夕暮れのあぜ道。目籠を背負う農婦、母に背負われて畑から戻る赤ん坊、みんな日本の光景から消えたもの。
明治の農村はすでに「農本主義」をぶちあげても追いつかない「産業国家に組み込まれる農業」になっており、「失われゆく農村」の悲哀を帯びていた光景に見える。
画家たちのなかには、最初からノスタルジーがモチーフとしてあったのではないだろうか。
<つづく>
2008/01/23
ぽかぽか春庭ことばと文化>田園讃歌(3)藁塚放浪記
今、ヨーローッパにも、日本にも、近代絵画がよきモチーフとした農村光景は残されていない。フランスにモネの描いた夕日に映える「積み藁」はないし、日本に浅井忠が描いた農村風景はない。
展覧会の最後のコーナーは、藤田洋三の写真集『藁塚放浪記』の中に納められた写真が並んでいる。
日本各地の農村の藁塚を撮影した美しい写真の数々。
ワラヅト、ワラニョ、ボウガケ、ワラニゴ、ワラススキ、ワラホギ、チョッポイ、ヨズク、ワラグロ、ワラコヅミなどの、各地方で刈り取った稲藁を束ねて積み上げた塚の呼び名がさまざまある。
名前がさまざまであるとともに、各地方独特の藁の積み上げ方がなされている。
リンクは、「ニョウ」と呼ばれていた長野県の藁塚の写真。(撮影者は藤田洋三ではない)
http://www.5884atease.com/kanko/nyou/nyou.htm
今、農村地帯でも、刈り取った稲はすぐに人工乾燥工場へ運ばれてしまい、天日干しされるのは、自家消費分のごくわずかなものだけなので、写真のモチーフになるような光景は、めったに見ることができない。
この秋、私が出身地の田舎で目にした「稲架(ハサ)」も、ごくわずかだった。
田圃や稲架の光景、これからは「保存地区」に「観光」で行かない限り、日常風景として見ることはできないのだろうと思う。
太田道灌は現在の東京をながめたら、「家康入府以前の江戸は葦原の武蔵野が広がる光景だったのに」と、嘆くかも知れない。しかし、もはや東京を武蔵野の原野にもどすことはできない。
それと同じように、日本の田園風景が失われたことを嘆いても、では、300年前の日本に戻そうといっても不可能だ。
私たちは「近代」という時代の中に入ったときから、多くのものを失ってきたのだ。
「落ち穂拾い」は、貧しい人々のために小麦畑に麦穂を残しておくようにと書かれた旧約聖書の「ルツ記」の実践風景が描かれている。
落ち穂を拾わなければならない貧しさからの脱却は、「近代産業社会」によって実現された。
今、ヨーロッパで落ち穂拾いをする人を見かけることはむずかしいだろう。
落ち穂拾いの貧しい農民はいなくなった。同時に、落ち穂を分け与えあう人々のつながりもなくなった。
<つづく>
2008/01/24
ぽかぽか春庭ことばと文化>田園讃歌(4)「ジヴェルニーの積み藁夕日」と「三丁目の夕日」
モネが「美しいフランスの田舎」の光景として愛してやまなかった「村の農民たちが総出で積み上げた積み藁に夕日が映える景色」も、フランスの田舎で見ることが少なくなっている。
リンクはジヴェルニーの積み藁夕日
http://www.saihakuren.org/recommend/oi.php?id=53
映画「続三丁目の夕日」を見た若い女性が「人情があふれていた。人々が夢を抱いて目を輝かせていた。(中略)こまやかで、隣近所のつきあいがあたたかかったあの時代の失われた何かを取り戻したい。経済大国での便利や自由を否定するわけでもない。でも、お金じゃない何かを置き忘れてきたのではないか」と、投書したのを読んだ。
それを読み、実際に昭和30年代に子どもだった私は「今の便利さや快適さを捨てて、あんたらがあのころの生活に耐えられるなら、30年代に戻ってみたらいいやんか」と、思ってしまった。
置き忘れたんじゃない。「経済大国での便利や自由」が欲しかった人たちは、「こまやかな人情や隣近所のあたたかい交流」を犠牲にすることによって、便利さや自由を手に入れたのだ。
「経済成長の代償なのだろうか」と、投書の女性は自問する。
その通りだよ。社会が経済的に豊かになって、社会構造が変化すれば、共同体(コミュニティ)が変化せずにはいられない。
捨ててきたことの痛みを自覚することなしに、「こまやかな人情やあたたかい隣近所」だけ取り戻すことはおそらくできないだろう。
「経済大国での便利や自由」を既得権として確保したまま、「あたたかい人情がほしい」なんて、虫のいい願いはむずかしいのだ。
映画青年牧野光永氏は、「魔女の宅急便」のラストシーンを見て「成長とは何かを失うことなのだ」と、感じ取ったと書いていた。私は、その鋭敏な感受性をよしとする。
所沢に住む投書女性が「隣に住む人の顔も名前も知らず、人とかかわることを避ける時代」を残念に思い、「わすれてしまった『何か』を取り戻したいものだ」と、いうのなら、まずは、ケータイとコンビニとテレビエアコンなしに、西武線も池袋からの地下鉄もなしに1年間暮らしてみて、それから行動を起こしたらいい。
武蔵野の原野はとりもどせないが、人の心は、自分の働きかけによって変わるだろうから。
ムラの農耕共同体は、共同作業で田植えや稲刈りを行い、藁塚を積み上げてきた。
近代産業社会に突入したとき、日本は、その共同体のあり方を変化させつつ継承した。
「ムラ社会」と呼ばれた共同体(コミュニティ)をそのまま産業工場の労働者に応用したのだ。
日本の組合組織は、欧米の「ユニオン」とは、異なる面がある。
ユニオンは、、同業労働者の権利を守るために結成された「資本家との闘争」の組織である。その機能に加えて、日本の「クミアイ」は、「ムラ社会コミュニティ」の代替機能をもっていた。だから、クミアイ主催の運動会に、「家族会」はこぞって参加したのだ。
<つづく>
2008/01/25
ぽかぽか春庭ことばと文化>田園讃歌(5)志によって築く藁塚
世界各国で取り組まれたQC(品質改善・企業改善)運動。だが、欧米で成功した会社は少ない。日本の会社においてのみ、QC(カイゼン)活動が大成功をおさめたのも、「労働者組合ムラ社会」が背景にあったからだと、私は思っている。
「カイゼン運動に費やされる時間も労働時間だから、ボランティアとして行うのではなく、カイゼン運動を行った時間にも賃金を支払うべきだ」という考え方が、カイゼン運動の雄トヨタなどでも言われ出した。企業組合が「ムラ社会コミュニティ」でなくなってくれば、当然出てくる要求だろう。
産業構造が変化し、「企業別単組」のようなクミアイ共同体も機能不全となり、かろうじて残されてきた地方の「ムラ社会共同体」の残滓も、過疎化とともに失われた。
江戸下町の「長屋共同体」的なコミュニティをそっくり移入したのが、高度成長期における新興宗教団体だった。
宗教団体コミュニティは、農村部から都市に流入した「根をそがれたムラ社会住人」にとって、かっこうの共同体となった。今現在、日本で最大のコミュニティは、「学会員一千万人」を擁する宗教団体である。
「ムラ社会」から連続してきた共同体のあたたかさ細やかさが変化したのを嘆いても、はじまらない。
変化した社会を戻したければ、近代社会が築きあげてきたものをくつがえさなければならないということになる。
近代産業社会が作り上げた、教育制度と国防と税によって成りたつ「近代国民国家」共同体が機能不全におちいり、あたたかさとこまやかさを失っているのは確かだが、国民国家共同体にかわるものは、まだ機能をはたしていない。
近代産業社会は、いま、たそがれ。
日中輝きわたっていた太陽を一日の終わりには、だれも止めることができない。日が沈むように、近代社会もポスト近代社会も沈みつつある。
明日、別の新しい太陽は出てくるのだろうが、どのような社会を照らすどのような太陽なのか、わからない。経済学者も情報工学最先端を行く人も、いろんなことを言っているが、わたしにはとんと未来が見えない。
ポスト近代社会を生きていく私たちは、失われた共同体を懐かしがっているよりも、「ポスト近代社会の共同体」を新たに作り上げていくべきなのだ。
地縁血縁によっていた「ムラ社会」の共同体でなく、地縁によっていた「長屋共同体」「労働組合共同体」でもなく、志と希望をともにして歩んでいけるような、志縁共同体。と、いってしまうと、これまでゴマンと出されてきたユートピアになってしまうのだが。
志を等しくしてともに働き収穫し、収穫を分け合って藁塚を積み上げていける志縁共同体を成立させたいと、私は願っている。
藤田洋三の写真集『藁塚放浪記』には、さまざまな形の藁塚の姿とともに、農作業に精を出す人々の笑顔が写されている。
今、日本中でこの収穫の笑顔を見いだす機会は少ない。
「観光農業」や「保存農地」でもなければ、千枚田に藁塚が点々と残される風景など見ることができなくなったのだ。
近代が風景画に描き出してきた農村光景は、近代の終焉とともに消えた。
私たちに「ポスト近代の次」はあるのだろうか。
私は、夕日に輝く積み藁の風景を見たい。
タイやバリ島の田舎あたりにまだ、藁塚の風景が残されているときくが、かの地でもやがては失われていくのだろう。失われる前に見に行こうか。
<おわり>

近代を駆けた女性たち
2008/01/26
近代を駆けた女性たち(1)近代美術館散歩・日本彫刻の近代
駒込六義園、小石川植物園、白金の自然教育園、竹橋の近代美術館周辺は、私のお気に入りの「お散歩スポット」。四季折々に園内の散歩を楽しんでいる。
私の好きな「煉瓦造り近代建築」もセットにして歩き回る。
自然教育園の隣の庭園美術館は、元朝香宮邸だし、白金医科研の古い校舎のまわりを歩くと、伝染病研究所時代の古い物語が浮かんでくるようなたたずまいを味わえる。
小石川植物園には、東大現存最古の学校建築である旧東京医学校本館が、総合研究博物館分館として公開されている。
近代美術館別館の工芸館は、元近衛師団司令部の煉瓦建築が美しいし、お堀端の水の光景もよい。
東御苑で江戸城天守閣跡に立つのも、「殿中でござる」の松の廊下の跡をながめるのも、大奥の跡をたどるのも、楽しい歴史散歩になるし、往時の武蔵野風景を残す東御苑の木々の間を歩くのも好き。
2007年11月18日は、皇居東御苑と近代美術館散歩を思い立った。
晩秋のぽかぽか陽気、小春日の一日。
大手門から東御苑に入り、三の丸尚蔵館を見て平河門にぬけるコースを歩くことにした。
地下鉄の駅を出ると、大手門の前を東京国際女子マラソンの選手たちが走り抜けているところに出あった。
即席応援団になって、選手団のラストを走る女性を応援した。というか、ラストの選手が走り終えるまで交通規制で、大手門側へ渡ることができなかったので。
びりから3番と2番の人は、苦しげに顔をゆがめて走っていたが、びりっけつの人は、にこにこして「応援ありがとう、ありがとう」と、手を振りながら走っていた。マラソンを楽しむ市民ランナーなのだろう。招待選手以外の市民ランナーは450人。
トップランナーたちは、はるか先を走っている。優勝は、野口みずきだった。
竹橋の近代美術館の企画展は、「日本彫刻の近代」
高村光雲の「老猿」や息子の光太郎の「手」、荻原守衛「女」など、美術の教科書に必ず載っている彫刻作品や、日本の近代彫刻に大きな影響を与えたロダン、ブールデル、マイヨールなどの作品が展示されていた。
荻原守衛「坑夫」朝倉文夫の「墓守」や、佐藤忠良「群馬の人」など、近代彫刻の代表作が並べられている。
私の彫刻鑑賞は、美術鑑賞というより、「勝手な物語を作りながら、彫刻の顔をながめる」というミーハー鑑賞法。
ラグーザの「日本婦人」の前では、「このモデルはお玉だろうなあ」と、思って、お玉がラグーザとともにすごした明治の東京やイタリアを想像する。
ラグーザは日本滞在中に玉をモデルとした「清原玉女像」も制作している。
<つづく>
2008/01/27
近代を駆けた女性たち(2)近代彫刻の女性像
ラグーザ玉(1861〜1939)は、明治日本で最初に「女性洋画家」となった人。
玉の夫、ヴィンチェンツォ・ラグーザは、明治の「お雇い外国人」のひとりである。
イタリアで新進彫刻家として高い評価を得たあと、1876(明治9)年に来日。1882(明治15)年まで工部美術学校(東京芸術大学の前身)で、洋画や彫刻指導にあたった。
玉は、芝に生まれ、ラグーザに弟子入りした。
ラグーザの本国帰国の際には周囲の反対を押し切って、20歳年長の「先生」に同行し、イタリアのシチリア島へ渡った。
シチリア島のパレルモでラグーザと結婚し、夫とともにパレルモ芸術学校で後進を指導した。
夫と死別した後、日本に戻り、洋画家として活躍した。
荻原守衛、号は碌山ろくざん。1879(明治12)年〜1910(明治43)年。
「女」は、近代彫刻のなかで最初に重要文化財の指定を受けた作品。
近代美術館の所蔵品であるから、美術館を訪れるたびに毎回見ている。いつもは絵画を中心に見ていて、この「女」の前は横目で見てタッタッと駆け足ですぎる。
しかし、近代彫刻が歴史的に並んでいるこのような彫刻展のなかにあると、やはりそこだけ光を放つような存在感が際だつ。
「女」の直接のモデルは、素人モデルの岡田みどりという女性。
しかし、守衛がそこに表現したのは、彼がひそかに思いを寄せていた新宿中村屋の相馬黒光の姿だったと伝えられている。
黒光のこどもたちも、この像を一目見て「かあさんがいる」と思ったといい、黒光自身も、自分の内面を守衛が形にした像であることを確信した。しかし、その時、すでに守衛は30歳の若さで不帰の人となっていた。
相馬黒光について、私は臼井吉見の『安曇野』全5巻のなかに表現された黒光を知っているだけで、自伝を読んだこともないのだけれど、近代女性のなかでは実に希有な「自己実現と実業と夫との家庭生活」を鼎立してやり遂げた人に思う。
新宿中村屋の創業者にして、文化サロンの主宰者として芸術家たちのパトロンになった女性。
「女」が、近代女性の毅然とした美しさを表現し得ているのは、黒光の人間性を荻原守衛が深く理解し、黒光の内面に共鳴していたからだろうと思う。
近代彫刻の傑作群のなかを歩きながら、思ったこと。
近代日本美術の黎明期。江戸のなごりをつなぐ南画の奥原晴湖は別格として、ロシアイコン作家の山下りん、洋画の清原ラグーザ玉などの女性芸術家が近代の揺籃から輩出した。
しかし、彫刻の分野では現代になるまで女性作家が出なかったなあ、と思った。
体力的に、彫刻は女性には向かないと思われていたこともあるのだろう。
<つづく>
2008/01/28
近代を駆けた女性たち(3)女性芸術家
西洋では、ロダンの弟子にして愛人だったカミーユ・クローデル(1864〜1943年)の彫刻作品がある。
カミーユ18歳のとき、43歳のロダンに出会い、弟子入り。
ロダンの代表作のひとつ「パンセ(想い)」は、カミーユがモデルとなった作品。カミーユは、ロダンの彫刻へ強い影響を与えた存在でもあった。やがて師を圧倒するほどの作品を生み出すようになる。
しかし、カミーユは、女性であるがゆえに芸術家として認められないことへのストレスに加え、ロダンに裏切られて、1905年、41歳のころ、精神のバランスを崩した。
カミーユの80年の生涯のうち、1905年以後、亡くなるまでの38年は、精神病院に閉じこめられてすごした。
カミーユを案じていた母は、1920年に亡くなり、姉カミーユを支えていた弟、詩人のポール・クローデルは、1921年に日本駐在フランス大使として赴任し、遠く隔たってしまった。
精神病院ですごすカミーユを支える人はいなくなり、孤独のうちにカミーユは亡くなった。
私のカミーユへの理解はイザベル・アジャーニ主演の映画『カミーユ・クローデル』の内容以外に知らないので、勘違いな部分もあるだろうが、彼女が「絵画」という媒体を選んだなら、病院の庭で孤独にすごした後半生とは異なる一生もありえたかも知れないという気がする。
「女だから」と、芸術へ向かうことを押さえ込まれ、自らの芸術への志向を押し曲げねばならなかった近代の女性たち。
たとえば、高村光太郎の妻、智恵子。
光太郎自身の筆による「智恵子の半生」に描かれている智恵子の姿。。
新婚の夫と妻がふたりして油絵に取り組んでいる。しかし、女中をおく余裕のない家で、腹が減ればどちらかがご飯を作らなければならない。
妻はしだいに自分の絵をあきらめ、夫が制作に費やす時間を確保すること、夫を支えて家事いっさいを引き受けることに生活の満足を見いだすようになった。
光太郎は、それを智恵子の自発的な決断だった、と書いている。そうなのだろうか。智恵子の本心からの選択だったのだろうか。
夫を支えるのが良妻でありそれ以外の人生はないと教え込んだ明治の「良妻賢母養成教育」を受けた女性が、家事を優先させて欲しいという夫の要求を押しのけて芸術の道を走り続ける方法があったのだろうか。
自分なりの歩調で、自分なりの歩幅、で歩いて行ける時代ではなかったように思うのだ。
ふたりは「事実婚」の先駆者で、1911年に出会い、結婚披露宴は1914年に行っているが、入籍したのはそれから22年後の1933年。智恵子に統合失調の症状があらわれはじめ、自殺未遂をおこした翌年のこと。
<つづく>
2008/01/29
近代を駆けた女性たち(4)モデル智恵子
高村光太郎の彫刻は、「手」が有名だ。モデル(?)は、自分の手。
光太郎の作品というとき、詩はいろいろ思い浮かぶのに、彫刻作品では、「手」以外に、さあ、何を見たことがあったんだっけ。と、思っていたら「日本彫刻の近代」に光太郎の裸婦座像が出品されていた。
「裸婦座像」は、30cmほどの小さな像で、「手」と同じ年の制作、1917(大正)年。智恵子と結婚して3年後のことだ。
http://picasaweb.google.com/jknudes/JapaneseNudes/photo#5080455570838415506
十和田湖畔にたつ「乙女像」は、晩年の光太郎が情熱を傾けた作品であり、亡き智恵子の面影を追いながら制作されたという逸話がよく知られている。
しかし、若い頃の作品「裸婦座像」のモデルがだれであったのか、調べてみても、記録がみつからない。
光太郎72歳になって、「モデルいろいろ」というエッセイに書いていること。
「日本に帰ってきてから四、五年は乱暴な、めちゃくちゃな迷妄生活を送っていたが、そのうちに智恵子と知るようになり、大正3年結婚したので、あんまりぐうたらなモデルは雇わなくなった。
智恵子との結婚によって経済上の不如意はますますひどくなった。父からの補助はなくなり、彫刻を金銭にかえる道がうまくつかず、原稿かせぎもあわれなものだし、身をつめるほかなかった。モデルも極くたまにしか使えなかったのである。
その上、あれほど聡明な女性であった智恵子でも、私がモデルを使うことを内心喜ばなかった傾きのあることを知ってから、尚更モデルを雇うことが少なくなった。
智恵子も進んでモデルになった。智恵子の体は実に均整のいい、美しい比例を持っていたので、私は喜んでそれによって彫刻の勉強をした。智恵子の肉体によって人体の美の秘密を初めて知ったと思った。
かなりの数を作っている。全身だの、部分だの、トルソだの、クロッキーだの、それもみな今度の戦災で焼けてしまった」
この記述から見るかぎりでは、結婚3年目の裸婦座像のモデルは、「とぼしい稼ぎのなかから、智恵子が喜ばないのを承知で雇ったモデル」の女性であったのか、智恵子なのか、わからない。
もし、裸婦座像のモデルが智恵子であるのなら、光太郎がひとこと言い残していてもよさそうなのに、と、思う。裸婦座像の均整のとれた美しい肢体は「智恵子の体は実に均整のいい美しい比例を持っていた」と、光太郎が書き残したとおりなのだが、像の顔は、写真に残る智恵子とは別人のようにも思える。
わかるのは、たくさん描いたスケッチやクロッキー、制作したトルソなど、智恵子をモデルとした作品が、戦災ですべて焼けてしまった、ということだけ。
<つづく>
2008/01/30
近代を駆けた女性たち(5)ゆっくり東京女子マラソン
近代という時代を、黙々と走り抜けていった女性たち。
颯爽と走った者もいただろう。最後尾を苦痛で顔をゆがめながら、一歩一歩と足を運んだ者もいただろう。
「日本彫刻の近代」展、さまざまな思いを抱きながら、彫刻の間を歩いた。
私は、近代史を駆け抜けた女性たちに思いを寄せてすごすことを好んでいる。
評伝や自伝、小説の主人公として彼女たちの物語を読んできた。
明治の女性作家。『樋口一葉日記』ほか、数々の一葉を主人公にした小説、伝記。
田沢稲舟については2冊のみ。伊藤聖子の評伝『田沢稲舟』大野茂男の『論攷 田沢稲舟』。
最初の女子留学生ふたり。大庭みな子の『津田梅子』、久野明子の『大山捨松-鹿鳴館の貴婦人』
女性画家、大下智一の『山下りん―明治を生きたイコン画家』。
作家、教育者、社会運動家。林真理子の『ミカドの女(下田歌子)』、臼井吉見の『安曇野(相馬黒光)』、高群逸枝『火の国の女の日記』、平塚雷鳥『元始、女性は太陽であった らいてう自伝』、市川房枝『自伝(戦前編)』、永畑道子の『華の乱(与謝野晶子)』
また、長谷川時雨『近代美人伝』に描かれた、川上貞奴(女優)、松井須磨子(女優)、九条武子(歌人)、柳原Y子(歌人)らの生涯も深く心に残る。演劇、短歌などの自己表現と人生における自己実現に命を賭けた女性たち。
画家では、江戸から明治初期に活躍した南画の奥原晴湖も忘れがたい。
心に残る女性たちとは、何らかの功績を残し顕彰されている人だけではない。
管野すが、金子ふみこ、伊藤野枝ら、近代国家権力にあらがった女性も好きだ。
管野すがについて、岩波新書『管野すが・平民社の婦人革命家像』や、瀬戸内寂聴の『遠い声』を読んだ。
金子ふみ子『何が私をこうさせたか』、瀬戸内寂聴の『余白の春』。
伊藤野枝については、瀬戸内寂聴の『美は乱調にあり』を読んだだけで、彼女自身の著作を読んだことはない。
無名の女性たちの名を知ることができるのは、多くの場合、裁判記録や新聞の犯罪事件報道によるので、おおかたは悲しい一生をおくった女性の人生を知ることになる。
近代女性史の登場人物のなかで、子育ても順調で、自己実現も果たしてという「両立組」は、相馬黒光、与謝野晶子、平塚雷鳥くらいかな。
近代という時代は、女性にとっては、とても厳しい時代だった。行きづらい時代のなかを、懸命に走り抜けた女性たち、ひとりひとりの人生が、私は好きだ。
東京国際女子マラソン。2008年の第30回大会を最後に、「東京女子マラソンレース」の開催は幕を閉じるという。
2007年は、最後から2番目の大会だった。
大手門前のマラソンコースを、颯爽と走り抜けたトップランナーたち。
最後尾、苦しげにラストを走っていた人、楽しげにびりっけつで走った人。
それぞれの走り方はあっただろうが、彼女たちは「女性がマラソンに挑戦するなど無謀だ」と言われた時代もあったことなど、まったく感じさせもしないで、お堀端を駆け抜けていった。
今、マラソンの分野でも芸術の分野でも「女だからダメ」といわれることはない。
みな、のびのびと走り、芸術表現にたちむかう。
現代彫刻の分野では、たくさんの女性たちが活躍している。
「表現者」としての女性がおらず、「モデル」としてしか女性がいなかった近代彫刻の数々をみながら、近代美術のトップランナーとなった女性たちを思った。
さまざまなドラマを抱えて、自己表現に生涯をかけた人々、もくもくと走り続けたのだろうなあ。
<おわり>


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