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話しことばの通い路Workshop for Nipponianippon Communicative Language& Culture Studies
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ポカポカ春庭のニッポニアニッポン事情

  

 ニッポン今転ポラリ 2006

日付2005 交流ニッポン激流史
05/23 実りある交流のために
05/16 八田ダム
05/18、19 エドモンド・モレルと鉄道(1)(2)
11/03〜05 ビルマのダンディジュン祭り

日本事情・交流史>
実り豊かな交流のために
2005/05/23

 個人の精神的な活動、宗教活動は、憲法20条に保証されている。
 私は、神社があれば柏手うち、お寺があれば御本尊さんゴセンゾさんにお参りするという程度の、神仏習合、ごく一般的な仏教徒にすぎないが、『鑑真展』で鑑真像を前にすれば、,鑑真さんにも、いっしょうけんめいお祈りし、お願いする。
 「どうぞ、国と国が仲良く平和におつきあいできますように」「為政者の恣意によって、国と国との友好が損なわれませんように」 

 憲法20条には信教の自由の保証とともに、政治と宗教の分離が明示されている。「憲法20条 国及びその機関はいかなる宗教活動もしてはならない」

 宗教法人格を持つ宗教施設に参拝することは、宗教活動である。
 「これは個人的な精神活動であって、国の機関による宗教活動ではない」と、本人が思ったとしても、一国の代表者が宗教施設に出かけ参拝すれば、対外的に見て宗教行為のひとつとみなされるだろう。
 公人の立場を下りないまま、特定の目的をもって、宗教施設に参拝することは、内外に大きな影響を与える。

 「どのような追悼をするかに口出しするのは内政干渉」とまで言い募ることが、どれほど国益をそこね、これまで多くの人が積み上げてきた国と国との交流の歴史を踏みにじるものであるか。

 個人的な精神活動と、公人の活動は異なる。「内閣総理大臣」という役職を下りないまま参拝すれば、軋轢を生む。
 いくら「個人的行動」と言っても、ニュース報道などで「首相の参拝」として報道されるのだから、「首相という役職を持ったまま、国を代表する人として参拝している」と、受け取られる。それほど参拝にこだわるのならば、さっさと公人の立場をすべて引退し、一私人として、毎日でも参拝したらよかろう。

 個人的に亡き人々を追悼することと、国を代表する公人としての立場ふるまいの違いもわからず、憲法20条を踏みにじり続ける人の言動が、これからも災いの種になりそうで、心配はつきない。

 参拝、教科書、島領有、経済摩擦など、さまざまな問題が未解決のまま残されている。が、それでも「研究を深めたい」「仕事を覚えたい」「日本の文化をもっと知りたい」と、日本へ、学問や先端技術を学びに留学してくる世界各国からの学生たち。
 今年4月の新学期に、また新しい学生と出会った。

 私立大では、中国、韓国、マレーシア、タイ、イランからの私費留学生が在籍しているクラスを受け持っている。
 国立大の国費留学生、4月からの前期に受け持つのは、ネパール、モンゴル、インドネシア、フィリピン、アルジェリア、ホンジュラス、アメリカ、スペイン、イタリア、ポーランドから。

 毎年、これまで私には遠い国だったところからの学生を迎えることができる。今年はホンジュラスが、「この国の人とはじめて出会った」という国になった。
 中南米では、これまでメキシコ、ドミニカ共和国、グアテマラ、パナマ、コスタリカ、ベネズエラ、ペルー、コロンビア、ブラジル、アルゼンチン、チリ、ウルグアイ、パラグアイの学生を受け持ったことがあるが、ホンジュラスからの留学生と出会うのは今年はじめて。
 それぞれの国と日本の交流を大事にしてほしいと思っている。

 アジア・アフリカ・ラテンアメリカなどの発展のために、海外協力隊その他の交流事業で出かけていく日本の人々。今年もさまざまな国との交流活動が行われるだろう。

 国と国、人と人との交流のために、ひとりひとりが心を砕いている。不幸な社会情勢から、せっかくの交流を台無しにするような動きがあっても、冷静にこれから先の交流を考えて、よりよい方向をさぐっていきたい。

 私にできることは、誠心誠意留学生に対応し、日本の歴史や文化について、また、各国との交流史について、共に学び共に考えていくこと。
 ひとりひとりの留学生の心にのこる授業ができたら、きっとその小さな積み重ねが交流の大河となって世界をつなく海に広がるだろうと、信じている。(交流史おわり)
14:58 |


八田ダム
2005/05/16 月

 「留学生出身国と日本の交流史」という授業の発表で、印象に残った台湾からの留学生のレポートがある。「八田與一」について。
 台湾の嘉南平野にダムを築き、今なお地元の人々に敬愛されている人物である。5月8日は、八田與一の命日だった。

 八田與一は司馬遼太郎の『街道をゆく40台湾紀行』にも紹介されている。台湾紀行の初出は1993年週刊朝日の連載で、1994年には単行本が出ている。私は文庫化された1997年に買ったのだが、ツン読にしておいたままだった。
 2003年に台湾からの留学生が八田與一について発表するまで、まったくこの人のことを知らなかった。

 2004年春休みに娘と台北を歩いたあと、「台湾紀行」を読み、「あれ、司馬遼太郎がもうずっと以前に八田與一を紹介していたんだなあ」と、気づいたのだ。

 留学生は、台湾の南部の町、台南市の出身で、地元では八田與一を皆が尊敬していると話していた。
 台南市と嘉義市の間に広がる嘉南平野は、20世紀まで不毛の大地だった。中国清朝も、この地を「化外の地」としており、不毛の地を変えるための手だては、なにひとつ行わなかった。

 台湾が日本領になって、この地にひとりの土木技師が赴任してきた。八田與一。東京大学土木科を卒業してほどなく、台湾総督府土木局に勤務した。
 八田は台湾の地を愛し、土木技術のすべてを傾けてダムを築いた。1920年から10年をかけた水利事業が完成し、嘉南平野は沃野に変わった。不毛の地は、有数の農業地域になったのだ。

 八田與一を知る台湾の人々は、日本人と台湾の人を差別することなく平等に対した彼の人柄を愛した。しかし、戦争の激化により、八田は台湾からの移動を命じられた。
 1942年、陸軍の徴用によりフィリピンへ向かう途中、乗船していた大洋丸が米軍に撃沈され、死去。56歳だった。

 八田與一の夫人は、夫と同じ金沢市の出身だったが、與一死後も、夫が愛した台湾の地を離れようとしなかった。夫が台湾に骨を埋めたいと思っていた心をくんでのこと。
 8月15日、敗戦。夫人は身辺整理をすませると、1945年9月1日、夫が築いた烏山頭ダムの底に身を投じた。遺書で、夫の魂と共に台湾の地に葬られることを望んだ。

 夫妻の墓は、ダムによってできた湖「珊瑚潭」のほとりにある。
 八田與一の事績を感謝する地元の人々によって、毎年5月8日の與一命日に墓前祭がいとなまれているという。

 さらに詳しく八田與一について知りたい人は、司馬遼太郎『台湾紀行』「八田與一のこと」と「珊瑚潭のほとり」の章を。また、古川勝三『台湾を愛した日本人--八田與一の生涯』という本をどうぞ。(交流史つづく)
09:34 |



お雇い外国人モレル
2005/05/18 水
(1)

 授業で使っている『留学生のための日本史』のなかで、一番最初に登場する固有名をもった人物はだれだと思いますか?ヒミコ?聖徳太子?いいえ。
 日本歴史の教科書であるけれど、ページを開いた学生が最初に目にする人物は、モース。原始時代の人が焚き火のまわりに集まっている絵の次ぎに、モースの写真が載っている。

 教科書は、アメリカ人学者モースが大森貝塚を発見し、日本の原始時代の研究が発展したことを述べている。モースの貝塚発見は1977年(明治10)。
 これ以後、日本原始時代研究が「近代科学」として行われるようになった、という教科書最初の原始時代のページの記述から、授業が始まる。

 モースは、明治初期に日本へやってきて、日本近代化に力を貸してくれた「お雇い外国人」のひとりである。
 モースのほかにものべ590人にのぼる外国人が近代国家を作り上げるため、日本へやってきた。医学、工学、美術、さまざまな分野で近代技術が必要とされた。

 鉄道技師エドモンド・モレルも、明治のお雇い外国人のひとり。明治初期に日本ですぐれた仕事を成し遂げた。

 春の東京散歩、汐留高層ビル街(シオサイト)を歩いていたときに、「FM東京公開放送収録」というイベントをやっている場所があった。そこは復元された旧新橋停車場のホーム上だった。
 ディスクジョッキーやゲストの歌手が軽やかなトークを繰り広げているその場所が、かって「♪汽笛一声新橋をはや我が汽車は離れたり〜」の旧新橋駅ホームだったこと、公開放送を見ている人たちは、気づいていたかしら。

 旧ホームの反対側に回れば、新橋ステーションを復元した建物があり、小さな博物館となっている。出土した旧新橋停車場の礎石などを展示している。
 モレルについて、私はほとんど知らなかったので、しばし、モレルが携わった鉄道工事のようすなどをビデオで見てすごした。

 1868年に明治新政府が発足して以来、日本の近代化は急ピッチで行われた。あまりにも急激に「富国強兵」をはかったため、その後の歴史にゆがみが出た部分もあった。
 しかし、近代化の一翼を担ったお雇い外国人の中には、心から日本を愛し、日本の発展に心血を注いだ人も少なくない。

 明治初期に政府が雇った外国人は、1870〜1885年の間に、約600人。最も多かった1874年(明治7年)の1年間で、鉄道関係を中心に290名の外国人が日本政府の「お雇い」になった。

 エドモンド・モレルは、鉄道関係お雇い外国人の、イギリス人鉄道技師。
 イギリスでは、明治維新の50年ほど前1814年にスティーブンソンが蒸気機関車を発明し、鉄道馬車の技術から発展した鉄道技術が進んでいた。

 明治新政府は、近代化の最初の事業として、何がなんでも「鉄道」を完成したかった。
 早くも1870年(明治3)には、鉄道建設のための最初の測量杭が東京汐留の地に打ち込まれ、そのわずか2年後には新橋横浜間に鉄道が開通した。

 旧新橋駅は、のち汐留貨物駅となり、現在は汐留高層ビル街となっている場所にあった。旧横浜駅は、現在は桜木町駅となっている。

 桜木町駅構内に、モレルの肖像レリーフがある。レリーフを見たいと思って、5月10日仕事のあと、京浜東北線に延々と乗って桜木町駅まで行った。
 モレルのレリーフは京浜東北線の下り方面ホームから階段を下りたところにあった。レリーフの両脇には、明治時代の旧横浜駅の古い写真などが並んでいる。

 レリーフはガラスで保護されているので、とても見づらい。天井の照明が反射するので、どの角度から見ても、モレルの顔はあまりはっきり見えないのが残念だった。
 「初代鉄道建設師長エドモンド・モレル」と名が書いてあるが、業績などの説明はない。
(つづく)
08:35 |

2005/05/19 木
日本事情・交流史>お雇い外国人モレル(2)

 1870年に来日して以来、モレルは、大勢の外国人技術者と日本人作業員を率いて働き続けた。海の中に土手を築き、橋をかけ、当時の土木技術を結集して鉄道を敷設した。

 モレルを手伝う日本人は、陣笠をかぶり、だぶだぶの「だんぶくろ」と呼ばれている股引をはいて、刀を腰に二本指していた。
 測量器械についている方位磁石が、大小の刀の鉄分のため誤作動する。「鉄道のため、刀は腰からはずしてほしい」という命令が測量助手に下された。1875年(明治9)に廃刀令が出される前のことだから、抵抗を感じる人もいたことだろう。

 鉄道工事には賛否両論沸騰した。「鉄道より軍備」と主張する陸軍の反対にあい、当初の鉄道予定地だった高輪を測量することもできない。高輪の陸軍用地を避けて田町〜品川間は、海の中に堤防を築いて、堤防の上に線路を敷くなど、工事はさまざな困難を解決しながら進められた。

 1872年(明治5)旧暦9月12日、「鉄道開通式」が、行われた。(1873年正月から新暦に切り替わったため、現在の「鉄道の日」は新暦10月14日)
 天皇臨席を得た、晴れの式典であり、「近代国家」の威信を内外に示す場でもあった。
 
 桜木町駅構内の、明治時代旧横浜駅の写真展示の中に、開通式の日の新聞写真がある。中央の明治天皇の前に居並ぶ式典参加者達。天皇の前にかしこまる人々、左側の燕尾服は、外国人たちであろう。右側の人々は裃袴で、辞儀を正している。廃刀令が出る前であるから、かみしもに刀をさした姿が正装であった。

 しかし、晴れの開通式にモレルの姿はない。
 病身をおして日本にやってきたモレル。日本の鉄道開通に渾身をかたむけ、あまりに働きすぎたせいか胸の病が悪化していた。
 開通式の1年前の1871年9月23日、エドモンド・モレル、30歳の若さで死去。

 日本人に対して威張るばかりで、まじめに仕事をしなかったお雇い外国人もいた中で、モレルは、懇切丁寧に鉄道技術を日本人に教え、鉄道開通のために働いた。日本人女性の梅と結婚し、仲むつまじい夫婦だった。 
 だが、妻、梅の懸命な看病も、病の回復には届かなかった。

 モレルの妻、梅も、看病疲れか夫を失ったショックからか、夫の死の12時間あとに、なくなってしまったという。夫妻は共に横浜外人墓地に眠っている。

 モレルは、イギリスの鉄道技術を惜しみなく日本人に伝えただけでなく、「外国人を雇うだけではいけない、学校を建てて日本人に技術を教え、技術者を養成するように」と政府に提言した。この提言を受けて、工学、医学など各分野の学校教育が充実していく。

 20年後の1890年代には、ほとんどの学術技術の分野で、外国人の助けが必要なくなった。モレルの提言が実り、養成された学者技術者たちが活躍していくようになったのである。

 明治初期に日本へやってきた約600人ものお雇い外国人。なかには高給だけが目当ての人もいただろう。しかし、モレルをはじめ、日本近代化に骨身を削り、日本との交流につくした外国人も大勢いた。
 また、八田與一のように植民地時代に赴任した地で懸命に仕事をして、死後も長く慕われ顕彰されている人物もいる。

 国と国との交流の長い歴史。
 たくさんの人々が営々と努力して築いてきた信頼関係が、一部の人々の行動や言説でマイナスになってしまうことも起きる。
 これまでの外交や民間交流の蓄積が、このようなことでマイナスになるとしたら、残念なことだ。
(つづく)
08:37 |





ビルマのダディンジュ祭り
2005/11/02 水
(1)

 私が世間とつながっているのは、仕事の場と、カフェ。
 カフェでは、こうやって、自分の思いや意見を発信する場がある。これだけでも私には、ありがたいこと。

 意見が同じ人ばかりでなく、異なる思想信条の人ともコメントのことばをかわす。
 ときには、言葉の不備によって思わぬ誤解を招いたり、私の不適切な表現によって、読んだ方に不愉快な思いをさせてしまったり。

 いろいろな失敗はあっても、自由に書くことができる。また、自由に読むことができるカフェ散歩、さまざまな意見を幅広く読めて、自分と異なる意見の方の主張を知ることができる。
 しかし、世界の中には、自由な言論を許されていない国も多い。

 仕事の場では、毎年、世界中から来日する留学生に会える。
 私費留学生は、中国、韓国、台湾、タイ、マレーシア、シンガポールなど、アジアからの留学生が多いが、国費留学生(日本国文部科学省給費奨学金授与者)は、これまでに世界中の100ヵ国以上の国からの留学生と出会えてきた。国連加盟国191ヵ国の中の100ヵ国。あと半分の国の人とも、ぜひ出逢いたい。

 今の仕事をしていなければ、その国が地図上のどこに存在するのかさえ知らなかったような小国や日本になじみの薄い国の学生とも出会えた。新しい国の人と会うのが、楽しみのひとつ。

 今期も、ボリビア出身の留学生、ソロモン諸島出身の留学生など、「お初」の国の人と出会えた。
 地図みないで、どのあたりの国か、ぱっと思い浮かびます?
 ボリビア、南米の真ん中あたり。ソロモン、オーストラリアの斜め上の太平洋の島。

 10月から受け持つ、四つのクラスの国籍。近いほうから世界一周してみよう。韓国、中国、フィリピン、インドネシア、タイ、ミャンマー、バングラディシュ、スリランカ、パキスタン、ネパール、イラン、ドイツ、スエーデン、アメリカ、ボリビア、コロンビア、ブラジル、オーストラリア、ソロモン。
 実にさまざまな国から日本へ勉学の意欲に燃えてやってくる。

 また、東京にはたくさんのエスニック料理店があるので、私は町歩きの楽しみのひとつとして、エスニック料理のお試しをすることが多い。
 8月9月はアフリカ料理、モロッコ料理、10月はイラン&トルコ料理、モンゴル料理、タイ料理などの店に行ってみた。
 そのほか、東京に住んでいると、さまざまな国の人を知るチャンスは多い。

 10月9日、公園からにぎやかな歌声が聞こえてきた。「ビルマのダディンジュ祭り」だった。
 公園野外ステージには、ビルマ文字と日本語で「ビルマ ダディンジュ祭り」という大きな看板が掲げられ、文字の横にはアウン・サン・スー・チーさんを思わせる女性の肖像画が描いてある。

 ビルマは、軍事独裁政権となってから、国名をミャンマーと変えた。軍事政権に反対する人達は、今でも自分の国をビルマと呼び続けている。 <つづく>
00:20 |

2005/11/03 木
ニッポニアニッポン事情>ビルマのダディンジュ祭り(2)

 絵が、スーチーさんそっくりの似顔絵じゃないのは、何か問題が起きたときに、「いや、これは別段スーチーの顔じゃなくて、一般的なビルマ女性のひとりだ」と、言い逃れをするためかと思われる。スーチーさんは、ノーベル平和賞受賞者であるが、本国では政治犯として幽閉中の身だ。

 これまで私が受け持ったクラスにも、何名かのミャンマーからの国費留学生がいた。今期もひとりいる。
 かれらは、本国から軍事政権によって選抜されて来日した学生であるから、現政権に従う考え方の人が多い。

 しかし、今、日本に在留しているビルマ系の人々は、軍事政権のために本国では生活していけなくなった方が多い。軍事政権に反対して政治犯とされた人、留学してから民主化運動を行ったために、帰国できなくなった人など。

 10月に東京近辺の在留者が集まって行ったビルマのお祭り「ダディンジュ祭り」
 ダディンジュ祭りとは、ビルマの月の名であるダディンジュ月(太陽暦9月〜10月上旬頃)の満月の日に行われる。

 仏教徒が戒律を普段より厳しく守る 『雨安居(うあんご)』 (6月の満月から9月の満月まで)明けを迎え、この日から3日間、人々はパゴダ(仏教寺院)にお参りをして花や灯明を供える。また、家に僧侶を招き、食事を差し上げ法話を聞き、その後、友人・知人とともにご馳走と談笑を楽しむ。

 10月9日は、イスラム教徒(モスレム)の人々が、一ヶ月間のラマダン(断食)に入る日だった。ラマダンの期間中は、飲食その他日常生活に戒律を設け、ラマダン明けには、友人親戚集まって、盛大なパーティをする。

 同じように、ビルマの仏教も、雨安居(うあんご)の期間は、仏教の戒律を厳しく守り、雨安居が終わる解夏(げげ)となる日には、集まってお祭りをする。
 ことしは、雨安居明け(解夏)とラマダン入りの時期が、同じころになった。

 10月9日に東京で開催された、ビルマの雨安居明けを祝うダディンジュ祭り。
 ビルマの歌や踊り、本格的ビルマ料理が楽しめる屋台、などのイベントがあった。

 催し物は17時で終わりになったが、私が公園についたときは、名残を惜しんでいる人々がステージを囲んで、歌をうたっていた時間だった。
 ステージのマイクを持った人は、ビルマ語の人気の歌を歌っている。ステージ前の人は、いっしょに踊ったりうたったり。

 主催者は、「国民民主連盟(NLD)日本支部」。在日ビルマ人民主化団体である。
 NLD書記長のアウンサンスーチーさんは、ノーベル平和賞を受賞後も、本国で長期間、幽閉生活を余儀なくされている。<つづく>
00:02 |

2005/11/04 金
ニッポニアニッポン事情>ビルマのダディンジュ祭り(3)

 私が受け持ったミャンマー留学生たちは、現政権側の人が多いので、NLDに対しては距離をおいている。そうしなかったら、留学を取り消され奨学金も受けられなくなる。
 現政権の範囲内で、自国の発展のために尽くそうといっしょうけんめい勉学を続ける留学生たちもいれば、また、NLDに心を寄せ、民主化運動を続けるビルマ人もいる。

 私は、ビルマ又はミャンマーの政治的な背景にたちいるほど、ビルマについて知ってはいない。私になじみがあるのは『ビルマのたて琴』ぐらい。
 ただ、現政権がどれほど一生懸命国家の建設をやっているのであろうと、現政権に反対する側の勢力に対して、代表者を幽閉し、反対意見の人が帰国できないような状況であるのは、やはり心が痛む。

 いろんな立場さまざまな意見があって、それを全部認めていたならカンボジアのような内乱となり、国家建設ができない、という立場から、現政権は反対勢力の活動を認めないのであろうことは推測するが。
 一日も早く、国民が安定した生活をおくれるようになり、さまざまな意見も採り入れて議論ができる余裕が生まれるように願っている。

 名残を惜しむ人々が、歌い続ける中、ビルマの若者たちが、けんめいにイベント片づけに取り組んでいた。
 イベントに使用した機材、道具を運び、腰をかがめてもくもくとゴミを拾っている姿が印象的だった。

 歌って踊って楽しむ人達もいる。縁の下の力持ちとなって、黙ってゴミを拾い集め、片づけに励む若者もいる。
 きちんと片づけをしようとしている若者の姿をみて、未来に向かって祖国のために働こうとしている人々はどこにもいる、という気分になった。

 もちろん、内情はそんな単純なものじゃない。アウンサンスーチーさんの軟禁状態はこれからも続きそうだし、NLDの活動をしている人は祖国に帰れそうにない。
 軍事政権側にも言い分はあるのはわかっている。

 「いっしょうけんめいイベントを行い、片づけに励む若者がいるから大丈夫」と思ってしまうほど簡単なものじゃないのはわかっているけれど、自国の現状をひたすら嘆いて暗い亡命生活をするより、こうやって歌ったり踊ったり、おいしい祖国の料理を食べたり、そんなお祭りを楽しむのも、いいんじゃないかなあと感じた、秋の夕暮れでした。

解夏(げげ)祭るビルマパゴダの金色(こんじき)の屋根をかすめて飛ぶ白き鳥
<おわり>
00:01 |

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