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Workshop for Nipponianippon Communicative Language& Culture Studies
話しことばの通い路
HAL-niwa workshop2
ポカポカ春庭のニッポニアニッポン言語文化研究

ニッポニアニッポン語2004年3月  

ポカポカ春庭のニッポニアニッポン語 ことばの変化

日付2004 タイトル 今日の一冊 著者
03/08 語の変化「チゲーヨ」
03/09 ラ抜きことば
03/10 文化の変化とことばの変化
03/11 表記の変化
03/12 語彙の変化
03/15 言葉は変わる
03/16 理解語彙と使用語彙
03/16 方言周圏論
03/17〜19 変わるから言葉はおもしろい No.110,『蝸牛考』 (や)柳田国男
No.111,『日本の方言地図』中公新書 (と)徳川宗賢
No.112,『全国アホバカ分布考』太田出版 (ま)松本修
ポカポカ春庭のニッポニアニッポンゴ講座

5-3-1 語の変化「チゲーヨ

 日本語には、出自によって大きく分けると、
1,古来の和語 
2,日本で新たに作られた語(漢字語、カタカナ語)、
3,中国由来の漢語、
4,西洋由来の外来語

の語種があることを紹介し、4の外から入ってきた語も、すでにもともとの日本語語彙と同じくらい定着している語と、まだ「外から海を越えて入ってきた語」という意識が残っている語があることを述べた。

 「梅、馬」は千年を経て、「かるた、てんぷら、たばこ」などは400年を経て、日本語語彙として定着し、外来語だということを意識されることもなくなったように、今は「外から来た語」という意識が残っている語も、あと100年200年たつうちに、外から来たことなど忘れられてしまうほど、日本語語彙としてなじむものもでてくるだろう。

 また、新しがり屋が使った一時的なカタカナ語としてすぐ消えてなくなる語もあるだろう。
 単語そのものの出入り、入れ替わり変化について紹介したついでに、単語の形や活用形なども変わっていくことを付け加えておきたい。
まっきーさんが、あるコラムの文章を紹介してくれたので、私の回答とともに再録させていただく。
==========
ちょっと面白いコラムを見つけたので・・・但し長文ですから、省略して載せておきますです。
<コラム>
「違うよ」の変化形としての「ちげーよ」が当たり前のように流通しているのだ。
「違いない」が「ちげーねー」にになるのは理解出来るが、「ちげーよ」は反則だ。
そんな狼藉を許したら、「優勝をねれー(狙う)よ」とか、「煙草1本、もれー(貰う)よ」といった言い方まで許すことになってしまう。優勝は練れないし、煙草は漏れたりしない。
心配するな、これは「違うよ」が変化したわけじゃない―と言う者もいる。
「ちげーよ」の原形は「違うよ」ではなく、「違いよ」だと言うのだ。
「長いよ」が「なげーよ」になるように・・・。

つまり、そこでは「違い」が自動詞の名詞形ではなく、「い」で終わる形容詞として認識されているわけだ。余計に心配じゃないか。
何しろ「違い」が形容詞だとしたら、その名詞形は「ちがさ」だ。
ちがさの分かる男。
全然分かってないじゃないか。
文字の上で矛盾が火を噴いている。<コラムおわり>

『嫌いな日本語』(深川峻太郎)
全文は、『わしズム』新年号でどうぞ
===========
春庭の回答
 「チゲーヨ」が、いつ市民権を得るか、興味深いところ。
 五段動詞(日本語教育では第1グループ動詞という)の可能形は現代では「書ける、読める」である。が、今でも、五段動詞可能形を、昔のとおりに「かく→かかれる」「よむ→よまれる」と表現する地方がある。よいことだ。一律いっせいに変わらなくてよい。

 50年後でも「違うよ」という表現を使う人は残るだろうが、「狼藉」は着実に一般化しつつある。「チゲーヨ」に変わったところで、嘆くことはない。
 学生が使っている「前の世代とは異なる表現コレクション」が趣味なので、「チゲーヨ」の浸透ぶりにも注意を払ってきた。


5-3-2
 チゲーヨより早く、動詞「違う」の否定形が「違い」を形容詞とみなした「チガクナイ」が学生ことばに浸透していた。今では「それって、ちがうんじゃない?」「それ、違っていない?」より多く耳にする。
 「違う」は、動詞のカテゴリーの中では「状態動詞」に入る。「そびえる」などもその仲間であるが、動きをあらわさず、存在、状態を表す。

 動詞の中で、このような存在を表す動詞は別格のふるまいをする。たとえば、動詞「ある」の否定形は「あらない」といわない。ただの「ない」になり、「ない」は形容詞。動詞の中に、動きを表す動詞的動詞もあるし、状態や存在を表す形容詞的動詞もある。

 形容詞もグラデーションをなして、動詞的な形容詞もあるし、形容詞的形容詞もある。
 存在をあらわす形容詞は、形容詞のなかで別格のふるまいをする。

 動詞的形容詞とは、存在を表現する形容詞。たとえば「多い」「少ない」。ものの数や存在を示しているので、他の形容詞と異なる面をもつ。

 一般の形容詞「美しい」なら、「美しい人を見た」というように原型を名詞修飾につかえるが、多いは「多い人を見た」と言えない。「多くの人をみた」という。「少ないご飯を食べた」と言うのもへん。「ごはんをすこし食べた」とか、「残り少ないごはんを食べた」なら可能だが。

 このように、日本語動詞形容詞のなかで、存在と状態を表す語は、特殊なふるまいをする。動詞「違う」の反対語は「同じ(だ)」という形容動詞(日本語教育ではナ形容詞)になるように、「違う」は、もともと動きを表す典型的な動詞とは異なる動詞であった。

 ゆえに、「違う」が「違い」という連用形(日本語教育ではマス形)から形容詞化していくのは、歴史的な言語変化の当然の流れといえる。

 若年世代形容詞の用い方。終止形「長いヨ→ナゲーヨ」「早いヨ→ハヤェーヨ」
感歎形「ナガッ」「ハヤッ」

 このふたつは、定着のみこみ大。辞書搭載がいつになるかは未定ですが。
 「もらう」「ねらう」は、動き動詞だから、形容詞化しない。発音上の変化がおこるとすれば、「モラウヨ→モローヨ」「ネラウヨ→ネローヨ」は起こりうるが。
 
 「違う」が形容詞化して「チガクナイ」と変化するのは「違う」が形容詞に近い性質をもともと持っているから。動きを表す「もらう」「ねらう」は、「モラクない」「ネラクない」とはならない。

 深川峻太郎氏のご心配は「日本語を知らず、日本語変化の方向を知らない方々にとっての、固定的正しい日本語観」による、いらぬ心配である。
 「文字の上で矛盾が火を噴いている」とお嘆きであるが、「違う」と「狙う」は動詞のカテゴリーが異なるので、「違う」と同じ変化は「狙う」には起きないことが「日本語変化の歴史」から見て、予想される。矛盾していないのだ。

 「テフテフ」が「ちょうちょう」と発音が変化したことを受け入れておきながら、「チガウヨ」が「チゲーヨ」と変化することを受け入れられないことこそ矛盾。
 要するに、自分がうまれる以前の変化はそのまま受け入れるが、今、目の前で起きている変化は受け入れられない、という老人性変化拒否症の症例のひとつ。

5-3-3(追加)
 形容詞に感情形容詞「楽しい、悲しい、嬉しい」などと、状態形状形容詞「長い、赤い、丸い」などの区別がある。感情形容詞には「悲しむ」「楽しむ」また、「悲しがる」「うれしがる」のように、派生関係のある動詞が存在する。形状形容詞は「長む」「長がる」などの派生関係の動詞は使われない。

 また、意味のカテゴリーにより、「み」を伴う名詞派生が可能な語と、「み」はつけられない語もある。「さ」「み」どちらをつけて名詞化するか、両方か、片方か、どちらもできないか。
現代日本語で、「丸い」という形容詞は「まるさ」「まるみ」どちらも可能。しかし「長い」は「ながさ」はよいが「ながみ」は使われていない。「苦しい」は「苦しみ」「苦しさ」両方つかうが、「美しい」は「美しさ」はあるが「うつくしみ」は使わない。

 「違い」を「違う」という自動詞の名詞形ではなく、形容詞として認識した場合、長い→ナゲーヨ、違い→チゲーヨ となるなら、長いの名詞形が「ながさ」であるのと同じく「違い」の名詞形は「ちがさ」になるのだろうと、深川峻太郎氏は嘆いておられる。
 「違い」が形容詞として認識されるようになれば、否定形「ちがくない」テ形「ちがくて」ていねいな終止形「ちがいです」仮定形「ちがければ」となっていく。当然、そのうち名詞形として「ちがさ」も出現するだろう。

 自動詞の連用中止形名詞「ちがい」と形容詞認識の「ちがさ」が並行して使われる時代もあるだろう。
 「ちがいのわかる男」「ちがさのわかる男」どちらを受け入れるかは、これから先、日本語を母語として話す世代に託されている。どちらを選ぼうと、彼らの自由だ。
 当分、春庭自身は書き言葉として「それ、ちがくない?」とは書けないだろうが、予想としては、あと20年で辞書搭載されるね。
 
 何度も同じ例を繰り返して申し訳ないが、もう一度言う。「ちがさ」の出現がゆるせない人は、千年前には誤用とされた「あたらしい」などという「今出来のまちがった日本語」を使わずに、古式ゆかしく「あらたしい」という「本来の正しい日本語」をつかうべきだ。

 蝶を、「ちょうちょう」などと発音せずに、昔の発音通りに「テフテフ」と発音するべきだ。テフテフ→テウテウ→チョウチョウと、発音が変化し、私たちはこの変化をよしとしたから、現在「ちょうちょう」と発音している。
 語形も発音も変化する。「あらたしい」は「あたらしい」と変化したので、私たちはこちらを使う。テフテフはちょうちょうという発音に変化したので、現代ではテフテフと発音せずに、ちょうちょうと言う。

 私たちが、縄文時代のことば、飛鳥奈良平安時代のことばを話していないのと同じように、未来の人々は私たちと同じことばを話していない。ことばは時代とともに変化する。
 状態をあらわす動詞「違う」が、状態をあらわす形容詞「ちがい」に変化していくことが、日本語を母語として話す次代の人々に受け入れられて残るなら、その変化は定着するだろうし、受け入れられなければ、一時の流行語としておわる。

 語形の変化や発音の変化を心配するより、日本語を母語とする文化にとって、もっと深刻な心配事、不安材料が山のようにある。
 先に述べた「自然環境の破壊」も「子供の生活から身体性が失われていくこと」も、すべて、言語文化の危機に直結する。

 言語文化を生かすのは、人間が生きて活動する社会であり、社会を成立させるのは、生きて活動する人間。
 私たちがどう生きていきたいのか、どのような社会を築きたいのか、どういう文化を継承させようとしているのか、このことを考える方が、「若いやつらは、ちがくない、などと表現しおってけしからん」と嘆いているより、建設的だと考える。<続く>


5-4-1 ラ抜きことば
 一時期かまびすかった「ラ抜きことば」について、去年、概略を説明したのだが、話のついでに再度解説しておきたい。

 「ラ抜きことば」とは、「見る、出る、食べる」などの「一段活用動詞(日本語教育では第2グループ動詞という)」の可能形が「みれる、でれる」という形になること。
 「見られる」「出られる」「食べられる」というのが「正しい」とされる形である。「みれる、でれる」を使う比率は、20代以下の世代では、もはや100%に近く、辞書にもこの形が掲載されるようになってきた。

 「ら抜き」を目の敵にし、「正しい日本語を使おう」と主張する人々には分が悪い昨今。
 さて、動詞の可能形「〜することができる」の形。五段動詞(日本語教育では第1グループ動詞)」の場合はどのような形か。
 「打つ」の可能形はうてる。例文「私はどんな変化球でも打てる」
 「読む」の可能形は「よめる」。例文「ゼロスタートの留学生も、4ヶ月で400くらいの漢字を読めるようになる」

 五段動詞の受け身形は「ピッチャー、左バッターに打たれる」「ヒミツのラブレターを他人に読まれる」というように、「打たれる」「読まれる」という形。可能形と受身形は形がことなる。
 オーソドックス日本語では、一段動詞(第2グループ動詞)の場合、可能形と受身形が同じ。
 「生魚を食べることができますか」という可能の意味で「生魚、食べられますか」も、せっかく釣った魚をよその人に横取りされたという意味で「釣った魚を隣の奴に食べられた」と表現するのも、同じ「食べられる」になる。

 食事のシーンが書かれている話で「夕食の魚、食べられたよ」「あら、そう」というセリフがでてきたとき、いくつかの解釈が成り立つ。
 前後の文脈によっては、「食べることができた」という意味。生魚は苦手だった人が、おいしいさしみなので食べることができた、と言っている場面。

 二つ目は、「夕食に食べようと思っていた魚をだれかに(猫だかカツオ君だか)にとられた(結果自分では食べることができなかった)」という場面。

 三つ目は「大切なお客様に夕ご飯をだした。魚が苦手かどうか気になったが、食べた」尊敬の語として「お食べになった、召し上がった」のかわりに「食べられた」という場面。

 五段動詞なら、1と2の区別はつく。3の尊敬の意味は、五段動詞でも前後の文脈や動作主体の明示がないと判断できない。

 1,「この手紙、難しい漢字ないから、読める」読むことができる、以外に解釈できない。

 2,「隠して置いた秘密のラブレター、読まれた」この場合、読んだ人は「手紙を隠していた本人」ではない。誰か別の人が盗み見たのだ。

 3.「教授が、学生の論文を読まれた」これは、普通は尊敬語「お読みになる」と解釈される。
 このように、現代日本語の五段動詞(1グループ動詞)では基本形(辞書形)「読む」と、受身形「読まれる」と可能形「読める」が区別できる。


5-4-2
 しかし、江戸時代より前、可能形は受身形と同じだった。すなわち「拙者、論語を読むことができる」という意味で「拙者、論語、読まれる」と言った。

 今でも地方によって「読まれる」と「読める」を両方つかうところがある。「飲む」という語の可能形。「飲まれる」と「飲める」

 「この水はきれいだから、飲んでも大丈夫」という「水の状態」を「飲むことができる」と説明するときと「大酒のみだから、どれだけ飲んでも大丈夫」という本人の能力をあらわす「飲むことができる」を「飲まれる」「飲める」という別の語で区別して表現する地方もあるそうだ。

 しかし、標準語では、可能形の古い形「飲まれる」は残っていない。「〜することができる」という可能形は「飲める」「読める」「打てる」などの形だけ。
 「コップの水、飲まれた」と言ったら、「水を飲むことができた」という意味ではなく、「飲もうと思ってコップに入れてきた水を誰かほかの人が飲んでしまった」という意味。または、敬語。どなたかが、「コップの水をお飲みになった」のどちらかの表現になる。

 現代日本語では、第1グループの動詞は可能形と受身形を区別できるが、昔は出来なかった。現代標準日本語では第2グループの動詞の可能形と受身形は同じ形なので区別できない。
 しかし、「ら抜き」可能形を使えば、可能形と受身形は区別できる。「生魚、平気だよ。食べれる。さしみ大好きだ。」と言えば、食べることができる、の意味。「猫、逃げってだろう、テーブルの上にだしてあった生魚、今、食べられた」と言えば、猫が食べた。「猫に食べられた」受け身になる。

 ら抜き可能形が普及したのは、このような「受身形」と「可能形」を分離して表現するのには便利ということもあるし、言葉は常に経済的な方向、つまり「ことばの一部分の発音を省略する方向で」形が変わっていくという理由もある。

 「食べられる」より「食べれる」は、ひらがなひとつ分、省略できる。人間はなまけものなので、発音を複雑にする方向には変化が進みにくい。発音を簡略にする方向だと変化が進む。

 すなわち、どんなに「ら抜き言葉は正しい日本語ではない」と、主張し続けても、もはや変化の方向は、「ら抜き」が優勢なのだ。動詞活用変化の面からいっても、発音変化の面からいっても、「みれる」「でれる」「たべれる」の方が合理的だからだ。
 「最後のひとりとなろうとも、昔ながらの、見られる、食べられるという可能表現をつかうぞ」も大いに結構。文体、表現は自由だ。

 今でも「書かれる」を可能形として使う地方もあるように、「食べられる」を可能形として使うことも残っていくだろう。
 個人の表現において、他者を傷つけることを意図しない限り、どの語、どのような文体を選ぶのも、自由だ。

 ただ、言語変化の大勢からいうと、「みれる、でれる」は、圧倒的に優勢だ、という流れをとどめることはできないだろう。
 そして、「みれる、でれる」が嫌いな方へ。ご自身が「見られる、出られる」と表現するのは、いっこうにかまわないのですから、どうぞ、お使いください。春庭も書き言葉では「みれる」と書けない古いくちです。

 しかし、「みれる、でれる」を見聞きしたときに、ご自分の価値判断で「そんな日本語使うな。正しくない」と、お腹立ちなさいませんよう。
 自分の価値判断を人に押しつけることなしに、それぞれの話し手書き手が、個々人の好みで、語も文体も選んでいけばいいこと。<続く>

5-4-3
2004/03/09 23: 3 tttakaaki 質問・・切られるのら抜きでは

切る(五段活用、1グループ動詞)、否定形「きらない」テ形「きって」受身形は「きられる」可能形は「きれる」可能否定形「きれない」
着る(一段活用、2グループ動詞)、否定形「きない」テ形「きて」受身形「きられる」可能形若い人バージョン「きれる」可能否定形「きれない」
となり、切るの可能形「この包丁はよく切れる」「私はさしみが切れる」

「切る」の可能形が「切れる」になるのはラ抜きではない。可能形の作り方の定型。規則的に可能形になる。
yom-u → yam-eru(よめる)
kak-u → kak-eru(かける)
kir-u → kir-eru(きれる)

 一段活用動詞の「着る」の可能形が「きれる」になるのは、ラ抜き。本来は「着られる」
 「着る」の可能形「ひとりで和服が着れる」と「切る」の可能形「ひとりでみじん切りが切れる」、平仮名表記のかたちは同じ「きれる」になる。

 ただし、アクセントが異なる。「切れる」は「き(低)れ(高)る(低)」「着れる」は「着(低)れ(高)る(高)」となり、ことばとしての区別はつけられる。(若い人バージョン=区別はつけれる)
 五段活用と一段活用で、可能形のひらがな表記が同じになる動詞は、「帰る(五段)」「変える(一段)」こちらもアクセントが異なる。日本語では、音の高低は、語の弁別に重要な役割を果たす。

 名詞「雨」と「飴」が音の高低で識別できるように、可能動詞「切れる」と「着れる」も音の高低で識別でき、別の語として認識される。


5-5-1 文化の変化とことばの変化
 「ゆく河のながれは絶えずしてしかも元の水にあらず」ことばもまた。
 言語文化の変化は二千年前も、百年前も常にあった。言葉は生々流転盛者必衰。
 問題にすべきは、ことばそのものではなく、現在の文化・日常生活が、急激に変化し、ある部分は衰退していることのほうであろう。

 「白砂青松」と言っても、なんのことやら。当然だ。海岸は護岸工事や埋め立てやらテトラポットやらで埋め尽くされている。「山河清明」どんな様子やら。山は削られ、ゴルフ場には除草剤や芝生除虫剤がたっぷり散布され、川はせき止められ、カジカもイワナもいなくなった。

 詩の読解をしていたときのこと。「夏の白く輝く道」という一節を読み、ある都会の子供が「白く輝く道というのは、雪がふった道なのに、なぜ夏と書いてあるのか。冬のまちがいに違いない」と言い出した。
 「汗を拭きながら歩く」とか「草いきれの中」という他の行の表現からみて、まさか、この詞を「冬」と受け取ることはないと思っていたので、衝撃だった。

 夏の焼け付くような日差しをうけて、あぜ道や田舎の土の道が、白く乾ききったように光る風景を、この子は見たことがないのだった。白=雪という○×式の想像しかできなくなっている、という面もあるが、すでに都会では、アスファルトに覆われていない道がないということ。
 白く焼け付く夏の道を見たことがなく、草いきれのむんむんする中を歩く気分もわからず、言葉だけ指導しても、夏のあぜ道を歩いてゆく感覚は取り戻せない。

 豊かな自然と多様な文化の中ですごさなければ、日本語言語文化が培ってきた豊かな言語表現も味わえないのだ。

 かっては、田舎の子には田舎の自然があり、都会の子には都会の自然があった。私の同世代の人たち。私は田舎の山と川を見て育った。東京に生まれて育った友人は、原っぱや路地の中に遊び場所をみつけていた。
 今、原っぱは消えてなくなり、路地で遊んでいる子は、誘拐や痴漢が心配だから、家に入れといわれる。

 江戸東京たてもの園の企画展「はらっぱ」に、昔、夕暮れまで遊びほうけた原っぱの記憶にまつわる展示がされていた。中に、らお屋の屋台があった。
 路地や広場に屋台を置いて、キセルの竹を交換するラオ屋。展示してあるのは、20年くらい前まで、浅草で現役で仕事を続けていた方の屋台。

 キセルを使用する生活がなくなれば、「キセル」という語が日常生活で使われることは少なくなる。子供は博物館の中でしかキセルを見ることはなく、日常生活で誰かがキセルでタバコを吸う姿を思い浮かべることはない。このような生活の道具などは、変化を押しとどめることができないだろう。

 しかし、砂浜がつづく海岸を埋め立てて工業用地にしたこと。川をせきとめて、行き来していた魚を絶滅させること。このような変化を「国の事業」として進めてきておきながら、言葉についてだけ「これは使うな」「これは言い換えよ」と、言うのは矛盾している。

 「美しいことば」を子供達に残したいなら、第一番にやるべきは、美しい国土をとりもどすことだと考える。こどもが自然によりあつまって、思い切り体をうごかせる「原っぱ」をとりもどすこと。
 これだけ自然を破壊しつくしておき、子供の遊び場もなくなっている中で「愛国心を養うために、儀礼の場では必ず国旗に最敬礼、国歌は起立して斉唱」と強要して愛国心が育つのだろうか。

 私はふるさとを愛し、この郷土、この土地を誇りに思っている。「おクニはどちら?」「私のクニ、すごく田舎なんですよ」と、表現するときの「クニ」を愛している。愛国心を持っているつもりだ。
 「旗の掲揚や起立しての斉唱に従わないと罰則」と規制されなくとも、郷土を愛する気持ち、母語を大切に思う気持ちにかわりはない。

 ただ、押しつけないでほしいと思う。ことばも歌も。
 自由にことばを発したい。自由に歌もうたいたい。美しい国土のなかで、なごやかなコミュニケーションの中で、豊かなことばが胸の中に育つだろう。

 ことばは変化していく。しかし、美しい国土と人の心が保たれていく限り、豊かな言語文化は継承されていくだろう。逆に国土が荒れれば、ことばの文化も滅んでいく。
 いま、私たちの母語が危機にあるといえるのは、言葉の発音や語形が変化の流れに従って変わっていくことをさすのではない。

 言語文化を培い、支えていくはずの人心も生活文化も荒れていく。その荒廃が、ことばの豊かさをも衰退させていく。危機はここにある。<続く>


5-5-2
 「春の小川はさらさら流る」(「流る(ながる)」は「行くよ」に変わったが)の「小川」は、なんと東京の渋谷を流れていた小川のことだそう。
 渋谷だけではない。こどもたちがメダカを取り、せりを摘み、蛍を追った小川など、どれだけ残されているだろうか。メダカも蛍も、今ではホテルのイベントでもないと子供達がふれることも難しい。

 「小川のめだか」は、もはや日常生活の中にはない。(街のペット屋熱帯魚屋などで売っているメダカは日本産原種のメダカではないので、水槽で飼っている人は管理をきちんとしましょう。飼えなくなったとしても、小川に放流してはいけない。生態系をこわすことにつながる)

 「たどん」を日常生活で使わなくなれば、若い人に「たどん」と言っても説明なしには伝わらなくなる。
 「蜘蛛の子を散らすように去っていった」という表現がある。私自身、蜘蛛の子が散っていくのを見たことは、たった一度しかない。「全地域を虱潰しにさがした」という。若い世代にシラミをつぶした経験をもつ人はまれであろう。

 ことわざの意味も、「情けは人のためならず」「流れに棹さす」が、若い世代と高年世代では、受け取る意味が正反対になっていることを以前に紹介した。
 「他者に情けをかけるのは、回り回って自分のためになること」→「他人への同情は結局その人自身のためにならないから、情けをかけるのはよくない」

 「流れに乗って勢いを増す」→「流れを止める」
 日々話される言葉、読む言葉はたえず流れて変化する。その中で、私たちは自分たちの心や意識を記述する方法、自分の考えが的確に伝達される方法をさぐり、工夫していく。
 よりわかりやすく、より美しく表現するべく努力するのみである。

 おおっと、「春庭の文章は、わかりにくく、ひねくれていて、何が言いたいのか、首を傾げるようなシロモノ」という評を受けてきたんでした。
 わかりやすい文章にならないのは、私の能力不足。今後とも精進いたします。「精進」は呉音で「ショージン」と読みませう。

5-5-2-2 表記の変化
 評判悪いついでに、日本語教師春庭の日本語表記変化予測を。
 ひらがなの表記においても、長音はカタカナ表記と同じく「ー」になるだろう。
 「しょうじん」は「しょーじん」は「おおきい」は「おーきい」になる。
留学生に指導するとき、「オ段」の語の長音について、大きい、通り、狼、などの長音は「お」と書く。「その他の語はオ段の長音をウと書く」と指導している。大きい道路「大路」はオオジ。王子は「オウジ」と表記する。

 「大きい」は旧かなで「オホキイ」と書いたから長音部分は「オオ」になり、表記は「おおきい」。「大路」は「オオジ」
 プリンス「王子」の長音部分は「ウ」を用いて「オウジ」と書く。
 書き言葉の表記では意識しなければならないが、日常しゃべっているときの長音は同じ。
 大路は「オオジ」と書き、プリンス王子は「オウジ」と表記しても、発音はまったく同じになる。 オ(高)ウ(低)ジ(低)。
 JR京浜東北線の駅の王子は、オ(低)ウ(高)ジ(高)なので、アクセントが別。

 文科省の「現代仮名遣い」に関する通達は何度も改訂されてきた。発音が先行し、表記が後追い。
 カタカナは「オージービーフ」と書いてもいいのだから、平仮名も王子を「おーじ」と書いても、いいというのが、若い世代の感覚。仮名表記は「発音通り」という方向で改定が繰りかえされてきたので、「おおじ」と「おうじ」も、いずれは「おーじ」になることが予想される。

 なんて、書くと批判がビシバシ。しかし、これは「けーたい」メール文ではすでに広まっている表記方法である。あと20年したら、文部科学省国語審議会は後追いで認可するだろう。許容範囲内表記であると。
 王子を「おーじ」と書く変化がいやな方は、「蝶々」を「てふてふ」と書くべきである。むろん文体は、旧かな擬古文でせう。<続く>


5-6-1 変化の受容と拒絶

 以上、語種についてまた、語の変化について述べてきた。これは、chiyoisozakiさんの日記に転載された匿名の投書に対する、日本語教師春庭なりの考えをのべたもの。

<匿名の投書(ちよさんカフェ日記から引用)>
 最近、文部省でも気がついて呉れたようで嬉しい限りです。70年近くも生きていますが、日本は武力で占領され、経済で占領され、日本語までも占領されつつあります。外来語の氾濫です。固有名詞のワシントンなら仕方ありません。日本語にある電信通信をEメールと呼ぶなど目に余りあります。国語、日本語の先生方のお力が不可欠です。ご協力をお願いします

 春庭の個人的考えでは、この方が「電信通信」と書きたいなら、どうぞどうぞ。誰もそれをとめない。この方が「今後は手紙を廃し、電信通信にてご連絡申上度候」と、手紙に書いたとして、受け取った人が、電信通信というのを、電報のことと受け取ろうと、それは、ふたりの間で通じ合えばいいことだから、ちっともかまわない。

 ただし、他の人に「eメールなどと外来語を使用するのは目に余る」と、怒る必要はない。「eメール」「電信通信」どちらの語を日常生活で使うかは、各人の判断にまかせたらいい。

 言葉にたいする感性、思想、価値観、それぞれ人によって異なる。
 「海」というひとことで、やさしい母のふところを感じる人、勇壮な一本釣りの男をイメージする人、父の命を奪った憎い嵐を思い出す人、さまざま。人さまざまでいい。それを「海といったら、生命をはぐくんできた45億年の命の母、と感じられない人は馬鹿である」なんて、決めつける必要もない。

 ある人から「バカ!」と怒鳴られて猛烈に腹がたつこともあるし、「ねぇ、いやょぉ、ばか〜ん」と甘えられて、馬鹿の一言がうれしいときもある。一方向の価値観を全員が持たなければならない、としたら、その方が怖い。

 投書の方は、テレビを「映像音声放送電波受像器」または「かみなりつくりのなみによるうごき絵姿と声うつしのからくり箱」とよんでいるのだろうか。ミシンを「自動縫製機」または、「ものぬういととじからくり」とでも呼んでいるのであろうか。

 「ちげーよ」について述べたことを繰り返すが、自分がうまれる前の変化は黙って受け入れておきながら、現在目の前の変化が受け入れられないのは、老人性変化拒否症のひとつの症状にすぎない。

 「eメール」と言う外来語いやだと言う人も、「ラジオ」という外来語は使用しているではないか。日常生活で、「音声放送電波受信機」と言わずに「ラジオ」と言っているのなら、「eメール」を人様が使うことに文句をつけるべきではない。自分の日記や手紙の中では、どうぞご自由に「電信通信」と書いてください。若い人がどの語を選ぶかは、若い世代に選ばせましょうよ。

 若い世代の人にとっては「電信通信」と言ったのでは、新しい通信の概念にそぐわないと感じられたから、eメールが普及したのだ。どの語が普及しどの語が使われないか、それは、使う人々が決める。
 それが証拠に、JRが「国電」のかわりに普及させようとした「E電」とういう略語は、使われなかった。人々の感性にあわないものは、無理矢理押しつけてもだめ。感性にあうものは、自然に普及する。

 ちよさん回答にもあるが、70年近くを生きてきたとおっしゃる方なら、「一定の価値観」を他人にも押しつけることの結果がどうなったか、60年前に体験したことと思うのに、それでもなお「電信通信をEメールと呼ぶのはけしからん」と発想し、自分の価値観にあわないことばを排除しようとする、そういう考え方に興味がわいた。

 「国語、日本語の先生方のお力が不可欠です」と、書いておられるので、日本語教師春庭、売られた議論を買いました。<続く>


5-6-2 日本語変化への基本方針

 「国語、日本語の教師」としての、春庭の基本的態度。まとめると、1〜5である。

1,言語は変化していくものである。私たちは現在、縄文時代と同じ言葉を話していない。平安時代のことばでもない。長年の変化を経た「現在の日本語」を話している。

2,300年前、1000年前の日本語と、現在の日本語が異なっているように、これから先の日本語も必ず変化していく。どのような変化が受け入れられて、定着するのかは、その時代を生きて、書いたり話したりする人々が決めること。
 百年後の日本語を読み書きするときに生き残ってはいないであろう世代の人々が、「違うのではないか?」を「ちがくない?」と言うのはケシカラン、とか、敬語が乱れているのは許せないと、怒っても無駄。次代の人にとって、心地よい変化ならば、そちらが定着する。

3,表記は発音のとおりに書き表される方向ですすむ。すなわち、「とおりに」は「とーりに」となるだろう。

4,お役所の文書と、マスコミの表現についての基準は、それぞれが定めること。一般的国民、不特定多数に理解できる文と文字表記を使うべき。もし、役所の文書とマスコミの表現に分からない部分があったら、「ここがわからない」と、申し入れをし、注釈をつけてもらう。
(最近、各省庁の「白書」も文章もわかりやすくなってきたと言うのだが)
 役所やマスコミは、「日本語理解語彙、語彙調査」(注1)を定期的に行い、高齢世代に理解が不足している語と若年世代が理解できなくなってきている語については、文末に注をいれるようにすること。(注1の語の注釈は、のちほど)

5,言語の変化がいやだと思う人が、旧来の表記や語彙を用いて書くのは自由。
 断固として歴史的仮名遣いで小説やエッセイを書き続けている作家もいる。
 「桃尻語」で書くのもあり、けーたいメール文体や表記をとりいれて書く人もいる。それぞれの表現したいようにどうぞ。

 さて、表記の変化予測として「ひらがなの長音記号として「ー」が許容範囲表記とされるのは、20年以内、と書いた。修正したい。10年以内であろう。

 新しい単語や表現、新しい表記は、「けーたいメール」などでの個人使用での普及→若い人向け雑誌など→スポーツ新聞や週刊誌など→一般全国紙でも使用、という具合に普及が進んでいくのが一般的な傾向。
 春庭が「ひらがな長音表記は、おーじ、おかーさん、びょーいん、となっていく」と予想を書いた翌日の購読新聞(03/12朝刊)に、私が書いたことを実現する表記があったので、なんというタイミングかと思う。
 「発想法」「KJ法」で知られた川喜田次郎さんへのインタビュー記事。

 インタビュー記事なので、話し言葉の雰囲気を残すための書き方ではあるが。まずタイトルが、「いろいろあらーな、がいい」と、ひらがな長音符号で大きくドン。本文トーク部分でも「おどろくような早さで、世界が一本になりつつありますなー(中略)いろいろあらーな、がいいの。」

 川喜田さんは、今もなお都内の研究所で「新しい発想を生み出す法」「現場からデータを集めよ、集めたデータは数量的に分析するだけでなく、数量化できないデータと率直に向き合い、総合してまとめていく」ということをめざしている。
 現在83歳とは思えない柔軟な思考を続け、「あと10年は元気に」と、意気盛ん。
 すべての高齢者の頭脳が硬直し、「伝統を守れ」「昔の○○のほうがよかった」と嘆くだけとは限らない、ということがわかる。
 さまざまな高齢者がいることを念頭におきつつ、高齢の方の経験を尊重したいと念じている。
 しかし、今回は「あえて火中の栗を拾うのもいいかな」と思い、年長者に異論申し立てを、させていただいた。

 2月末から、日本語変化論を展開し、語種について、言葉の変化について縷々述べてきた。
 でも、「火中の栗を拾う」ということわざの元句、フランス語成句では、「他人が食べる結果になる栗を、わざわざ危険を冒して拾ってやること」だって。知らなかった。フランス渡来の外来ことわざじゃなく、日本の栗だと思っていたし、拾う努力をしたあとは、自分で栗を食べるのかと思いこんでいた。

 かように、春庭、知らないことばかり。だから、いっそう言葉はおもしろい。もっともっと知りたいし、いろんな方の意見も聞きたい。
 自分と同じ意見に「そうそう」とうなづくだけでなく、異なる意見を知り、討論し議論し、反論し、ことばを交わし合いたい。
 匿名投書の方、ご無礼の数々お許し下さい。春庭、未熟者ゆえ、ことばづかいも乱暴不適切にて、正しく美しいとされる日本語からもほど遠く。<続く>



5-6-3 理解語彙と使用語彙

 みなさん、「春庭がまたわけのわからんことを」と思っても、「またもやアホが悩んで考えている。バカの考え休むに似たり。でも、休んでもまた進めばいいさ」って、「お
ーきい」気持ちで見守ってね!!

 ところで、あなたは、「アホ言ってらー」と言いますか?「馬鹿言ってんじゃないよー」というほうですか。 
 ポカポカ春庭の言語文化教育研究 語の変化(6)の注「理解語彙と使用語彙」について

(注1)「理解語彙」とは何か

 人々が、「話し聞き読み書き」する語彙には、A:理解語彙 B:使用語彙 の二種類がある。
 日頃、日常生活で、自分自身が話したり書いたりするときに用いる語彙を「使用語彙」という。
 自分自身は日常用語として使うことはないが、読み書きしたとき、意味が理解できる語彙が「理解語彙」である。理解語彙>使用語彙。
 一般的な日本語母語話者の場合、高校卒業のころでの語彙数獲得は、理解語彙で約3万語といわれている。

「語彙調査」とはどんなことか。
 書き言葉については、新聞雑誌に記載されている全語彙を調査する、などが行われる。
話しことばについては、ある語について、どの年代の人がどのような語彙を使用しているか、どの地域で使用されているか、などを調べる。

 これまで種々の語彙調査が行われ、方言や新語などが調査対象になった。方言の聞き取り調査などは、とてもたいへんだった。調査者が方言調査の地元へ出かけていき、対象者(インフォーマント)にインタビューして聞き取り調査を行うなどの方法が行われてきた。

 この種類の語彙調査を行うには、莫大な時間と人材を必要としたが、現在では、別の調査方法も使われる。インターネットやマスコミメディアを使えば、素早く調査が行えるのだ。(直接の聞き取りではないので、データの扱いは、慎重を期す必要があるが)

 この手の調査のひとつが、「アホバカ全国調査」である。テレビというメディアを使って、全国的な語彙調査を行った、テレビ番組「探偵!ナイトスクープ」である。
 言語地理学者、徳川宗賢の監修のもと、全国で「アホ」「バカ」「その他(デラなど)」のどれを使用して相手を罵倒するか、を調査した画期的な社会言語調査。方言周圏論(注2)の裏付けともなった。

5-6-4 方言周圏論
(注2)
「方言周圏論ほうげんしゅうけんろん」

 アジアや日本の方言の要素(語・音など)が文化的中心地を中心に、同心円状に分布する場合、中心から外側へ向けて順次、古い形が残存することが観察される。

 文化的中心地のことばがしだいに遠くへと伝播していくため、中央から遠いところには、古い時代につかわれた言語が残存するからだ。
 中央から遠く隔たった地方に、古い言語の姿が残されることが推察される、という社会言語論のひとつを「方言周圏説」という。

 柳田国男『蝸牛考』(1930)は「かたつむり」が地方でどのような方言で呼ばれているか調査したもの。

 柳田は、民俗学調査旅行などで自分が知り得た乏しい情報から、京都で「かたつむり」を呼ぶ語の時代的な変化が、地方に残存していることを推定した。
 京都地方では、古い時代にかたつむりのことを「ナメクジ」といった。それが、京都から遠く離れた地方の「かたつむり」を表す方言として残されているのだ。
 柳田は「かたつむり」の方言として、デデムシ系・マイマイツブロ系・カタツムリ系・ツブリ系・ナメクジ系・ミナ系の6系統と、さらに新しい系統とみなされるツノダシ系があることをあげ、その分布状態を示した。

 その分析のなかから、方言の語彙が周圏的に広がっていることを推察したのである。
 その後45年たって国立国語研究所が作った『日本言語地図』(1972)の「かたつむり」の分布図によって、柳田の推定の正しさが裏づけられた。
 “かたつむり”と同様に周圏分布をする語が80ほど見つかっている。
 「牝馬・もみがら・塩味がうすい・座る・教える・糠・(いい天気)だ・痣になる・とうもろこし・おたまじゃくし」など。

 全国規模の調査ではなく、地方語ごと、狭い地域でも、その地方の文化的中心地を中心として、周圏分布を見せる語の例はたくさん見つかっている。
 この周圏論は語彙に認められるもので,音・アクセントはむしろ逆に、文化的中心地ほど保守的だという“方言孤立変遷論”(金田一春彦)や、語でも各地で独立に生まれることがあるという“多元的発生論”(長尾勇)など反論または修正説もある。

 方言分布の成立は極めて複雑で、ただ一つの原則(仮説)だけでは解釈できない。確かに孤立に変化することもあり、各地で独立に生まれることもある。これらと同列に周圏的分布を示すことも間違いなく認められる。

 異論はさまざまあるが、方言周圏論は今もなお、方言分布の解釈の原則が数あるなかの一つとして、有効な考え方であるといえる。
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 ことばは、地域によっても様々な姿をみせ、時代によっても異なる。どのような言葉を話すにせよ、書こうとするにせよ、ひとつひとつの言葉を大切に表現し、そして発したことばには、自分で責任を持つように心がけたいと思っている。
 しかしながら、春庭、生来の粗忽。言いまちがいや、思いこみも多い。どうぞ、語彙のまちがい、言葉遣いの不適切な点にお気づきのさいは、ミニメールにてご指摘ください。

☆☆☆☆☆☆
春庭今日の3冊
No.110,(や)柳田国男『蝸牛考』岩波文庫
No.111,(と)徳川宗賢『日本の方言地図』中公新書
No.112,(ま)松本修『全国アホバカ分布考』太田出版


5-6-5 変わるから言葉はおもしろい

 ことばは、変わっていくから面白い。ゆく川の流れはたえずして、元の水じゃない。湖も川も海も、水が循環し入れ替わっていかなかったら、よどんだ水たまりになる。今の日本の世相であるなら、さぞかし腐臭漂いヘドロ重なるドブとなるでありましょう。
 ゆれ動き、流れていく時間の中で、できる限りの多様性を示す社会や言語表現をながめていたい。

 「言葉はどんどん変化する」という予測と同時に、「外来語を出来る限り使わない」という人を尊重したいし、丸谷才一のように「断固として旧仮名遣いで小説を書き続ける」と、いう人がいることも、多様な表現の中のひとつの見識として尊重する。頑固一徹を通すのも、多様な中のひとつのあり方だろう。
 頑固一徹な人、春庭、嫌いではない。今は亡き私の父も頑固者だった。一度こうと決めたら曲げなかった。

 餓えに苦しんだ兵士の生活と捕虜生活を忘れず、「この世から戦争がなくならない限り、あの旗を掲げることもあの歌を歌うこともしたくない」という考えを死ぬまで変えなかった。しかし、それは、自分の信念としてやっていることで、子供たちに強制することはなかった。歌うなとも歌えとも強制されなかった。
 春庭、個人的趣味では、未来永劫かわらない世の中に住むのは、ちょっとこわいと思う。社会も家庭も、人もことばも変わるのを見ていたい。
 
 ただ、短期的にみるなら、今のような変化の方向は、「わたし的には」ちょっとつらい行く末になるかなあ、と思っている。自然はどんどん失われ、多様性は否定され、一定の方向のみ強制される。

近い未来だけをみるなら、この先、日本語コース修了式できっちり起立して歌わないと、仕事させてもらえなくなるかも。どうぞ、言葉も歌も強制しないでください
 でも、変化を好む春庭。世の中が変化して、世界から戦争がいっさいなくなれば、旗でも歌でもなんでもアリ。

 しかし、近い未来だけでなく、これから先の長期的な言語の歴史をみるなら、現在の日本語の変化など、小さな変化にすぎない。
 大きな変化とは何か。言葉が消滅すること。

 世界に3000以上あるという言語の中でも、すでに絶滅している言葉も少なくない。その言語を話し、理解できる人が、80代、90代の高齢者数名で、その人たちがいなくなれば、もう、その言語を話す人々は皆無、という言語もある。

 「日本語は、変わっていくだろう」これは、確かなこと。しかし「1万年後にも、日本語が生き延びているだろう」この予測はだれにもわからない。
 1万年後に人類と地球環境が残っているかどうか、予測がつかないのと同じくらい、わからない。
 かなうならば、言語文化も、美しい自然も生き残ってほしいものだが。<続く>


5-6-6
 日本語言語文化が消えてなくなるとしたら、その原因は外来語の増加というような理由ではないと思う。
 外来語は、第1次、第2次、第3次と何度となく外来文化の渡来とともに増え、定着すべきは定着し消えてゆくことばは消えていった。日本文化が外来の文化を消化吸収する能力は高い。
一時的に消化不良を起こすことがあっても、回復する力はあるだろう。

 外来文化拒絶するのではなく、受け入れ消化吸収しながら、同時に考えていくべきは、美しい日本語を残していくこと。
 言語文化を守るためには、地球環境や古里の山河を守っていくこともめざしていくべき。
 人の心情や自然を表現する言語。しかし、山を崩し川を汚して、トンボもいない国土の中で、「赤とんぼ」の歌を歌って、歌の味わいが伝わるのだろうか。メダカなど泳いでいない川しか知らず、「メダカの学校」を歌って、春ののびやかさや楽しさは継承できないだろうと憂える。(今や、「メダカの学校」など子供達は歌わないが)

 「個性を大事にしよう」というかけ声は盛んだが、学校の方針にそわない個性を発揮したり、文部科学省の意向にあわない教育をしたりすれば、たちまち個性どころではなくなる教育。
 言葉によっても、身体によっても、他者と自己との間のコミュニケーションをとることがドンドン難しくなる社会。

 一方的な論理で反対意見をおしつぶそうとする勢力。一定方向の考え方しか認めようとしない勢力。そのような硬直から壊死が始まる。
 過去の歴史を振り返ると、このような硬直した押しつけがまかり通るようになった次は、「権力に反対するものを狩る時代」になっていくことがわかる。現在はすでにこの段階に入っている。

 イラク派兵反対のビラを配っていたグループが「住居侵入」で逮捕された。公衆トイレに「反戦」の落書きをした青年は起訴され、有罪判決が出た。

 我が家の郵便受けに「女性を商品扱している」チラシを投げ込まれるのを、いくら不愉快だ迷惑だと思っても、警察は「住居侵入」を適用して逮捕することもない。町の公衆トイレに不愉快な絵やことばを書いた者へ有罪判決を出した裁判も聞いたことがない。なぜ、特定のチラシのなげこみだけ、特定の落書きだけが有罪なのか。

 そのうち、インターネット言説も思想統制がかかり、為政者に反対する意見を書き込んだ者は、なんらかの理由をつけて逮捕される時代がくるのかもしれない。
 過去の言葉から「日本語」は変化を続けてきたが、「古事記」も「源氏物語」も、後世の人々が味わい楽しむことができる。言語の部分変化はあったが、言語文化が崩壊することは、これまではなかった。

 落書をとりしまった時代も、幕府への批判者に手鎖をかけた時代もあった。それでも言語文化は生き延び継承されてきた。だから、言論への厳しさが増す現在の状況にあっても、そんなに憂鬱にならなくてもいい、という楽観論もあるだろう。

 しかし、「反戦」と落書きをしただけで逮捕有罪になる現在の状況が、これ以上悪くなるのかどうか、私には、判断できないので、どうしても憂鬱になっていく。
 言論統制が終われば、「できものと思いこみ異分子を追い出したつもりでいたが、切っていたのは自分自身の体だったこと、自分の胸を切り裂いていたことに気づく時代」

 自分自身を切り刻んでいたことに気づいたとき、すでに遅し。出血多量はとめられない。
 国の予算をつかって、「この言葉は使うな、こう言い換えよ」という統制がかかったことを、「外来語はわかりにくいから、国家側から統制してもらったほうが都合がいい」と人々が受け止めたなら、外来語だけではなく、すべての言語言説に統制がかかっていく時代に入っていくのかと、心配性の憂鬱な「中高年」のひとりです。

,112 多様な言葉、多様な文化がときにぶつかり合いながらもお互いを認め合い、自分の存在も相手の存在も尊重しあえる世の中。そうなってほしい。
 川喜田二郎さんが言うように「いろいろあらーな、がいい」




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