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話しことばの通い路Workshop for Nipponianippon Communicative Language& Culture Studies
HAL-niwa LOFT
ポカポカ春庭のニッポニアニッポン言語文化研究

  
ポカポカ春庭の言葉と文化逍遥記 
2006日付 . 文学の中の猫タイトル 今日の一冊 著者
11/01 0 竹内栖鳳の猫、アラーキーの猫フジタの猫 愛しのチロ
画文集猫の本
荒木経惟
藤田嗣治
10/24 1 日本語言語文化の中の猫 日本霊異記
10/16〜10/24 2 清少納言の猫、紫式部の猫 枕草子
源氏物語
清少納言
紫式部
10/25〜26 3 更級日記の猫 更級日記 菅原孝標女
10/27 4 夏目漱石の吾輩猫 吾輩は猫である
猫の墓
夏目漱石
10/28〜31 5 宮沢賢治「猫の事務所」 猫の事務所
よだかの星
宮沢賢治
11/02 6 猫と庄造とふたりのをんな 猫と庄造とふたりのをんな 谷崎潤一郎
11/04〜05 7 村上春樹といわし 羊をめぐる冒険 村上春樹
11/06 8 南極猫たけし 南極越冬記 西堀栄三郎
11/08 9 猫町 青猫 猫町 荻原朔太郎
11/09 10 猫の恋 猫とみれんと 寒川猫持
竹内栖鳳の猫、アラーキーの猫
2006/11/01 水
竹内栖鳳の猫アラーキーの猫フジタの猫

 文化の日を中心とした秋の大学祭シーズン。10/28〜11/05のうち、途中の10/31だけ出講日があります。真ん中がとぎれてしまったので遠出はできませんが、「文化の日」前後のお休みですから、「美術館めぐり」を楽しんでいます。
 
 秋の美術館めぐり第一弾は、山種美術館から。
 第一回目の文化勲章受賞者である竹内栖鳳(1864〜1942)。
 重要文化財指定を受けている「班猫」は、猫を描いた絵画の中でも、傑作と思います。山種美術館で公開中。(9/30〜11/19)

 「班猫」は、1924(大正13)年の作品
http://www.yamatane-museum.or.jp/collection/04.htm

 山種美樹館の作品解説によると、この絵に描かれた猫の元の持ち主は、沼津の八百屋さん。おかみさんの愛猫に惚れ込んだ栖鳳が、たっての願いで譲り受け、京都の画室で飼うことにした。栖鳳は猫を自由に遊ばせながら観察を続け、この傑作を仕上げました。

 描かれているのは、猫がよくとっているポーズ。背や脇腹をなめようと、よく猫はこのように首を後ろにむけます。
 絵の中の緑色の目を持つ班猫は、きっと画家を見据えている。
 毛筋の一本一本が表情を持っているような、とても見事な描写。猫のもつ孤高性、神秘性、人を引きつけてやまない猫の魅力が画面いっぱいに広がっている。

 山種では、ほかに、栖鳳の弟子にあたる日本画家の作品がいっしょに展示されていました。私は、上村松園の大作『砧』を感銘深く見ました。

 江戸東京博物館で開催中のボストン美術館所蔵浮世絵展を見にいったら、常設展の第二企画室で、「天才アラーキー」こと荒木経惟(あらきのぶよし)の写真展「東京生活」が同時開催されていました。
 アラーキーが生まれ育った下町三ノ輪界隈や、渋谷新宿銀座などでの東京の街や人々。ほんと、アラーキーは天才です。

 そして、アラーキーと故陽子夫人の愛猫の写真。チロを写した一枚も展示されていました。
 アラーキーの愛猫チロの写真の絵はがきを買って、本日の記念品にしました。
 「愛しのチロ」という写真集も売っていましたけれど、ま、絵はがき一枚ってことで。

 2006年4月20日に見た藤田嗣治展。竹橋の近代美術館に「五人の裸婦」とともに常設展示されている「猫」は、毎回見ていてもそれほど好きにならなかったのに、藤田嗣治の作品が一同に並べられた中で、フジタの描いた猫を見ているうち、フジタの猫への愛と執着が伝わってきました。

 フジタは『猫の本』という画文集も出している猫好き。生涯のほとんどを猫とともにすごしました。
フジタの猫 http://www.oida-art.com/buy/detail/1347.html
http://www.oida-art.com/buy/detail/6294.html
フジタの猫の絵がいっぱい
http://www.ne.jp/asahi/gallery/koyama/nihon/fujita/leonardfujita.htm

 猫好きな人にとってもあまり好きではない人にとっても、猫は不思議な魅力をもつ身近な動物です。
 
 「文学の中の猫」、古代文学から現代まで、日本文学のなかに猫はさまざまに描かれてきました。

 日本語言語文化の中の猫。
 源氏物語の猫、枕草子の猫、漱石の吾輩猫、など、文学の中で活躍した猫たちを紹介します

<つづく>
11:54


日本語言語文化の中の猫
2006/10/24
文学の中の猫(1)>日本語言語文化と猫

 日本語言語文化に、猫が登場する最初の本が『日本現報善悪霊異記/日本国現報善悪霊異記(にほんこくげんほうぜんあくりょういき)』、通称『日本霊異記』です。
 平安中期に成立した『枕草子』や『源氏物語』より前、平安初期に成立した『日本霊異記』

 文武天皇の時代、705(慶雲二)年頃のお話として、豊前の広国という人の父親が、死んでから猫になっって息子の家で飼われるという、説話が書かれています。

 また一条天皇の前の時代、宇多天皇の日記『宇田天皇御記』885(仁和1)年の項に、猫を愛玩したことが書かれています。ペットとしての猫の記録は、これが最初。

 「日本霊異記」の「猫になって息子に飼われた父親」の話のほか、かわいがられすぎた猫や、長く人に飼われていた猫は、年をとると「変化へんげ」する、という民間伝承も多い。
 『更級日記』にも、猫の変身譚があります。

 平安文学の中から、『枕草子』『源氏物語』の猫、『更級日記』の猫を紹介します。


清少納言の猫、紫式部の猫
2006/10/17 火
文学の中の猫(2)清少納言の猫、紫式部の猫

 現代語では猫の鳴声、さまざまありますが、「ニャオ」「ニャーニャー」「ミィーミィ」などが代表的なものでしょうか。

 平安時代のひらがな表記では猫のオノマトペ(擬声語)では「ねうねう」「うねうね」と書かれています。
 当時は拗音の表記がなかったので、現代語の拗音表記にすると「ねうねう」は「にゃうにゃう」になります。

 清少納言は、『枕草子』に中に、一条天皇が猫をたいそうかわいがって「命婦(みょうぶ)のおとど」と名付けていた、というエピソードを書いています。
上にさぶらふ御猫は、かうぶり得て命婦のおとどとて、いみじうをかしければ、かしづかせたまふが、端に出でて臥したるに、乳母(めのと)の馬(むま)の命婦、「あな、まさなや。入りたまへ」と呼ぶに、日のさし入りたるに、ねぶりてゐたるを、おどすとて、「翁丸(おきなまろ)、いづら。命婦のおとど食へ」と言ふに、まことかとて、しれものは走りかかりたれば、おびえまどひて、御簾(みす)の内に入りぬ、、、、

 「命婦のおとど」と名付けられた猫が、定子中宮の局の軒端に出て寝ていた。
 猫の世話係の馬の命婦という女官が、「あれ、お行儀の悪いこと、中にはいりなさいよ」
と呼び入れたのですが、猫は、夕暮れになっても戻らない。

 馬の命婦は猫を脅してやろうとして、犬のおきなまろに「命婦のおとどに食いついておやり」と言った。
 犬は本気にして走りかかったので、猫はおびえて御簾の中にはいった。
 一条天皇はことの次第を見て激怒し、猫の世話係を罷免してしまいました。

 この清少納言が語る猫「命婦のおとど」。愛らしく一条天皇と定子中宮のまわりに侍っています。
 猫の身でありながら、乳母をつけてもらい、五位の位を得ている。命婦という五位の扱いをされたのは、天皇皇后の御殿にあがるには五位以上の身分でなければならなかったから。

 一条天皇の「猫かわいがり」ぶりは、藤原実資の日記『小右記』にも書かれています。
内裏の御猫、子を生む。女院・左大臣・右大臣の産養ひの事有り。…猫の乳母、馬の命婦なり。時の人これを咲ふ云々。奇怪の事なり。…未だ禽獣に人乳を用うこと聞かざるなり。嗚呼。
 (『小右記』999(長保1)年9月19日条)

 一条天皇の内裏に猫の子が生まれたき、乳母(猫の世話係)をつけたことを知った実資は「物笑いの種だ」と人々がうわさしたことを記し、「ああ」と嘆いています。

 この「内裏の御猫、子を生む」の前年の998(長徳4)年は疫病が横行し、その他地震や洪水による被害も大きかった。宮廷の外では、食べるものもない人々が苦吟していた時代でした。
 同じ一匹の猫を描写していながら、藤原実資の冷めた視線に比べ、清少納言はただひたすらに猫の愛らしさとして語り、定子ありし日の追憶の日々を表現しています。

 「枕草子」の各段のうち、「ものづくし」などは皇后存命中に書かれて、一条帝サロンのなかで評判にもなったと思われます。
 しかし、「定子皇后の姿」が描写される段が書かれたのは、皇后がなくなったあとだと研究されています。

 定子はすでに亡く、一条天皇のサロンはライバル彰子中宮の局(つぼね)になっています。
 紫式部和泉式部赤染衛門らがきら星のごとく居並んで仕えていた彰子の局は、新築成った内裏の「藤壷」です。

 若い女主人彰子中宮をかこんで、華やかな時間がすぎていく藤壺の御殿を遠くあおぎ、清少納言は筆をにぎりしめて、美しく聡明だった定子皇后の追憶にひたっていたことでしょう。

 「あのころは、、、、猫も犬も、みな皇后の膝元にいることの幸福をかみしめていた、、、、猫の命婦のおとども、犬のおきなまろも、皇后に「香炉峰の雪」の機転を褒められ有頂天だった私も、、、、」

<つづく>
00:07 |

2006/10/18 水
女たちの宮廷闘争

 990(正暦1)年に定子は15歳で一条天皇(11歳)に入内(じゅだい)しました。
 11歳と15歳のおひな様のような夫婦です。

 995(長徳1)年、定子の父藤原道隆がなくなった後、宮廷の勢力争いが続きました。翌年、ついに彰子の父藤原道長は、定子の兄藤原伊周(これちか)を失脚させます。
 兄は左遷され、父のあとを追うようにして母も亡くなるという心細い境涯のなか、定子は出家を果たしました。

 しかし、一度出家した定子を還俗させて呼び戻すほど、一条帝は最初に入内した年上の定子を愛し、手放そうとしませんでした。
 一条天皇との仲はむつまじく、ふたりの間には、996年に脩子内親王、999年に敦康親王が生まれました。

 1000(長保2)年。藤原道長は、前年に一条天皇に入内させておいた自分の娘彰子を、女御から中宮に昇格させました。
 そのため定子中宮は、皇后へと身分を変えることになりました。この当時の感覚だと、中宮は実質的な天皇の正妻、皇后の称号は「名誉正妻」のようなものでした。

 一条天皇をめぐって、定子皇后と彰子中宮が両立するという異例の事態。
 皇后と中宮は同格で、つまりひとりの天皇に同時にふたりの皇后が並ぶこととなったのです。

 女御更衣など、皇后と同格でない場合、ひとりの天皇に数多くの妻がいることは、いつの時代にもあったことですが、正妻である后宮(きさいのみや)がふたり、というのは、それまで例のなかったことでした。

 一条天皇には、正式に入内しただけでも6人の妻がいました。
 皇后定子(藤原道隆娘)、中宮彰子(藤原道長娘・定子にとっては父の弟の娘)、女御義子(藤原公季娘・定子にとっては、父の叔父の娘)、女御元子(藤原顕光の娘・定子にとっては父の伯父の娘)、女御尊子(藤原道兼娘・定子にとっては父の弟の娘)。
 
 つまり、定子にとって、従姉妹や又従姉妹など親戚一同の娘たちが競って入内し、寵愛を争っているという環境です。
 天皇の寵愛を得て皇子をなせば、父は外戚として大きな権力をふるえます。娘たちにとって天皇の寵愛を争う宮廷生活は、父親たちの権力闘争そのものでした。

 他の后妃たちが子をなすほど寵愛されなかったのに対し、25歳の定子は三人目の子を身ごもりました。
 1000(長い保3)年、両親はすでに亡く、兄は失脚しています。人々は最大の権力者となった道長の顔色をうかがっています。
 後ろ盾のない定子は、ひっそりと内裏から退出し、出産にそなえました。

 3人目の子は難産でした。内親王を出産した翌日、定子は亡くなりました。
 1000年の暮れ、幼い3人の子供たちを残して、定子は鳥辺野に葬られました。

 定子死去ののち、残された三人の子供の代母として、定子の同母の妹が入内しました。身分は宮人。権力のある後ろ盾がいないので、女御という身分をえることはできなくなっていました。

 定子の妹は、御匣殿(みくしげどの)と呼ばれ、姉の残した皇子たちを世話しました。
 定子を忘れられない一条天皇は、この定子の妹を寵愛するようになりました。御匣殿、懐妊。しかし、1002年、姉を追うかのように、妊娠中に18歳で亡くなってしまいました。

 度重なる悲運。
 清少納言は定子皇后なきあと零落し、逼迫した暮らしをしていたのではないか、という説話が室町時代に書かれています。

 でも、清少納言の目に焼き付いていた猫は、宮廷生活の影などみじんも負っていません。猫の思い出も、一条帝サロンの華やかな豊かなイメージのなかに描かれます。
 猫を間においた定子と天皇が、むつまじく笑いさざめいていたころのこととして、清少納言の描く「命婦のおとど」は御殿の中でのびのびと自由にふるまっています。

 一条帝の「猫かわいがり」に対して、藤原実資は批判的な目で記録していました。
 しかし清少納言が猫を描写する目は実資とは異なります。

 猫をめぐる明るさ、くったくのなさが、過ぎし日への郷愁として、セピア色の向こうに浮かび上がります。

 でも、その明るさも、定子皇后の悲運を知っている読者の目には、御簾(みす)の中が二重露光されているかのように感じられます。
 宮廷の華やかさとその裏のおどろおどろの政争と、定子なき後の清少納言の零落とを、御簾の中に読者は重ねて見つめてしまうからです。

<つづく>
00:33 |

2006/10/19 木
ライバル清少納言と紫式部

 一条帝は、温厚な人柄で、学問を好む方でした。また『本朝文粋』などの詩文を残したくらい文芸にも秀で、音楽に関しては笛が堪能という芸術家肌の天皇でした。

 定子中宮に皇后の称号を与える形で、権力者藤原道長は無理矢理、我が娘彰子を中宮へと押し立てたものの、他にも「女御更衣あまたさぶらひたまいけるなかに」、彰子は天皇の心をとらえることができません。

 999年に12歳で入内した彰子は、1000年にライバル定子皇后が死去したのちも、未だ幼く、一条天皇は、定子の妹へと寵を移してしまいました。

 聡明さと明るさで天皇をひきつけていた定子皇后と同じ寵愛を受けるには、彰子もまた聡明な女性に育ってもらわねばなりません。
 道長は「家庭教師役」である紫式部らの薫陶に、彰子の成長を託しました。

 1002年、定子皇后の妹、御匣殿(みくしげどの)も亡くなって、ようやく一条帝サロンは彰子中宮の局にうつりました。
 紫式部、和泉式部、赤染衛門、伊勢大輔など、平安文学を彩った才女才媛たちが、ずらりと彰子を取り囲み、もり立てています。

 1008年、彰子は、道長待望の皇子を生みます。敦成親王(後一条天皇)誕生。
 この当時の経緯は『紫式部日記』に詳しく描写されています。

 『日記』のなかに、紫式部は、ライバル清少納言を冷たい視線で描写しました。
 「あの方、知ったかぶりばかりして、漢文も読めるってことを吹聴しているけれど、枕草子をよく読めば、漢文の知識もたいしたことないってことわかるわ、、、、」

 宮廷が「華やかさと明るさ」だけで出きあがっているのではないことを最初から知りつつ彰子の局に伺候していた式部にとって、清少納言の描く「宮廷の華やかな暮らし」を読むにつけ、みずからの境遇に自戒をこめたのかもしれません。
 宮廷生活を見つめる式部の目は、清少納言ではなく、藤原実資の『小右記』に近いのか、いや、やはり実資とも異なる。

 斉藤緑雨は、樋口一葉の小説を評して「熱い冷笑によって書かれた」と、絶妙な言い方をしましたが、紫式部が宮廷を見つめたとき、「熱い冷笑」または「冷たい熱愛」をもって見ていたような気がします。

 清少納言と紫式部の「宮廷世界への視線のちがい」が、猫の描写にも、あらわれてきます。
 随筆と小説という媒体のちがいもあるでしょうが、清少納言がひたすらに定子皇后を賛美し、追憶の中に描きだしたのに対し、式部の描く宮廷は、「冷たい熱愛」の鋭い視線のみが照らし出す冷静な光を帯びているからです。

 次は『源氏物語』の猫をみましょう。

<つづく>
00:00 |

2006/10/20 金
源氏物語・若菜の猫

 定子皇后を深く愛した一条天皇は、定子の死後は定子の妹、御匣殿(みくしげどの)を寵愛するようになったことを書きました。
 御匣殿は定子の遺児を養育するために入内し、定子の残した敦康親王らを育てていました。子供の顔を見たい一条帝の足は御匣殿のもとへむき、自然と定子のかわりに愛するようになりました。

 彰子中宮のもとに一条天皇が足をむけるようになったのは、御匣殿が1002年に亡くなった後のこと。彰子の父、道長の「作戦」が功を奏したのです。

 母親を亡くし、世話をしてくれた叔母の御匣殿まで早世してしまった子供たち。一条天皇は、遺児らの養育をどうしたらいいか、悩みました。
 一方道長のおもわくは。
 入内して3年になる彰子中宮は、未だ子宝に恵まれません。道長は、「もしものときの代打」を考えつきました。

 定子の生んだ敦康親王は、なんといっても皇后所生の第一皇子、万が一、彰子に子ができなかった場合、敦康親王を彰子の養子とすれば、自分は外戚である。

 裏では定子を押しのける形で彰子を中宮にし、定子の兄伊周を失脚させた道長ですが、表の顔は、あくまでも定子の叔父。
 叔父が姪の子をひきとって育ててやろうというのですから、宮廷人たちも納得せざるをえません。

 また、御匣殿のもとへ一条帝が通ったのは、定子の子供がいたから。だとしたら、敦康親王らをひきとれば、天皇は必ず彰子中宮のもとへやってくるに違いない。

 確かな後見人が子供らに必要だと、一条天皇も考えました。
 こうして定子の遺児は、かってはライバルだった彰子中宮の手元で育てられることになったのです。

 子供らの顔を見るために、一条天皇は彰子の局に通うようになりました。道長の作戦、大成功。
 紫式部らの薫陶をえて、賢く美しい女性に成長した彰子は、ようやく一条帝の心をいとめたのでした。

 しかし、彰子が寵愛され、1008年に皇子敦成親王が誕生したとなると、道長の態度は一変します。代打はもう必要ないのです。
 養子より実の孫。以後、道長は敦成親王を皇太子に冊立するために暗躍します。

 一条帝は、あくまでも定子の生んだ第一親王の敦康親王を自分の皇太子にしたいと望んでいましたが、道長は大反対。ついに敦成親王を皇太子にしました。

 彰子中宮は、従姉妹定子の息子である敦康親王を実子と分け隔てなく大切に育てました。
 しかし、道長の反対にあって皇太子になれなかった敦康親王は、1018年に、20歳でなくなってしまいました。

 敦成親王は、一条天皇の次の三条天皇の代に皇太子に冊立され、三条帝の次の後一条天皇となりました。
 華やかな宮廷の裏では、子供の運命も権力によって翻弄されたのです。

 彰子の子、敦成親王が天皇位につくと、藤原道長の権力はここに極まり、「望月の欠けたることもなし」と、我が身の繁栄を自画自賛することになります。

 紫式部は、宮廷のこのような権力闘争をじっと見つめていました。
 紫式部の描き出した『源氏物語』の宮廷は、光とかげとが入れ違い、表と裏が反転する。権謀詐術があり裏切りがある。零落があり、落魄からの逆転劇がある。

 『源氏物語』「若菜の巻」では、事件のきっかけを猫が呼び込みます。
 主人公光源氏の正妻である女三宮と柏木との許されぬ恋の始まりに、猫が大きく関わるのです。
 愛らしい子猫が、晩年の光源氏に苦悩を与える原因ともなった、若菜の巻。

<つづく>
00:02 |

2006/10/21 土
皇女降嫁

 主人公光源氏は、数々の女性遍歴を経て、最愛の紫の上との生活に落ち着いたかにみえました。
 しかし、異母兄朱雀院のたっての願いを受け、朱雀院の愛娘、女三宮を正妻として迎え入れることになりました。

 女三宮は、父である朱雀院の愛情を一身に集めていましたが、後見者がいません。
 宮廷で女性が暮らすには、有力者が後見人となって、何くれとなく面倒をみてくれることが必須です。後見にあたるのは、多くの場合、母親の実家です。

 朱雀院は、このことを身をもって知っています。
 朱雀院の母、弘徽殿大后は、実家右大臣家の権勢を背景にもっていた。だからこそ、自分は皇太子になれた。

 しかし、自分より人物がはるかにすぐれていたにも関わらず、異母弟光源氏は、母親の桐壺更衣の実家に力がなかった。父帝の配慮で、光源氏は臣籍降下し、皇子から臣下の身分になった。

 朱雀院は「病身の自分が出家してしまったら、だれがこの身よりのない娘の世話をしてくれるのか」という不安にかられ、年来の念願である出家をはたせないでいます。
 女三宮の母親(先帝皇女、藤壺の異母妹)は亡くなっており、母親の父である先帝もとうに崩御しています。

 皇女ですから、低い身分のものと結婚させるわけにはいきません。朱雀院が悩みぬいたすえ「娘を託すに足る人物」と思ったのは、異母弟の光源氏でした。

 若い頃の朱雀院は、父桐壺帝の信頼を一身に集める光源氏がねたましく、うとましく感じたこともありました。
年をとり世の中のことを知った今では、これほどの人物は世にいない、とわかり、だれよりも信頼できる人物と思っています。

 現実の宮廷でも、定子皇后が、両親を早く失い兄も失脚するという悲運にあって、後ろ盾がいない不安定な宮廷生活のなかで早世したことを、平安朝の読者たちは知っていました。

 朱雀院が、女三宮の結婚相手として25歳も年上の光源氏を選んだことを、「父としての親心」と、読者たちは感じたことでしょう。
 光源氏40歳、女三宮14歳。

 年の差がある結婚の例はあります。現に紫式部は、父親と同年輩の夫と結婚したのですから。
 しかし、光源氏と女三宮の結婚は、単に年が離れているという以上に、さまざまな問題点をはらんでいました。

 亡くなった女三宮の母親。この母の異母姉は、光源氏が密かに愛しつづけた義母、藤壺です。つまり女三宮は藤壺の姪。

 光源氏がこの若すぎる皇女との結婚を承諾したのは、異母兄朱雀院の頼みを断り切れなかった、という理由のほかに、藤壺の面影を求めてのことでした。
 藤壺は、幼い光源氏を残したまま早世した母、桐壺更衣にそっくりな女人。母への思慕が、義母への恋心となり、若き日の光源氏は、藤壺への思いを断ち切れずに苦悩しました。

 女三宮との結婚は、光源氏の晩年にかげりを生じさせます。

<つづく>
00:01 |

2006/10/22 日
唐猫子猫

 青年期に苦労した分、壮年期からは栄華の絶頂に上った光源氏でしたが、紫式部の筆は、「こうして光源氏は、紫の上の愛情と栄華につつまれて、しあわせに暮らしましたとさ。めでたしめでたし」にはしませんでした。

 光源氏に長年つれそった紫の上は、皇女の降嫁に苦悩します。
 世の人からは「光源氏に長年愛されて、妻たちのなかでもっとも信頼されている重い立場の人」とみなされている紫の上。
 しかし、正妻として迎えられた皇女の前では、身分の差を思い知らされました。

 紫の上は、父兵部卿宮の正妻の子ではありませんでした。紫の上の母は、正妻にうとまれ早死にしてしまい、祖母によって育てられました。

 (『源氏物語』『紫の物語』とこの物語を呼んで愛読した読者たちは、この少女を「若紫」と呼び、結婚後は「紫の上」と呼びました。
 物語の登場人物の名「夕霧」「夕顔」「末摘花」「朧月夜」などは、読者たちが文中の和歌などからあだ名としてつけたものであり、紫式部の命名ではありません。)

 育ての祖母までが亡くなり、幼くして光源氏にひきとられた若紫は、光源氏を父とも思って成長しました。

 最初の正妻葵の上が一子夕霧を生んで亡くなり、四十九日法要がすんだあとのある夜、突然「養父」であったはずの光源氏は、少女若紫を「妻のひとり」にしました。

 正妻葵の上が病死したあとも、あまたの女性が光源氏のまわりに存在していました。
 その中で、光源氏がだれよりも心奪われている女性は、父桐壺帝の妻、藤壺。
 紫の上の父は、藤壺の兄です。

 光源氏が自分を引き取ったのは、自分が藤壺の姪であったから、ということを、成長したのちの紫の上はわかってきました。
 しかも、女三宮も藤壺の姪。女三宮の母親は、藤壺の異母妹です。

 親の許しを得た正式な結婚ではなくとも、光源氏の愛情は確かなものと信じて長年、夫につくしてきました。
 昔、明石にわび住まいしていた光源氏が、現地妻「明石の上」を得て、娘「明石姫君」が生まれたときも、子をもてなかった紫の上は黙って耐え、その娘をひきとって大切に養育しました。

 その娘が成長し、東宮(皇太子)に入内しました。やっと子の成長を見届け、光源氏とのおだやかな二人の生活がはじまると思っていたら、突然「正妻」が降嫁してきたのです。

 光源氏は女三宮を丁重に遇し、礼をつくしました。が、すぐに幼いだけの女三宮に失望し、結婚したことを後悔しました。
 紫の上を妻にしたとき、さすが藤壺の姪だ、と思えるほど美しく賢い女性に育っていたものでした。しかし、当時の紫の上と同じ年頃であり同じ藤壺の姪なのに、女三宮は光源氏にとって物足りないと感じられる人でした。

 光源氏が女三宮を形式的にだけ大切に扱っていることは、しだいに周囲の人々にも察知されるところとなりました。
 女三宮との結婚を願っていた柏木(光源氏の最初の正妻である葵の上の兄の子)は、残念な思いをうち消すことができません。

 ある日、源氏の六条邸で蹴鞠が催されます。
 柏木は、女三宮の暮らしている部屋の近くで行われることに心躍らせながら、まりを蹴りあげました。
 御簾の奥は外からは見えないけれど、あの中に女三宮がおわすのだ、と思うと、柏木の胸はまり以上に高くはずみました。

 女三宮は御簾を垂らした家の中から蹴鞠を見物していました。
 かたわらには、唐猫が遊んでいます。小さくてかわいらしい子猫と、それより大きい中国渡来の猫です。

<つづく>
00:16 |

2006/10/23 月
子猫の紐
 御几帳どもしどけなく引きやりつつ、人気近く世づきてぞ見ゆるに、唐猫のいと小さくをかしげなるを、すこし大きなる猫追ひ続きて、にはかに御簾のつまより走り出づるに、人びとおびえ騒ぎて、そよそよと身じろきさまよふけはひども、衣の音なひ、耳かしかましき心地す 
 
 猫は、まだよく人にもなつかぬにや、綱いと長く付きたりけるを、物にひきかけまつはれにけるを、逃げむとひこしろふほどに、御簾の側いとあらはに引き開けられたるを、とみにひき直す人もなし。この柱のもとにありつる人びとも、心あわたたしげにて、もの懼ぢしたるけはひどもなり

 大きな唐猫が子猫を追いかけています。猫のおいかけっこに、部屋にいた人々は騒ぎだしました。猫の動きにつれ人々が体を動かすたびに、衣づれの音がサワサワと聞こえます。

 子猫はまだ人になれていないので、逃げ出さないように長い紐でゆわえてありました。子猫が走り回ると、紐の先が御簾(みす=スダレ)にひっかかりました。御簾は紐を引くことによって巻き上げ巻下げを行うようにしつらえてあります。

 子猫が逃げ回ると、たちまち御簾が巻き上げられてしまいました。
 御簾近くにいた女三宮の姿は、庭でまりを蹴上げていた貴公子たちから丸見え。
 貴族の女性が自分の姿を父や夫以外の男性の目にさらすなど、あってはならないことでした。

 おもいがけず、見つめることができた女三宮の姿。宮への思いを消せないでいた柏木は、その姿をみて、恋いこがれるようになりました。

 柏木はこのときの子猫をもらい受け、飼うことにしました。しかし、猫をかわいがるにつけ思いはつのるばかり。ついに女三宮の寝所に忍び込み、、、、。
 女三宮は不倫の子、薫を生みます。

 御簾に巻き付いた子猫の紐のように、人の世の運命の紐も、もつれ絡まり、手足にからみつき、、、、。

 世知にうとい女三宮は、柏木から届けられた手紙を隠しておくこともせず、無防備なままでした。光源氏は部屋にあった手紙を読み、すべてを知ってしまいます。

 かって、若い光源氏は、父帝の妻である藤壷と道ならぬ恋におぼれ、秘密の子をなした。父桐壺帝は、藤壺の生んだ皇子を自分の子と信じて大切にしました。
 その報いが、光源氏自身にめぐってきたのです。

 光源氏は、あくまでも皇女が生んだ我が息子として薫を育てようと決意しました。出生の秘密を守り通すことにしたのです。

 柏木は、光源氏の咎めの視線に耐えられずに病気になり、ついに亡くなりました。
 自分なきあとの後事は、いとこであり親友の夕霧(光源氏の息子)にすべてを託して、、、、

 女三宮は、父の朱雀院に懇願し、出家を果たします。
 これまで人形のように運命に操られるままになっていた女三宮が、生まれてはじめて自分の人生を自分で考え、一人で決定したのが、「出家」でした。

 皇女降嫁以来、紫の上も、心のうちでは、出家したいという願いを強めていきました。
 表向きは、世間知らずの女三宮に細やかな心遣いをし、なにくれとなく世話を続けました。その配慮に光源氏も感嘆していたくらいです。

 しかし、心のなかで、しだいに光源氏にたよるしか生きる方法がなかった自分の人生を観照する時間が大きくなってきていました。

 平安の世で、女性が男の庇護を受けることなく、精神的に自立した生き方をしたいと思ったら、出家して尼になる以外の方法はありませんでした。

<つづく>
08:08 |

2006/10/24 火
運命に絡まる猫

 幼いころから光源氏と共に生きることこそが自分の人生だと疑いもせずに生きてきた紫の上。紫の上にとって、光源氏との結婚生活が人生のすべてでした。

 しかし、その人生とは、自分にとっていったい何だったのか。夫の庇護のもと男の陰で生きるしかない女の人生を観照した紫の上は、人生のはかなさを思い、心のうちは沈むばかりでした。

 紫の上は病いがちとなり、出家を望みました。しかし、正妻女三宮の出家を認めた光源氏なのに、最愛の人紫の上には出家を許そうとしません。紫の上は、望みがかなわぬまま病が重くなり、亡くなりました。

 一匹の子猫をめぐり、運命の紐が絡まり合った末、栄華を極めたはずの光源氏の晩年は、人生の悲哀と寂寥の色を帯びます。
 皇女との結婚によって紫の上に苦しみを与えた事への後悔と、最愛の人に先立たれた悲しみのなかに沈み、光源氏は物語のなかから退場します。

 『源氏物語』後半宇治十帖の主人公は、女三宮と柏木の間に生まれ光源氏の子として成長した薫です。
 「運命の小猫」が生み出したともいえる主人公の物語は、前半の主人公光源氏とは異なって、最初から苦悩と悲哀を帯びています。

 『枕草子』の猫「命婦のおとど」のくったくのなさに比べると、若菜の猫は、次世代までつづく宮廷の負の影のあいだを縫うかのように、人々の運命にからまりました。

 紫式部は、彰子中宮のかたわらにあって宮廷の生活をじっとみつめ、その光と影をすべて冷静に観察していました。
 華やかさのなかにおぼれず、明るい光のなかに己の身をさらさぬ用心をしながら、宮廷の猫にも、じっと静かな視線をむけていたでしょう。

 紫式部の猫は、宮廷の光と影を反転させながら、御簾のうちそとをかけぬけます。

 人々のあいだで、猫をペットとして愛玩することが流行りだして以来、猫は、「物語化」しやすい存在として身近な動物でした。

<つづく>
00:01 |

更級日記の猫
2006/10/25 水
文学の中の猫(3)『更級日記』の「秘密の猫」

 菅原孝標女(すがわらたかすえのむすめ)は、1008年に生まれました。ちょうど、紫式部が宮仕えの日々を『紫式部日記』に書き、彰子中宮に皇子が生まれたことを記録していたころのことです。
 孝標女は、平安時代の女性が皆そうであったように、名前が伝わっていません。父親の名前から「菅原孝標女」と呼ばれてきました。

 清少納言は「清原氏の出身で、親族に少納言の身分の者がいる」という女官名で呼ばれていますが、本名はわかりません。両親家族と夫以外に本名を知る人はいませんでした。

 紫式部も本名はわかりません。「藤原氏の出身で、親族に式部の身分の者がいる」という女官名「藤式部」と呼ばれ、「藤壺にゆかりの紫の上をヒロインとする物語を書いた人=紫式部」という呼び名を得ました。

 菅原孝標は菅原道真の子孫。菅原家は代々、「学問の家」でありましたが、孝標女の母親の系統は「文学」に関わりが深い。孝標女の母親は藤原倫寧の娘で、母親の姉は、『蜻蛉日記』の作者である「藤原道綱の母」です。道綱は、藤原道長の異母兄。

 伯母の「道綱の母」が自分の一生を自伝『蜻蛉日記』に書き残したように、孝標女は自伝『更級日記』を書きました。

 『源氏物語』は、孝標女にとって、「あこがれの本」でした。
 読みたい読みたいと願っていた『源氏物語』を伯母のひとりから譲られた夜は、二日も寝ないで読みふけったこともありました。
 そんな「物語に熱中する少女」だったある日、猫にであいました。
  
 『更級日記』には、主人公と姉が、突然あらわれた猫を「亡くなった大納言の姫君」の生まれ変わりと信じて、大切に育てる話が書かれています。

 「大納言の姫君猫」の段の冒頭を引用します。
花の咲き散るをりごとに、「乳母なくなりしをりぞかし」とのみあはれなるに、同じをりなくなり給ひし侍従の大納言の御女の手を見つつ、すずろにあはれなるに、五月ばかり、夜ふくるまで、物語を読みておきゐたれば、来つらむかたも見えぬに、猫のいとなごう鳴いたるを、おどろきて見れば、いみじうをかしげなる猫あり。

 「いづくより来つる猫ぞ」と見るに、姉なる人、「あなかま、人に聞かすな。いとをかしげなる猫なり。飼はむ」とあるに、いみじう人なれつつ、かたはらにうち臥したり。「たづぬる人やある」とこれを隠して飼ふに、すべて下衆のあたりにもよらず、つと前にのみありて、物もきたなげなるは、ほかざまに顔をむけて食はず。

(冒頭の部分、春庭の現代語訳)
 桜の花が咲き散っていくころが、また、めぐってきました。
 花が咲き散るおりごとに、「ああ、私たちのばあやが亡くなったのは、この時期でしたねえ」と、しみじみ思い出されます。

 ちょうど同じ頃にお亡くなりになった姫君、侍従職をしていた大納言様の娘御がお書きになったという筆跡をながめて、なんということもないまま物思いにしずんでいました。

 花も散りきった五月(陽暦では6月頃)のこと、夜ふけまで物語に読みふけって起きていました。
 どこから入り込んだのか、気づきもしなかったのに、猫が、とても長く鳴いている声がきこえました。おどろいて声の方をみると、とてもかわいくて心ひかれる猫がいたのです。

  「どこから来た猫なんでしょう」と思って見ていると、姉は「静かにして!他の人には知られないように。とってもかわいい猫ね、飼いましょうよ」と、言います。

 猫はたいへん人に慣れていて、そばに来て寝ころびました。「この猫を探している人もいるんじゃないかしら」と思い、隠して飼っていると、この猫は下働きの人のところには近寄りもせず、私たちのもとにだけいます。食べ物もきたなげなものは顔をそむけて食べようともしないのです。』
 
<つづく>
00:00 |

2006/10/26 木
更級日記「大納言の姫君猫」

 更級日記、「大納言姫君の猫」の残り部分を、長いですが全文引用します。
 姉おととの中につとまとはれて、をかしがりらうたがるほどに、姉のなやむことあるに、物さわがしくて、この猫を、北面にのみあらせて呼ばねば、かしがましく、鳴きののしれども、さきなほ、さるにてこそはと思ひてあるに、わづらふ姉おどろきて、「いづら、猫は。こちゐて来」とあるを、「など」と問へば、
「夢に、この猫の、かたはらに来て、『おのれは侍従の大納言殿の御女の、かくなりたるなりさるべき縁のいささかありて、この中の君の、すずろにあはれと思ひいで給へば、ただしばしここにあるを、このごろ、下衆のなかにありて、いみじうわびしきこと』といひて、いみじう鳴くさまは、あてにをかしげなる人と見えて、うちおどろきたれば、この猫の声にてありつるが、いみじくあはれなるなり」と語り給ふを聞くに、いみじくあはれなり

 その後は、この猫を北面にもいださず、思ひかしづく。ただ一人ゐたるところに、この猫がむかひゐたれば、かいなでつつ、「侍従の大納言の姫君のおはするな。大納言殿に知らせ奉らばや」といひかくれば、顔をうちまつりつつ、なごう鳴くも、心のなし、目のうちつけに、例の猫にはあらず、聞きしり顔にあはれなり。

(春庭現代語訳)
 姉と妹の私の間にいつもまとわりついている猫を、おもしろがりかわいがっていました。
 そんなおり、姉の体調が悪くなったことがありました。気ぜわしいので、この猫を北側の部屋において、姉と私の部屋には入れないようにしていたら、猫は騒ぎだし泣きまわりました。

 それでも、あら、また猫が騒いでいること、と思っていたら、わずらっている姉が驚いて「どこなの、猫は。こちらに連れてきて」と言いました。

 「どうしたの」とたずねると、
「夢の中で、わたしのかたわらに猫が来て、こう言うのです。
 「私は侍従の大納言殿の娘です。今はこのような姿になっております。
 こうなるべき縁が少しあったのでしょう。この家のお嬢さんたちが私の書いた筆跡を見て、私を思いだしてくださるので、ただしばらくの間と思ってここにおりますのに、このごろ下働きの人の間にばかりおかれて、とても侘びしいことです」

 と言って、ひどくないているようすは、上品でおもむきがある人に見えて、たいそう驚きました。
 姫君は、この猫の声でないていたんですよ。とても哀れ深い思いがしました。」

 それからというものは、この猫を北側の部屋になど出さないで、大納言の姫様と思って大切にしました。
 ただひとりきりでいたときなど、猫に向いあって「侍従の大納言の姫君でいらっしゃいますのね。大納言殿にお知らせ申しあげたいこと」と言いかけると、私の顔をじっと見つめて、長く長く鳴くのです。

 気のせいか、そういう目で見るからなのか、普通の猫とは思えず、私の言うことをみんなわかっているかのような顔をしているのが、いじらしくおもむき深く感じられました。
===============

 『源氏物語』を夢中になって読みふけっていた少女とその姉。
 春になると、花が咲くのをみても散るのをみても、自分たちをかわいがってくれた今は亡き乳母をなつかしく思い出します。また、乳母と同じ頃なくなった「大納言の姫君」に書いてもらったお習字の手本をくりかえしながめていました。

 どこからか迷い込んできた猫。とてもきれいな猫で上品なようすをしています。
 姉と「ふたりだけの秘密」と約束して、隠して飼うことにしました。病身の姉は、外出ることもなく、そっと猫をなでています。

 あるとき、猫が姉の夢のなかにあらわれました。
 夢のなかで、猫は「今はこのような姿になっていますが、わたくしは、大納言の娘です」と、言ったのです。
 夢のなかで身の上を語る姫君の声は、猫の声に重なっていました。

 少女たちは、あたりにだれもいないとき、猫をなでながら「おまえは、大納言の姫君なんでしょう、大納言殿にお知らせしましょうか」と言葉をかけます。猫はじっと少女の顔をみつめて、長く鳴きました。
 「やはり、そこらへんにいる普通の猫とはぜんぜんちがう猫みたい」と少女は思うのです。

 「猫の変身譚」が一般に知られていたからこそ、更級の少女も「きっとお姫様の生まれ変わりよ」と、信じたのでしょうね。

 「更級の少女と猫」は、大島弓子『綿の国星』の猫に至るまで続く「少女と猫」の物語や「猫耳少女」の原点に思えます。

 綿の国星のチビは、猫が成長すれば人間になれると信じています。チビの視線で人をみれば、元は大納言の姫君だった猫もいれば、やがては人の姿となる猫もいることでしょう。

 猫は少女にとって、自分自身の姿を反映したものであり、少女の夢と秘密を体現したものであり、だれにも知られてはならない秘密やウソを共有する、そんな存在です。

<つづく>


夏目漱石の吾輩猫
2006/10/27 金
文学の中の猫(4)漱石の吾輩猫

 猫の変身譚、江戸歌舞伎など近世文学では化け猫の話が大人気でした。
 『花野嵯峨猫魔稿』は、佐賀鍋島藩の化け猫騒動のお芝居です。

 鍋島家は、主家筋の竜蔵寺家の断絶で、佐賀藩の領地を全面的に徳川幕府から安堵された。領土が鍋島家のものとなってしまったことを怨んだ竜蔵寺政家と高房の怨霊が愛猫に宿って、鍋島家に災いをなすという「愛猫変身譚」のひとつ。

 「猫」は、近代文学現代文学の中でも大活躍。
 しかし、近代文学に出てくる猫になると、江戸の化け猫とはだいぶ雰囲気も変わります。

 夏目漱石の最初の小説は「吾輩は猫である。名前はまだ無い」という書き出しで始まります。1905(明治38)年に雑誌「ホトトギス」に連載し、ホトトギスの売り上げをのばすほどの人気を博しました。

 元ノラ猫の「吾輩猫」には、死ぬまでほんとうに名前らしい名前がなかったようです。あるいは「名無し猫」として有名になってしまったために、名前をつけるわけにはいかなくなったのかもしれません。

 カーポティの『ティファニーで朝食を』の中で、ヒロインのホリーは「キャットcat」という名の猫を飼っていますが、これは「キャット」という名の猫であって、名前はあります。
 吾輩猫は、漱石家で何て呼ばれていたんでしょうか。

 1908年にこの「吾輩猫」が死ぬと、漱石は知人に死亡通知を出しました。
 庭に猫のお墓をたてて、『猫の墓』というエッセイが書かれました。死して後なお、漱石にネタを提供、偉大なる名無しの御猫サマです。

 現在、新宿区立漱石公園に猫塚がありますが、これは、「吾輩猫」のお墓ではなく、漱石の妻筆子が立てた「夏目家歴代ペットの供養塔」を復元したもの。

 漱石の『猫の墓』から引用。
 早稲田へ移ってから、猫がだんだん瘠せて来た。いっこうに小供と遊ぶ気色がない。日が当ると縁側に寝ている。前足を揃えた上に、四角な顎を載せて、じっと庭の植込を眺めたまま、いつまでも動く様子が見えない。

 漱石は、猫が弱っていったようすを描写し、死んだあと墓標をたててやった顛末を記す。
 ある晩、彼は小供の寝る夜具の裾に腹這になっていたが、やがて、自分の捕った魚を取り上げられる時に出すような唸声を挙げた。この時変だなと気がついたのは自分だけである。小供はよく寝ている。妻は針仕事に余念がなかった。しばらくすると猫がまた唸った。妻はようやく針の手をやめた。自分は、どうしたんだ、夜中に小供の頭でも噛られちゃ大変だと云った。まさかと妻はまた襦袢(じゅばん)の袖を縫い出した。猫は折々唸っていた。

 明くる日は囲炉裏(いろり)の縁(ふち)に乗ったなり、一日唸っていた。茶を注いだり、薬缶を取ったりするのが気味が悪いようであった。が、夜になると猫の事は自分も妻もまるで忘れてしまった。猫の死んだのは実にその晩である。朝になって、下女が裏の物置に薪(まき)を出しに行った時は、もう硬くなって、古い竈(へっつい)の上に倒れていた。

 最後の一節。
 猫の命日には、妻がきっと一切れの鮭と、鰹節をかけた一杯の飯を墓の前に供える。今でも忘れた事がない。ただこの頃では、庭まで持って出ずに、たいていは茶の間の箪笥の上へ載せておくようである。

 漱石夫人筆子さんも、この猫のおかげで夫の文名があがったことを思えば、猫命日にカツブシの猫まんまを供えるのをおろそかにはできなかったことでしょう。

<つづく>
00:00 |

宮沢賢治 猫の事務所
2006/10/28 土
文学の中の猫(5)宮沢賢治「猫の事務所」

 猫が出てくる宮沢賢治の童話、といえば『注文の多い料理店』の、さんざん注文をつけたすえに、狩り好きな紳士たちを料理して食ってしまおうとする山猫。
 『どんぐりと山猫』の「かねたいちろ様〜山猫拝」という手紙を出して、どんぐりたちの裁判官として一郎を迎えにいく山猫。
 『セロ弾きのゴーシュ』、ゴーシュの部屋をたずねてきた三毛猫は、ゴーシュのチェロで「インドの虎狩り」の演奏を聞き、部屋中を暴れ回ります。

 「猫の事務所……ある小さな官衙(かんが)に関する幻想…… 」は、1925(大正15)年、3月に賢治が農学校を退職する直前に「虚無思想研究」3月号に発表した作品。
 タイトルのはじめに「寓話」とわざわざ記している作品です。

 「貧しい農民たち」の中に直接関わろうとした賢治は、農学校を退職したあと、開墾をはじめ、農民として生きていこうとします。

 東北の農民たちの悲惨な生活に比べて、公的な給与を得てぬくぬくと生きているように思える「教員室の教師」たち。お役所の役人たち。彼らは、地域の農民のことを考えるより、上目遣いで上役への取り入りと仲間いじめに励んでいるかのように見えます。

 そんな「事務所ぐらし」に耐えられなくなった賢治が、「事務所の閉鎖」を寓話として書いているのが「猫の事務所」です。

 事務所で働く猫たちのうち、いちばんみすぼらしく醜い竈猫(かまねこ)。
 「かまど猫」は、貧しい暮らしの中、寒さをしのぐためにカマドの灰のぬくもりをもとめて、一晩をかまどの中ですごします。だからカマド猫はいつも灰に汚れてみすぼらしい毛並みをしているのです。

 かま猫を、事務所の他の猫たちがいじめます。かま猫はつらい毎日をがまんして毎日いっしょうけんめい働きましたが、病気で一日休んだ翌日、猫たちはかま猫の仕事をとりあげて追い出そうとはかりました。

 宮沢賢治『猫の事務所』冒頭からの引用です。
軽便鉄道の停車場のちかくに、猫の第六事務所がありました。ここは主に、猫の歴史と地理をしらべるところでした。
 書記はみな、短い黒の繻子の服を着て、それに大へんみんなに尊敬されましたから、何かの都合で書記をやめるものがあると、そこらの若い猫は、どれもどれも、みんなそのあとへ入りたがってばたばたしました。

 けれども、この事務所の書記の数はいつもただ四人ときまっていましたから、その沢山の中で一番字がうまく詩の読めるものが、一人やっとえらばれるだけでした。
 事務長は大きな黒猫で、少しもうろくしてはいましたが、眼などは中に銅線が幾重も張ってあるかのように、じつに立派にできていました。

 さてその部下の
  一番書記は白猫でした、
  二番書記は虎猫でした、
  三番書記は三毛猫でした、
  四番書記は竈猫でした。

<つづく>
00:03 |

2006/10/29 日
ことばのYa!ちまた>文学の中の猫(15)かま猫いじめられる

「猫の事務所」の事務長黒猫は公平な猫で、かま猫をかばってくれました。
 が、他の書記猫たちは、よってたかってかま猫をいじめるのでした。

 宮沢賢治の『猫の事務所』昨日の続きを引用します。
 竈猫(かまねこ)というのは、これは生れ付きではありません。生れ付きは何猫でもいいのですが、夜かまどの中にはいってねむる癖があるために、いつでもからだが煤できたなく、殊に鼻と耳にはまっくろにすみがついて、何だか狸のような猫のことを云うのです。
 ですからかま猫はほかの猫には嫌われます。

 けれどもこの事務所では、何せ事務長が黒猫なもんですから、このかま猫も、あたり前ならいくら勉強ができても、とても書記なんかになれない筈のを、四十人の中からえらびだされたのです。

 大きな事務所のまん中に、事務長の黒猫が、まっ赤な羅紗をかけた卓を控えてどっかり腰かけ、その右側に一番の白猫と三番の三毛猫、左側に二番の虎猫と四番のかま猫が、めいめい小さなテーブルを前にして、きちんと椅子にかけていました。

 ところで猫に、地理だの歴史だの何になるかと云いますと、
 まあこんな風です。

 事務所の扉をこつこつ叩くものがあります。
「はいれっ。」事務長の黒猫が、ポケットに手を入れてふんぞりかえってどなりました。
 四人の書記は下を向いていそがしそうに帳面をしらべています。
 ぜいたく猫がはいって来ました。

「何の用だ。」事務長が云います。
「わしは氷河鼠を食いにベーリング地方へ行きたいのだが、どこらがいちばんいいだろう。」
「うん、一番書記、氷河鼠の産地を云え。」
 一番書記は、青い表紙の大きな帳面をひらいて答えました。
「ウステラゴメナ、ノバスカイヤ、フサ河流域であります。」

 事務長はぜいたく猫に云いました。
「ウステラゴメナ、ノバ………何と云ったかな。」
「ノバスカイヤ。」一番書記とぜいたく猫がいっしょに云いました。
「そう、ノバスカイヤ、それから何!?」
「フサ川。」またぜいたく猫が一番書記といっしょに云ったので、事務長は少しきまり悪そうでした。
「そうそう、フサ川。まああそこらがいいだろうな。」

 かま猫は、他の猫からたびたびいやがらせをされ、いじめを受けてきました。かま猫はかろうじて公平な事務長の助けで仕事を続けています。

 ある日のこと、ひどい風邪をひいて一日休んだかま猫が、ようよう事務所に出てみると、かま猫の仕事は取り上げられており、同僚の猫たちからは「無視」というイジメを受けました。あいさつをしても返事はなし。だれも声をかけようともしません。
 「かま猫」はとうとう泣きだしてしまいました。
 
<つづく>
00:00 |

2006/10/30 月
猫の事務所の解散

 宮沢賢治『猫の事務所』のラストシーンです。
 かま猫はもうかなしくて、かなしくて頬のあたりが酸っぱくなり、そこらがきいんと鳴ったりするのをじっとこらえてうつむいて居りました。
 事務所の中は、だんだん忙しく湯の様になって、仕事はずんずん進みました。みんな、ほんの時々、ちらっとこっちを見るだけで、ただ一ことも云いません。

 そしておひるになりました。かま猫は、持って来た弁当も喰べず、じっと膝に手を置いてうつむいて居りました。
 とうとうひるすぎの一時から、かま猫はしくしく泣きはじめました。そして晩方まで三時間ほど泣いたりやめたりまた泣きだしたりしたのです。
 それでもみんなはそんなこと、一向知らないというように面白そうに仕事をしていました。

 その時です。猫どもは気が付きませんでしたが、事務長のうしろの窓の向うにいかめしい獅子の金いろの頭が見えました。
 獅子は不審そうに、しばらく中を見ていましたが、いきなり戸口を叩いてはいって来ました。

 猫どもの愕ろきようといったらありません。うろうろうろうろそこらをあるきまわるだけです。かま猫だけが泣くのをやめて、まっすぐに立ちました。

 獅子が大きなしっかりした声で云いました。
「お前たちは何をしているか。そんなことで地理も歴史も要ったはなしでない。やめてしまえ。えい。解散を命ずる」
 こうして事務所は廃止になりました。
 ぼくは半分獅子に同感です。

 いじめに耐えかねて、泣き出したかま猫。
 そこへ一匹の金色の頭をした獅子が現れました。事務所で「地理や歴史」を調べる仕事をしていた猫たちに、獅子が大きなしっかりした声で事務所解散を命じました。

 猫の事務所は、「ぜいたく猫」が旅行するときのために地理や歴史を調べる仕事を続けていました。でも「かま猫」をいじめて泣かせて、それで続ける「立派な仕事」など必要ない。

 金色の獅子が 「お前たちは何をしているか。そんなことで地理も歴史も要ったはなしでない。やめてしまえ。えい。解散を命ずる」
と、言ったのに対して「ぼく」は、「半分同感」と書いています。

 「いじめ」があり、それを解決できない事務所も学校も、「そんなことで勉強も教育も要った話でない。やめてしまえ。えい。解散を命ずる」と、私も半分思います。
 あとの半分は「この世からいじめをなくすにはどうしたらいいのか」と、考え続けることだと思っています。

 猫の事務所は、金色の獅子の一声で解散となりました。
 現実のこの社会にいる私には、そういう解決方法は「半分賛成」

 金色の獅子が「いじめ集団の解散」を命じてくれるのを待つのではなく、自分自身の問題として考え続けます。「半分賛成」の、のこりの半分の部分です。

<つづく>
00:09 |

2006/10/31 火
かま猫、よだか

 賢治は鋭敏な心で現実の社会をみつめ、いじめを受けることについての作品を書き上げました。
 『猫の事務所』のタイトルには、ほかの作品には書き込まなかった「寓話」という文字を書きいれています。
 「寓話=擬人化した動物などを主人公に、教訓や風刺を織りこんだ物語」という語を冒頭においたのは、この童話を「人間の世界のできごとを動物を主人公にしておきかえて発表する」と、賢治が強く意識して書いたからだと思います。

 宮沢賢治が「猫の事務所」を発表してから80年以上たちます。
 賢治が、人間の世界にあることを、動物の話として描いたいじめの物語。賢治は、いじめをする集団はすべて解散してしまいたかったことでしょう。しかし、金色の獅子が「猫の事務所」の解散を命じてから80年後も、いじめはなくなりませんでした。

 『猫の事務所』のほか、いじめを受ける醜い動物の話に『よだかの星』がよく知られています。『よだかの星』は教科書に採用され、広く教材となってきました。

 この教材を国語の時間に読んだあと、クラスの中のひとりに「よだか」とあだ名をつけ、「おまえ、星になっちゃえば」と、からかった、という話を聞いたことがありました。
 いったい何をこの教材で教えたのでしょうか。

 教科書会社が発行している「指導書」のとおりに『よだかの星』授業を展開して、教材会社が発売しているテストをさせて、採点しておしまいにしたのでしょうか。
 研究授業で校長先生に「適切な指導でした」と、褒められたのかもしれません。
 「よだか」とあだ名されている子がクラスにいるとわかったあと、教師は何をしたのでしょうか。

 このところ、連日のように「いじめ」を苦に自殺する子供たちのニュースが続いています。小学生中学生高校生、、、、、
 いじめを受けていて、苦しんでいる子がいたら、、、、、、私には直接何もしてやれないのがつらいですが、どうぞ死なないで。死んじゃいけませんと、叫びたい。声が届きますように。

 子供がいじめを受けて苦しんでいるのに、何もしてやれない教師や学校であるなら、そんな学校は存在価値もありません。こどものイジメの実態を、保身のために隠す教師、校長。報告書に「当校のいじめはゼロ」と書き込めば、いじめはなかったことになると思っている先生たち。

 いじめを受けた子の親が「なぜ親に言ってくれなかったのか、もっと早くから相談してくれなかったのか」と、悲しむ気持ち、わかります。私も同じでしたから。
 子供は、親には自分が学校でみじめな思いをしていることを知られたくないのだといいます。子供は、「いじめられている惨めな自分」を、親には知られたくないのです。
 せめて親にだけは「うち子供はしっかりやっている。学校でも元気にやってるから安心だ」と、思ってほしいのです。
 「親には、自分のことが原因でつらい思いをさせたくない」と思ってしまう子もいるのです。

 カフェの中にも、下記のようなコメントを、障害や病気と闘っている人のサイトにつぎつぎと書き込んでいく人もいます。
 他者を傷つけることでしか自己確認ができない人が存在するのは確かです。

投稿者:n********
障害者はウザイ いつ死ぬんだ 早く死ね 楽になるぞ (2006-10-28 19:26:47 )

投稿者:n********
障害者は生ごみ  おまえの友達も同じ (2006-10-28 21:17:21)

 このような書き込みを人のサイトに残していくということは、きっと自分自身の心もこわれ傷ついている気の毒な方なのだと思います。

 自分自身が大切にされていない、存在価値を認めてもらえない社会で、自分よりいっそう弱いものをいじめるしか自己表現ができない人たち。
 でも、このような書き込みをした人は、相手がむきになって怒りを表したりすること自体が楽しいのですから、日記に怒りを書き込んだりすると、相手の思うつぼになるのかも。

 真に戦うべきは、このようなこわれた心を生み出してしまう、社会の構造なのかもしれません。

 夫が、息子に読めと言って渡した『格差社会』(2006年9月20日発行、岩波新書)。
 読み終えた息子は、「読み終わったらハハに回せってチチに言われたから、ハイ、次、どうぞ」と言って本をこちらによこしました。

 「数字が出てくるから、カーチャンには理解できないかもしれないって、チチがいってた」という余計な一言もありましたが、わたし、ちゃんと数字つきで1年前に、自分でも同じようなこと書いたんです。「ジニ係数の話」
nipponia0509c.htm

 読み終わって、「これから格差が広がっていくと、ますます殺伐とした社会になって、親たちは、なんとか自分の子だけは上のグループにいれたくて、人をいじめようが何しようが、トップクラスから落ちこぼれないことを願い、競争社会の勝ち組になることを子に託すのかなあ」と、思いました。
 
 「よりいい大学」に入るためには、履修をごまかすということを高校ぐるみでやったりする世の中です。
 他者を思いやったり、共に生きていこうとするより、「とにかく人をけ落としてでも上に行くこと、競争に勝つこと」が奨励されている現在の社会なのですから、いじめられて星になろうとするよだかも、ただ泣きながらいじめに耐えるかま猫も、ますます増えていくように思います。

 本当に、これでいいのでしょうか。かま猫を泣かせたままで、よだかを苦しませたままで。

猫と庄造とふたりのをんな
2006/11/02 木
文学の中の猫(6)猫と庄造とふたりのをんな

谷崎潤一郎の『猫と庄造とふたりのをんな』(1934年)は、豊田四郎監督によって映画化されました。(1956年)
 猫を溺愛する庄造を森繁久彌が演じています。昭和の「ダメンズ」です。その母おりん、浪花千栄子。

 庄造は芦屋付近に暮らしている、甲斐性なしのマザコン男。ぐうたらの、典型的ダメ男です。
 どこへ勤めに出てもすぐやめてしまい、父親がなくなったのをしおに家業の荒物屋を継ぐというふれこみで家にもどりましたが、もとより商売に身をいれる気なぞなし。

 荒物屋は母親のおりんが仕切っていますが、母親の手ひとつでは家業も傾き、地代も払えぬまま借金がかさんでいます。

 庄造をめぐるふたりの「をんな」前妻と後妻。プラス母親。
 しっかり者の前妻品子(山田五十鈴)は、しっかりしているゆえに姑とは折り合わなかった。子供ができないからという理由をつけて、おりんは品子を追い出します。

 母親おりんは、小金持ちの兄から「借金を棒引きにするから、自分の娘福子(香川京子)を嫁にもらえ」と言われて、承諾。
 福子は、庄造にでも押しつける以外に始末の方法がない、という不良娘でした。

 気弱で優柔不断な庄造、嫁は品子でも福子でもどっちでもいいけれど、いっしょに寝るなら猫のリリーが一番。
 庄造の猫かわいがりようは、前妻にも後妻にも嫉妬心を呼び起こします。
 庄造にしてみれば、あしかけ4年とはいっても実質いっしょに暮らしたのは2年ちょっとの前妻よりも、嫁にきたばかりの後妻よりも、リリーとの仲が一番長い。20歳のころから30過ぎの今までいっしょに暮らしてきた。リリーが誰よりもかわいい。いっしょにいたい。

 庄造の愛猫リリーを、谷崎は「イギリス人は鼈甲(べっこう)猫と呼んでいる」と描写しています。
 欧洲種の雌猫。肉屋の主人の話だと、英吉利人はこう云う毛並みの猫のことを鼈甲猫と云うそうであるが、茶色の全身に鮮明な黒の斑点が行き亙っていて、つやつやと光っているところは、成る程研いた鼈甲の表面に似ている。何にしても庄造は、今日までこんな毛並みの立派な、愛らしい猫を飼ったことがなかった。

 文豪谷崎は、無類の猫好きとして知られています。庄造の猫によせる思いを書いている部分、そのまま谷崎の述懐だろうと思えます。
 それにつけても猫の性質を知らない者が、猫は犬よりも薄情であるとか、無愛想であるとか、利己主義であるとか云うのを聞くと、いつも心に思うのは、自分のように長い間猫と二人きりの生活をした経験がなくて、どうして猫の可愛らしさが分かるものか、と云うことだった。

 なぜかと云って、猫と云うものは皆幾分か羞渋みやのところがあるので、第三者が見ている前では、決して主人に甘えないのみか、へんに余所々々しく振舞うのである。

 リリーも母親が見ている時は、呼んでも知らんふりをしたり、逃げて行ったりしたけれども、さし向いになると、呼びもしないのに自分の方から膝へ乗って来て、お世辞を使った。

 彼女はよく、額を庄造の顔にあてて、頭ぐるみぐいぐいと押して来た。そうしながら、あのザラザラした舌の先で、頬だの、頤だの、鼻の頭だの、口の周りだのを、所嫌わず舐め廻した。夜は必ず庄造の傍に寝て、朝になると起こしてくれたが、それも顔じゅうを舐めて起すのであった。

<つづく>
00:03

2006/11/03 金
庄造と猫のリリー

 庄造が「猫と同衾」するという描写も、実際に谷崎自身が猫といっしょにふとんに入っていたのだろうと思える描きようです。
 寒い時分には、掛け布団の襟をくぐって、枕の方からもぐり込んで来るのであったが、寝勝手のよい隙間を見付け出す迄は、懐の中へ這入ってみたり、股ぐらの方へ行ってみたり、背中の方へ廻ってみたりして、ようよう或る場所に落ち着いても、工合が悪いと又直ぐ姿勢や位置を変えた。

 もし庄造が少しでも身動きをすると、勝手が違って来ると見えて、そのつど体をもぐもぐさせたり、又別の隙間を捜したりした。だから庄造は、彼女に這入って来られると、一方の腕を枕に貸してやったまま、なるべく体を動かさないように行儀よく寝ていなければならなかった。

 後妻の福子は資産家の娘。母親おりんにとっては、実の姪。家作を持参金として嫁に来たうえに、実家にしばしば帰って小遣いをもらってくる。福子の持参金がめあてのおりんには、福子がわがままし放題でも文句は言えません。しっかり者の前妻には厳しかったおりんですが、福子に対しては、下着まで洗ってやろうとするくらい、大甘です。

 後妻が家に入った事情を知った先妻品子は、腹の虫がおさまらない。庄造への未練半分、姑への怒り半分で、策略をたてました。

 先妻品子は、後妻福子に、庄造がだれより愛しているのはリリーだと告げます。原作では、冒頭部分。品子が変名で後妻の福子あてにおくった手紙の形ではじまります。
 谷崎とくいの「女の語り口」がさえています。

 夜、いっしょに寝るのでも、庄造にとって、リリーが一番。庄造と夜をすごしたいなら、庄造がこよなく愛する猫のリリーが邪魔になるはず。
 もしほんとうに庄造がリリーより福子を大切に思っているなら、リリーを手放すはずだ、と、品子は、たきつけます。福子のために、リリーを品子が引き取ることにしたいと誘いをかけたのです。

 先妻の親切ごかしのことばにに乗ってたまるかと思っていた後妻福子も、夫のリリーへの偏愛ぶりが、しだいに我慢ならなくなります。
 リリーを品子に引き渡すことを決意し、「あたしと猫とどっちが大事?」と詰めより庄造に、猫を品子に渡すことを承諾させました。

 品子は、姑に追い出されてから妹初子の家に居候しています。初子の家の二階、品子の部屋で、品子はそれなりにリリーをかわいがるようになりました。
 庄造の妻でいた間は、妻より愛されている猫をねたんだものでしたが、今となってはかわいくてたまらないのが不思議。

 母親おりんも、後妻福子も、自分自身の見栄と意地を満たすためだけに、庄造を将棋の駒のように奪い合う。本当に純粋に自分を愛してくれるのは、リリーだけ。庄造はリリーが恋しくてたまらない。

 外出も後妻福子に厳しく監視されている庄造は、福子が実家に帰ったすきをみはからって、のこのこと品子が居候している初子の家へ出かけていきました。
 リリーにひと目合いたい。膝の上にのせて、なでてやりたい。品子が家から出ていったのを見届けて、品子の部屋に入り込みます。

 金の力で姑に気に入られた福子、庄造が何より愛する猫リリーを手なづけた品子。
 庄造はこれからどちらの女の家にいたいのだろうか、、、、

 猫のリリーに森重久弥の庄造は語りかける。このセリフは原作にはなく、映画のオリジナル。
「、、、、、そやからねえ〜、女は怖いって言うてるやろ?なあ、リリー?ああ、お前も雌やったなあ〜(笑)」
(リリー)「・・・・・・・・・・」(リリーは見た目不細工だけれど、演技派猫です)
「いいんにゃ、わての気持ちをイッチバン、わかってるのは、リリー、お前や、お前しか、おらへんて!なあ、、、、わてにはお前しか、おらへん!、、、、お前しか、おらへんようになってしもたわ、、、、、」

 美しい女性に隷属的に支配されることこそ最高の幸福と信じていた文豪谷崎。
 猫に隷属的に支配され、猫へ愛情を捧げ尽くすのも、谷崎にとっては愛のひとつの姿だったのでしょう。

<つづく>
00:05

村上春樹といわし
2006/11/04 月
文学の中の猫(7)村上春樹と猫

 現代文学の中で、「次の日本人ノーベル文学賞作家」に一番近いと言われている村上春樹。
 作家として立つまえは、「ピーター・キャット」という名のジャズ・バーのオーナーマスターとして生計をたてていました。「ピーター」は村上夫妻の飼い猫の名前。

 「村上春樹と猫」の関係は「村上春樹とスパゲッティ」以上にたくさん語られていると思うけど、まずは「いわし」の話から。

 「いわし」とは、1982年『羊をめぐる冒険』に出てくる雄猫。年をとっていて、不器量な猫です。
「猫のことなんです」と僕は言った。
「猫?」
「猫をかってるんですよ」
「それで?」
「だれかに預かってもらえないと旅行にでられない」
「ペット・ホテルならそのへんい幾らでもあうだろう」
「年取って弱ってるんですよ一ヶ月も檻の中に入れておいたら死んでしまいますよ」
「爪がコツコツと机をたたく音が聞こえた。「それで?」
「お宅で預かってほしいんですよ。お宅なら庭も広いし、猫一匹預かるくらいの余裕はあるでしょう?」 

 右翼の大物「先生」の依頼で、北海道へ羊を探しに出かけることになった「僕」は、「年寄り猫」を、先生の秘書との交渉で預かってもらうことになった。
 
朝の十時に例の潜水艦みたいな車がアパートの前に停まった。

 運転手が猫を迎えに来た。
「可愛い猫ですね」と運転手もほっとしたように言った。
 しかし、猫は決して可愛くなかった。というよりも、どちらかといえば、その対局に位置していた。家はすりきれたじゅうたんみたいにぱさぱさして、尻尾の先は六十度の角度にまがり、歯は黄色く、右目は三年前に怪我したまま膿がとまらず、今では殆ど視力を失い欠けていた。運動靴とじゃがいもの見分けがつくかどうかさえ疑問だった。足の裏はひからびたまめみたいだし、耳には宿命のように耳だにがとりついていたし、年のせいで一日に二十回はおならをした。

 妻が公園のペンチの下からつれて帰ってきたときにはまだ若いきちんとした雄猫だったが、彼は七〇年代の後半を坂道に置かれたボウリング・ボールのように八曲へ向けて休息に転がり落ちていった。おまけに彼には名前さえなかった。名前のないことが猫の悲劇性を減じているのか、それとも助長していいるのか、僕にはよくわからなかった。

<つづく>
00:30

2006/11/05 日
命名「いわし」

「よしよし」と運転手は猫にむかって言ったが、さすがに手は出さなかった。「なんていう名前なんですか?」
「名前はないんだ」
「じゃあいつも、何ていって呼ぶんですか?」
「呼ばないんだ」と僕は言った。「ただ存在してるんだよ」

「でもじっとしてるんじゃなくてある意思をもって動くわけでしょ? 意思を持って動くものに名前がないというのはどうも変な気がするな」 』
「鰯だって石を持ってうごいてるけど、誰も名前なんてつけないよ」
「だって鰯と人間とのあいだにはまず気持の交流はありませんし、だいいち自分の名前が呼ばれたって理解できませんよ。そりゃまあ、つけるのは勝手ですが」
「ということは意思を持って動き、人間と気持が交流できてしかも聴覚を有する動物が野前をつけられる資格を持っているということになるのかな」

「そういうことですね」運転手は自分で納得したように何度か肯いた。
「どうでしょう、私が勝手に名前をつけちゃっていいでしょうか?」
「全然かまわないよ。でもどんな名前?」
「いわしなんてどうでしょう?つまり、これまでいわし同様にあつかわれていたわけですから」 

 大物右翼「先生」の運転手は、猫に「いわし」という名を付けます。名無しではない。しかし、群泳する中から一匹を指さすことすらむずかしい、「いわし」という名。
 名はあるけれど、「他から識別されることを拒否しておきたい名前=いわし」
 
 僕にとっての猫。
 それで気がついたんです。僕には失って困るものがほとんどないことにね。女房とは別れたし、仕事も明日で辞めるつもりです。部屋は借りものだし、家財道具もロクなものはない。財産といえば貯金が二百万ばかりと中古車が一台、それに年取った雄猫が一匹いるだけです。

 「僕」にとって、雄猫一匹は「たったひとつの、失ってはこまる命持つもの」です。
 でも、名無しという特権的な立場から、群れのなかの一匹のような「いわし」という猫には似合わない名が付けらて、僕の手元から引き離されます。
 僕は、たったひとつの失ってはこまる生命体「いわし」を預けて、北海道へ「羊」をさがしに出かけます。

 「名前の無い猫」は、「吾輩猫」から「いわし」まで、「ただ存在している」ゆえに、文学の中に屹立する。

 この「いわしの命名」にまつわる「運転手と僕の会話」は、村上春樹流の文体でさらりと書いていますが、言語論にとって、「言葉と認識」「他者と自己との認識関係と命名論」にとって、とても大きな問題を含んでいます。

<つづく>
00:37

南極猫たけし
2006/11/06 月
文学の中の猫(8)南極猫「たけし」

 ノンフィクションの分野から印象深い「猫」を紹介します。
 西堀栄三郎『南極越冬記』(岩波新書)の中の、南極猫たけしの話。「めざましテレビ」やビートたけし司会の番組でも紹介されたそうです。

 2006年夏、東京科学博物館で行われた南極展。
 小学生と南極とを結ぶテレビ電話「南極なんでも質問コーナー」で、小学生が「南極にペットはいますか」と質問しました。
 南極基地からの回答は、「生態系をこわす心配がわかってからは、動物を南極に持ち込んではいけないことになりました」
 つまり、生態系をこわす心配をしていなかった南極観測初期の時代には、ペットが持ち込まれていました。

 1957(昭和32)年、第1次南極観測隊は、珍しいゆえ吉祥となるだろうと、オスの三毛猫を連れて南極に上陸しました。
 猫の名は「たけし」。第一次観測隊の永田武隊長の名から命名されました。
 いっしょに上陸した犬たちは「犬ぞり」という「仕事をもって」の上陸でしたが、三毛猫タケシの仕事は、「ペット」

 隊員たちは、隊長の名を「こらあ、タケシ!」と猫にむかって叫び立て、まだ装備も十分でない南極での厳しい生活のストレスを解消していました。
 タケシは、昭和基地でいちばん温かい発電造水棟でくらし、隊員たちの単調な生活に潤いを与える存在でした。

 『南極越冬記』には、発電棟でくらしていた「たけし」が、感電して瀕死状態になったエピソードなどが書かれています。

 1958(昭和33)年、たけしは隊員とともに帰国。
 その後、ペットの南極上陸は禁止されたので、たけしは「世界で唯一、南極越冬をした猫」となりました。

 本来なら「有名猫」になっていいところでしたが、カラフト犬タロジロ人気の爆発で、南極タケシの方はちょっとかすんでしまい、「知る人ぞ知る」ぐらいのネームバリューになってしまいました。

 唯一の南極越冬猫なのに、あまり知られていないのは残念。
 渋谷のハチ公くらいに知名度をあげるには、池袋のふくろう、渋谷のハチ公に対抗して、どこかの駅前に猫像を建てたらどうかしら。
 除幕式テープカットは、番組内で南極猫タケシを取り上げたこともあるというビートたけし。

 キャッチコピーは、「厳しい冬の時代を過ごしているあなた、ミィのしっぽなでれば、かならずあったかい世界へ戻れるニャア」
 「恋するふたりがいっしょにシッポをなでれば、ふたりの心が冷えることがあっても、再びホットななかに戻れるニャう」
 御利益まちがいなし。

 南極猫たけしをかわいがった人、村山雅美さんが亡くなった。2006年11月5日午後。88歳
 村山さんは、第1次南極観測隊に参加し昭和基地を建設。第5次隊の隊長。第9次隊では、日本人初の「陸路から南極点到達」を成し遂げて「南極男」と呼ばれた。

 1956年11月8日、第1次隊が宗谷で南極へ向かった日から50年。お台場に繋留展示されている宗谷の船上で、11月8日に「南極観測50周年」記念行事が行われる。

 村山さんは50周年祝賀行事委員会の委員長だったが、記念式典出席はかなわなくなった。
 天で、南極猫たけしやカラフト犬タロジロに会えるといいですね。ご冥福を。

<つづく>
00:32 |

猫町
2006/10/16 月
文学の中の猫(9)猫町

 猫にとって、恋の季節は春。「猫の恋」は、春の季語です。
 春の夜は、恋する猫が鳴き交わす声が、夜空に響きます。

 萩原朔太郎は「二匹のまっくろけの猫」の声を「おわあ、おぎゃあ、おわああ」と表現しています。
 二匹の猫が「なやましいよるのやね」で交わす「おわあ、おぎゃあ」の鳴声、「春に恋を求める猫の擬声語」として、耳の残ります。

「猫」(『月に吠える』1917年より)
まつくろけの猫が二疋、
なやましいよるの家根のうへで、
ぴんとたてた尻尾のさきから、
糸のやうなみかづきがかすんでゐる。
『おわあ、こんばんは』
『おわあ、こんばんは』
『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』
『おわああ、ここの家の主人は病気です』

 「文学の中の猫」,最初に掲げた萩原朔太郎の猫の詩。朔太郎は、ほかにも印象的な猫の詩を残しています。「青猫」「猫町」を引用します。

 萩原朔太郎の詩集『青猫』のタイトルロール『青猫』。
この美しい都會を愛するのはよいことだ
この美しい都會の建築を愛するのはよいことだ
すべてのやさしい女性をもとめるために
すべての高貴な生活をもとめるために
この都にきて賑やかな街路を通るのはよいことだ
街路にそうて立つ櫻の竝木
そこにも無數の雀がさへづつてゐるではないか。

ああ このおほきな都會の夜にねむれるものは
ただ一疋の青い猫のかげだ
かなしい人類の歴史を語る猫のかげだ
われの求めてやまざる幸福の青い影だ。
いかならん影をもとめて
みぞれふる日にもわれは東京を戀しと思ひしに
そこの裏町の壁にさむくもたれてゐる
このひとのごとき乞食はなにの夢を夢みて居るのか。   

 モダニズムの「美しい都會」。夜の底のメランコリーに沈む「われ」
 大きな都会の夜にねむる青い猫の青い影を求め、詩人はみぞれふる裏町の壁にもたれている。
 
さびしい青猫

ここには一疋の青猫が居る。さうして柳は風にふかれ、墓場には月が登つてゐる。

 同じく朔太郎の『猫町』、「散文詩風の小説」と副題がついています。もう、猫だらけの悪夢が描かれます。
 万象が急に静止し、底の知れない沈黙が横たわった。何事か分からなかった。だが次の瞬間には、何人にも想像されない、世にも奇妙な、恐ろしい異変事が現象した。見れば町の街路に充満して、猫の大集団がうようよと歩いているのだ。猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫。どこを見ても猫ばかりだ。そして家々の窓口からは、髭の生えた猫の顔が、額縁の中の絵のようにして、大きく浮き出して現れていた。
 戦慄から、私は殆んど息が止まり、正に昏倒するところであった。これは人間の住む世界でなくて、猫ばかり住んでる町ではないのか 』 

 秋の北陸の温泉地で聞いた「猫神」にとりつかれた人々の口承。その「猫ばかり住んでいる町」が、山で道に迷った詩人の目の前に現前する。猫、猫、猫、猫、、、、

<つづく>
07:08 |

猫の恋
2006/11/17

 現代では、猫は犬と並んで、ペットの最大派閥。犬が1300万匹、猫が1200万匹を超えて飼われています。猫の平均寿命は14〜17年。中には20歳を超えるという猫もいるそうです。

 現代作家、猫好き作家の「猫エッセイ・猫小説」となると、枚挙にいとまもない。

 庄司薫『僕が猫語を話せるわけ』
 金井美恵子『遊興一匹 迷い猫あずかってます』
 笙野頼子『S倉迷妄通信』『愛別外猫雑記』
 村上春樹『猫との旅』『うずまき猫のみつけかた』
 保坂和志 『猫に時間の流れる』
などなど。

 短歌集、その名も寒川猫持の『猫とみれんと』おもしろかった。
「愛だろ、愛」というCMの真似しつつ猫にうるめを焼いているなり

散らかって何が何やらわからぬが猫の手ならば間に合っておる

財布よーし車よーし猫もよーしさあ土曜日だ 猫抱いて寝る

尻舐めた舌でわが口舐める猫 好意謝するに余りあれども

 古代中国で十二種の動物を暦に当てはめて十二支を決めた頃、猫はまだ西方から伝来したばかりで「身近な動物」に選ばれませんでした。でも、現在、猫は人にとって、もっとも身近な動物であることはまちがいないでしょう。

 暦の中には入れなかったけれど、文学の中にはさまざまなシーンに登場しました。
 季語としては春に大活躍。猫の恋、猫の妻、猫の子、いずれも春の季語です。
 
 芭蕉も一茶も、猫を詠んで、一句、ものにしました。
猫の恋止むとき閏の朧月(松尾芭蕉)

なの花にまぶれて来たり猫の恋(小林一茶)

色町や真昼ひそかに猫の恋(永井荷風)

はるかなる地上を駈けぬ猫の恋(石田波郷)

猫の恋 昴は天にのぼりつめ(山口誓子)

 地上を駆け抜けていく「恋する猫」もいれば、天にのぼりつめる昴のような「猫の恋」もある。

 「恋する猫」は文学を生み出す素材ともなるし、猫そのもへの恋しい思いを小説にすることもある。

 谷崎潤一郎は『猫と庄造とふたりのをんな』で、猫への溺愛を描き出しました。
 村上春樹は「僕」にとって唯一失ってはならない存在が猫であることを書いていました。
 笙野頼子にとっては、猫は家族であり、人間以上のパートナー。猫のために引っ越しするのもいといません。

 猫は、日本語言語文化の中でいよいよゴロゴロとのどを鳴らし、ますます「ねうねう」と膝元に甘えかかってくるでしょう。

<おわり>




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