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話しことばの通い路
Workshop for Nipponianippon Communicative Language& Culture StudiesHAL-niwa LOFT
いろいろあらーな 春庭エッセイ2006年3月

2006 姉いもうと
03/05 三人官女
03/06 肩書き社会を泳ぐ
03/07 春やすみひとやすみ
03/13〜16 バンコク凸凹道中
03/22〜30 不登校 新しい門出
03/31 再びスマイルアゲイン

2006/03/05 日
やちまた日記>姉いもうと(1)三人官女

 私は三人姉妹の真ん中で育ちました。

 ひな祭りのころになると、父は私たち三人をまとめて一度に呼びつけるのに「おい、そこの三人官女」と呼ぶので、私は、三人官女というのは「三人姉妹」のことだと思いこんでいました。

 「三人官女」と呼ばれると、たいてい何か用事を言いつけられる。
 「ままごとをしたあとのゴザが庭にだしっぱなしになってるぞ。片づけろ」だの「玄関に靴が散らばっているからきちんと揃えるように」だので、「三人官女!」の呼び声、うれしくありませんでした。
 かたづけは、こどもの頃から大嫌い。

 三人姉妹でわいわい言いながら母と雛人形を飾るのは、毎年の楽しい行事でした。
 飾るときはおおさわぎで人形を出したのに、みな片づけは嫌いだから、一度飾るといつまでも部屋に出したままになっていました。
 近所の人の中には、縁側から部屋をのぞき込んで「いつまでも雛人形をしまわないでいると、嫁に行き遅れるそうだよ」なんて、心配顔で言って来る人もいました。

 でも母は、真ん中の私をさして「ええ、この子はお嫁になんかいかないで、象牙の塔にこもって暮らしたいって言ってます」と笑っていました。
 今は、「学問一筋の世間知らず」を「象牙の塔にこもる」って呼ぶのも死語のようです。
 「象牙の塔にひきこもること」もないまま私の人生終わりそうですが、雛人形の季節になると母と三姉妹のにぎやかなおしゃべりを思い出します。

 三人姉妹それぞれが自分の「雛人形」を大切にしていました。戦後の物不足の時代に、両親祖父母が一体一体、初節句を祝うために探し求めてくれた品物で、全体の統一はない雛たちでした。
 現代の豪華な壇飾りから見たら比べようもない人形でしたが、ガラスのケースに入った舞楽の胡蝶の衣裳の人形も、肩にてんびんを提げた「潮汲み」の人形も大好きでした。

 母が私のことを詠みこんだ俳句。
 「雛納む 縁遠き娘(こ)の細き面」

 母がこの句を詠んだのは、私が10代から20代になるころのことで、母は、私のことを「縁遠き娘」と決めつけていたのでした。
 たぶん、母が生きていたら、私は姉と妹が結婚したあと、母とふたりで「友達母子」になって暮らしただろうと思います。いっしょに吟行したり、ふたり読書会で読んだ本について話し合ったりしたかったなあ。

 「孫の初節句に雛人形をあれこれ探して歩くのは楽しいだろうなあ」と言っていた母でしたが、孫をひとりも見ないうちに55歳で死んでしまいました。
 去年2月に33回忌をすませて、お坊さんから、「33回忌でお寺での法要は終わりです」とお話がありました。

 姉たちが先に家を出てしまい、故郷でお墓を守ることになった妹に「お命日だから、これ、バーチャルお線香」と、「!!」をメールでおくりました。まあ、お線香に見えなくもないと思いながら。

 妹から返信。「何、ボケてんの、お母さんの命日は昨日でした!」
 妹は、私のことを「素っ頓狂でボケボケで忘れん坊で、いつもどっかしら抜けている姉」と思っています。
<つづく>
00:04 |


2006/03/06 月
やちまた日記>姉いもうと(2)肩書き社会を泳ぐ

 今までの経験では、男の人に多かったように思います、人を肩書きで判断する人。
 もちろん、女の人で肩書き優先の人もいますし、男の人で肩書きでは判断しない人もいます。

 自己紹介をするとき、私はたいてい「日本語を教える仕事をしています」と言います。
 そうすると、会社の管理職などの肩書きをもっている人は、「あ、日本語教師ね、日本語を教えるなんて、日本語話せるんだから誰にだってできる仕事じゃないか。春庭、たいしたことない人だな」という顔をして、私を見ます。。
 まあ、私自身がたいしたことないってのは、事実です。

 しかし、他の日本語教師の名誉のために言っておけば、日本語教師の試験「日本語教育能力検定試験」は、毎年7000〜8000人が受験して、合格率は15%程度。かなり難しい試験です。
 言語学・音声学・語彙論・統語論・異文化理解などなどの知識のほか、教授法や教育実践に関する高度な問題が出題され「日本語、話せるから教えられる」ってもんじゃ、ありません。

 自己紹介ではなく、他の人が私を紹介して、「こちら、大学の講師をなさっています」などと言うと、「大学の先生ですか、何を教えていらっしゃるんですか」と、明らかに「日本語教師」より「たいしたことある」みたいな顔でこちらをうかがいます。

 そういう人には「日本語学、日本語教育学などを担当しています」と答えます。すると、「大学で○○学と名のつく授業を受け持っているのなら、ちょっとはガクがある人なんだろう」と思うようで、「日本語教えてます」と言うときと見る目がちがってくるみたいです。

 私の仕事は、留学生に日本語や日本文化を教えることと、日本人学生に、日本語学日本語教育学を教えることです。私にとってはどちらもたいへんではありますが、同じように大切な仕事です。

 しかし、肩書きを大事に考える人にとって、大学で「○○学」を教えることは高級で、「ガイジンにニホンゴを教えること」は、日本語使えるなら誰にもできそうな簡単な仕事と思えるらしいです。

 私の妹が関わっている不登校のためのフリースペースが、NPO法人となったのも、田舎では肩書きで人や組織を見る人が多いから、その対処法という一面もあったと聞きます。
<つづく>
00:22 |


2006/03/07 火
やちまた日記>姉いもうと(3)春やすみひとやすみ

 不登校の子供を集めてさまざまの活動をしていくこと、それを「ただの主婦」がやっているのでは、認めてくれなかった人が、「NPO法人理事」という肩書きのついた名刺を持って交渉すると、扱い方、見る目がちがう。

 そんなのは変だ、肩書きではなく、実際にどんな活動をしているのかが肝心なのに、と思うけれど、田舎では現実問題として「法人理事」の肩書きがものをいうのなら、それを利用していくしかない、そんな気持ちだったと妹は話します。
 妹は「法人理事」の肩書きで市当局と交渉を重ね、「市委託ファミリーサポート事業統括責任者」になって活動しています。

 「はるちゃん、ももちゃん」は、子供のころのままの姉妹ですが、外側からの肩書きをくっつけると「センセとリジ」です。ハハハ!
 川柳に「センセーと呼ばれるほどの馬鹿でなし」という一句がありますね。下の句は「リジと呼ばれるアホも同類」にしましょう。

 モモは、自分の高校卒業式に出席できませんでした。母の葬儀の日だったから。
 姉ふたりがさっさと家を出て東京へ行ってしまったので、妹は父とケンカしながらも同居を続けました。父は一本気の頑固親父でしたから、いろいろたいへんだったことでしょう。

 妹は、磯野家のフグタマスオさん式「名字は夫の姓になったけれど、妻の実家で暮らす婿さん」と結婚しました。頑固親父と婿殿の両方を気遣っての同居生活、当初は「頭に10円ハゲができた」と言っていたので、心身相当きつい時期もあったようです。
 「マスオさん」がとてもよい人柄だったので、家族仲良く、父を看取るまで世話をしてくれました。

 単身赴任が条件という仕事を私が引き受けたとき、幼い娘と息子を半年間預って育ててくれたのも妹夫婦です。
 どんな条件であれ、私が働かなければ一家が食べていくことができない、という窮状をみかねての妹の援助、ほんとうに助かりました。

 息子の保育園おゆうぎ会の衣裳を縫うのがたいへんだった、とか、愚痴をこぼしながらも、半年間「長女高校生次女中学生+小学生の姪保育園児の甥、4人の子持ち」としてすごしてくれました。

 両親が死に姉も早世して、5人家族のうち残されたふたりきりの姉と妹ですから、何かにつけて助け合う、とは言っても、いつも私が助けてもらっているのです。
 妹が地元に残ったので、冠婚葬祭親戚付合いとか、全部モモにおまかせ、妹に感謝感謝の頼りない姉です。

 去年3月に妹モモと「富士山を見るバスハイク」の一日を楽しみました。
 今年は、モモが2月に体調をくずして入院したのが退院できて、「モモちゃん快気祝い」と、私の娘が卒業式をむかえ「はるちゃん、中学不登校から大学卒業まで娘を見守ってお疲れサン会」のふたつを兼ねての「ふたり旅」、ちょっと遠出することになりました。

09:56 |

2006/03/13 月
やちまた日記>姉いもうと(4)凸凹道中

 妹モモとのふたり旅、いつもハプニング、いつも凸凹道中になるコンビですが、今回ほど凸凹が身にしみた旅はありません。
 これまでの二人旅で、ものを無くしたり忘れたり、時間を間違えたりのドジをやらかすのは、圧倒的に私のほうが多かったのですが、今回は、妹がコケました。文字通りコケたのです。

 観光の最初のスポット、一日目の朝の出来事。
 グループからはぐれて、迷子になりやすい私が、またツアー一行に一足遅れたようだと妹は気にしていました。

いつもドジな姉、また迷子かしら、と、私の姿を探してあたりを見回していて、足下の段差に気づかなかったのだ、と妹は言います。
お寺の庭で、境内の敷石がはがれている部分があることがわからず、足を踏み外しました。

 グキッと音がして、左足をひねってしまったのです。すぐに足をかばえばよかったのに、自分のことよりツアーの同行客に迷惑をかけてはいけないと気にして、遅れてはならじと歩いてついていったのが悪かった、と妹の弁。

 グループツアー旅行のとき、他の客に迷惑をかけてはいけないと思ってしまうこと、「団体行動中にグループ全体の動きを邪魔してはいけない」と、叩き込まれた公教育の結果なのかも。

旅行ガイドに「シップ薬をもっていないか」とたずねても、最初は「ええ、薬屋で探してみましょう」と安請け合いしていたのに、そのうち「ここでは、だれもシップなどしないから、薬局へ行っても売っていない」という返事に変わりました。

 怪我をした一人のツアー客の心配をしているよりも、ツアー客を自社の契約おみやげ屋に誘導して買物をさせることが最優先、買物の金額が多いほどコミッション料金がたくさん入るのだ、という現地旅行ガイドの事情はわかるのですが、ツアー客が旅行中に怪我をした場合のマニュアルが何もないようすに、驚きました。

 骨折や外傷などの大きな怪我だったら、即病院へ送り込む、という対応をしたのでしょうが、捻挫で足をひきずっている、という程度の怪我に対して、なんの配慮もありませんでした。
 ツアーの同行客の迷惑にならないよう、痛む足をひきずって、初日はなんとかホテルへ帰りつきました。

 ホテルの部屋にもどって、妹は自分で旅行保険の案内書に書かれていた病院に電話し、とにかく病院へ行くことになりました。
 ガイドに病院へ行く旨を告げ、タクシーを拾って私と妹と病院へ入りました。病院の名前は「バンコク病院」

 旅行保険の病院案内には「日本語が話せる医者がいます」と書いてあったけれど、担当の医師はタイ語なまりの英語を話すだけ。
 日本語を話せるスタッフは「今日手術を受ける患者につきそっている」ため、最初の問診につきあっただけで、いなくなってしまいました。

 レントゲンをとって骨折はしていないとわかりました。
 テーピングしただけで、治療終わり。
 翌日からは、ホテルの車椅子を借りての観光となりました。

 道路のでこぼこ、ひとつひとつが妹の足に、私の腕にひびきました。車椅子を押して歩く私の腕に、小さな段差も大きな問題となりました。

<つづく>
00:03 |

2006/03/14 火
やちまた日記>姉いもうと(5)車椅子で観光

 妹といっしょに5日間滞在したのは「クルンテープ・プラマハーナコーン・アモーンラッタナコーシン・マヒンタラーユッタヤー・マハーディロック・ポップ・ノッパラット・ラーチャタニーブリーロム・ウドムラーチャニウェートマハーサターン・アモーンピマーン・アワターンサティット・サッカタッティヤウィサヌカムプラシット」という、落語のジュゲムみたいにやたら長い名前の町です。

 この長い正式名称を持つ都市、日本語通称は「バンコク」(タイ語通称:クルンテープ・マハーナコーン 英語名:Bangkok)
 こんな長い名前をもった町だったこと、はじめて知りました。
 たった5日の旅と思ったのですが、観光2日目から車椅子を押しての道中となりました。

 経済発展がめざましい町、バンコク。ホテルの窓から見渡せる正面だけで、5棟の高層ビルが建設中です。
 近代建築と伝統ある寺が並び建ち、壮麗な王宮と線路脇のスラム街の両方が見える町。

 歴史のある町、花が咲き乱れる町。まもなく選挙のやりなおしがあるという政治のゆれている国。
 国王在位60周年を祝う祝賀ムードにあふれた町でしたが、車椅子にはあまり動きやすくない町でした。
 どこへ出かけても段差、凸凹。

 遠慮して「ホテルの中で待っている」という妹に「私が押すから大丈夫」と、一応観光バスにはいっしょに乗ったのですが、二日目、妹は観光バスの中でじっと待っているほうが多く、ほとんど車椅子での観光はできませんでした。

 平らなところは私が押して、段差のところは一度立ち上がって段差を自分で上がり、私が車椅子を押し上げて、再び椅子に座る、そういう手順で移動したところもあるのですが、どうしても行動が遅くなります。

 「大丈夫ですか」と気づかってくれる人もいるのだけれど、ちょっとでも集合に遅れたりすると、妹にとっては気持ちの負担になってしまいます。

 アユタヤの王室離宮バンパイン宮殿には、ゴルフ場をまわるときのと同じカートが用意されていて、400バーツ約1200円で借りることができたので、これに乗車して園内を一周できました。
 しかし、アユタヤ遺跡の中などは、段差や石が多いので、バスの中で待機。

 車椅子を押して歩く中、妹にも私にも「介護される者とする者の旅」についてさまざまなことを考えさせられました。
 バンコクのホテルなどにはエレベーターやスロープがあったけれど、ほとんどの場所でまだ設備が十分でなく、車椅子の観光には相当な負担がかかること、同行者に知識や体力がないと、介護する側される側双方が疲れます。

 たとえば、レストランに入るとき。入り口段差にスロープ板が置いてあっても、その角度が急で、私には押し上げることが無理なこともありました。

 妹は捻挫であって、まったく動けないわけではないので、段差の場所だけ降りて、自分で中に入ることもできましたが、もし本当に足にハンディキャップがある人ならば、そのレストランに入ることをあきらめることになってしまいます。
<つづく>
00:01 |

ぽかぽか春庭「外出サポート」
2006/03/15 水
やちまた日記>姉いもうと(6)外出サポート

 車椅子での海外旅行を計画していたウェブ友が、「結局今回はあきらめることにした」と書いていたのを読んで、「なんとか旅行できるようにならないものか」と、思っていました。

 視覚障害者の外出ヘルプをボランティアで行ってきた経験から、サポートさえあれば、車椅子の海外旅行も不可能ではないと考えたからです。

 今回の経験で、事前に十分なリサーチを行い、介護者の訓練、旅行先受け入れ側との連絡などを綿密に行わないと、様々な問題が起きることがわかりました。逆にいうと、そういうサポートをしていけば、車椅子での海外旅行も無理なことではありません。

 現在の海外事情では、北欧などの福祉先進国へ行く場合なら、なんとかなりそうですが、それ以外の地域へ旅行することは、相当たいへんなことだと思います。バリアフリーをすすめて、ひとつひとつ解決していかなければならないことが、まだ山積みです。

 福祉タクシーの活動をしているi*****さんからコメントをいただきました。ありがとうございます。
「 こんにちは、春庭さんの日記を覗いて思わずコメントしました。何故かって?
 現在、私は身体に何らかの障がいを持った方たちの外出支援活動を行なっているからです。
 国内でも色んな障害がありますよ。車椅子利用者にとっては。
投稿者:i***** (2006 3/14 14:49)

 妹は、ファミリーサポート事業をすすめるときの県の講習会などで、福祉・バリアフリーのことをよく勉強してきて「ハンディをもつ人の視線で見る、ハンディを持つ人の立場にたつ」ということを心がけている人です。

 また「介護体験」などで、自分の体に重しをつけて車椅子に乗ってみる体験などをしてきたのだけれど、やはり自分が介護される側に回ったときの気持ちなどは、体験だけではわからないものだ、ということなどが身に染みたといいます。

 あまり観光はできなかったけど、妹も私も、「バリアフリー旅行に何が必要か」を身を持って体験できたという点で、ふたりとも「有意義な時間をもてた」と、感じることができました。

 「障害者の施設を作っても、利用者も少なく儲からない」という理由で、障害者用の設備を駐車場などに変えて、問題となった東横イン。
 「利用者がない」のではありません。「旅行したくても、設備が整っていないところが多くて、旅行できない状態」だから、でかけることが難しいのです。

 もっと各地のバリアフリー化が進んでいけば、旅行したいと望んでいる人はたくさんいることでしょう。
<つづく>

00:02 |

2006/03/16 木
やちまた日記>姉いもうと(7)ゴールデンシャワー

 今年2月に、ある障害者団体が主催した「落語と放送禁止用語の問題を考える」という差別用語を取り扱ったイベントにでかけました。全盲の友人がさそってくれたのです。

 イベントの趣旨は、(1)「めくら、つんぼ」などがNHKなどの放送禁止用語に指定されたために、障害者を主人公にした落語が上演できない(2)差別用語を一律にただ禁止するだけでは、障害者の存在を隠そうとすることにしかなっておらず、結局のところ、障害を持つ者の福祉に役立たない、ということを訴える催しでした。

 このとき、「視覚聴覚障害者と身体障害者の、観劇・音楽鑑賞などの外出に関するアンケート」をとるお手伝いをしました。
 ある車椅子利用者は、「今日のような催しなら、確実に障害者用のトイレがあるとわかるから出かけてきた。
 でも、すべての施設の情報を事前に手に入れることはむずかしいし、万が一の不自由を考えると、めったに家からでることはない。介護料金の一割負担もあり、家事補助ヘルパーさん優先で頼まなければならないので、外出補助のヘルパーさんを頼む余裕はない」
と、話していました。

 旅行も観劇も、「利用者がない」のではありません。出かけることが難しい状態だから、家から出られないのです。
 日本国内だけでなく、世界中のハンディを持つ人々が不自由なく外出できるようになる日を待ち望んでいます。

 今回、「ノーマライゼーション」という呼び声とは裏腹な現実を知る旅となりました。
 もともと車椅子の人が同行するとは思っていなかった寄せ集め団体なのだから、仕方が無いことなのかも知れませんが、同行ツアー客から「たいへんですね」と声をかけられると、それが「無理して同行しなければいいのに」というふうに聞こえてしまう、というひねくれた感情もおきてしまうほどでした。

 私は視覚障害の人とのおつきあいは長くなってきたのですが、身体障害の友人は多くなくて、頭で考えるノーマライゼーションと、自分の体で受け止めるバリアフリーのギャップについても、たくさんのことを考えてみることができました。
 「駆け足でついていくことが出来ない旅」をしたことが、私にも妹にも、よい経験になりました。

 バンコクの町には、ゴールデンシャワーと呼ばれる黄色い藤のような花房が美しく咲き誇っていました。正式名はタイ国花「ラーチャ・プルック(王の樹)」です。
 何事もなければ、ブーゲンビリアやゴールデンシャワーが、町中に咲き誇っている中を、エメラルド寺院、黄金寺院などをめぐって、駆け足ツアーについて歩く観光になったことでしょう。

 富裕層の優雅な暮らしと、スラム街の混沌のエネルギーと、バンコクイセタン前の歩道橋脇にいた物乞いが、同時に存在する町。
 ゴールデンシャワーの、南国の花らしい明るい黄色が映える町。

 黄金の恵みが、すべての人に慈雨のシャワーとなって降り注ぐ日がくることを願って、この国をあとにしました。

<姉いもうと 終わり>
00:07 |

2006/03/22 水
やちまた日記>不登校(1)ひつじの例

 足を捻挫した妹モモの車椅子を押して歩いたバンコクのホテル。
 妹はホテルの外に出てのショッピングも観光もままならず、旅行前に機種変更した国際電話にも使えるケータイでメールをして「国際電話だと、料金が高い」と言いつつ、「ほら、見て。添付で写真が届いた」と、孫の画像を見ていました。

 「足の具合どうですか?」と、声をかけてくるツアー同行客にまで「ええ、まだ痛いんですよ。でも、これ見て。孫なんです」なんて、見せていました。
 つかまり立ちをはじめた孫の写真を見ていると、足の痛みを忘れられたのかもしれません。

 湊太くん。2005年の8月「いろいろあらーな」で紹介した、妹「モモ」の次女ひつじの息子。私は大伯母さん。

 湊太の母親「ヒツジ」は美術を専攻し、大学4年間は京都ですごしました。学生時代にご縁があって卒業後すぐに結婚し、去年待望のベビーをさずかりました。体が丈夫でないけれど、いっしょうけんめい子育てをしています。 
 
 ヒツジは、高校に入学する前は、中学校の後半2年近くを不登校ですごした子でした。
 体が弱かったひつじ、生理痛が激しくて、中学校水泳授業のある日、見学希望を出しました。担当の体育教師は「女性の生理なんてのは、病気じゃない。生理でプールに入れないなら、校庭を10周走れ」と命じました。

 腹痛を抑えて校庭を走りだしたヒツジ、何周かしたあと気分が悪くなり、校庭で吐いてしまいました。いっしょに走っていたプール不参加の生徒が、担当教師に知らせると「よーし、吐いたものを自分で片づけること」と命じただけだったそうです。
 自分で吐いたものを始末したあと、ヒツジはふらふらになって保健室へ行きました。
 翌日から学校へは行かなくなりました。

 この体育授業見学は、きっかけだったにすぎません。このプール授業以前に、ヒツジは体育教師からいつも目の敵にされ、つらい仕打ちを受けていたのです。

 ヒツジは、学年トップの成績をとっていました。しかし、体が弱くて体育授業が好きではなかったので、他の科目の成績がよければよいほど、体育教師からは目のかたきにされて、たびたびつらい目にあっていました。
 体育会系教師が教育委員会でも幅をきかせている田舎。体育会系教師の体罰などを見て見ぬふりしているだけの学校側に、ヒツジは絶望していました。

 「せんせー、うちの坊主が言うこときかなかったら、びしびしなぐってやってかまいませんから」と親が自分から言出すような土地柄です。
 先生の仕打ちを訴えても「そんなことくらいで、学校を休むなんてわがままな生徒」としか見てもらえない。学校が絶対という周囲の反応でした。

 ヒツジは1年半、フリースクールですごしました。車で1時間のところにある山麓のスクールまで、母親のモモが毎日送り迎えをしました。
 ヒツジが県立単位制高校へ入学したあと、妹モモは、仲間とともに地元で不登校の子どものためのフリースペースの運営をはじめました。
<つづく>
00:06 |


2006/03/23 木
やちまた日記>不登校(2)フリースペース

 妹「モモ」が理事をしているNPO法人フリースペース。
 文部科学省の方針変換で、フリースクール、フリースペースなどに定期的に通っていれば、それを小中学校の出席として認めるようになっています。(児童生徒からの要請を受けて各校校長と教育委員会が認定)

 私は通信会員になっているので、フリースペースの会報を送付してもらっています。
 昨年最終号(2005年12月号)には、1年間の活動に対して、さまざまな人の感想が載っていました。

 フリースペースにはいろんな活動が用意されています。
 親子で、陶芸、ペーパークラフト、音楽バンド、絵画、パソコン、園芸、ハイキングなどさまざまな活動をしている中、パソコンを覚えはじめた人の感想や、琴を楽しんでいる人の感想文がありました。
 
 「いろいろあらーな2006/01/04 琴をひきます」に、私の亡き姉の形見の琴がフリースクールに寄付されていること、スクールですごす子どもや親達が琴をひいて楽しんでいることを書きました。
 姉がひいた琴、姉亡きあとも、こうしてさまざまな人の手で弾いてもらって、役にたっています。

「お琴の教室」に参加している親の手記
 『 私がここでお琴を習うようになったのは、2年前から。団地のお祭り準備をしているとき、お琴の話を聞き「私もみんなといっしょにやってみようかな?」そんな簡単な気持ちで始めました。
 最初は無我夢中で、手を動かすたびにとても緊張しました。何かをやり始める時って大変ですよね?それでも、ひとつひとつ曲がおわるたびに嬉しくて、早く上手になりたいななんて思うんですよ。
 みんなが家に集まるお正月の時などに、聴いてもらっているんですよ。』

「パソコン教室」に参加している親の手記
 『 月に2回、てつ先生からパソコンを教えていただいています。自分が必要だと思うことを教えていただけるので、具体的ですぐ仕事に使えて助かります。生徒さんの目的はさまざまで、海外で暮らす息子さんとメールする方、奥様に頼まれた年賀状をツールを駆使して作る方、隣組の世話役になりお知らせを配る方、それぞれに合わせて教わっています。』

 『 パソコン、教えていただいています。お知らせや案内状、手紙、それらを自分でつくれればいいな、子どもとメールのやりとりがしたいな、そう思ってパソコンを始めました。息子がアメリカの学校に行ったのですが、今息子からのメールを見るのが楽しみなんですよ。』

 パソコン教室のてつ先生は、妹モモの連れ合い。ボランティア先生です。
 モモは、手芸教室の感想を書いています。モモ手作りの和風キルトバッグ、私もひとつもらいました。
<つづく>
00:09 |


2006/03/24 金
やちまた日記>不登校(3)フリースペースでフリーな心を!

 不登校になった子は、どうしても家の中部屋の中にひきこもりがちになります。
 好きなことが見つからないで引きこもっている子どもがいるとしても、心配しないで。親が好きなことに打ち込んでいましょう。

 フリースペースは、子どもの居場所であると同時に、落ち込んでしまう親の心の拠り所でもあります。

 親が、価値観の転換を果たす場ともなるのがフリースペース。
 「よい高校へ入り一流大学へ進学、一流会社に入社して将来の安定を得る」「世間から認められるような地位を獲得する」「人様に話して恥ずかしくないような仕事をさせたい」などなどの価値観で固まっていて、子どもがこの「理想のコース」からはずれてしまったことをひたすら嘆いていた人も、しだいにほぐれてくるのです。

 子どものためのフリースペースですが、子どもが外に出たがらない場合でも、モモたちは、親にフリースペースですごすようにオススメしています。
 親が、琴の演奏でもパソコンでも、園芸やハイキング、なんでもいいから好きなことをみつけて、楽しい時間をすごすようになると、不思議なもので、親の心楽しさが必ず子どもの心を揺り動かすのです。

 親の会で愚痴をこぼし合ったり、手芸や陶芸、音楽演奏などを楽しむ余裕がでて、親の心が解放されてくると、沈みがちだった子どもの心も自然と落ち着いてきます。
 子どもも心配ではあるけれど、まずは親が楽しく充実して毎日の生活をすごすこと。これがフリースペースの方針です。

 「いろんな生き方があり、いろんな人生がある、それでいいじゃないか」そんなふうに心を解放するところを得ると、親も子も生き生きしてきます。
 「もう一度学校へ行ってみよう」と思う子もいるし、「学校以外の場で自分を生かそう」と思う子もいる。いろんな子のいろんな未来があっていいのです。

 どの子の未来も、どんな思いもつぶさない世の中であってほしい。

<つづく>
00:01 |

2006/03/25 土
やちまた日記>不登校(4)私の娘の例

 モモたちのフリースペースは、活動を10年続けて、NPO法人となりました。
 市の委託を受けた不登校児受け入れ事業や、ファミリーサポート事業を行うまでに発展してきたのです。

 モモはNPOの理事となり、ファミリーサポート事業を軌道にのせるまでがんばりました。
 運営がうまく走り出した現在、モモは活動の場を他のメンバーにゆずり、今は充電中。入院して持病の調整をしたり、旅行にでたり旅行先で捻挫したり。捻挫して歩きにくいのを理由に、重い腰を下ろしたままデンとしています。

 モモの次女ヒツジが不登校になったころ、田舎の町では「不登校なんて、とんでもない。学校へ行かない子は心の病気だから、精神病院へ入れてしまえ」という程度の認識で、周囲からの圧力も大きいものでした。

 「学校へ行かない子=不良」と思いこんでいたある市会議員が「フリースペースってのは、不良のたまり場になってしまうんじゃないか」と発言したくらい、周囲に理解がなかった時期のことです。

 ヒツジは絵が好きで、県立単位制高校へ進学して美術クラブに所属しました。楽しんで絵を描いていればいいのであって、大学へ進むかどうかは決めかねていました。

 大学進学を決めたのは、「美術を本格的に学びたい」という希望とともに、「不登校の子どもたちがいわれのない圧力を受けている田舎で、不登校であったとしても、大学進学に何ら問題ない」ということを示したい、という気持ちも働いたようです。

 「子どもが名の知れた大学に進学することが、親の自慢のタネ」という田舎の風潮を逆手にとったのです。

 実際、ヒツジが有名大学への推薦入学を果たしたことで、「不登校になったら人生おわり。親の恥」という見方しかしていなかった田舎で、周囲の見方が変わってきました。
 田舎でも「不登校」への理解がすこしずつ広がってきたのです。

 ヒツジがフリースクールから県立単位制高校に入学してほっとしたのもつかのま、今度は私の娘が中学校不登校となりました。
 私の娘が不登校になった経緯については、何度も書いてきました。

 中学校生徒会長となった娘が、いっしょうけんめいやろうとすればするほど、生徒指導主事の教師の生徒管理方針と合わなくなり、「生徒はすみずみまで管理し支配すべし」という方針の教師から憎まれる結果になったのでした。

 その教師から陰湿ないじめを受け、入院するまでに精神的に追いつめられました。ストレスから胃炎になったのだという診断でした。今から10年前のこと。

 入院当時、娘は学校でのトラブルを誰にも言いませんでした。
 「自分で生徒会長を引き受けると決めたのだから、誰のせいでもない。どんなことも自分の胸のなかだけに納めよう」と決意していたのでした。

 娘が教師からのイジメを打ち明けたのは、高校2年の夏休みになってからのこと。
 夏休みにこの教師のふるまいをしかと見届けた娘が「この教師は、生徒のことを少しも大事にしていない。保身と自分の出世だけが目的の教師だ」と、得心したあとでした。

 娘が入院先の病院で何もいわなかった当時、なぜ学校へ行けなくなるほど落ち込んでしまったのか、原因もわからず、母親として悩み苦しみました。
 娘が入院した病院の担当医は、「母親が教師なんかしていると、いろんな抑圧も生じて子どもは不登校になりやすいんですよ」と私に言いました。

 「不登校は、母親のせいだ」と医者から言われた私は自分を責め、どん底からはい上がれないと思う毎日でした。

<つづく>
00:01 |

2006/03/26 日
やちまた日記>不登校(5)さまざまな学びの場

 なぜ、学校へいけないのか、私のせいなのか、いくら思い詰めても、堂々めぐりをするだけで、解答はありません。

 私は、娘が小学生のとき、幼い息子とともに実家に預けて、単身赴任の仕事で外国へ行ってしまった母親でした。
 私が働かなければ食べていけないのだ、という事情を知らない周囲から「子どもを捨てて仕事を選んだ鬼母」と言われたこともあったのですから、母親が原因だと言われれば、それを否定することはできませんでした。

 しかし、私には、心の支えがありました。
 ヒツジが中学校不登校であっても、県立高校へ進学していること、近所に不登校の子どものためのフリースクール「東京シューレ」があったことです。

 娘は「フリースクールに行くのもいや」と言って行きませんでしたが、私は「東京シューレ親の会」に入会し、さまざまな親の話を聞いて、落ち込んでいた心も強くしていけました。

 専業主婦の母親は「お母さんが外に出ていないで、家の中にだけ、子どものことだけに心を向けているから、子どもは発散することができずに不登校になったんですよ」と言われたそうです。
 な〜んだ、と思いました。私は「母親が外に働きに出ているから娘は不登校になるんですよ」と、言われたのに、専業主婦は専業主婦で責められている。母親が働いていても専業主婦でも、どっちにしろ親のせいだと言われるんじゃないの!ってことは、母親がどんな状態であっても、なるときは不登校になる。

 東京シューレ講演会でいろんな人の話を聞くことができたこと、大きな支えでした。

 エッセイスト久田恵の息子稲泉連は、高校1年で中退した。大検(大学入学試験受験資格検定試験)に合格し、早稲田大学に入学。講演は連が大学1年生のころだった。
 その後、稲泉連は「大宅壮一賞」を受賞し、ノンフィクションライターとして一人前になっている。
 椎名誠の息子の岳。小学校時代から落ちこぼれと言われ、中学校では英語など零点続きだったが、アメリカの大学に進み英語もペラペラになった。

 平田オリザ。中学校卒業後、高校へは進学せず、自転車で世界一周の旅にでる。帰国後大検に合格。上智大学へ進学、卒業。劇団青年団主宰者。今は桜美林大学の先生として、演劇指導を行っている。

 羽仁未央。メディアプロデューサー。小学校時代から学校教育を拒否。父の映画監督羽仁進、母の女優左幸子らから、影響を受けつつ自学自習。
 祖母羽仁節子(社会運動家)、祖父羽仁五郎(歴史学者)という一家だから、学校教育など目じゃないってこともあるが、学びたいことがあるなら、学校教育は受けなくても、十分学べるし社会性も身につく、という未央のことば、力強かった。

 小学校中学校高校大学と一直線に進まなくても、人はさまざまな場で学ぶことができるし、曲がり道だろうと、行きつ戻りつだろうと、いろんな道があるのだ、どんな道でもいいのだ、ということ。
 不登校になった娘の将来を心配する母親にとっては、ひとつひとつのことばが身にしみ、不安を取り除いていきました。

 学校は、行きたい人は通えばいいし、行かなくても学びの場はあり、自分を育てていく場は、どこであってもよいのです。

<つづく>

00:31 |

2006/03/27 月
やちまた日記>不登校(6)単位制高校生活

 私の娘が都立単位制高校に入学した4月、ヒツジは学校推薦入試に合格して、京都にある大学の美術学部へ進学しました。
 娘は、「がちがちの受験勉強一本の高校生活をおくる必要はない、推薦入学っていう手がある」と、受験勉強いっさいなしの高校生活をおくりました。

 自分でとりたいものを選択する授業も、部活動の水泳部も生徒会活動も、自由な校風のなかでのびのびすごすことができました。制服もなし。
 単位制高校は、英数国などの基礎科目の必修のほか、自分の好きな科目や興味を持った科目を自主的に組み合わせて単位を取得していきます。

 必修単位のほかは、自分でとりたい単位を決めて時間割を自分で決めるのです。娘は情報科だったので、ワープロやコンピュータ科目が必修でした。卒業までにワープロ検定や情報処理検定に合格しました。

 朝が苦手な娘は、1限目はパス。朝10時半からの授業、午後の授業、区の生涯教育共通科目(区民教室)などの授業も合わせて選択しました。
 夜10時までの授業の中から、取りたい科目を組み合わせて、3年間で高校卒業単位を取得しました。(単位制なので、6年間在籍できる。6年がかりで卒業したクラスメートもいました)

 娘の授業選択。
 他科である工業科の科目の中から「工芸」を選択し、ハンダごてを使いこなして工芸作品をつくりあげました。ライトをつけると、プラネタリウムのようにシェードから星座の形にヒカリがあふれるランプシェード、見事な作品に仕上がりました。

 家庭科被服の授業では、洋服や手芸小物をたくさん作りました。今でも娘は時間があれば、自分の服を手作りしています。

 苦手な理数科目。娘の高校化学の成績、五段階評価の「5」です。なぜって、お菓子作りが大好きだから。
 「お菓子と化学」という東京都の生涯教育との共通科目を履修して、お菓子づくりをしながら化学の単位を取得しました。

 クラブ活動生徒会活動でも自分なりに活動を続け、受験向けの「入試科目の試験勉強」をまったくやりませんでした。

<つづく>
00:01 |

2006/03/28 火
やちまた日記>不登校(7)大学卒業式

 受験勉強いっさいなしだった我が娘、高校3年間の活動を評価してもらう自己推薦入試に応募しました。
 娘は、「下宿をさせてやれない親のふところ事情」を知っていて、学校選択第一条件は、「自宅から30分以内で通える大学」でした。山の手線内の大学の中から、自己推薦入試をしている学校を探しました。希望学科は、「生涯教育」についてか、「自然地理学」を学べるところ。

 通知票五段階評価、3年間の全科目平均評定4・0以上という応募条件をクリアし、水泳部都大会での活躍、ワープロ検定合格、情報処理検定合格(エクセルなどのソフト活用)、情報処理能力検定合格(プログラミング基礎)などを自己推薦理由に、応募書類を書き上げました。
 書類審査を通過し、小論文試験に挑戦して、志望校に合格することができました。

 4年前の春、創立120周年を前年に祝った大学の、121年目の新入生となりました。
 初年度の入学金と授業料は親が出しましたが、育英会奨学金と大学内奨学金の両方を受けて、4年間の学費ほかの必要経費すべてを、奨学金でまかないました。

 沖縄県での児童館実習にかかった費用、卒業記念に友達とトルコ一周ツアーに出かけた費用まで含めて親の金は使わずに卒業へこぎつけました。(倒産寸前借金会社自営の父親には、出してやれるお金は一円もなし。これから奨学金返還は、本人が20年がかりで行う)

 娘はこの冬休み、卒業論文にかかりきりでした。
 秋の台風シーズン、卒論研究のために島に渡ったのに、台風で欠航になりそうなため、調査もそこそこに帰り支度。やり残した地質調査のために再び島へ。
 そんな苦労を重ねながら、調査もなんとかまとまり、卒論提出日の前日、徹夜で仕上げててなんとか提出することができました。

 学部卒業単位を得たほか、中学社会科教員免許、高校地理公民教員免許、司書教諭、図書館司書、社会指導主事、5つの資格を得ての卒業となりました。
 一般学生の2倍の単位数をとってのこと。よくがんばったと思います。

 日曜日、3月26日、姑といっしょに卒業式に出席しました。
 袴姿の娘。袴とコーラルピンクの色無地着物は、姑から孫へのプレゼント。髪飾りはモモから。佐賀錦バッグと編み上げブーツは私から。
 娘に言わせると、「自前で買った衣裳のなかで、今回が一番高額コーディネートだなあ」成人式は借し衣裳だったので。
 おめでとうの真心をいっぱいに受けて、娘は卒業式へ向いました。
 
 桜サク!北の丸公園。綻びはじめた桜がお堀の水にうつっています。枝によっては三分咲き五分咲きになっていて、桜を背景に記念写真をとる振り袖姿、袴姿の華やかな女子学生たちがさざめいています。
 お堀端を、姑と娘と三人でゆっくり歩きました。
<つづく>
02:58 |

2006/03/29 水
やちまた日記>不登校(8)新しい門へ

 皇居のお堀と桜を見ながら、81歳の姑は感慨深そうに、自分の女学校時代の思い出を語りました。
 父親が若くして病死したため、姑は女手ひとつで育てられました。姑の母親は田舎で理髪の技術を身につけ、姑の兄と姉、3人の子を育てあげました。

 姑の兄は農学校から師範学校へ。姉は女学校から女子師範学校へ。母親が懸命に働いて、姑も女学校へ通わせてもらったのですが、他の人が絹の着物を着たり、田舎では「ハイカラ」だったセーラー服を着て通学する中、木綿の着物でとおしたそうです。

 姑の兄と姉は師範学校を卒業して教員になったけれど、末っ子の姑が女学校を卒業したときはすでに戦争中で、進学する余裕はなかったことなど、姑は思い出話として繰り返して語るのです。

 進学できないまま結婚し、銀行員の夫に従って上京した姑は、本当はもっと勉強をつづけたいという思いを持っていたのかもしれません。
 私が、2歳の娘を保育園に預けて大学に再入学したときも、娘と息子を自分の実家に預けて単身赴任し中国の大学で教える、と決めたときも、まったく反対などせず応援してくれた姑でした。

 姑は、孫娘が中学高校の教員免許を取得したこと、4月からは小学校教員免許取得のために他大学に学士入学して勉学を続ける、という進路決定を聞くと、「がんばってね」と励ましてくれました。

 姑と私と娘、三代がいっしょに歩き、田安門をくぐりました。
 門をくぐりながら、四十余年前の小学校卒業式で、私が「卒業のことば」を述べたことを思い出しました。タイトルは「第二の門」

 「誕生の日、人生の第一の門をくぐって、私たちはこの世界に生を受けました。今、子ども時代を終え大人への第一歩を踏み出すために、第二の門をくぐろうとしています」というような作文を書いて、卒業式に読み上げたのでした。
 娘にとっては、何度目の人生節目の門をくぐることになるのでしょうか。

 中学2年生秋から不登校だったため、中学校での卒業式は欠席。娘は校長室に出向き、「ひとり卒業式」で卒業証書を受け取りました。
 高校卒業式では「優秀賞」の表彰を受けました。
 2006年3月26日は8000人の全学卒業生のなかの一人。
 広いアリーナ席にすわる娘の姿を3階の保護者席から探すのもたいへんでしたが、友達とうれしそうにおしゃべりしながら開会を待つ姿を見つけることができました。
 
 これまで娘を支えてくれた全ての人に、「どうもありがとうございました」と、申し上げます。ほんとうに、感謝の気持ちでいっぱいです。
<つづく>

00:21 |

2006/03/30 木
やちまた日記>不登校(9)それぞれの進路

 昔に比べれば、フリースクールも各地にふえ、文部科学省の「不登校児童生徒への取り組み」も、劇的な変化をとげました。不登校になっても、心配しない親も増えてきました。

 しかし、それでも我が子のこととなると、不安もあるし、落ち込むこともある。
 私が娘の不登校について、たびたび書くのは、今この時間にも、子どもが不登校になったことを心配し、不安になっている親がまだまだいると思うから。

 私が落ち込んだとき、ヒツジの例や東京シューレでのびのびした学びを得ている子どもたちを見て、「大丈夫、きっと道は見つかる」と思って不安を鎮めることができたように、私の娘の例も、誰かにとって、参考のひとつになるかもしれないと思います。

 中学校の後半1年半を、フリースクールにさえ行きたくないと言って昼夜逆転で毎日テレビゲームとお菓子作りだけですごしていた娘が、大学卒業までこぎつけたのです。

 もし、今お子さんが不登校になっているという親御さんがいて、心配なさっているとしたら、「子どもの成長は一律でなくていいんです、いろんな育ち方いろんな成長の仕方があっていい」と、お伝えします。

 不登校の時代をすごした子が、自分なりに歩んできた例がここにもあることをお知らせして、「大丈夫、学校へ行かなくても、いろんな道がある。高校へいかなくても、大学へいかなくても、学びの道はたくさんあるし、自分の道を切り開く方法は、さまざまにある」と、言いたいです。

 娘はたまたま「中学校不登校、単位制高校から自己推薦入学で大学へ」というコースになりましたが、高校卒業資格認定試験を受けてもいいし、好きなことがあるならばそれを生かした技術を身につける、という方法もあります。

 2005年から、高校卒業資格認定試験(以前の大検)は、高等学校全日制普通科在学中生徒も受験できるようになりました。
 中卒、高校中退、高校在学中、だれでも何歳でも受験できます。ただし、15歳で合格したとしても、高校卒業資格が正式のものとなるのは、満18歳をすぎてから。

 「何がなんでも学校へ」とか、「せめて高校くらいは卒業してもらいたい」とか「今の時代、大学を出ておかないと」などと、親が不安になることはありません。
 また、「せっかく入った学校なのに、卒業までこぎつけることができなくて」と言う場合も、そういうこともあるさ、とデンとかまえていましょう。

 なにかひとつのことをはじめて、うまくいかなくて、また別の道をさがしはじめる、、、いいじゃありませんか、試行錯誤も人生のうち。
 私は転職13回です。何をやっても挫折ばかり、自信を失うことばかりでしたが、今は試行錯誤も全部自分のためになっていると思えます。

 いろんな道をさがして、いちばん子どもが生き生きできる居場所をつくり、あたたかい目とやさしい胸で受け止めてやってくださいね。

 だいじょうぶ、心配しないで。きっと道はひらけます。
<おわり>
00:15 |


2006/03/31 金
やちまた日記>もう一度「スマイル・アゲイン」

 上野の東京都美術館で三軌展を見ました。
 ウェブ友びるまさんの作品が展示されています。
 公募展第4スペースの1階絵画工芸の部に『Smile Again』がありました。

 『Smile Again』100号の大きさの絹地に、白と青灰色、紫紺などの色がかさなりあい、曲線がさまざまに交差する美しいフォルムが染め出されています。

 画面の左下には、黄色の蘂を中に持つ紫紺の花がいくつも咲いています。画面の上方は、遠く針葉樹(と、私には見えた)の木々が連なっています。木々の上下には、空とも水辺とも思える白と青の空間が広がっています。
 
 「人の心の悲しみと苦しみを突き抜けた沈静」という感じの色あいが、しみ通るように広がっています。
 神はなぜ、私にこのような試練を負わせるのか、私だけにこのような苦しみを味わえと言うのか、そんな気持ちになったことがある人なら、その悲しみや苦しみを負うてのち、もう一度微笑もうとする心をわかってくれることでしょう。

 その静かなほほえみへ向かう心に咲く花が、今、目の前の絹地に花びらをゆらしているのです。Smile Again 、生きていこう。もう一度ほほえんで。

優しい言葉なんて/役に立たないことがあるよね
自分だけで戦わなくちゃ/いけない時があるよね
辛いこと乗り越えて/いつか見えてくるものがあるよ
そしたらあなたは今より/きっとすてきになってる
明日になって/空が晴れたら/自分を好きになって/また歩き始めようよ
Smile Again  Smile Again   (作詩:中山 真理)

 今日の上野公園、花冷えの風が通り抜けていきます。
 桜をめでつつ並木の下をそぞろ歩く人も、夜の宴会のために早々とビニールシートを敷いて場所取りをしている人も、ちょっと寒そうです。
 風のなか、私はまた歩きはじめます。Smile Again Smile Again 。
00:16 |



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