Workshop for Nipponianippon Communicative Language& Culture Studies
| 2004日付 |
タイトル |
監督 |
主演 |
| 01/02 |
フリーダ |
ジュリー・テイモア |
サルマ・ハエック |
| 01/02 |
向田邦子の恋 |
|
山口智子 |
| 01/26 |
デブラ・ウィンガーを探して |
ロザンナ・アークェット |
|
| 01/26 |
アダプテーション |
スパイク・ジョーンズ |
ニコラス・ケイジ
メリル・ストリープ |
| 02/12 |
マグダレンの祈り |
ピーター・ミュラン |
ジェーン・ヌーン
マリー・ダフ |
| 02/12 |
くじらの島の少女 |
ニキ・カーロ |
ケイシャ・キャッスル ラウィリ・バラテーン |
| 02/15 |
永遠のマリアカラス |
フランコ・ゼフィレッリ |
ファニー・アルダン |
| 03/18 |
ホテル・ハイビスカス |
中江裕司 |
蔵下穂波 照屋政雄 |
| 03/18 |
阿修羅のごとく |
森田芳光 |
大竹しのぶ |
| 04/03 |
砦なき者 |
|
役所広司 妻夫木聡 |
| 05/01 |
ロードオブザリング王の帰還 |
ピーター・ジャクソン |
イライジャ・ウッド |
| 05/02 |
インアメリカ |
ジム・シェリダン |
サマンサ・モートン |
| 05/02 |
ぼくの好きな先生 |
ニコラ・フィリベール |
ジョルジュ・ロペス先生 |
| 06/01 |
ジョゼと虎と魚たち |
犬童一心 |
池内千鶴 妻夫木聡 |
| 06/01 |
解夏 |
磯村一路 |
大沢たかお 石田ゆり子 |
| 06/20 |
息子のまなざし |
ダルデンヌ兄弟 |
オリヴィエ・グルメ |
| 06/20 |
25時 |
スパイク・リー |
エドワード・ノートン |
| 07/13 |
ラブストーリー |
クァク・ジェヨン |
ソン・イェジン、チョ・スンウ |
| 07/13 |
ションヤンの酒家 |
フォ・ジェンチイ |
タオ・ホン |
| 08/02 |
バレエカンパニー |
ロバート・アルトマン |
ネーヴ・キャンベル |
| 08/09 |
キング・アーサー |
アントワン・フークワ |
クライブ・オーウェン |
| 08/11 |
16歳の合衆国 |
マシュウ・ライアン・ホーグ |
ライアン・ゴズリング |
| 08/21 |
カルメン |
ヴィセンテ・アランダ |
パス・ヴェガ |
| 08/21 |
女王フアナ |
ヴィセンテ・アランダ |
ピラール・ロペス・デ・アジャラ |
| 09/06 |
グッバイレーニン |
ヴォルフガング・ベッカー |
ダニエル・ブリュール |
| 09/06 |
ぼくはこわくない |
ガブリエーレ・サルヴァトーレス |
ジョゼッペ・クリスティアーノ |
| 09/14 |
八月のクリスマス |
ホ・ジノ |
ハン・ソッキュ
|
| 09/15 |
みなさんさようなら |
ドゥニ・アルカン |
レミ・ジラール |
| 09/15 |
ビッグフィッシュ |
ティム・バートン |
ユアン・マクレガー |
| 09/16 |
南くんの恋人 |
|
二宮和也 深田恭子 |
| 09/20 |
ボーリングフォーコロンバイン |
マイケル・ムーア |
|
| 09/24 |
ジャンヌ・ダルク |
リュック・ベッソン |
ミラ・ジョヴォヴィッチ |
| 10/11 |
山の郵便配達 |
|
|
| 10/18 |
真珠の首飾りの少女 |
ピーター・ウェーバー |
スカーレット・ヨハンソン |
| 11/14 |
ホテルビーナス |
タカハタ秀太 |
草薙剛 |
| 11/14 |
恋愛中毒 |
パク・ヨンフン |
イ・ビョンホン |
| 12/09 |
茄子アンダルシアの夏 |
高坂希太郎 |
|
| 12/27 |
世界の中心で愛を叫ぶ |
行定勲 |
大沢たかお、柴崎コウ |
| 12/27 |
下妻物語 |
中島哲也 |
深田恭子 |

01/02(金)晴れ フリーダ
ギンレイで『フリーダ』を見る。メキシコのコミュニスト女性画家フリーダ・カーロの47年の生涯。サルマ・ハエック主演
少女の頃のバス交通事故による身体障害、夫、ディアゴ・リベロと25年にわたる愛憎、独特の絵画。フリーダの絵のモチーフは、女性が内面にかかえる複雑な心理や夢や不安、孤独を描き出していて、映画の画面を通じてもその迫力は尋常ではない。
トロツキーとの恋のほか、フリーダがバイセクシャルの女性芸術家として、女性にも男性にも魅力的な存在であったことは確かだろう。
『カミーユ・クローデル』『ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ』など、女性芸術家を描いた映画、傑作が多い。『尾崎翠をさがして』も、絶対にみたい。
「尾崎翠をさがして」も女性監督、『フリーダ』も、女性制作者、女性監督。
1984年のメキシコ映画である『フリーダ・カーロ』(ポール・ルデュク監督)も見たい。
2004/01/02
夜は、『向田邦子の恋』を見た。ヒメは山口智子が好きだから、私は向田邦子が好きだからいっしょに見た。山口は、若い頃の向田の写真にそっくりだった。
邦子に秘めた恋があったこと、妹向田和子の本が出るまで明らかにされていなかった。久世光彦のエッセイで、それとなくはわかったが、本人が残したエッセイからは、いっさいこの恋についてふれた部分がない。
半身不随の恋人が、ガス自殺というラストシーンを選んだということ、彼女の愛も恋人の死への欲動を止められなかったこと、邦子の恋人としておつきあいしている間に離婚が成立せず、別居とは言っても妻子のある人だったこと、などがあり、恋人の存在を公にしていなかったのだろう。
もし、飛行機事故という不慮の死にあわなければ、25年の歳月を経る前に、邦子はこの恋をシナリオや小説にしていただろうか。
邦子の恋は激しく燃え上がるというものではなく、深く静かに潜行するものであったが、テレビ画面を通してであっても、若い頃の邦子にこのような愛情の経験があったからこそ女性達の愛や恋や苦しみをあれほど書き上げられたのだろうと納得。
2004/01/26 月 晴れ
シナリオが掲載されていたので、パンフレット購入。
女優達へのインタビュー。
一番印象に残ったセリフ。ジェーン・フォンダが「撮影現場で演劇の神が光臨して自分の内部に入り、自分とは別人になる」体験を語るところ。
1224/01/26
笑えたところあったけど、なんだかなあ。
2004/02/12 木 晴れ
『マグダレンの祈り』アイルランドの女子更正修道院の暴露もの。
未婚の母や結婚前に処女を失ったとみなされる女性達が押し込められ、非人間的な扱いを受ける。40年間もこの中でくらし、外の世界を知らず寂しく死んでいく女性たち。
逃げだそうとして失敗し、一生この中ですごすのなら、むしろ下働きのままいるより、修道女として少しはましなものを食べる生活にと、シスター志願する娘もいた。
理不尽な扱いを我慢せず、逃亡に成功する娘もいた。
神父は腐敗し、修道院院長は守銭奴。
クリスピナが未婚で生んだ息子を、実姉が育ててくれている。その子をときどき姿を見せに修道院を訪れるのを生き甲斐にしていたクリスピナは、神父の相手をさせられていた。 大勢の人が集まった儀式の席で、「堕落した神父」と叫んだために、精神病院へ送られ死に至る。
このような女子修道院は1996年間まで、「素行不良な女子の強制収容所」の役割を果たしていたのだという。
最後に脱走に成功するローズ(パトリシア)とバーナディットは美人で、神父にもてあそばれた上、精神病院で死んでしまうクリスピナは頭が弱い不美人になっているところが、「やっぱりブスは死ねってかぁ」という気分になる。
実話をもとにしていても、映画になれば、やはり美人は得。不美人は一生下積みなのね。
実話をもとにしたシナリオという。私のアレンジ。
1 冒頭。アイルランドののどかな田舎の風景。田舎道を走る車。遠景に修道院。
1 修道院の近景。庭で賛美歌合唱の練習をする女生徒たち。取材のライター、キャシーが写真をとっている。
3 合唱の中、カメラが裏へ回ると、修道院裏の墓地。女性の名前をひとつひとつ拾うカメラ。アン、16歳、肺炎により死去。この地に眠る。ベッシィ17歳、骨折による敗血症で死去。マーガレットの声でナレーションが続く。タイトル。「マグダラの娘たち」
2 アン、ベッシィの墓の前に立つシスターモニラ。
5 モニラ副院長の部屋に不従順の罪を犯したとして、女の子が連れてこられる。女の子を打つモニラ。他のシスターが止めにかかるまで、激しく打ち続けるモニラ。
3 打たれている女の子はモニラに変わっている。父親に打ち据えられる少女モニラ。
7 マグダレン女子更正修道院が閉鎖される(または建物が取り壊される)というテレビニュースや新聞報道に気づく女性達。教師をしているマーガレットは、教室で新聞を見てマグダレン修道院の記事に目を落とす。
8 バーナディットは美容院の待合室コーナーのテレビにうつったニュースを見る
4 ローズは台所においたテレビで。
10 夏休み、マーガレットが昔の友達の消息を確認する旅として物語りがつづられる。
11 車を運転するマーガレット。結婚式がにぎやかに行われている村を走り抜ける。アイルランド風の結婚式の回想。いとこにレイプされるマーガレット。
12 それぞれの生活の描写。どこかに暗い陰を落としている修道院生活の思い出。マーガレットは家で洗濯を弟の妻に任せている。おそるおそる、「でかけるので洗濯をかわってくれないか」と頼む弟の妻に「私に洗濯をさせないで」と叫ぶ。尋常でない拒否のしかたにびっくりする義妹。
13 洗濯をやっているみじめなマーガレットたちの回想。
14 バーナディットは美容院の窓の外を横切ったカトリックシスターを見て、客の髪のカットが出来なくなる。はさみを落とし、頭をかかえてうずくまるバーナディット。
15 バーナディトの回想。孤児院から女子修道院へ送り込まれた事情。逃亡の企てをを密告され、髪を虎刈りにされるバーナディット。
16 ローズは二人のこどもの世話をしながらも、生んだあと一度も会えなかった子供のことを思いだし、悲しみから逃れられない。夫には過去を打ち明けられないローズの回想。未婚で子供を産み、引き裂かれた上修道院へ入れられたこと。
17 修道院。逃亡するモニラとベッシィ。
18 ベッシィは茨に足をひっかけ、骨折する。先を逃げていくモニラ。
19 逃亡シーン。逃げるモニラ。追いかけてくる車。
20 車は修道院を再訪しようとしたマーガレットの車に変わっている。
22 車を運転しながら、マーガレットの回想。つらく苦しい非人間的な生活。骨折したベッシィは敗血症で死ぬ。
23 逃亡の事実は伏せられ、簡素な葬儀で墓に入れられるベッシィ。
24 モニラに会うマーガレット。二人の回想で、修道院の生活があきらかにされる。修道院うらの墓地に刻まれた名前をたどり、死んでいった仲間の身の上を回想するふたり。
25 アンは、シーツを濡らして体にまきつけてベッドに入り、肺炎を起こして死ぬ。
26 マーガレットが家に帰れることになったのを見たモニラ。モニラには帰れる家はない。27 父親に折檻されるモニラ。逃亡に失敗して修道院に連れ戻されたモニラは親から絶縁を申し渡されている。
28 モニラはもはやここで生きるしかないと思い定め、シスター志願する。
26 バーナディットとローズの回想。クリスピナの思い出。
30 未婚で生んだ息子を姉に育ててもらっているクリスピナ。知能が後れているため、神父に性の処理係として利用されている。息子との絆であるペンダントを失ったクリスピナはアンのまねをして濡れたシーツを巻いてベッドに入り熱が出たが、死ななかった。
31 首吊りをはかるクリスピナ。
32 クリスピナを助け下ろすローズ、マーガレットたち。
33 マーガレットは、新しく導入された洗濯機で神父の式服を洗う際に、農薬を石けんにまぜる。
34 カソリッ7クのお祭りの行列。参加しているマーガレットたち。
35 儀式のとき、神父は皮膚に炎症をおこし、大勢の人の前で式服を脱ぎ捨て裸になる。
「堕落した神父」と叫ぶクリスピナ
36 クリスピナは精神病院へ収容される。
37 バーナディットとローズの逃亡。
38 マーガレットはローズに会いに行き、生き別れの息子を探して会うことを勧める。
39 バーナディットに会い、髪を切られたトラウマを克服するために、共に修道院を訪問することを約束する。過去をはっきり見つめて、心の中にある思いを精算する必要があると。
40 マーガレットが、クリスピナの姉から聞き出して共に訊ねた病院で、クリスピナは廃人となっている。
41 ローズは夫にうちあけ、30歳になっている息子を探しだし、ようやくあえた。
42 修道院の生活を全部ライターのキャシーにうちあけることをマーガレットとバーナディットが決意する。
43 キャシーの前で、回想するマーガレット。メモをとるキャシー。
44 「私がこのマグダレン女子修道院に入れられたのは1964年のことだった、、、」マーガレットの回想のことばが続くなか、カソリックのお祭りの行列のにぎやかな音楽がかぶさり、エンドマーク。
まあ、これでやっても、たいして中味がよくなるわけじゃないのだが、同じ内容なら、私好みに再構成するなら、こうなるというだけ。
2005/02/12
マオリ族が主人公になる映画は、はじめてだ。
伝統の継承と変容について。 フェミニストにも文句付けられない作り方。
パイケアを演じたマオリ族の少女はアカデミー主演女優賞にノミネート。
2004/02/15 日 晴れ
4時からファニーアルダンがマリアカラスを演じた『永遠のマリアカラス』を見た。女性芸術家シリーズのひとつとして。
でも、オナシスとのいきさつなど、前半生ははぶかれて、引退から復活をはかったエピソードをまとめているので、全体にはあまりドラマチックではなく、「芸術家の誇りと苦悩」といったおもむき。
マリアカラスのオペラを生で見たことがある。映像でみたことがある。レコードを聴いたことがある。という彼女への思い入れのあるなしで、この映画への評価もかわってくるのではないか。
主人公が実在の人物でなかったとしたら。オペラシーンは確かに豪華でよかったが、盛りを過ぎた芸術家が苦悩しちゃう映画としては、まあまあ程度の出来。
でも、おばさんとしては、映画で53歳の女性がヒロインやってる映画があまりないから、というだけでも評価できるのだが。
2004/03/18 木
ひとりで『ホテルハイビスカス』を見る。二度目だが面白かった。
1年前、2003年夏に見た映画『ホテルハイビスカス』。
沖縄の「客室は一室だけ」のホテルハイビスカスが舞台。(いつもは一泊4500円だけど、今なら食事付3000円!!)
真夏のひざしのもとで、たくましく生きていく一家にひきつけられた。つらい現実もあるけれど、人々は底抜けに気がよく、力強く、生き生きとしている。
とてもいい映画だったので、2004年3月に、もういちど見た。
太陽(てぃだ)かあちゃん。ビリヤードと三線が上手な父ちゃん。小学校3年生の美恵子。かあちゃんと黒人兵士の間に生まれたケンジにいにはボクサーをめざす。白人とのハーフさちこねぇねぇは高校生。山羊をつれての散歩が日課のおばあ。
美恵子に拾われた行き倒れのバックパッカーだが、もとからいっしょに暮しているように家族の中になじんでしまう泊まり客、能登島くん。
よそのバーで働くかあちゃんは一家の大黒柱で、太陽で、ハイビスカスの花のように明るくきれい。いつもはビリヤード場で昼寝しているとうちゃんも、いざとなれば、具志堅さんのパイナップル畑で力を発揮する。
森の精霊キジムナーを探しに出かけた美恵子が出会う、基地の中に住む「まやー喰いおばあ」も、森に住むキジムナータンメー(じいさん)も、出てくる人たちはみな不思議な生命感に満ちている。
かあちゃんのことをからかわれた美恵子は、友達とケンカする。暴力をふるったことで父ちゃんに叱られて、家へ帰るにかえれない。
夜の公園。ひとりぼっちでブランコをこぐ美恵子。いつのまにか美恵子と同じくらいの年齢の不思議な女の子がきて、いっしょにブランコに乗る。
女の子は、お盆にみんなに会いに来た父ちゃんの妹だった。父ちゃんの妹は、「いくさぬゆ」のあと食べるものがなくて、亡くなってしまったのだ。
むかえにきた父ちゃんは、妹が美恵子に会いに来たことがちゃんとわかる。
「お盆だからって、ご先祖様にごちそうをあげたりするのはバカみたい。、ご先祖様がほんとに食べたりするわけじゃないのに」と思っていた美恵子にも、命のつながりの不思議さが感じられる。
沖縄の人たちは、戦争で亡くなった人のことも、戦後食べ物がなくて亡くなった人のことも、忘れたりしない。忘れないけれど、今生きている人たちは、今のひとときを笑ってすごす。
心のなかでご先祖さまを大切にしながら、三線をひき、歌をうたってすごす。酒を飲み、踊ってすごす。
亡くなった人たちもそうやって、今生きている人が楽しくすごしているようすを見て、笑ってくれる。
つらいこと苦しいこともあるし、基地に囲まれた厳しい現実もあるけれど、何よりも、スクリーンから沖縄の夏の光があふれてくる。美恵子をはじめホテルハイビスカスのみんなから、私はたくさんのエネルギーを受け取ることができた。
基地フェンスの中でも外でもハイビスカスは真っ赤に咲き誇る。
「ホテルハイビスカス」中曽根みいこの原作マンガでは、もっと基地の話や「いくさぬゆ」のころの話がずしんと重いというので、映画もよかったけれど、それとは別にマンガを読んでみるつもり。
2004/03/18
ヒメといっしょに見た。面白かったが、昔見たテレビドラマと印象はあまり変わらない。
映画館じゃなく、テレビで放映されたときに見てもよかったかなって感じ。
2004/04/03 土
夕べ、、野沢尚原作脚本の『砦なき者』というサスペンスドラマを見た。妻夫木聡が「連続殺人犯」八尋役。戦場報道から報道番組キャスターになった長坂を役所広司。
シナリオはよく出来ていたと思うが、ラストシーンにやりきれなさが残って、久米宏のニュースステーション降板と重なって、重苦しいドラマになった。
おもしろさだけを追求するようになったテレビへの訴え、というのだが、現実にこのような事件があったら、ラストの集団による殺人を望遠カメラで自ら撮影したシーンが「もっとも視聴率がとれる」と、テレビ局トップは判断するだろうなあと思ってしまう。
もし、長坂の相棒ディレクター鈴木京香が望遠カメラを発見しなかったら、彼の死はまったくの無駄になってしまう。また、鈴木京香が発見するより前に八尋が気づいてカメラを処分しても同じ。
「テレビ局の報道姿勢を正す」「視聴率至上主義に異議を申し立てる」という使命感だけで、ほんとうに自分の命を「無駄になるかも知れない」と思いつつさしだせるのか、そのへんに違和感が残った。長坂には命を全うして言論で最後まで闘ってほしかった。
久米宏のニュースステーション最後の登板の報道。どこもラストに久米宏が冷蔵庫からビールを出してきて、自分のために乾杯をした、というパフォーマンスを報じているのみで、彼が「今後は発言させてもらえないかも知れないから、最後にひとこと。私はイラク派兵に反対です」と、発言したことについては、どこにも報道が見あたらない。政府の方針に反することをテレビの中から発言することが、これほどタブーになっているのかということを改めて実感できた久米ラスト報道だ。
自由な言論はどこへいくのだろうか。
文春と田中真紀子の裁判、高裁では文春側勝訴。これも、もし田中真紀子が権力側にいたときなら、地裁に続いて高裁も文春敗訴になったのではないか、という気がする。それほど、裁判も報道も、結局は権力がどちらにあるかによって変わってしまうのだという現実を、今は誰もが知っている。
2004/05/01 土
渋谷ジョイシネマで「ロードオブザリング王の帰還」を見た。
第一部二部三部とも、一度に撮影したものなのだというが、私にとっては、第三部の出来はいまひとつ。フロドの苦悩も、サムの友情も、ゴラムのいやらしさも、アラゴルンのかっこよさも、レゴラスの流れる金髪もみんなよいのだけれど、なにかがものたりない。
もちろん、他の凡作映画に比べればとても面白いし、3時間以上の長丁場を退屈しないのだから、いい映画なのだし、現在投じることのできる映画製作のすべての技術が最高水準で結晶している。
しかし、この映画がアカデミー賞を11部門受賞したのは、アメリカ人の感情のなかに、悪の帝王サウロン(サダム・フセイン)と闘う正義のアメリカ、という図式を当てはめたいからかもしれない、という僻目で見てしまうのだ。
圧倒的な軍勢をほこるサウロンのオーク軍隊に、劣勢を承知でフロドの後方支援のために出軍するアラゴルンとガンダルフ。おおいなる目的のための自己犠牲。
「帰り道の水は必要ない、生きて帰ることはあり得ない旅なのだから」と覚悟の自己犠牲。
どうやら、「皆の幸福のために、私が犠牲になりましょう」と言うことは、私の場合絶対にありえない、というのを考えるのがいやなだけかもしれない。
グスコーブトリとか、「自己犠牲によって皆の幸福をもたらす」キャラに、自己を投影させて共感することのできない人間だから。
原作でもそうなのだから仕方がないが、旅の仲間の行動が、フロド&サムの火山へ指輪を投げ込みにいく側と、サウロンと闘う側に分裂したため、話が二本立てになり視点がふたつに別れる。
このため、フロドたちの大蜘蛛との戦い、アラルゴンたちの「幽霊に加勢されて勝つ戦い」も、一部、二部に比べると、物足りなかった。勝つことがわかっている物語で迫力を出すには、何が必要なのだろうか。
以下、第三部への感想
壮大な物語。「地上のすべての権力」を与える力を持つ指輪を、悪玉サウロンの手にゆだねないよう、葬り去るための旅。その主題はもちろん映画も同じ。だが、映画の映像が発信するイメージに、監督の原作解釈が現れていたように思う。
サウロンを象徴する「目」の映像。黄色のU字型の発信器の間に赤と黒の電波がうごめく。赤く燃える火の中の黒い「目」が、私にはどうしても女陰の形にみえてしまうのだ。
このイメージ、監督は女性的なものに嫌悪感があるのではないか、とさえ勘ぐってしまう。
細長い洞窟は「母体産道への回帰」というのが、象徴記号学のオヤクソクだ。死と再生産、再復活。が、アラゴルンたちが入り込む幽霊のたむろする洞窟、フロドが入り込む大蜘蛛の棲息するトンネルとも、死のにおいだけがたちこめる。洞窟から復活して出てくるフロドは、蜘蛛の毒のため、仮死状態。再生産の命がない。フロドの命を再生させるのは、サムの忠信なのだ。ガラドリエルが与えた瓶の水を飲むとフロドが復活するのだろう、ガラドリエルは太地母的な要素があるから、と思っていたけど、あのガラス瓶は懐中電灯の役割しか果たしていなかった。
そう思って、登場する人物を見直すと、この映画には「母親」が出てこない。親子関係はすべて「父と子」なのだ。ビルボとフロド。ホビットに対して父親的な役割を果たしているガンダルフとホビット4人組。エルフの王エルロンドと娘のアルウェン姫。ゴンドールの執政デネソールと息子ふたりボロミアとファラミア。ローハンの王セオデンと叔父セオデンを父がわりにして兄とともに育てられたエオウィン姫。
親は娘を気遣い、娘は父を慕う。アルウェンは父に心配をかけながらも、父の眼鏡にかなった男と結婚する。種族を越えた結婚だが、父の祝福を得ている。父の願う結婚はできなかったが、男装し騎士として戦闘に加わったエオウィンは、叔父が魔物に食われようとするところを救い、悪のボスを倒す。名誉男性として叔父の愛に報いる。
父の愛を得られないファラミア。兄を偏愛する父に対して、なんとか自分の存在を認めて貰おうとする、聖書以来おなじみのキャラ。
子を守る父、父から学び、父を尊敬している子どもたち、という関係のガンダルフとホビット4人組。
すべての親子関係が「父と子」であって、「母と子」はでてこない。エピローグとして、サムと結婚して子を生むロージーがただひとりの「子を生む母」の姿をみせる。ただし、それは指輪が消え、すべての平和がもどったあとに語られるエピローグのなかであって、指輪物語の本筋には、「母」の姿がまったくない。
フロドに関わる登場人物の中で、唯一母性的な存在に近いのはガラドリエル。エルフの王妃。ロスロリアンの奥方と呼ばれていて、ミドルアース中つ国に住むエルフの長老だ。不老不死のエルフ族だから、長老といっても、とても美しく若い。彼女からフロドへの贈り物である玻璃瓶(はりびょう)がフロドとサムの存亡危急を救う。
無私の愛で子を包む母という面では母性的なのだが、また、一方でガラドリエルはフロドに運命を見せる「運命をつかさどる女神」でもある。映画の中でガラドリエルを演じるケイト・ブランシェットの風貌も、「母性的」なものを排除した中性的な神話的な姿に造形されていて、「生身の母」は、ロージー以外にでてこないのだ。
たぶん、アジアの農耕民族のDNAでは感じ取ることが難しい、キリスト教的あるいはユダヤ的な「父と子」の契約、父と子の葛藤がこの「闇の勢力との戦い」を支える根本精神なのだろうと思う。
すべてを受け入れて許し、命の再生を約束する太地母は農耕民族の思考。契約によって存在を保証する父こそを唯一至高の存在とするのは、牧畜民族の思考であるなあと、思う。 去勢や種付けに、繁殖繁栄のもとがあり、家畜の雌の腹は「管理すべき袋」でしかない牧畜の運営からくる思考。「管理すべき袋」を支配しコントロールするのは、牧畜者の権利。
種をまいたあとは、草取りや水の管理などの周辺へのコントロールだけで、生産のおおもとは土の生命力にすべてをまかせるしかない、農耕民族の思考。大地の生産力は、人間の管理コントロールを越えており、日照りも、気温の上下も人間が支配することは出来ない。
牧畜中心の生活と農耕中心の生活では、ほんとうに大きな思考の違いが生じる。
ヨーロッパ農耕民族はキリスト教を受け入れたとき、大幅にもともと土着の太地母信仰をアレンジしてマリア信仰などを脚色したのではあるが、やはり根本は「父と子の契約」である。
フェミニズム批評家対策シーン。エオウィン姫が甲冑を身につけ、悪のボスを倒すところ。「人間の男には殺すことができない」というパワーを帯びた黒いマスクの奥を「私は男ではない女だ」と叫んで突き刺す。「男と同等の力を発揮し、しかも男にはできない仕事を、男以上の能力をみせて担当する」というエオウィンは、ちょっとファザコンの気味もあるけれど、いい感じ。ただ、これも「女のパワー」ではなく、「名誉男性パワー」にみえる。男に伍して活躍するキャリアウーマンのように、「男の力をもった女」である。
「すべての権力を手に入れようとする悪の権化を滅ぼす=消去」というメインストーリーにとって、「母性的なもの=生産」は、ストーリー展開をすっきり直線ですすめるための障害になるとして排除されたのだろうか。
物語のひとつの柱が「白い勢力対闇の勢力の戦い」だとして、もうひとつの柱はホビット4人組のビルドゥングスロマン。
「物語」を成立させる要素のうち、「死と再生」は、フロドにもサムにも、サイドストーリーではあってもメリーとピピンにも用意されている。
成長著しい「育ち頭」のサムには、エピローグで結婚のご褒美も。指輪の持ち主という「定められた運命」を担うフロドに対して、サムがフロドに付き従うのは、あくまでも彼の意志による。しかもサムは何度もフロドから「もう家に帰れ」と同行を拒まれる。それでもサムは己の意志でフロドを最後まで助け、最終的に指輪に絡め取られそうになるフロドに「指輪=すべてを支配する権力」を葬るという使命を果たさせる。
「使命を果たす」ことに関しては、「至高なるものによって選ばれてしまった運命を担うフロド」よりも、「自由意志でついてきたサム」のほうが、重要な役割を果たしたといえる。
エピローグで、ガラドリエルたちエルフ族、魔法使いガンダルフとともに、ホビット族のビルボとフロドが「あちら側」へ行くのに対して、サムは妻と子供をともなう平凡な生活へ戻る。ちゃんと「平凡な幸福」をもとめたい人々の心の受け皿は用意されていた。用意周到。安心立命。
というわけで、この映画は、「父と子の葛藤」「父と子の契約と平和の維持のための戦争」の壮大な物語でありました。ゆえに、「母性的なるもの」「再生産」に関することがらは、注意深く取り除かれる。「母性的なもの」は「葛藤と闘争」にとって、異物になるから。
蛇足。闇の軍団に巨大なゴリラ風とマンモス変形象風の生き物が加わっている。象さんはどうしても元のモデルの象そのままなので、敗戦でたおされるシーンはかわいそうに見える。ゴリラ風は、「人間より一段と劣る生き物」として非西欧人を代表するように見える。
さて、最初の疑問点にもどる。監督は「女性的なもの」「母性的なもの」を嫌悪する人なのであろうか。闇の勢力の監視の目が女陰風であったことは、この映画が「太地母による再生産」の上層に「父権、父と子による地上権の復活」をめざす潜在意識を表現しているといえるのかどうか、、、、よくわかりません。
映画の構成、画面づくりは、とにかく面白かった。
2004/05/02 日
夕方から飯田橋ギンレイで映画2本立て。
『インアメリカ』アイリッシュ移民の一家。故郷での事故を忘れようと、アイルランドからアメリカに移住した夫婦と娘ふたり。
夫ジョニーは売れない俳優。オーディションを受けながらタクシー運転手をしている。故郷から呼び寄せた妻サラは教師であったが、教師の仕事は得られず、アイスクリーム屋で働く。
娘ふたりアリエルとクリスティは、おんぼろアパートでの生活を楽しみつつカソリック系の小学校へ入る。
夫婦の溝。2歳の息子が階段の柵を乗り越えようとして落ちる。脳腫瘍と診断され死去。ふたりの娘のために仲良い夫婦を演じながらも、妻は、夫が階段に柵をつくったことが許せない。
ハロウィンパーティ。母手作りの貧しい衣装しか用意できないため、プライドを傷つけられたアリエルとクリスティだったが、下の階に住むアフリカからの移民アーティストと仲良くなる。画家マテオ。夫婦にとって、隣人と交わろうとしないマテオは「不気味」と感じられたが、娘達が仲良しになったことをきっかけに、うちとける。マテオは不治の病脳腫瘍にかかっていた。
サラが妊娠し、通常分娩ではないため、出産に多大な費用がかかる。一家を救ったのは、マテオが残した金。マテオは一家のために支払いをすませて死去する。
マテオの死を受け入れることによって、やっと息子の死、弟の死を受け入れることができた一家。生まれてきた赤ん坊とともに一家が再生したのだ。
クリスティが常に持ち歩くビデオカメラが「家族をみつめる視点」となっている。実生活でも姉妹であるふたりがとてもいい。
2005/05/02
フランス中部オーベルニュの山あいの農村。小学校の先生を35年続けてきて、定年まであと1年半になった先生と子供達の四季を撮影したドキュメンタリー。ごく普通の先生。あまり勉強が得意ではないが、かわいい子供達。ひとつの教室に高学年と低学年が13人同居する。午前と午後の二部授業。高学年は低学年の世話をよくしている。
先生は特別な指導法をもっていたりするわけじゃない。どちらかというと、古風な教え方。しかし、子供達への愛情はたっぷり持っている。子供達は教室でケンカしたり失敗したりしながら成長する。はじめて文字を覚える1年生のジョジョ少年を中心に撮影されている。ごくあたりまえのクラス風景なのだが、とても温かくなごやか。お弁当をもって校外学習へ出かけたり、教室でクレープを焼いたり。
先生はスペイン移民の息子で、教師になることが親への親孝行でもあった。学校の二階に住んでいるが、奥さんの姿が出てこなかったので、独身を通して教育に人生を捧げた人なのかもしれない。
静かな信念をもって、一生を「他人からみたら地味でささやかな仕事」に邁進したひとりの教師。特別な出来事もない日常生活をおくり、普通の教師として教育にたずさわり、特別に顕彰されることもなく、おだやかに定年を迎えた先生。定年前の最後の日。生徒ひとりひとりとあいさつのキスをかわして、別れの日はすぎる。
このドキュメンタリーが成功しているひとつの要素。
先生の風貌がいかにも穏やかな教育者であること。13人の子供達、特に低学年の子がかわいらしい顔をしていること。フランスに住んでいる子供達が全員かわいい顔じゃないとおもうけれど、こんな田舎の13人しか生徒のいない小学校で、よくもアップシーンに耐えられる子供をみつけたなあ、という感想。
しかも、クラスのなかに、うまいことアジア系(モンゴルっぽい顔。シノワかコリアからの移民か?)と、アルジェリアチュニジアあたり風の顔立ちの子がまじっている。この小学校をみつけだしたことが、ドキュメンタリー成功のなによりの要素だろうと思う。
2004/06/01 火
午後、飯田橋ギンレイへ。
犬童一心『ジョゼと虎と魚たち』を見た。
ジョゼは、田辺聖子の短編が原作。池脇千鶴のジョゼ役、とてもいい。下半身不随の障害を悲劇でもガンバリズムでもなく自然に演じている。妻夫木聡の恒夫は、今見ているオレンジデイズの役とまったく同じ感じ。映画は最後に障害を持つ恋人を捨ててしまうが、たぶん、オレンジデイズのほうはテレビだから、最後までイイ人を続けるだろうな。
新谷英子のおばあとか、マージャン屋の客のひとりひとりの演技がすごいから、妻夫木がいつもの妻夫木でも「ま、いいか」と、許せる。
ジョゼはおばあがゴミ捨て場から拾ってきた本を暗記するくらい読み、毎年学年末に捨てられている教科書を読んで独学してきて知識豊富。月刊極道も、SMマガジンも全部読む。そもそも、私はこういう本大好きな子が好き。ジョゼをちゃんと愛するには、すごい肝っ玉もっていないとね。恒夫のようなヤワで中途半端な今時の男の子には、もったいないわい。ジョゼはラスト、自分ひとりの分のごはんを作って、いつものように、踏み台からボンと下にダイブする。このダイビングの扱いがいい。そうだよ、障害をもっている人はいつでもこんなふうにダイブしている。やわな健常者にはとべない。
恒夫はいいやつだけど、しょせん、最後にあの程度の女の子を選んじまう坊やだ。まあ、それが「普通の人生」ってやつなんだろうね。この、原作にない「上野樹里のほうを選ぶ幹夫」が犬堂のシナリオたるところなのかも。
おばあは昔の人だから、障害をもつことを「一人前の人間じゃない。はんぱ者。役立たず」と思って、孫の久美子を隠している。近所はみんな足の悪い孫がいることを知っているけれど、おばあが隠しているから、知らないふりをしてやっている。
でも、ラストでは、ジョゼは意気揚々と電動車椅子で買物に出かけている。ここも原作にないところ。
2005/06/01
テレビドラマと比較しながら見た。
渡辺えり子の和菓子屋がよかった。
2004/06/20 日
私には、息子を殺した若者を許せないだろうなあ。
2004/06/20 日
刑務所に入るその時までの麻薬売人の25時間。
2004/07/13 火
午後、飯田橋のギンレイで『ラブストーリー』『ションヤンの酒家』を見た。
「ラブストーリー」は、韓国原題『ザ・クラシック』母親の高校生時代(1968)と、娘の大学(現在)の二組のカップル。
母親の恋は家柄の違いとベトナム戦争派兵によって悲恋に終わる。娘はその悲恋相手の息子と、そうとは知らずに恋成就。
田舎の景色や蛍とぶ川など、とても画面がきれい。こんなベタな恋愛映画を「おでこにキス」程度の愛情表現で撮れる韓国は、とてもいいお国柄。時代設定も、ベトナム戦争で主人公ジュナが盲目になるというラスト。
ジュナは、どっちの料理ショウ住谷アナにそっくりの醤油顔。
パクチョンヒ独裁に反対する学生デモも出てきて、韓国の20世紀後半史が、日本の戦後史に比べてどれほど過酷であったか思い出させてくれた。母国分断の内戦を戦い、ベトナムへも派兵し、民主化を勝ち取り、たいへんだったんだなあ。それに比べれば、安保闘争やら68〜69学生闘争なんて、ショボいもんや。もはや6月15日に樺美智子を思い出す人もいない、と嘆く投書をみた。
「冬のソナタ」でヨン様ブームが続いているうちに、韓国史を日本の若者に伝えて欲しい。創始改名や従軍慰安婦も彼らは教わっていない。
ッテユーか、月9のドラマ『東京湾景』は、吉田修一の原作となっているが、東京湾の両側お台場と品川が舞台、メール出会い系から始まる恋愛、という設定だけが原作と一致で、あとはかこの『ラブストーリー』換骨奪胎をやろうとしているのだとわかった。映画よりは娘の恋愛のほうに比重が大きくなるらしいが。
2004/07/13
『ションヤンの酒家』は、『山の郵便配達』の監督作品。よかった。主演の陶紅の顔も今までの中国女優にない雰囲気。妹分のアメイ役は、福原愛にそっくり。
重慶市ロケがとてもいい。長江の両側を結ぶロープウェイをションヤンは麻薬中毒治療施設に入所している弟に面会するために何度も往復する。ロープウェイはゆらゆらと行き来し、ションヤンの人生や生活を象徴する。したたかでありながら儚げで、しっかり者でありながら弱さをさらすションヤンの生活とリンクしていた。
開発から取り残されたように残る吉慶街。電飾で飾られた店のひとつ久久酒家。きりもりするションヤンをとりまく家族と、1年も彼女を目当てに店に通う中年男。男は吉慶街を取り壊し再開発する調査のために通っていたことがわかる。ションヤンとは「気楽な愛人関係でいたい」と言う。ションヤンは承服できない。「気楽な愛人」として扱われるくらいなら、「店の主」として自立して生きる方を選ぶ。
吉慶街はとりこわされてしまうが、したたかなションヤンは、必ず生き抜くだろう。麻薬中毒患者の弟と弟の恋人だったアメイの生活も、ションヤンは抱え込んで行くだろう。
ションヤンはアメイを利用した。父親名義なのに他家に奪われている持ち家を取り戻すために、不動産管理の所長の息子の家へ嫁にやった。農村出身のアメイ。母親から「都市で生活できる戸籍がほしい」と頼まれていたので、「中毒患者の弟のことはあきらめて、所長の息子と結婚すれば、都市戸籍が得られる」と、アメイに言い含めたのだ。が、「精神を病んでいる息子からDVを受け、アメイはションヤンの店に出戻ってきた。
妊娠しているアメイにションヤンは中絶をすすめるが、アメイは生みたいという。もし生まれたら、自分の子を流産したあと、甥をかわいがって育てたように、ションヤンはアメイの子をかわいがって育てるだろう。ションヤンはそういう女だから。
しがない場末の酒家の女だけど、ゆらゆらと揺れながら行き来するロープウェイのような毎日だけど、そうやって行き来する生活を続けていくのがションヤンの人生。
2004/08/02 月
渋谷文化村で『バレエカンパニー』という映画を見た。上映時間まで間があるので、ブックファーストですわり読み。あっと思ったら、上映開始時間をすぎていた。走っていったが、まだ予告編上映中。
映画は、シカゴにあるバレエ団の群像をドキュメンタリー風に描いた作品。しかし、バレエシーンそのものを楽しめるバレエファンはいいけれど、まったくバレエに興味がない人に楽しめる映画なのか疑問。スジなしヤマなしオチなし。
イタリア移民の芸術監督に焦点があるわけでもなし、一応スポットが一番多くあたるのは、バレエ団の熾烈な競争から頭角を現す新人のライだが、ライの人間的な芸術的な成長という映画でもないし。
一番美しいシーン。野外ステージでライがパドゥドゥを踊っていると突然嵐になり、木の葉が照明の中に乱舞し、激しい雨が効果をあげて、この世ならぬ芸術的シーンが観客に与えられる「ハプニング」
2004/08/09 月
渋谷で。
『キングアーサー』は、15世紀に完成したアーサー王伝説のほうではなく、5世紀に実在し、ブリテンを統一した史実のアーサーをもとにした映画。
史実といっても、諸説紛々の歴史的事実の一部であって、伝説のうち、史実と認定してもいいのはどこまでなのか、「国際アーサー王学会」にだって、まだよくわかっていないらしい。そもそも、ブリテンやケルトなどは、口承文学だったので5世紀ころの伝説を8世紀に文字資料として残した日本神話より幅広くヨーロッパ各地の伝説がいりまじっているアーサー王物語。
映画は、アーサーはブリテン人の母とローマ人の父の間に生まれたローマ軍司令官という設定。魔術師マーロンはブリテン土着の種族ウォードの王。囚われの王妃グウィネビアは、ウォードの姫。アマゾネスのような女戦士。ランスロットはグウィネビアをちらっと見る程度だし、トリスタンは鷹を連れているだけでイゾルテと恋しないし、恋バナはアーサーとグウィネビアの結婚に至る話だけ。
戦争シーン。湖の氷が割れるシーンとか、CGはなかなか効果的。でも、結局のところアーサー側が勝つのは、投石機や原油による火責めという「新兵器」のおかげ。結論。新兵器開発したほうが勝ちってか。そりゃ北朝鮮も核兵器を持ちたかろう。
最後の白兵戦になると、もうめちゃくちゃ斬り合いの連続。戦国日本の刀の斬り合いより、武器が無骨なせいか、痛そう度アップ。
ローマの領主や司教は、愚かで自分勝手。サクソン側は冷酷無比と、勧善懲悪がはっきりしているのは、映画だからいいんだけど、ウォードがネイティブアメリカンのように戦士の入れ墨をしているところは、「野蛮人」への発想が画一的。「土着」の人々への想像力が貧困のような気がする。
アーサーの「人間的悩み」っていうのも、自分をキリストの教えに導いてくれた師がローマ教皇から異端され、処刑されてしまった、とか、自分を信じ従ってきた騎士を戦死させてしまった苦しみとか、あるんだけど、一般的な「英雄の型」に添った造形なので、キャラとしては新味はない。監督は黒人。
コスチュームプレーとしてよくできてはいて及第点だが、あまり、ハラハラドキドキもなく、見終わったあとのカタストロフもないのは何故だろうか。
4、5世紀のヤマトを統一していった大勢のヤマトタケルたちも、サクソンがブリテン島の村人たちを冷酷に殺していったように、東国で九州で、平和な縄文の村を殲滅していったのか、と思える。記録を残したのは征服した側だから、ぶっつぶされた村の人がどうだったのか。捕虜となり「生口」として魏あたりへ送られたのもいたろうなあ。
2004/08/11 水
映画『16歳の合衆国』を見た。
もの静かで内気な知性的高校生、16歳のリーランドが、ガールフレンドの弟ライアンを殺してしまう。知的障害をもつライアンを施設から家までおくってやったり、仲良くしていた彼がなぜ?誰にも理由が分からない。
リーランドは犯罪少年の矯正施設に収容され、パール教官の担当クラスになった。パールから渡されたノートには、自由の女神の写真が表紙にあしらわれ「United
States」とタイトルがある。
リーランドはその下に of Leland
と書き込む。「リーランドの合衆国」でもあるし、「統合されたリーの土地」「リーランドの統一された状態」でもある。
リーランドは「人生は、寄せ集められた断片の総和より大きい」ということばを、心に深くとめている。
断片をひとつひとつ寄せ集めて、リーランドは心の中をノートにつづる。
大人たちは少年犯罪の理由を知ろうとする。理由を知って「親子関係に問題がある」とか「イジメが原因」などの理由をつければ、罪を犯した心を理解した気になって安心する。
しかし、ひとりの人間の心の奥底、心理の統一された状態など、カウンセリングしたからといって、わかるものではないだろうし、本人にも説明しきれないのかもしれない。人の心の闇をすべて明らかにすることはできないのだろう。
「哀しみに満ちた人生」がキーワードのひとつとなっている映画だが、見終わっても哀しみの塊がずしりと心に重い。ラストの哀しみもカタルシスにはならない。
だれも、自分は絶対に正しく、人を傷つけることなどないまま生きていると、いい切れはしない。だれも、心の中に闇の部分を持っている。
どこにも「罪持つ人を、石もて打つ資格」のある人は、いない。
2004/08/21 土
『カルメン』は、メリメの原作に忠実な映画化。私は、これまで原作を読んだことがなく、オペラやフラメンコ、バレエのカルメンしか知らないから、ぜひ原作通りという作品を見たいと思っていた。獄中のホセからカルメンとの物語を聞き出すという役でメリメも登場。
自分の絞首刑の準備が進む広場を窓から覗きながら語るホセ。メリメが最後に聞く。「もう一度やりなおせるとしたら、別の人生を望みますか」ホセはきっぱり「いいや」と言う。カルメンと出会ったことが人生の最大の収穫であったなら、何も後悔はいらない。
劣悪な労働環境のタバコ工場の描写が圧巻だったし、19世紀スペインの町中の光景、岩山の中の密輸業者たちの暮らしぶり。華やかな闘牛士の生活などなど、ひとつひとつのシーンがよかった。
2004/06/21
『女王フアナ』スペインを統一したイザベル女王の娘にして、神聖ローマ帝国皇帝カール5世の母。政治権力の争いの中で、「狂女」として後半生50年を幽閉されてすごした女王。夫であるフイリペを独占しようとした余り、その行動は常軌を逸しているとみなされ、夫も父親も息子すらも「狂っている女」と見なした。
当時の貴婦人は夫の愛を独占しようなどと考えてはならず、自分自身に性欲があることを示すなどは道徳的に許されざる行い。しかし、フアナはただひたすら夫を愛し、夫を独占することに情熱を傾ける。結果夫からはうとまれ、貴族会議では「統治能力なし」とみなされる。
幽閉後は、夫の肖像画と共に夫との思い出を反芻するだけが仕事となったフアナ。でもたぶん、50年間幸福だったのだろう。肖像画の夫は浮気をせず、独占できたから。
私が夫を恨んだり憎んだりしないですんでいるのも、ケニアで共にサバンナの夕日をながめ、ラム島の海で共に泳いだ記憶が残っているから。あのひとときが思い出のなかにあるなら、家族を顧みないこと帰宅しないこと父親の役割を放棄していること、許せはしないが、憎しみを直接ぶつけないですむ。
2004/09/06 月
飯田橋ギンレイで11:30からの回、「グッバイレーニン」を見た。
ベルリンの壁が崩壊する映像は何度もニュースやドキュメンタリーで見てきたが、壁崩壊前後の東ドイツの生活について、知るところはなかった。人々の暮しがたいへんだったろうとは想像していたし、資本主義体制に順応できない人にとってはつらい歳月だったと想像する。
『グッバイレーニン』、心臓発作で意識不明となった母親が昏睡から生還した後、ショックを与えると再び発作が起きると医者に警告される。息子アレックスは「社会主義が崩壊し西側一辺倒の生活になったことを母が知ったらショックを受ける」と心配し、母の病室だけは昔と変わらない東ドイツの生活がおくれるよう奮闘する。もう売っていない東ドイツ製のピクルスを探しもとめ、贋のテレビ番組を見せる。
しかし、「真実を報せるべきだ」と考える息子の恋人(母の看護をしている看護師)から事情を聞き、西側に亡命して新しい家庭を築いた夫にも話を聞き、すべてを知った上で、息子の自分への愛を確信し穏やかに最後を迎える。
息子は「最後まで母を騙しとおして、母の心を安らかにできた」と信じて、母の遺骨をロケット花火に乗せて散骨する。
吉本人情喜劇みたいな、笑わせて泣かせるストーリーが面白かったが、それ以上に私には、壁崩壊後の東側の人々の暮らしの変化が面白かった。ポーランドやルーマニアなど東側の国はみなたいへんだったろうけれど。
2004/09/06
『ぼくはこわくない』は、イタリア映画。少年が人生の溝を跳び越えなければならないときの一夏の話。画面一面に広がるイタリアの田舎の小麦畑が印象的。黄金色に輝く小麦の実りの中、たった5軒の農家が大地にへばりついているような小さな村。大人たちの恐ろしい秘密と、少年の無垢の勇気。
誘拐が一種の産業のようにさえなっていたイタリアでのストーリー。金持ち階級と農民の貧富の差が激しい時代の話でもあるが、ラストシーン、少年の手と手がつなぎ合わされそうで、届かないうちにエンドとなる。これって、その後の社会変動や階級差の存続を暗示しているのかな。
2004/09/14 火
ビデオにとっておいた『八月のクリスマス』を見た。小さな写真館の30男。死病でまもなく死んでいくことを自覚している男と家族。駐車違反を取り締まる仕事をしている若い婦人警官との恋というには淡い交流。
画面にあふれる八月の光のがとてもよかった。55歳になって、母の死んだ年を越えたと思っても、まだまだ死を受け入れる度量はない。
韓国と私の距離でいうなら、「このような映画を撮ることのできる国、韓国」への評価がグンと高くなった。
映画は98年公開のものだったが、世評高いのは知っていたのに、私の中では韓国映画といえば『風の丘を越えて 西便制』が最高のものであって、ほかの映画はなかなか見に行く気になれなかった。
8月のクリスマスもテレビ放映を録画したもの。「猟奇的な彼女」や「ラブストーリー」は、面白くはあったが、「この映画を作った国を尊敬する」というところまでは思わなかった。
生と死を静かにみつめ描き出す夏の光と雪の光景。撮影監督の遺作であり、この映画を撮り終えて亡くなったのだと知る。だからこそのあの光、あの画面だったのかと思う。とてもすばらしい光。文学作品と映画を比べて、映画ならではの魅力とは、1俳優の姿と表情、2に光。3にアクションとスペクタクルと思う。1のハンソッキュの演技もすばらしいが、画面の構成と光のとらえ方に感心した。室内の様子も、町の様子もとてもいい。ジョンウォンとタリムの間にあるガラス窓(透明だけれど通過はできない)もいい。
韓国社会では父の力が絶対で、跡取り息子といえども、隠居した父を尊重するという固定観念で韓国の父と子をみてきたが、ジョンウォンはちがった。新しい機械に弱い父のために、ビデオの操作を一生懸命おしえ、覚えられない父のためにメモを書く。雷のよる、せまってくる死への不安から、幼い日のように父のふとんにもぐりこむ。とても自然で真の親子の情愛にあふれていた。これまで見た韓国映画では父親はいつも強権的で息子の人生にのしかかるものであったから。
『死ぬ瞬間』を阿子さんに朗読した。そのC・ロスが今年八月に亡くなっていた。78歳だったという。彼女なら、自分が死に向かっていく心理を克明に記録しているのではないかと思う。遺稿があるなら読んでみたい。
2004/09/15 水
『8月のクリスマス』『みなさんさようなら』『ビッグフィッシュ』の3本とも、主人公が死んでいく話。カナダケベックのフランス語圏、英語、韓国語。三組の父と息子。
8月のクリスマスは、死ぬのは息子のほう。内容も父と子の関係より、主人公ジョンウォンと駐車違反取り締まり警官の若い娘タリムとの淡い恋が中心で、少しちがうが、私にはやはりこの韓国映画が一番心に残った。画面の美しさもさりげないセリフも一番ぴったり合う。
カナダの『さようならみなさん』は、父と子の和解と、父を息子が見送る物語。資本主義の申し子のように石油取引を行って高い年収を得ているディラーの息子と、1950年生まれ、マルクス社会主義実存主義構造主義を渡り歩き、結局一冊の本も書かずに終わった父との、最後の日々。父と息子は長年お互いを理解できず交流を断っていた。
女にはもてたが、金とは縁がなかった社会主義の歴史学者レミ。息子セバスチャンは証券ディラーとして稼いだ「金の力」で「快適な最後のひととき」を父におくらせるためにあらゆる努力を惜しまない。病院の制度をかいくぐり、金の力で広い病室を確保し、痛みの緩和のためにヘロインを入手し、父と青春を共にすごした親友を呼び集める。
最後に息子と父は生き方は違うけれど愛しあっていることを認め合い和解する。友人の別荘を借り、笑いあって最後の日をすごしたのち安楽死へといたる。
2004/09/15
『ビッグフィッシュ』の息子ウィルソンと父の間にも溝がある。いつも「ホラ話」ばかりしている父エドワード。大男やサーカスや不思議な幻の町や戦争の手柄など、幼いころには胸ときめいた話だが、大人になってしまえば馬鹿ばかしいホラ話としか思えない。結婚式にいつものホラ話を披露した父に腹をたてた息子はそれから3年間父親と口をきかなかった。父のもとへ戻ったのは、父親が危篤になってから。
父の思い出がつまったガレージを整理していて、息子はしだいに父のホラ話が、全部でたらめではなかったことを知っていく。誇張や話に尾ひれをつけて面白おかしくした部分も多かったけれど、大男との出会いやサーカスで働いたこと、不思議な町とのいきさつなど、実際にあったことだったと知る。
父の葬儀にたくさんの昔の友人たちが集まってくる。父が従軍中に出会ったというシャム双生児の歌手も、実際はただの双子だったが、本当にいたのだった。
韓国の父は息子に写真館をゆずってからは、新しいコンピュータの現像機械の使い方もわからない。しかし、息子は父を愛し父は息子の早世を知りながらもできる限りさりげない日常をそのまま続けようとしている。
カナダケベックの父は、息子が自分の主義主張や歴史学への興味をまったく受け継がなかったことを残念に思い、息子が資本主義の申し子のような証券ディーラーとして稼ぎまくることに違和感を隠さない。息子は父が母以外の女性とのつきあいを繰り返すこと、母のもとに帰らないことを許せない。息子は意地のように「自分の稼いだ金を父の最後の日々の安楽のため」に注ぎ込む。束の間の和解だったが、最後にお互いの世界を認め合うことができたように見える。父の死後、息子は石油や株の売買の世界にもどる。たぶん、彼の中に、お金だけではない世界のきれはしが生活のなかに残ったのだろうとおもう。
アメリカの父と息子、ビッグフィシュのエドワードとウィルは、カナダと逆。父は社交性に富むセールスマンとして成功し、念願のプールと白い柵のあるこぎれいな家とでかい車を手に入れ、美しい妻との生活に満足している。アメリカンドリームの体現者ともいえる。どでかいホラ話にきこえる自分の若い頃の冒険譚を周囲の人に語って、おもしろがらせることが楽しくてたまらない。
息子は、父のホラ話がいやでたまらない。彼の選んだ職業はジャーナリスト。事実を見つめ、事実だけが伝える価値のあることだと思っている。父の冒険譚が、尾鰭はついているものの、でたらめな話ばかりではなかったと最後に知る。自分の出生に立ち会ってくれた老医師から、自分の誕生したとき、父は仕事中で分娩に立ち会えなかったことを残念がっていた、という「ほんとうの話」をきく。父の語る「息子が生まれた日にはでっかい魚を釣り上げて、以前に魚にとられた金の結婚指輪をとりもどした」というホラ話は、でたらめではあったかもしれないが、息子の誕生になにか息子のためにしてやりたかった父親の願いから生まれた話だったのだろう。
息子は最後に、父の死にまつわる話を創作する。父は川に戻り、大きな魚に変身してそれからは水の中で暮すのだという話。父が「子供の頃魔女の目の中に自分の将来の死に方をみた」というその予言と息子の話がおなじだったかどうかはわからないが、老いた父は、息子が自分のホラ話の意味を理解したと思い満足して死んでいく。
三つの死と三組の父と息子。
やはり私には「八月のクリスマス」が一番感覚に合う。原作をよんだとしたら、たぶん死を覚悟した30代の男に悲しみだけを意識してしまうのではないかと思う。スクリーンにあふれる夏の光があり、道に積もる雪の白さがあってはじめて、告白することさえしなかった淡い恋を含めたジョンウォンの短い人生が肯定できる 。映像の力だと思う。
2004/09/16 木
テレビドラマ 『南くんの恋人』最終回を見た。
最終回には絶対に「とんでもないハプニング」が起こってフカキョンは元の人間サイズにもどって、めでたしめでたしで終わるのだろうと予想していたが、ちがった。
フカキョンちよみは、リカちゃん人形サイズから戻らずに、これからもずっと南くんのポケットの中にもぐって生きていくらしい。これは意外な展開というか、今までのテレビドラマにはなかった結末。どんなに「フツーじゃない」相手であっても、相手の「フツーじゃなさ」を引き受けて、共に生きていこうとするっていう、昨今の共生の理想を実現したかのごとき結末。さすが、内田春菊。でも、原作がこういう終わり方なのかどうかは不明。
一時的なリカちゃん人形化なら、女の子にとって、
1,小さくてかわいがられる
2,恋人から最大限の努力で守ってもらえる
3,そのくせ恋人へのサービスは何もしなくていい。家事もセックスもサービス不要、という、とっても都合のいい生き方ができるのだ。
しかし、一生リカちゃん人形でいるとしたら、男にとってはしだいに負担が重くなる。
1,人形サイズとはいえ生きているのだから世話をするには人形相手なみにはいかない
2,家事もメイクラブもできない相手を純粋に「そばにいてくれるだけでいい」と言っていられる期間は、人によりけりではあるが一般的にはそれほど長くはない。
3,メイクラブなしゆえ、子供を持つことは断念する。
すなわち、よほど強い愛情か、よほど強固な人形フェチが必要になる。人形フェチはおのれの幻想のまま人形を相手にできるが、サイズは人形でも生きている相手ではわがままもいうし、いじわるもする。思いのままにあやつれる相手ではないとすると、人形フェチ男はすぐにもてあますだろう。つまり、人形サイズちよみを引き受けて、ちよみをポケットにいれたまま駅伝で走ることのできる南くんは、徹底鉄人哲人である。
南君、がんばれよ!
2004/09/20 月
録画しておいた『ボーリングフォーコロンバイン』を見た。
マイケルムーアは、このころもかなり太いが、『華氏911』の現在では、一段と太ってきていたことがわかった。
ドキュメンタリーの作り方として、画面の構成の仕方とかわからないし、途中で眠くなったところもあったが、主張したいことが一貫して強烈に画面から飛び出してくることがわかった。この強烈な主張だから、あれほど話題になったんだね。
カナダとの比較で、アメリカ社会に銃による殺人が多いのは、決して銃そのものが社会に氾濫しているからではなく、貧困対策を怠り社会格差を放置しているアメリカ社会の構造による、という主張も強いし、武器は防御のために有効ではなく、安心できる安定した社会を築くほうが、治安の役にたつ。武器をどれほど投入しようと、武力は対抗する武力を生み出すだけで、決して平和な社会にはならない、という主張もわかりやすく表現されていた。
まず、率直に話し合うこと。全米ライフル協会会長のチャールトンヘストンが「自分に都合の悪くなる話し合いを拒否するキャラクター」として使われているのは、むかしベンハーや猿の惑星に心躍らせたファンとしては、つらいところだった。
2004/09/24 金
夜、『ジャンヌダルク』を見た。劇場公開時はR12指定。残虐場面があり、12歳以下の子どもに見せてはならないという指定。
テレビ放映にあたっては、そのような残虐シーンはカットして放映できるようにした、というおことわりがあった。
しかし、それでもなお、敵兵の首がごろりところがり、手首が切り落とされ、ラストシーンは、ジャンヌ火刑。リアルに人の燃えていく様子をCGで表していた。CGとわかっていても、人の形が炎に包まれ、人自身の油によって燃えていくようす、こわかった。
私たちは、よくよくホラーや残虐シーンに弱い。
19歳で死んだジャンヌ。炎の中できっと「主よ、なぜ私をお見捨てになったのですか」と問うたにちがいない。
17歳のジャンヌが神の声を聞き、王太子シャルルの軍をひきいたこと、このベッソン映画だけでみるなら、神懸かりの異常心理状態に思える。
ジャンヌを裁いた協会や英王国側の人たちの側からいうなら、ジャンヌは現代の「地下鉄にサリンをまいてソンシの聖なる王国を守ろうとした人たち」となんら変わらない。
500年たって、ようやく聖女に列っせられたジャンヌ、さまざまなジャンヌ物語が繰り返し映画化されてきた。それだけ魅力的なキャラクターである。ベッソン&ミラ・ジョボビッチのジャンヌは、狂信的で一方通行的なキャラに設定されているけれど、私はボーイッシュミラはいい感じと思う。
2004/10/11 月
夜、『山の郵便配達』を見た。原作ポン・ジエンミン(彭見明)フォ・ジェンチイ(霍建起)監督作品
父親トン・ルゥジュン(滕汝駿) 息子リィウ・イェ(劉Y) 母親ジャオ・シィウリ(趙秀麗) トン族の娘チェン・ハオ。 息子役のリィウ・イェは、本作で金鶏賞最優秀助演賞にノミネート。また郵便配達に同行するジェパード犬“次郎坊”は、名演。
『山の郵便配達』は、チャン・イーモウ『あの子を探して』を押さえて中国金鶏章を受けた作品。岩波ホールで上映されたときから見たいとは思っていたのだが、ずっと見るチャンスがなかった。テレビ放映をビデオにとっておいて、夏休み中も見る時間がなくて、やっとみた。あらすじは知っているし、泣き所も聞いているし、予備知識はいろいろあったが、やはり中国の山里の風景は圧倒的な存在感を持っていて、見る価値はある。
原作の短編『あの山あの人あの犬』というタイトルどおり、山と人と、そして郵便配達お手伝い犬、名前は「次男坊」が、それぞれとてもいい。
孫からの手紙だけを楽しみに生きる目の見えないおばあさん、新聞記者になりたいという夢を抱く通信教育を受けている少年、少数民族の結婚式など、村人と配達人のふれあい。父と息子の郵便配達に忠実に従い配達の助けになる愛犬次男坊。犬はとっても演技派だし、おばあさんは、韓国映画「おばあさんの家」のハルモニと同じくらいいい感じ。
仕事ひとすじで不在がちの父と心が通い合わないと思っていた息子は、二泊三日の配達の山旅で、父の仕事を尊敬し母や息子への家族愛も確認する。
父は、老齢と足の怪我により仕事を退職せざるを得なくなった。「こんなきつくて酬われることも少ない仕事は一代で終わりにしたい」と思うこともある妻の意向を押さえて、息子を後継者として推薦する。支局長にもなれずに一郵便配達で生涯を終えることになる自分だったが、人と人の心を結ぶ仕事に誇りをもって続けたことを息子に伝えるために、息子の最初の配達の旅に同行する。
息子は、日頃不在がちな父に隔たりを感じ、「お父さん」と父親に呼びかけることさえしてこなかった。その息子が、渓流を渡るときは、足の悪い父親をがっしりと背負ってやる。父は息子の成長を思い涙する。
山里出身という母親は、雛にはまれな美人だし、息子の嫁になってほしいと父が願う少数民族トン族の娘も美人。実際に山里にいそうな生活感ある人でなく、美人を画面に出さないことには中国での映画ヒットにならないのかもしれないけれど。今は結婚や恋愛まで気がむいていない息子も、いずれ仕事になれてきたら、この娘を嫁にむかえるかもしれない。
ハタからみたら酬われること少なく苦労ばかり多いように見える仕事を、黙々淡々と続ける多くの人の人生へのオマージュと思える。ストーリーにもっともっと波瀾万丈を加えることもできただろう。父親が崖から足をふみはずして失神したときのことも、父親の口からさりげなく語られるだけだし、出会いから結婚、子どもが生まれたときの喜びも淡々と思い出される。破綻もなく予定調和のように話が終わるが、私はこれでいいと思う。
私はロードムービーが好き。車でも歩いてでも、主人公が移動しながらさまざまな人に出会い、過去を思い出したりしながら話が進んでいく形式が好み。
『初恋の来た道』と、印象が共通する。「初恋〜」は、両親の恋愛話を通して父親の仕事を理解する息子だったが、こちらは、直接父と子が仕事を共にし、両親の恋愛は父の思い出のなかに語られる。
この前テレビ放映で見た『ダイハード1988』16年も前のアクション映画だけど、楽しめた。巨額の制作費がかかったろうし「限定空間」「巻き込まれ型」「孤軍奮闘」「ゲリラ戦」などの古典的設定を全部ぶち込んで、ヨリを戻す夫婦愛や、銃を撃てないトラウマから回復する黒人刑事などの脇ストーリーも巧みで、とてもおもしろかった。
火薬をバンバン爆発させるハラハラ度抜群のハリウッド映画と比べれば、『山の郵便配達』は、低予算でどれだけの作品ができあがるかのぎりぎりだったというが、私に「どちらか一本を選べ 」と言われるなら、『山〜』を選ぶ。これは好みの問題。
2004/10/18
フェルメールの絵の中のひとりの少女。だが、本当の映画の主人公は、フェルメールでも少女でもなく、フェルメールが画面に取り入れた光そのものであるのかもしれない。
17世紀オランダの天才画家フェルメールが遺した、ヒヤシンス・ブルーのターバンを巻いた少女の肖像。主人と使用人、画家とモデルに通いあう密かな思い。だが、フェルメールが制作を続けるためには、妻の存在が第一であり、モデルへの想いは、秘めるしかない。
フェルメールの光と影がひたすら美しい。
2004/11/14
もし、この映画が、ごく普通に日本の港町場末にあって、草薙たちが日本語でセリフを言っていたら、映画のもつ味わいが半減か、それ以上に減るだろうと感じた。
言葉を全部聞き取れる映画と、字幕にたよる映画のちがい。
ここが日本でなく、ロシアかカナダか、よその国のさびれた港町である設定。
2004/11/14
兄と弟がひとりの人を想う、という三角関係はよくある話。
兄と弟が同時に事故にあい、弟だけが一命を取りとめる。そして、弟は「魂と肉体が入れ替わった。自分は兄だ」と兄の妻に主張する。
韓国映画にはまっていない私としては、イ・ビョンホン様に中毒になることもなかったし。
2004/11/15 月
夜、シュレックを3人でみた。おもしろかった。フィオナ姫がいままでにないお姫様キャラクターだった。
フィオナ姫は、「昼は美しいお姫様としてすごし、夜は醜い怪物姫としてすごす」というのろいをかけれている。勇敢な騎士が救い出してくれるまでお城の塔で一人暮らしを続け、勇者のキスでのろいがとかれるのを待つ。これまでに何人もの勇者が城へやってきたが、皆ドラゴンに阻まれた。
「王の地位につくためには姫との結婚が条件」と、魔法の鏡に言われ、悪役ファークアード卿は悪巧みを思いつく。ファークアード卿の命令により、緑色で耳がラッパ型のシュレックが、相棒のオシャベリドンキーといっしょに姫救出に向かう。姫を守るドラゴンがメスだと見抜いたロバ君とシュレックは姫を助け出す。
姫は自分も夜はシュレックのような醜い怪物の姿になることをシュレックに言わないまま、ファークアード卿との結婚式をむかえる。ファークアードのコンプレックスは、背が異常に低いこと。
姫は乗りこんできたシュレックとキスし、のろいはとける。彼女の本来の姿は、怪物だった。
シュレックとフィオナは、森の奥の沼で仲良く暮しましたとさ。めでたしめでたし。
政治的に正しいおとぎ話に、各種パロディを取り入れて、大人も笑える作品にしてあるところがミソ。
ただし、文句がでそうな部分がふたつ。ファークアードのコンプレックスを「異常に背が低いこと」にしたので、ホルモン異常のために身長が伸びない病気をもつ人たちの団体からクレームがこなかったのか。「背が低いこと」は「醜いこと」と並んで、「今の世の中では評価が低い要件」になるというメッセージを子どもたちに与えてしまうではないか。
その2。フィオナとシュレックが仲良く結婚生活ができたのは、同じ怪物容姿のふたりだから、というメッセージを与えてしまわないのか。もし美しい容姿がフィオナの本体だったら、どうだったのか。あるいは怪物のシュレックがキスしたから姫は怪物のほうの姿になったのであり、ファークアードがキスしたら美人姫の姿になったという可能性はないのか。
シュレックは自分を「醜い怪物であり、人間から嫌われる存在だ」と思いこんでいるが、映画ではもちろん奇抜なスタイルではあるが、万人に好かれるかわいらしい要素で作り上げてある。本当に人に吐き気をもたらすような醜い怪物だったら、フィオナはどうしたのだろうか。
異文化交流結婚というなら、ドラゴンとロバの結婚のほうがずっとインパクトがあってよろしい。
2004/12/09 木
2コマ授業のうち、1コマは『アンダルシアの夏』をみた。47分のアニメで、短いから選んだ。スペインで行われた自転車レースの話。
留学生たちは半分は日本語がわからないところがあったと言っていたが、ストーリーは単純だから、わかったみたい。
チームメートを勝たせるための「逃げ」役をおわされているぺぺ。地元出身で、レース当日はぺぺの元恋人と、ぺぺの兄の結婚式が行われる日。
ぺぺは、チームメートを勝たせる逃げのはずが、彼のリタイアのため、最後まで逃げ切る賭けに出る。このレース限りでスポンサーから首にされるところだったが、最後の最後に逃げ切り、優勝する。
監督は自転車レースが趣味のジブリ出身の人。自転車での疾走感はよくでていた。そのぶん、人間ドラマは希薄になって、留学生カンさんの感想文には「授業だからみたけれど、お金を出してみたらソンした気分になったろう」と正直な感想。
2004/12/27 月
3人で『下妻物語』を見た。私は『世界の中心で間をさけぶ』も見た。
まっき〜bbsへの感想書き込み
評論する人がみんな「ダメ」といい、まっき〜さんもワーストの烙印を押したので、もしや逆転大傑作なのかもと思って半ば期待で『セカチュー』みました。
テレビも「ふたりで泊まった廃墟ホテル」のあと、アキが入院してから見る気がなくなってやめたのですが、映画もアキが入院してから、気力失せました。でも、ケチだから映画館で寝ちゃうことはめったにありません。セカチューもちゃんと全部みました。
Goがよかったから、行定監督に期待、1967年のNHK三姉妹以来ウォッチングしている山崎努、テレビウォーターボーイズで暗めなところがよかった森山未来、『解夏』では泣けた大沢みきお、「これだけ見られる要素があるんだから」と思うのに、後半はだるだるでした。
でも、これで健全な青少年が活字を読む習慣をとりもどしたっていうんだから、原作は偉大な作品だと思っています。読んでないけど。
これが今年の見納め作品になっちまうみたい。
2004/12/27
まっき〜bbsつづき
二本立て併映の『下妻物語』は、笑えたのでよし。でも、東京の観客は「980円のジャスコのシャツ」とかで、笑わないんです。私は大笑いだったのに。これは、ジャスコの立ち位置を把握できる人の笑いどころかも。
原宿あたりのブティックや銀座ブランド通りの商品には無縁の人々の側、田舎スーパーで「安い」を価値基準にして服をさがす人々の側にいないと笑えないのかも。今でもヤンキーが「文化」である地方に暮す悲哀やら、いろいろ面白かった。
ちなみに、北毛の住民は館林を「ほとんど茨城」と思っています。
「下妻物語」原作巖本野ばら。最後のヤンキーケンカシーン。牛久大仏前っていうのがローカルで笑えるが、ヤンキーたちの「権威のよりどころ」が、イチゴの作り出した架空のレディスアタマのヒミコというところが、この映画のミソ。
私たちが権威として利用しているものが、所詮だれかの作り出した架空の存在なのだ。桃子がそれを逆利用してヤンキーたちを封じ込めるのは、ま、ご愛嬌。

