Workshop for Nipponianippon Communicative Language& Culture Studies


ポカポカ春庭の映画いろいろあらーな
| 2005 日付 |
タイトル |
監督 |
主演 |
ノベライズ執筆 |
| 2005/09/03 |
八月の鯨 |
L.アンダーソン |
L.ギッシュ B.デイビス |
春庭榛名 |
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この『八月の鯨』ノベライズは、視覚障害者のために企画しました。
この映画の鑑賞を希望している友人A子さんは、全盲のため、字幕の洋画を楽しむことができません。映画『八月の鯨』ビデオには、吹き替え版がなく、字幕版のみです。
A子さんから私に、この映画を鑑賞したいので、セリフ字幕部分を朗読してくれないか、とリクエストがありました。
私は図書館の朗読ボランティアとして、A子さんと長年のおつきあいをしています。図書館で一冊の本を間にし、私は朗読し、A子さんは耳を傾ける、という読書をふたりで行ってきました。
今回は、直接朗読をするのではなく、ノベライズとして、『八月の鯨』を文章化しました。パソコンの音声対応機種を使えば、他の視覚障害者も利用できると考えたからです。
映画の著作権関係者の方へお願い
一般書籍のなかに、「視覚障害者のための朗読テープ作成の場合、著作権を放棄する」と、明記されたものもあります。著作権を守ることは重要だと考えますが、視覚障害者のための、音声テープ作成、パソコン音声対応文章化作品に対して、ご高配たまわれば幸いです。
もし、このページが何らかの問題を含むようでしたら、すぐに閉鎖しますので、トップページにあるメールでご連絡下さい。

ノベライズ「八月の鯨」The Whales of August
<出演>
リビー :ベティ・デイヴィスBette Davis (Libby_Strong)
セーラ :リリアン・ギッシュLillian Gish (Sarah_Webbr)
マラノフ :ヴィンセント・プライスVincent Price (Mr._Maranov)
ティシャ :アン・サザーン(Tisha)
ジョシュア:ハリー・ケイリー・ジュニアHarry Carey Jr. (Joshua)
<スタッフ>
監督 : Lindsay Anderson リンゼイ・アンダーソン
脚本 : David Barry デイヴィッド・バリー
撮影 : Mike Fash マイク・ファッシュ
音楽 : Alan Price アラン・プライス
編集 : Nicolas Gaster
字幕 : 進藤光太 シンドウコウタ
メーン州の海。小さな島の入江。静かな避暑地に、別荘が建っている。60年前のなつかしい光景がモノクロの光の中に浮かび上がる。
凪の海にさざ波をたてて、小さなボートが入江の中をすべっていく。
若いティシャが入江の道を、別荘へ向かって走っている。白いワンピースのフリルと髪のリボンを揺らしてティシャは叫ぶ。「来たわよ、リビー」
別荘のポーチに座っていたリビーが立ち上がった。テイシャは二階の窓へも声を届かせる。「見えたわ、セーラ」
声を聞きつけて、セーラも二階の窓を開ける。
「ティシャ、見たのね」「ええ、見えたわ、むこうよ、早く、早く、行ってしまうわ。走ってよ」
セーラが別荘から飛び出してくる。
「さあ、早く来て」と叫ぶテイシャと手をつないで、セーラは海辺へ向かって駆け下りていく。
「リビー、早く早く!」ふたりが騒ぎ立てる中、リビーはおっとりと帽子をかぶって出てきた。
テイシャとセーラは、ボートの青年にむかって叫ぶ。「ランドールさん、鯨が見えた?」青年は「お早う、みなさん」とボートから挨拶をおくる。
「鯨は来たの?」娘達の質問に、「今見えたよ、向こうで」と青年は答えた。
リビーは落ち着いて岬から双眼鏡をのぞいている。波の向こうに、鯨の背が見える。「ねえ、リビー、見せてよ、早くして」三人の少女達は双眼鏡を奪い合うように、かわるがわる鯨を見つめた。
毎年八月にやってくる鯨を、今年も三人の少女たちは、見ることができた。たぶん、来年も、その次の年も、、、
セピア色に沈む思い出の海。波は穏やかに揺れ、ときは静かに流れる。
60年後。
海辺に夏の終わりの波がうちよせている。別荘は古びたが、60年間変わらない夏の光が、庭やポーチにふり注ぐ。
年老いたセーラが洗濯物を干している。セーラの髪はすっかり白くなり、背は丸くなった。しかし、家事をこなす手つき、海をみつめる瞳は昔のままだ。海風に洗濯物がゆれている。
セーラは波打ち際に近づくボートを見つけた。
ボートから一人の老人が降り立った。老人はボートの持ち主ランドール老人に礼を言っている。「ありがとう、ランドールさん」
「お気をつけて」と声をかけ、ランドールはボートをこいで去っていった。
古い家具が並べられている別荘の中。物干しから戻ったセーラは「朝ご飯、できてるわ」と、居間からリビーに呼びかけた。返事はない。
海風が白いカーテンをゆらしている。
セーラは庭に出て、バラの花を摘み始めた。赤いバラ、白いバラ。リビーとセーラ姉妹の母が丹精をこめたバラの庭。バラの花のひとつひとつ、亡き母や、若い頃の自分や、若くして亡くなった夫の思い出が香りをたてているように思え、セーラは蕾のひとつひとつにもやさしいまなざしを投げかけた。
リビーは自室から出て、「セーラ」と、呼んでみる。庭にいるセーラには聞こえない。ナイトウェアのリビーは手探りでお茶のポットをさがしあて、カップにそそぐ。年老いたリビーは目が見えなくなっている。リビーは窓際のお気に入りの揺り椅子に座り、お茶を飲んだ。
庭でバラを切っているセーラに、ボートから下りてきた老人が「おはよう」と挨拶した。「美しい朝ですなあ」
「あら、マラノフさん、ボートでいらっしたの?」
「ええ、ランドールさんのボートでね。美しいバラですね」老人はバラを誉めた。
「ええ、きれいでしょう。いい匂いよ」セーラはマラノフ老人に、つみ取ったバラを見せた。
「ところで、お願いがあるんです」ポーチでマラノフは礼儀正しく頼み事をはじめた。
「ええ、うちの浜で釣りをしたいのね、いいですよ、いつでもどうぞ」セーラは快くマラノフの釣りを許した。
窓辺のリビーにもマラノフの声が聞こえている。マラノフの頼み事は、リビーには不満だ。なんで他人がうちの浜に。マラノフがなれなれしくセーラと話すのも気に入らない。
「お宅の浜の魚が島じゅうで一番です」
「あら、べつにうちの魚じゃ、ありませんのに」
「釣れた魚はお分けしたいと思うのですが」
「まあ、ご親切に。喜んでいただきますとも」
「時期がいいですからね」と、マラノフ。
「そう、よく釣れるころですね。潮の変わり目だし」
「にしんが来ますよ」マラノフは釣りに自信がありそうだ。「じゃ、釣りに行ってきます」
「幸運を」セーラはポーチでマラノフを見送った。
セーラは居間に戻り、用意した朝食がそのままになっているのを見つけた。
「いやだわ」セーラはつぶやく。リビーは何も食べていない。このところ、リビーの気むずかしさが一段と強くなっている。
セーラは台所で、バラを花瓶に生けた。
「ノドがかわいたでしょ。おいしい水をあげるわ。気持ちがよくなるわよ」セーラは、いつでも、花や家具に語りかける。両親とすごした家具たちであり、母が丹精した花たち。セーラにとっては、すべてが身内と同じ存在だ。
居間の家具をふきながら「どうしてホコリがたかるんだろう」と、セーラは語りかける。
母親の写真にむかって「おはよう、おかあさん」と、朝の挨拶を忘れない。自分がが死んだ時よりももっと年取っている姿の娘を、天国のお母さん、想像できるかしら。ふふ、無理でしょうね。こんなおばあさんになってる娘だなんて。
暖炉の上におかれている、夫の写真へもしみじみと語りかける。「フィリップ、あなたと結婚してから46年目よ。早いものだわ」
ワンピースに着替えて部屋から出てきたリビーは、「独り言いってるの?」とセーラたずねた。
「ええ、そうよ」セーラは受けながす。
「だれか返事したの?」と、いじわるを言うリビー。
「返事はまだよ。お茶が冷めるわ、オートミールもね」セーラは気にせず答えた。
リビーは揺り椅子に腰をかけると「もう冷めちゃってるわ」と、冷めた声でいう。
「でも、朝ご飯はちゃんと食べないと」セーラにはリビーの体調が気がかりだ。
食事を気にかけるセーラを無視して、リビーはたずねた。「これ、ブルーのドレスなの?」リビーには、自分の服の色がわからない。
「そうね、早く直さないと」セーラは、リビーのお気に入りのドレスのほつれを気にする。食事も、繕い物も、リビーの世話すべてがセーラの役目なのだ。
「あら、靴をはいていないのね」リビーの足にセーラが目をむけた。
「見つからなくて」リビーは、必要以上の努力はしない人だ。
「ベッドの下じゃないの?取ってくるわ。でも、リビー、何か食べないと」
セーラの心配をよそにリビーは言う。「ブルーはいつも私の好きな色だったわ」
「すぐに戻るわ」と、セーラはリビーの部屋に靴を探しにいこうとする。
「答えてくれないの?」リビーは呼び止める。
「なあに?」
「ブルーのドレスかどうかよ」
「ええ、ブルーよ」
「ちゃんと返事するの忘れないで」リビーは高調子に決めつける。
「ええ、わかったわ」セーラはリビーの気性を心得ている。
「何してるのよ」セーラの行動をいつも気にするリビー。
「ホコリをはらっているの」
「あなたはいつでもセカセカと忙しくしてる。フィラデルフィアの私の家なら、、、」そんなにセカセカしないでも暮らせるのに、とリビーの言い出しそうなことを言わせずに、穏やかにセーラは言った。「あそこは夏、暑いわ」
リビーの減らず口は止まらない。「暑いのが好きなのよ。暑くて忙しく働く気になれないところがいいんだもの」
「でもね、ここはメーン州の私の家よ。誰かお掃除しなくちゃならないでしょ」セーラは冷めた朝食を片づけだした。
浜ではマラノフが釣りを続けている。
午前中の居間は静かだ。
リビーは点字の本を読み、セーラはバザーに出すぬいぐるみ作りにせいをだしている。
「今度は何をしているの?」リビーはセーラがどこで何をしているか、いつも気にする。
ぬいぐるみの腹に詰め物をする手を休めずに、セーラは答える。「バザーに出す動物を作っているの」
「遅いわね、いつも8月までに終わっているのに」
「今年は数が多いから」
「毎年、町のバザーは、あんたにおんぶして」リビーの口調が辛辣なのは、若い頃からだが、目がみえなくなってから一段とことばがきつくなった。
「慈善のためですもの」
「この世は慈善でいっぱいだわ」
「その通りね」セーラはリビーの皮肉を気にしない。
「これはコアラよ。木の上で暮らしていて人が大勢いると下りてこないの」セーラはコアラのぬいぐるみの仕上げに余念がない。
「まあ、利口な動物ね」
「わたし、いいもの見つけたの」セーラは引き出しに手を伸ばした。
「なんなの、セーラ」
「立体スコープよ。覚えている?スコープにいれて覗いて見る写真も出てきたの。全部、昔の家族写真。あなたに見せたいわ。あなたと私とティシャが入江にいる写真、フィラデルフィア時代のもある。テニス仲間のひとりや、すっかりおめかししたお父さんとお母さん」
セーラはスコープに写真を入れて、眺めた。ピクニックの写真、水着を着て遊んでいる浜辺の写真。みな若く、幸福そうだ。
リビーには、もう写真は見たくても見えない。リビーにできるのは、遠い昔を、目の中でさぐることだけなのだ。
「これはオークションに寄付するわ。昔はとても高価なものだったけど」
セーラの決意にリビーがまた皮肉を返した。「私たちもセリに出したら、高値がつくかもね」自分の皮肉に自分ひとりで笑いながら、リビーはセーラに頼む。「写真はオークションに出さないでね」目が見えなくとも、思い出の写真は手元におきたいのだ。
「ええ、もちろんよ」
「ラジオ聞かない?」セーラはリビーの楽しみを忘れない。「アーサー・ゴドフリーの時間だわ」
セーラが入れたラジオのスイッチをリビーは、すぐに消してしまった。
「お気に入りの番組なのに」
「今は聴きたくないの」
「具合でも悪いの」セーラは心配になった。
「大丈夫よ、この時期になると骨が痛むだけ」リビーが揺り椅子から眺める海は、静かに波を寄せている。
「今朝、誰かが来ると言わなかった?」
リビーの質問にセーラが答えた。「ええ、ティシャが来るわ」
「じゃ、靴をはかないと」
「あらまあ、忘れてた、寝室からすぐ持ってくるわ」
「サングラスもね」
セーラはリビーのベッドの下から靴をみつけ出した。リビーのどんな要求も、セーラは黙って静かにこなしてきた。
ティシャの訪問を前に、セーラはポーチでリビーの身だしなみをととのえてやる。
「見苦しくないようにね」リビーはセーラに注文した。
「いつもきちんとしてるわ」
「あんたには迷惑をかけているわね」髪にブラシをかけてもらいながら、めずらしくリビーがしんみりと言いだした。
「迷惑だなんておもってないわ」
「いつか迷惑だと思うようになるわ。だれでもそう、気がかわるから」
「わたしは大丈夫よ、あなたがいやにならなければ」セーラはリビーの銀髪をやさしくくしけずる。
リビーの白い髪がポーチに吹き渡る海風にゆれている。
髪をセーラにまかせながら、リビーは娘のアンナのことを話し出した。「アンナがいるのに、、、」
セーラは「アンナは、私たちを敬遠しているのよ」と、言う。音沙汰のない姪のことで、リビーにつらい思いをさせたくないから、「母親を敬遠している」ではなく、「私たちを」と言うしかない。
「アンナは私の娘なのにね」リビーにとっては、アンナとの疎遠は痛い。
「アンナは娘らしくないし、あなたも母親らしくなかったわ、リビー」セーラには、リビーのつらさがわかっている。
「仕方ないわね、あ、痛い」髪にブラシがひっかかった。
「じっとしてないからよ」セーラはリビーの白い髪をまとめ上げた。
「子どものころ公園で見た白鳥を覚えている?お母さんの髪は白鳥のようだった。私の髪もお母さんくらい白い?」
「ええ、そうよ」
「あなたの髪は今どんな色なの、セーラ」
「色があせたわ。茶色がすっかり消えてしまった」
「そう、すべてが消えていくわ。遅かれ早かれ」
「いつもそんなふうに言うわね」
「なぜ、年取った女の人は公園のベンチに座りたがると思う?」リビーのいつもの口調が戻った。
「なぜなの」
「若い恋人達に席をとっておくためよ。たとえ11月の木枯らしが吹いて、ベンチが消えたがったとしてもね」
「今はまだ8月よ」
セーラのあたりまえな答えにリビーは続ける。「時間なんて気にしないわ」
「そうはいかないわよ」
「そうね、人間には時間が重くのしかかってくる。マシューが亡くなったのは11月よ。言っとくけど、マシューが死んだ11月に、私も行くことになるでしょうよ」自分の老い先が不安になっているリビーにとって、11月はいやな月なのだ。
「セーラ、雑用を片づけなさいよ、私、ベンチを確保しておくわ」リビーは8月のおわりの気配に耳をすました。
夏の光は秋に向かって少しずつ変わっていく。
浜辺の灌木のなかにブルーベリーが実っている。今年はあまり出来がよくない。セーラとリビーの幼なじみ、ティシャが、久しぶりにふたりの家を訪れようと、おみやげにするブルーベリーをつみ取っている。ティシャも年には勝てず、杖の助けを借りて、一歩一歩慎重に歩いて、浜にでた。
磯浜ではマラノフが釣りを続けていた。小さな魚をつり上げた。
「お見事!」と、ティシャが声をかける。
「タウティさん、これはどうも」マラノフはつり上げた魚を掲げてみせた。
「今日は一段と美しいですな」如才なく挨拶するマラノフに、ティシャは「私の遺言状をお楽しみに」と辛辣な挨拶をする。遺言状の中に、どの友人にどんな形見を残すかを指定するのは、老人達の楽しみのひとつ。マラノフのお世辞は、形見のグレードを上げた、というティシャの皮肉なのだ。
「獲物は?」ティシャの質問に「あれやこれや、いっぱいです。ハタもつれましたよ」マラノフは得意そう。「ハタ、ここではなんと呼ぶんでしたか」
「カナーズですわ、マラノフさん。ブルーベリーいかが」
「いや、これはありがとう」マラノフはブルーベリーを一口つまむ。「おいしいです」
「よかった、でもヒルダはお気の毒なことでした、あんなに突然亡くなるなんて」
「ええ、かわいそうでした。あんな重い病気だったとは気づかなくて」マラノフは顔を曇らせて答えた。
「これからもヒルダの家に?家は彼女の娘さんが受け継ぐけれど」
未亡人ヒルダの家に居候しているマラノフが、これからどういう身の振り方をするのか、ティシャは野次馬気分なのだ。
「そうですね」マラノフは口ごもる。
「もう夏も終わりね。寂しいわ」夏が終わったあとのマラノフの身の振り方がどうなるのか、ティシャは興味津々だ。
「私はこの島に来るとくつろげるんです」マラノフはこの島の居心地に満足している。
「じきに落ち着き先も見つかるわ」ティシャは、行く当てのないマラノフに、適当ななぐさめを言った。「じゃ、大漁をいのるわ」
ティシャはマラノフに別れを告げて、セーラとリビーの住む家に向かった。幼なじみのふたりであるけれど、ティシャは気むずかしいリビーのほうはちょっと苦手。同じ両親から生まれた姉妹なのに、どうしてああも性格がちがうのだろう。
ティシャはまたブルーベリーを摘みつみ歩く。急ぐことはない、老人に時間はたっぷりある。
セーラは庭で水彩スケッチを楽しんでいた。夏の終わりの海、何度描いても楽しいモチーフだ。ゆっくりていねいに色をつけていく、セーラの絵は、セーラの性格そのままだ。
「セーラ!」リビーがセーラを呼びつける。「セーラ、どこにいるの?」
「庭よ」
「何してるの?」
「絵を仕上げているの」セーラは絵筆をうごかしながら答える。
「散歩にいきたいわ」リビーの要求は、待ったなしだ。
「ええ、わかった」セーラは絵筆をしまって、リビーのいるポーチへあがっていった。
「マラノフ男爵はうちの浜で釣りをしているわ」セーラが今朝のマラノフとの話をリビーに伝えた。
「あんな魚、持って来なきゃいいけど」リビーは迷惑そうに言った。
「リビーは魚がきらいね」
「ドブにいる魚よ」
「まさか、あそこは潮流も速いし、水はきれいだわ」セーラは入江の魚を悪くいいたくない。
「私は、あんな魚ぜったいに食べないからね。そりゃ、あんたはあの詐欺師を喜ばすために、何でも食べるでしょうよ」未亡人の家に取り入り、住み込んでいるマラノフに、リビーは気を許していない。
「まあ、詐欺師だなんて」
日課の散歩。セーラはリビーの腕をとって、海辺の道を歩いていく。古いデザインの麦わら帽子が、二つ並んで夏のおわりの光のなかをあゆむ。
「この週末には鯨が見られると思うわ」セーラは希望をもっている。
「そんなことあるもんですか」
「でも、鯨の季節ですもの」
「鯨はもう来ないわよ」リビーは悲観的だ。
「ニシンが来たのが、鯨のまえぶれよ」
「前触れだけでおわるわね」
海岸へ下る小径にはアジサイの花がゆれている。
「アジサイの茂み、とてもよく育っているわ」見えないリビーに、セーラは花房を近づけてやった。
「そうね、きれいみたい」リビーのまぶたには、若い頃の母の姿がうかぶ。
「私たちが若いころお母さんが植たんだったわ」リビーは遠く去った日々に心を向けた。
「そうね、私が看護学校を出た頃だったわ」セーラも若い日を思い出した。
リビーにとっては、アジサイの花も過ぎ去る年月に結びつく。「あなた、気がついている?私たち、ふたりとも、もうお母さんの死んだ年齢よりも上になったのよ」
「庭が好きだったわね、お母さん」
「あんた、子どものころ、鯨が季節を変えるって信じてたわね」リビーの思い出話はつづく。
「ほんと?」
「そうよ、お父さんが言ってたわ。鯨はしっぽで風をつかまえて、北極の寒気を連れてくるって」
「そんなこと信じてた?」
「そうよ、信じてたわ」
家のポーチに戻ったセーラは、散歩のあとの上気した気分が続いているうちにと、リビーに話をしてみる。
「ねぇ、いいと思わない?」セーラがポーチから古びた窓をみながら言った。
「何がいいって?」リビーは手探りでポーチの鉢植えにじょうろの水を注ぎはじめた。
「ここに大きな見晴らし窓をつけたいよの」セーラはポーチに面した窓の改装をしたいと思っていた。「前から欲しかったの」
「お金がかかりすぎるわ、セーラ」リビーはいつも悲観的、何事にも否定的だ。
「ジョシュアは作ってみたいって言ってるわよ」いつも家の修理を気軽に引き受けてくれる島の大工に、セーラは見晴らし窓のことを話しておいたのだ。
セーラのことばに、リビーはそっけなく返す。「そりゃ、あの人は、作れば代金をもらえるもの。それにセーラ、私たち、新しいものを作るには年を取りすぎたわ」
リビーのことばに逆らわないできたセーラだが、見晴らし窓のことでは、リビーの言うままにあきらめたくない。揺り椅子にす割っているリビーの横顔をセーラは黙って見つめ、居間に入っていった。
ティシャが裏庭で元気な声を響かせている。「こんちは、こんちは!」
「あら、ティシャ」
「ここまで歩いてくると、暑い、暑い」
「まあ、車じゃなかったの?」
「ブルーベリー摘みながら来たのよ」
「あら、いいこと」
ティシャは、裏口からなじみの家に入ってきた。
「ちょっと待ってね」セーラは台所へブルーベリーのバケツを持っていく。
「浜を歩きながらブルーベリー摘んでたの、そしたら、途中でマラノフさんに会ったわ」
「ええ、釣った魚をここに分けてくれるんですって」セーラはブルーベリーを鉢に入れてきた。
「頑固な年寄りはどこよ」ティシャはリビーの偏屈ぶりを心得ている。
「リビーはポーチに出てるわ」
「それじゃ、ここで気兼ねなく話せるわ。セーラ、あなたやつれたんじゃない、心配事あるの?分るわよ。リビーはイジワルだもの」
「別に」
「別にですって、それじゃ、下痢でもしてるっていうの?やっぱりリビーのせいだわよ」
ブルーベリーの鉢がおかれたテーブルを前に、ティシャのリビー批判は容赦ない。「わかってるわよ、50年来のつきあいだもの。話してみて、セーラ」
「リビーは、最近、死ぬことを口にするのよ」セーラは、心配事をティシャに打ち明けた。
「死ぬ、ですって。馬みたいに丈夫な人なのに」ティシャはポーチにいるリビーのほうへ顔を向けた。
「心の問題だと思うの」
心配顔のセーラに、ティシャは椅子を寄せて「気が弱ったってこと?」とたずねる。
「私の思い過ごしかも知れないけど」
「そんなことないわ、セーラ、あなた、看護婦してたじゃないの。リビーが年取ったってことよ」
「そんな、年だなんて」
「リビーはいつだって気むずかし屋だった。女盛りのころもそうだったわ。アンナには話したの?娘のアンナがリビーを引き取るべきなのよ」
「アンナは引き取ったりしないわ」
「なぜ?彼女、お金あるのに。母親の世話するの当然でしょ」ティシャは、おとなしいセーラが目の見えないリビーの世話にあけくれる日々をすごすことを気の毒に思っていた。
でも、セーラには、ティシャの意見は見当違いに思える。リビーの世話をするのがいやなんてことはないもの。
「セーラ、トルーマンのことば、知ってる?」
「知らないけど」
「お金は結局お金持ちのところに集まるものだって」
「そんなこと言わなかったでしょ」
「もちろん冗談よ。笑ってよ、セーラ」ティシャは自分の冗談で笑っているけれど、セーラの気分は晴れない。
「セーラ、あなたこのままでやっていけるの」
「やっていけるってどういう意味?」
「この家を維持していくお金、あるの」
「考えてみたことなかった」
「考えてもいいころだわ」
「リビーがこの家からいなくなれば、セーラ一人じゃ寂しくなるわ。ねぇ、私といっしょに住んだらどう?」
「そんな、あなたに面倒をかけられない」
「人生の半分は面倒なことで、あとの半分はそれを乗り切ること」ティシャは、仲良しのセーラといっしょに晩年を過ごしたいと願っているのだ。
ガンガンと大きな物音が家中に響いた。「ジョシュア!」リビーがかんしゃくを起こす。「ジョシュア、何してんの!」
「水道管の修理でさあ」ジョシュアが床下からどなった。
ポーチに出てきたセーラに、リビーは「静かにするようにジョシュアに言ってよ」と命じる。
「50年も言い続けたわ」セーラはあきらめ顔。
「おはようリビー」ティシャが声をかける。
「おはようティシャ」ふたりの挨拶はそっけない。
「ジョシュア、静かにしてちょうだい」セーラは床下のジョシュアに頼む。「水漏れは浴室のパイプなのに」
「徹底的に直しておかないと、あとがよけい大変になるんでさあ」ジョシュアは50年も出入りしているこの家のことを知り抜いている。
「お茶にこない?」セーラがジョシュアを誘った。
「そりゃ、どうも。いやはや大変な場所でね」ジョシュアは床下から言う。「床下に入るのに半日かかり、出るのに半日かかる」
「6月から修理を待っていたんだもの、10分くらい待つのは平気」
「床下はこの前来たときと、同じ。狭くてね」ジョシュアが床下から出てきた。
「お早うジョシュア」ティシャが挨拶をする。
「お早うございます。タウティさん」ジョシュアがポーチにあがってきた。
「調子はどうです、ストロングさん」ジョシュアはリビーへも挨拶する。
「もっと静かにできないの?」というのがリビーの返事。
「ええ、気をつけますよ。わたしにできるかぎりはね」
「リビー、いっしょにお茶をどう?」ティシャの誘いにも、リビーは「いいえ、ジョシュアの仕事が済むまで待つわ」と、揺り椅子から動かない。
「救いがたい人ねジョシュアって」と、ティシャはあきれ顔。騒々しく動き回ることにかけては、島一番の男だ。
「いやあ、お元気でしたかな」と、ジョシュアは気にしない。
「もう少し静かにしてよ」ティシャの頼みも、リビーのようすを気遣ってのこととわかっているジョシュアは「リビーさんは神経質だからね」と、長年のつきあいで心得ているから、という調子をみせる。
「そうよ、リビーは偏屈だわ。セーラ、お手伝いしましょうか」ティシャは台所へ向かった。ティシャがジョシュアに言う。「仕事忙しかった?」
「ええ、大忙しで、休むヒマもありゃしない」
「近頃、この島にも新しい人達が増えたわ」
「ちょっと増えすぎですなあ」
台所ではセーラがお茶の準備をしていた。
「このクッキー、しけてるじゃない」ティシャは遠慮なしにお茶菓子の品評をする。
「車も増えちゃって、困ったもんだ」ジョシュアがお茶の手伝いをしながら言う。お茶道具をトレイに乗せて運び「車を2台も持ち込む避暑客もいるありさまで。1キロ歩けば海に出るってのに」
「ほんとにね」ティシャも近頃の避暑客は気に入らない。
居間でティータイムが始まった。
「あなた、またマートルと会ってるんですってね」ティシャはジョシュアに問いただす。狭い島の中での行動は、すべてお互いお見通しだ。
「たまにはね」
「あら、すてきじゃない」
「マートルはレディだから、はしたない格好じゃ歩かない、ピチピチのバミューダパンツなんかんかはいてるやつらとはちがうよ。」
「ふふっ」ティシャは、島の人のうわさ話は聞き逃さない。
「先週、仕事先の家に道具を忘れてね」ジョシュアは島中の家に出入りしている。
「取りに戻ったの?」と、ティシャはたずねた。
「いや、道具はたくさんあるんで、もう戻る気にならなくて。ああいう家の奥方は願い下げですよ。お茶、もう一杯よろしいかな。ああいう家がこの島をだめにしていくんだ」
「何があったの?」セーラがジョシュアにたずねる。
「その奥方、わしのこと、のろまだと言ったんだ」
「まあ、ひどい言い方」ティシャが相づちをうつ。
「だから、そんならほかの人を雇えって、言ってやった。二度と行かないよ」
「当然よ」セーラもうなずいた。
「思い知るわよ」ティシャも同意。
「だけどさ、何のあてもなくて。もう引退どきかな」がらにもなくジョシュアは弱気なことを言ってみる。
「あら、引退なんてしないで。あんたがいないと困るわ」ティシャのことばに「ええ、お宅じゃ、気持ちよくやらせて貰ってますがね」
「あんたは、親切な人よ、ジョシュア」
「ええ、でも理解してくれない人も多いんです。これからこの島も住みにくくなる。さて、こころのこもったおいしいお茶をごちそうさました」
「ジョシュア、お世辞がうまいわね」お茶をほめられて、セーラもうれしい。
「さてと、あの、大きな見晴らし窓作る話、どうなりました」
「気が進まないのよ、こんな年寄りに新しいものはいらないわ」セーラは、リビーが反対してるから、とは言えなかった。
「新しいものを作るのは、悪いことじゃない」ジョシュアの意見に、ティシャも「その通り」とうなずく。
「それじゃ、奥様がた、失礼」ジョシュアは仕事に戻っていった。
「かれの言うとおりよセーラ」ティシャはセーラに言った。
「鯨は、またやってくるわよね。もう一度見たいわ」セーラが窓から海を見つめる。
「それじゃ、見にいきましょうよ」ティシャが誘った。
「岬まで行ってくるわ」セーラがポーチの揺り椅子にいるリビーに声をかけた。
「鯨を見にいくんでしょ」と、リビーはふたりへことばを返す。ティシャが自分をまぜずに、セーラとふたりだけですごしたがることは、知っている。
岬から海をみつめるティシャとセーラ。
「向こうを見て、セーラ、イルカじゃない?」
「ええ、この夏、初めて見たわ。戦争前は何頭いたか、覚えている?」セーラは双眼鏡を覗くティシャに問いかけた。
「どの戦争ですって」
「この間のドイツとの戦争よ」
「ああ、あれね、潜水艦がイルカを追い払っちゃったわ」
「また、あなたの潜水艦の話、、、」
「でも、確かに見たんだもの、特に42年にはね」戦争中、潜水艦が入江に入り込んだのを見た話はティシャのお得意の思い出話だ。ただし、ティシャ以外には誰もみていないのだ。
「たぶん、幻を見たのよ」
「あれは、ぜったいにロシアの潜水艦だったわ、なんでここに来たのかはわかんないけど」
「わたしたちが、最初に鯨を見つけたときのこと、覚えてる?」
「リビーったら、双眼鏡を放さないで」
「あなたこそ放さなかったわ」
ティシャとセーラの散歩は、若い頃の浜のなつかしさに満ちている。
「まだ、この浜で竜ゼン香が見つかるかしら」
「竜ゼン香ね、覚えてるわよ」
「竜ゼン香探すのを何十年も忘れてたわ」
「見つけてたら、ひと財産作れたのに」
「そうね、1オンスが10ドルだった」
「新しい香水の女王ね」
「私たち、名コンビね」
あんなに性格のちがうリビーじゃなくて、セーラにとっては、私のほうこそ姉妹以上の仲なのに、と、ティシャは思う。ほんとは、セーラは、リビーとじゃなくて私といっしょに暮らした方が幸せになれるのよ。
ポーチではリビーがひとり風に顔を向けている。ティシャとセーラの明るい笑い声がポーチにも響いてきた。
「ふたりですっかりはしゃいでるのね」おいてきぼりのリビーはちょっとおもしろくない。
「楽しく笑うのが一番よ」ティシャはリビーのことばにもおかまいなしだ。
居間に戻ったリビーに、ティシャはブルーベリーをすすめた。「リビー、あなたはひごとに若返っていくわ。ブルーベリーいかが」
「ありがとう」リビーはすなおにベリーをつまんだ。
「歩き回ったけど、その割りに摘めなかった。昔はもっととれたのに」
「尼僧たちのせいよ」リビーのことばに「尼僧ですって」ティシャは聞きとがめる。
「まるでペンギンみたいに荒らし回るのよ、彼女たち」リビーは尼僧にも厳しい。
「ねえ、悲しいお知らせがあるの」ティシャはあらたまって、言い出した。
「なによ、ティシャ」リビーがたずねる。
「ゆうべ、ヒルダが亡くなったの。だから、マラノフさん、住む場所がなくなっちゃったってわけ」ティシャは島の動静を知らせる。
「次ぎに幸運の女性になるのは、誰かしらね?」リビーは、マラノフが次ぎにまた、どこかの家に入り込むだろうと考えている。
「さあね、ご本人にもまだ次のあてはないらしいけど」
「ヒルダはまだ若かったのに」セーラはヒルダを悼む。
「ヒルダは83歳だった。もう寿命よ」リビーは冷静だ。
「ブリッジの好敵手を失って残念だわ」ティシャには遊び仲間をうしなったことが痛手だ。
ティシャの島民情報はつづく。「そうそう、あの人ついに補聴器をつけたの」
「あの人って?」
「アリスよ。急にブリッジが強くなったと思ったら、耳が聞こえるおかげだったってわけ」
ティシャのうわさ話の種になっているとも知らないマラノフは、つり上げた魚をビクにいれていた。マラノフは、釣った魚をおすそわけすると約束していたセーラの家へ向かって歩き始めた。
ティシャのうわさ話は続いていた。「チャーリー、知ってるでしょ。若いウェートレスと結婚したのよ、あの人」
「まさか」
「ほんとよ」
「恥知らずなことね。でも無理ないかも。亡くなった奥さん、品評会に出したら、ビリ確実な人だったもの」リビーの毒舌も相変わらず続いている。
「リビー、あんたの冗談はきついわね。でも、チャーリー、奥さんの墓参りはちゃんとやってるみたいね」
台所へお茶のおかわりをとりにいくティシャにセーラが気遣う。「関節炎の調子はどうなの」
「相変わらずよ。出たりひっこんだり。私の若い主治医先生が言うのよ。長生きしたタタリだって」ティシャはお茶を入れ直しながら答える。
リビーの辛辣発言がつづく。「あんたのその先生は口の利き方が最低ね」
「でも、すごくかわいい若い先生だから、何言われても許しちゃう」
ティシャは窓の外にマラノフを見つけた。「あらま、マラノフ氏だわ」
「ティシャ、中へお招きして」
セーラのことばに、ティシャはドアをあけた。
「まあ、マラノフさん、どうぞお入りになって」ヒルダが死んだうわさ話をしていたことなどおくびにも出さないで、ティシャは愛想良く挨拶する。
「タウティさん、驚きましたな、朝、浜でお会いしたときよりも美しい」マラノフのお世辞もますます調子がいい。
「まあ、私の遺言がますます楽しみになるわね。さ、こちらへ」
「こんな魚さしあげても、生臭くてご迷惑かと思いますが」マラノフは約束の魚を差し出した。
「喜んでいただきます。ティシャ、冷蔵庫へいれておいて」
「ええ、セーラ」ティシャはマラノフから魚を受け取って、台所へ行った。
「お茶をいかがですか」
「どうもありがとう、いただきます」
「リビー、マラノフさんよ」居間にいるリビーにセーラが紹介すると、マラノフは丁寧に挨拶をした。「また、お目にかかれて、光栄です。ストロング夫人」
「礼儀を知る最後の紳士だわ」セーラはマラノフのものごしが気に入っている。
「みなさんと楽しいひとときをすごせること、うれしく存じます」マラノフは、椅子をすすめられて、腰をおろした。
ティシャが新しいお茶を持ってきた。「さ、お茶よ。お砂糖とクリームは?」
「いいや、けっこうです」
「よくいらっしゃいました」セーラのことばにマラノフは「ありがとう、実に楽しい日です。魚もよく釣れたし、このような楽しい集まりにくわえていただいて、、、」
そこへ、一仕事おえたジョシュアがけたたましく入ってきた。
さっそく丁寧な挨拶を、と立ち上がったマラノフに、ジョシュアは「挨拶はぬきで願います、マラノフさん。みなさんとごいっしょしたいところですが、キニー夫人の所へ行くのでね。ルーズベルト夫人と同じ修理好きな方でさ。ところで、見晴らし窓のことは考えてもらえましたか」
セーラが答える前にリビーは先回りして答えた。「いろいろかんがえたけれど、窓はいらないわ」
ジョシュアは残念そうに「今なら材木も安いのに」と、出ていった。
「窓を作らないなんて、残念だわ。ここから月が眺められるのに」ティシャの言葉にマラノフも同調する。
「月をながめて夕食なんて、すばらしいですな」
「そうね、残念ね。今夜はたしか、満月よ」と、ティシャ。
「わたしの所からじゃ、月も見えません」
マラノフのことばに、セーラが申し出た。「マラノフさん、お魚を下ろしてくださるなら、夕食と月の光をさしあげますわ」
「身に余るおことばです。喜んで魚を下ろしますよ」マラノフは大喜びだ。
「私は魚、食べませんよ」リビーは不機嫌だ。「骨があるからね。昔から骨のある魚は苦手だから」
「そうですね、そのとおり、骨はやっかいなものです」マラノフはリビーの気むずかしさにまだ馴れていない。
「お茶、もう一杯いかが、マラノフさん」
「ありがとう、いただきます」
セーラはお茶をつぎながら「このたびはご愁傷様でした」と、マラノフにお悔やみを言う。
「悲しい話はやめましょう」マラノフは、ヒルダの死にふれてほしくないようで、話題を変えようとした。
「タウティさん、今も車の運転をしてるんですか?モデルAに乗っているんでしたね」
「そうね、あの車どうしたの?」セーラがたずねると、ティシャはつらそうに「ガレージにおいてあるわ」と答えた。ティシャも話題を変えたそうだ。
それをゆるさず、リビーが「何があったの?」と、追求する。
「よその人には絶対に話さないでね。実はね」ティシャが話し出した。「長年運転してきて、ずっと無事故だったの。なのに、買物してるとき、バックでぶつけちゃったの。軽くぶつけただけだったのに」
「免許取り上げられたのね」リビーが察する。
「一時停止ってだけよ」
「それじゃ、まだ望みはありますね」マラノフが言った。
「ええ、そうね。半年たったら、もう一度試験を受けなおせって言われたわ。六ヶ月先よ。ずいぶん先じゃないの」ティシャはくやしさがこみあげてきて、涙ぐむ。
「まあ、そのくらいの期間は、気分転換と思えば、、、」マラノフのことばもなぐさめにはならない。
マラノフは、口先のうまさを発揮してティシャを元気づけようとする。「あなたの姿をみれば、車はみな止まりますよ。あなたが親指をあげて立っていれば、魅力的で神秘的で、運転者はみな挑発されます」
「ま、マラノフさん、冗談がおじょうずね」ようやくティシャの機嫌もなおった。
「正午の汽笛がきこえるわ、もう帰らないと」ティシャが腰をあげる。
「お宅へは通り道ですから、ごいっしょしましょう」マラノフも立ち上がる。
「ええ、私の最後のナイトだわ。すてきね」ティシャはまんざらでもなさそうだ。
「失礼しますストロング夫人」マラノフは最後まで紳士的に挨拶をする。
「ええ、良い一日をね」リビーはそっけない。
「5時においでくださいね、マラノフさん」セーラが招待を確認すると「ええ、伺います。ありがとう」マラノフはティシャと居間から出ていった。
ポーチの風を冷たく感じたティシャが寒がると、マラノフは「昔なら、マントを着せかけるところですが」と、いいながら、自分のジャケットをティシャに着せた。
「ウォルター卿みたいだわね」ティシャは遠慮しながらもジャケットを羽織り、マラノフにエスコートされて帰っていった。
午後の庭を歩きながら、「もうしばらく公園へ行ってないわ」リビーが言い出した。
「ここだって、公園みたいよ」セーラのことばに「でも、白鳥がいないわ。マシューと私、よく公園のベンチにすわったわ」と、リビーは昔をなつかしむ。
「フィリップはだめだったわ。長く椅子にすわってられない人だった」セーラも夫との短かった結婚生活を思い出す。
「せっかちなひとだったわ」
昼下がりの光の中を、ふたりは海辺へ出ていく。
「白鳥はつがいが生涯添い遂げるの」リビーがセーラに教えた。
「ほんと?」
「あんたも、フィリップと生涯いっしょだと思ってるんでしょ」
「もちろんよ」セーラは思い出のなかのフィリップと添い遂げているのだ。
「でも、一人で残っちゃって、人生ままならないものね」
「明日はフィリップと私の結婚記念日よ」
「マシューと私の結婚記念日はバレンタインデーよ」
浜辺に腰掛けたふたりの思いは再び、昔へと戻っていく。
「あなたとマシューの式で、私、介添え役つとめたわ」
「あんた、私のドレスのすそを踏んづけたわね」
「セーラ、あんたと私たち夫婦とで、西部を旅行したことあったわね。前の大戦が終わったとき」
「ええ、フィリップが戦死して1年後よ」
「そうね、私とマシュー、あんたを元気づけたかった。でも、あんたは自分のカラに閉じこもって、ひとりで寂しそうにしていた」
「あなたが、マシューと仲たがいするから、心配してたのよ」
「それはおもいすごしだったわね、セーラ。夫婦で年中ベタベタする必要なんかないのよ」
家に戻ったリビーを気遣ってセーラが昼寝をすすめた。「マラノフさんが夕方みえるまで、休んでいた方がいいわ」
「あの人、私のお客じゃないわ」リビーは、セーラがマラノフを招待したことが気に入らないのだ。
「ふたりのお客よ」
「私は招待していないし、魚も食べないわ」
「あなたのはボークチョップにするから」
リビーは部屋に入ってしまった。
セーラはディナーに着るドレスを選びはじめた。夕食のためにドレスアップするなんて、久しぶりのことだ。
セーラは小箱から手紙の束を取り出して、物思いにふける。
リビーもベッドに横たわったまま、昼寝をする気分にはならなかった。リビーもまた小箱を出して、夫との思い出をたどる。目が見えないリビーには、もう夫の手紙を読むこともできない。リビーは夫が記念に同封してくれた鳥の羽をほおにあて、情熱を共有した、夫婦の若い頃の思い出にひたるのだった。
夕方、セーラはディナーの準備に忙しかった。一番上等の食器セットを用意し、新しいテーブルクロスの上に並べる。
「リビー、あと1時間でお客様がみえるのに、まだ着替えてないの。花模様のシフォンはどうかしら」セーラはテーブルセットに余念がない。
「着替える必要なんかないわ。甘い顔見せると、あの人、一生ここに居着くわよ。せかせかして、いつも忙しそうね、セーラ。ティシャを見習ったらどう」
「どういう意味?」
「ティシャは運転免許をあきらめたのよ」
「まさか、そんなこと」
「もう運転しなくてすむようにね」
「そんな馬鹿な」
「あんたも、白内障になってみれば、こういう気持ちがわかるわ。全部あきらめるって気分が」
「いい加減なこと言って、リビーったら」
「私は今、耳が敏感ですからね」
「もう、いいわ、それより、着替えをしてちょうだい」
「あんな人のために、着替えなんかするもんですか」
「どうしてよ」
「他人だわ」
「でも、お客よ」
「この家にあんな男必要ないわ」リビーは不満を隠さない。
さすがのセーラもついに口にした。「ここは私が相続した家よ。だれを招待しようと、私の好きでしょ」
セーラの思いがけない反撃に、リビーも言ってしまう。「あんたが未亡人になったあと、15年間も世話した恩を忘れないでよ」
セーラも負けずにことばをかえした。「そう言うなら、おあいこよ。私があなたを世話してから15年。15年と15年だもの」セーラは台所へ向かう。
「もどりなさいよ、セーラ、戻って」リビーの命令に、はじめてセーラは従わなかった。
台所のオーブンでは、マフィンが黒こげになっていた。「まあ、たいへん、あなたとしゃべっていたせいで、マフィンを焦がしたわ」セーラはいつになく腹をたてた。
リビーも言い過ぎたことを後悔した。「やめましょう、ケンカなんて。マフィンのことはもういいわ」
「着替えてよ、リビー。私たちは姉妹だけれど、同じじゃない。まるで違っているのよ」
「セーラ、私たちは同じ頑固者の血筋なのよ。でも、もう残り時間はわずかだわ」
海辺を夕焼けが染め出した。マラノフは正装して、庭の花を摘んでいる。レディへのおみやげだ。
セーラに花を差し出すマラノフ。「まあ、すてきな色の組み合わせね」
「では、さっそく魚をさばきましょう。料理の腕が落ちていないといいけど」マラノフはエプロンをかけて、料理をはじめた。
「大丈夫よ」セーラがうけあう。
「いや、わからないですよ」
セーラは、マラノフに魚料理をまかせて着替えを始めた。髪をととのえ、顔にパフをはたく。心ときめく思いで鏡に向かうなんて、久しぶりのこと。
おめかしして居間に出てきたセーラに、マラノフは得意の弁舌をふるう。「美しいです。とてもすばらしい」
セーラとマラノフは、ポーチから海に沈む夕陽をながめた。
「なんてすばらしいんだろう。こんな楽しい気分は久しぶりです」
「よかったわ、退屈なさるんじゃないかと心配していたんですけれど」
「たいくつなんて、とんでもない。どうしてそんなことを」
「わたしたちは、平凡なつまらない姉妹ですから」
「そんなことありませんよ」
「うれしいわ。そうそう、明日の朝、鯨を見に行きませんか」
「ええ、ぜひ。これまで鯨を見たことはないんです」
「毎年来るんですよ」
「ほんとですか」
夕陽は静かに海のなかへ落ちていった。
居間のろうそくに火がつけられた。マラノフの作った魚料理、リビーのためのポークチョップがテーブルに並ぶ。
「夕食よ」セーラの声に、リビーが居間に出てきた。花柄のシフォンドレスを着て、胸を張って歩く。
マラノフが挨拶し、座ろうとするリビーの椅子をひいてエスコートした。自分で座ろうとするセーラにも、マラノフはすかさず駆け寄って椅子をひいてやる。
ぎこちない雰囲気のまま、夕食がはじまった。
マラノフは、ロシアの亡命貴族という身の上話を続けている。これまで、この話を元手にさまざまな家庭を渡り歩き、食事をともにしてきた。
「冬にセントピーターズバーグに帰ると、大公だった私の伯父が優雅なもてなしをしてくれました。ワイン、ご夫人がたとのワルツ。ドレスのすそが軽やかに床の上をすべる、、、」
「ほんとに、おいでいただいて、うれしいわ。ロシア王朝の一員をお招きできるなんて、貴重なことだわ」感激するセーラに、マラノフは「大昔に消えた夢です」と言う。
リビーはいつもの皮肉な調子で「そんなに謙遜することありませんよ」というが、セーラはその調子を気にせず「そうよ、貴族であったことにはかわりないわ」と、マラノフを持ち上げる。
「なにしろすべて過去のことですから」マラノフは在りし日の栄華を謙遜する調子をくずさない。
「ティシャが写真のことを言ってましたけど」セーラのことばで、マラノフはポケットから母親の写真を取り出す。
「すみません、リビーさん」見ることができないリビーに遠慮しつつ、セーラに写真を見せた。
「母です。冬宮殿にいるところ。確か1910年でした」
見ることができないリビーは「写真は消えるけれど、思い出は残ります」と、強い調子で言う。
「いや思い出も消えていきますよ」マラノフは寂しそうにつぶやく。
「私の思い出は消えないわ」むきになるリビー。
セーラは雰囲気を変えようと「コーヒーをお持ちするわ」と、台所へ立った。
リビーとマラノフは、きまずい雰囲気で居間のソファにすわった。
「もうじき労働者祭がきますね。悲しい祭日です。冬への入り口ですから」マラノフが口にする。
「それで、マラノフさん、どこで冬ごもりをなさるの」
「そうですね。島から本土へ戻って、アパートでも借りますよ」
「故郷から遠く離れて住むのね」
「ええ、冬の寒さはどこも同じです」
「あなたほどの方なら、冬には南のほうでおすごしになるかと思いましたが」リビーは皮肉をこめていった。
「生活を切りつめておりますので」マラノフは率直に応じた。
「実際的な方だったのね」
「なにはともあれ、生き残ることが先決です」
「その通りね」
満月が夜の海を照らしだした。
「ロシアから亡命してパリへいらっしたの?」コーヒーをすすめて、セーラがマラノフにたずねる。
「ええ、パリへ」
「セーラもパリへ行ったことあるじゃないの。刺激的な町だわ」
「人によって感じ方は違うでしょうね」マラノフにとって、パリはいい思い出ではないらしい。
「ここは刺激のない町よ」リビーのことばにマラノフは「でも、本物の喜びがあります。夕陽や月や、明日は鯨も見られる」とことばを返した。
「でも、パリといえばシャンパンだったわ」セーラも昔をなつかしむ。
「シャンパンなんて頭痛のもとよ」リビーはなんにでも文句をつけたがる。
「パリでは、私たちも少し派手にやって、夢を満たそうとしました。でも、しょせん、一時の輝きにすぎなかった。我々亡命貴族は、滅びてゆくのみです」
「あなた、まだ滅びてなんか、ないじゃない」リビーの皮肉の調子が上がってきた。
「ええ、そうです。確かにまだ、ここに生き残っています」
「お一人で生きてらっしたのは、勇気のいることだったと思うわ」セーラは感服している。
「そんな、たいしたことじゃありませんでした。多少の意志の力があったから」
「そう、それが財産なのね」リビーはまた辛辣なことばを準備はじめた。
「ええ、意志の力が財産です。今でもはっきり覚えています。皇太后陛下が亡くなったとき、我々は喪に服し、母は一週間口もきかずにいました。でも、ある朝私を呼んでこういいました。ニコライ皇太后は逝去されました。私たちはもうおしまいよ。お前はひとりで世の中にでていかなくちゃならないわ。そう言って私にハンカチを手渡しました。母の持つすべての宝石がつつんでありました。母は言いました。必要なとき、この宝石を使いなさい。でも、最後を迎えたときに、その使い方を後悔しないやりかたでお使いなさいってね」
マラノフはポケットからハンカチを取り出し、中に包まれていた指輪を取り出した。「そして、これが最後に残ったひとつです」
「まあ、エメラルドね、リビー、さわってごらんなさい」
マラノフは宝石をリビーの指にさわらせた。
「エメラルドなの。莫大な価値があるんでしょうね」
「ええ、死ぬまで使っても使い切れないお金になるでしょう」
「あなたは幸運な方ね」リビーはマラノフを評していう。
「ええ、そう思いますよ」マラノフが答えた。
「えっと、それでこの夏はどこに行くんでしたっけ」リビーが話を戻した。「そうそう、ヒルダのところでした」
セーラはあわてて「ヒルダさんは、ご不幸で」とリビーに注意する。
「そうでした、お気の毒でしたわね。お悔やみしますわ、マラノフさん。それで、このあとはどこで」
「いや、まだ」リビーの皮肉な調子に気づいたマラノフが言う。
リビーはたたみかけた。「それじゃ、ご忠告申し上げますわ。今すぐつぎの隠れ家を探し始めた方がいいですわ。でも、言っとくけど、ここはあてにしないでくださいね」
「人生で得た教訓は、期待するなということです、ストロングさん」マラノフがリビーの言いたいことに気づいて答えた。
「もう遅いわ、私、やすみますからね」リビーは言いたいことを言ってしまうと、自室に戻っていった。「おやすみなさい、マラノフさん」
礼儀正しいことをモットーにしているマラノフも、さすがに返事を返す気持ちにならなかった。マラノフはだまってドアから出ていった。
セーラがポーチにいるマラノフを追う。
「実に非凡な方ですな。お姉さんは。ムダ口はきかない」
「偏屈だから」セーラは申し訳ない気持ちでいっぱいになって言う。
「今朝、おじゃましなければよかったんです」
「そんなこと」
「いや、ほんとに。カンのいいお姉さんに、私の意図を見抜かれた。これで、明日からまた流浪の身の上です」マラノフは自嘲気味に言った。
「お気の毒です」セーラには、それ以上のことばがみつからない。
「いやいや、これまでもよるべない人生をうまく渡ってきました」と、マラノフは答えた。
「この長い年月、どうやって暮らしていらっしたの」
「友人をたよりに過ごしてきました」
「自由な暮らしっていうことかしら、うらやましいわ」
「はは、あなたはロマンチストですね」
「人生が長すぎたって思うことは?」
「なかったですよ」
「寿命以上に生きたとしても?」
「終わりがきたときが寿命です」
夜の海は月光に輝いている。
マラノフは海を指していった。「月が波間に銀貨をばらまいています。あれは、だれにも使えない宝物です。じゃ、もう行かないと」
「じゃ、明日の朝、、、」セーラの申し出をマラノフが遮った。「いや、今夜お別れしましょう。またとないすばらしい夜をすごさせていただいた。いつまでも忘れません」
「また、いつでも喜んでお迎えしますわ」セーラはせいいっぱい申し出た。
マラノフはセーラの手にキスの挨拶をして戻っていった。「おやすみなさい。鯨とのランデブーを楽しんでください。鯨を待たせちゃだめですよ」
セーラとリビー、いつにないふたりの間のぎくしゃくとした思いを沈めるように、夜の海は月の光を帯びて時を流していく。
リビーは苦しい夢にうなされていた。「セーラ、セーラ」夢の中で助けを呼ぶが、セーラには届かない。
セーラはテーブルに赤と白のバラ二輪を置き、夫の写真を飾った。ワインをあけ、一人静かに記念日を祝うつもりなのだ。
「46年目ね、フィリップ。46本の赤いバラ、46本の白いバラ、そしてワイン。白は真実、赤は情熱って、いつもあなた、そう言っていたわね。情熱と真実こそ、人生のすべてだわ」
セーラは宝物の小箱から、夫の写真が入ったロケットを取り出してそっと口づけた。
「あなたが生きていてくれたなら、、、、リビーをどうしたらいいのかしら。とても気むずかしくなって、マラノフさんにつらく当たったわ。見晴らし窓もいらないって言うし、もう人生は終わったんだって言うのよ。これ以上つきあいきれないわ。あなたが生きていればいいのに」
セーラは古い蓄音機のハンドルを回し、レコードに針を落とした。思い出の曲が流れる。セーラの思いは46年前、フィリップとの出会いのころに飛んでいく。若いセーラは、古風なヒモ結びのコルセットをつけて、フィリップと会っていた。
「わたしのコルセットは結び目が多くて複雑よ、、、、あなたは、こう答えた。これじゃ、全部ほどく前に月が沈んでしまう。わたしは言ったわね、ダメよあなた、絶対に全部ほどかせないわ、たとえ、あなたでも。だって、私の神秘がなくなってしまうわ。全部ほどかれたら」情熱の赤いバラをほおにあて、セーラは夫との短く終わった結婚生活の思い出にひたった。
「セーラ!」リビーの声が、居間に届いた。「セーラ!セーラ!」リビーが自室から飛び出してきた。
セーラは驚いてレコードの針をもどした。「どうしたのリビー」
「あなたが、見つからなかったのよ」リビーはセーラの腕にしがみつき「あんたを呼び続けたのに、行っちゃったわ。それで私、夢中で走って、やっと戻ってきたの。するとあんたは座っていた。岩場の一番はしっこに。ぞっとしたわ」
「わたしはだいじょうぶよ。この通り無事だわ」サラはリビーを落ち着かせようと言った。
「あんた、『死』につかまりそうだった。もう少しだった」リビーはおびえていた。
「ベッドに戻って、リビー」
「死は、ここへきたのよ。私たちを捕まえに」
「違うわよ。あなたが死ぬのは勝手だけど、私の命はまだ終わりじゃないわ」セーラはろうそくを吹き消し、宝物の小箱を持って自室へむかった。「もう、休むわ、おやすみリビー」
居間に残されたリビーは、テーブルの上のフィリップの写真立てやバラの花に気づき、セーラに直接言えなかったことを口にした。「結婚記念日おめでとう、セーラ」
リビーは居間の揺り椅子に座り、胸のペンダントをまさぐりながら、日の出前の薄明に顔をむけた。
夏の終わりの海を、日の出が照らし始めた。静かな夜明け。
朝の居間で、セーラはフィリップの写真とろうそく立てを暖炉の上にもどした。ひとりで祝った記念日が終われば、セーラにはまた、いつもと変わらない日常がつづく。
「セーラ・ルイーズ!」めずらしくリビーがミドルネームをつけて呼んでいる。「セーラ・ルイーズ!」居間に出てきたリビーは、すでに着替えを終えていた。
「何よ、リビー」リビーがミドルネームつきで自分をよぶときは、何かあらたまったことを言いたいにちがいない。
「セーラ、あんたに迷惑をかけたくないの」
「わかってるわ」
「あれは、悪い夢だった」
「そうね」
「ひどく、うなされて」
「そう思うわ、リビー」夕べのマラノフへの仕打ちを、まだセーラは許す気になれない。いつも勝手なリビー。頑固で偏屈なリビー。
「マラノフさんが鯨を見にくるんでしょ」リビーがたずねた。
「いいえ、リビー、マラノフさん、いらっしゃらないわ」
リビーは、マラノフへつらい言葉を投げかけたことを思い起こす。セーラが怒っているのも無理ない、とリビーは思う。
「あんた、私と別れたいって考えているんじゃないの」リビーは、不安を口にした。
「それが、一番いいやりかたかもね」セーラもゆうべからのわだかまりをそのまま言ってみた。
「でも、私たち、ずっと一緒にやってきたじゃない。それを今さら」
「もう、私は必要ないでしょう、リビー」セーラは、テーブルクロスをたたみながら答えた。
「それで、どうするつもり?」
「この冬は、島に残ろうと思うわ」セーラは、本土に戻るつもりがないことを口にした。
「ティシャといっしょに?」
「たぶんね」
「そして、竜ゼン香でも探すの?」
「まあ、そんなとこね」
「セーラ、髪をとかして」リビーはブラシを差し出した。
いつもと同じように、セーラはリビーの髪をととのえてやる。「それで、リビー、あなたはどうするつもり」
「そうね、娘のアンナの家へでもいくわ。そして話し相手をみつけてもらうわ。娘なら、それくらいしてくれるでしょうよ」
「もちろん、そうしてくれるわよ」セーラが言う。これまでの母娘の不仲が、解消されることはないかもしれないけれど。
リビーは「人生は私にはイジワルだわ。しみじみそう思う」と言い、髪をまとめ上げないうちに立ち上がった。自室へ戻りながらセーラにたずねる。「私の髪、白鳥みたいに真っ白かしら」
「ええ、そうね」セーラが答えた。
「お母さんと同じくらい、白い?」
「ええ、その通りよ」
「私は美しい髪してたわ。見事な髪が自慢だったのよ」
リビーは自室にこもり、セーラは部屋の片づけをつづける。
窓の外に車が止まり、ティシャが見知らぬ男の人をともなってやってきた。「こんちわ、こんちわ」
「ティシャ」ドアを開けてサラは、二日続きでやってきたティシャを招き入れた。
「おはよう、セーラ、こちら、不動産屋のベックウィズさん」ティシャは男性を紹介する。「ヒルダの家を見にきたのよ」
亡くなったヒルダの家は、さっそく売り出されることになったようだ。
「はじめまして」不動産屋は、はやくも品定めの目つきで家の中を見回す。
「私とセーラは50年来の友達で、姉妹同様よ」ティシャは、不動産屋をつれてきたことがセーラのためになると、確信していた。
「どういうご要件でしょうか、ベックウィズさん」セーラは問いただした。
「ええ、タウティ夫人からこの家の売却をご希望とうかがいまして」
「ティシャ」セーラは納得できない。
「昨日、話したでしょ。いい機会だと思ってね。鉄は熱いうちにうてと言うじゃないの」
「それこそ、商売のコツですな」不動産屋はティシャをもちあげる。
「ええ、ありがと」
ベックウィズは遠慮無く値踏みを始めた。「防寒は不備ですね」
「私の伯父が半世紀以上まえに建てたんです」
「そうですか」ベックウィズは部屋から外を見て「ながめは抜群ですな」と言う。「この眺めなら、高値がつく」
「お値段、いくらくらいになりますの」ティシャがすかさずたずねた。
「寝室はいくつありますか」不動産屋は部屋数を確認する。
「みっつですが」セーラが答えた。
「二階を拝見」不動産屋は階段をのぼりかけた。
「だめよ」セーラは言った。「下りてください」
セーラは不動産屋にきっぱり告げた。「タウティ夫人の思い違いよ。この家は売りません」
不動産屋は見込み違いを理解して「どうもおじゃましました」と、帰っていった。「どうも失礼しました。もしまた、ご用の節は、、、、」
「私も失礼するわ」親切のつもりであてがはずれたティシャも腰をあげた。
セーラもひきとめない。「私も仕事があるから。冬になったらフィラデルフィアにたずねてきてね、ティシャ」
「セーラ、私、ただ、、、、私たち一番の親友でしょ」ティシャは先回りして気をきかせたつもりが、ただのおせっかい終わったことを取り繕おうとした。
「差し出がましいことだわ」セーラはきっぱり言った。ティシャの気のよさはわかっているけれど、たとえ彼女でも、セーラとリビーの姉妹の仲に割って入り込むことはできないのだ。
「何も、問題ないわよね」ティシャは、リビーとセーラの仲を気にしていた。
「もちろん、だいじょうぶ」セーラは答えた。
「さよなら、セーラ」
車を運転できない今は、ティシャがこの家へ来るのもめっきり少なくなることだろう。
思いがけない客が去ったあと、セーラは思いを込めて部屋を見渡した。母の写真、家具、暖炉、みな、なじみの自分の一部だ。
暖炉の上の夫の写真にセーラは語りかける。「私たち、この家を出ないわ」
「また、ひとりごと言って」と、リビーがとがめながら部屋から出てきた。「今の、ティシャだったの?」
「そうよ」
「男の人の声も聞こえたわね」
「ティシャの連れだったけど、追い返したわ」
「そう、それはよかったわ」リビーはいつもの窓際のいすに腰掛けた。
セーラはリビーに仲直りのことばをかけた。「私、少しも迷惑してないわ」
「あんた、よくしてくれてるわ、いい妹よ」
がちゃがちゃと、いつものけたたましさで、ジョシュアが入ってきた。「どうも、おじゃましますよ。おはようございます」
「ま、ジョシュア、何のご用?」リビーが声をかける。
「レンチをなくしちまってね」
「あら、きのう修理していた場所にあるんじゃないの?」セーラがいうと、ジョシュアはさっそく探しに出ていった。
「少し、朝ご飯を食べなきゃ」セーラはリビーに言ってみる。
「ええ、いただくわ」
「じゃ、運んでくるわね」
「みつかりましたよ」ジョシュアの声が響いた。
「あんなにやかましい人はどこにもいないわね」やれやれという調子でリビーが言う。
「おじゃましましたね、どうもすいません」ジョシュアはレンチを持って帰りかけた。
「ブラケットさん」リビーが呼び止めた。リビーが正式な名を呼ぶのは、あらたまって話をするときだ。
「なんでしょうか、ストロング夫人」
「見晴らし窓を作るには、何日くらいかかるの」リビーがたずねた。
思いがけない質問に、セーラとジョシュアは顔を見合わせる。
「そうさね、2週間もあれば」
「今なら、材木も高くない時期なんでしょ」リビーの質問は、セーラにはうれしいものだった。
「労働者祭までには仕上がるの?」リビーは質問をつづける。
「あ、でも、昨日は、、、」ジョシュアは昨日きっぱりと断られたので、リビーの気が変わった理由がわからない。
「私たち姉妹で決めたことなのよ。あんたに作ってもらいたいってね。できるだけ早く見晴らし窓、仕上げてね」
ひとことも見晴らし窓の話などしていないけれど、セーラにはうれしいリビーの心変わりだ。
「それじゃ、さっそく材木を注文しますよ。みなさん、ほんと気をもませる方達だ」ジョシュアは請け合って去っていった。
「気持ちのいい朝みたいね」リビーが窓の外に顔を向ける。
「そりゃあ、美しい朝よ」とセーラ。
「岬まで行きましょうよ」リビーが朝の散歩を提案する。いつものように、セーラにむかって、手を差し出す。セーラの手がリビーの手をしっかりと握りしめる。
いつもの麦わら帽子をかぶり、いつもより少し冷え込んだ朝の空気の中を、姉妹はゆっくりと歩いていく。
ふたりの古びた家。古い時計も、年代物のお皿やカップも、白と赤のバラをさしてあるガラスの花瓶も、みないつもとおなじように、朝の光をあびている。
暖炉の上の写真たちにも、おなじように朝の光があたり、同じように時がながれていく。若い頃のリビーとセーラの写真。あのころと同じように、ふたりは海辺への道を歩いていく。
岬のうえで、リビーは海に顔をむける。海は朝の光を反射している。
「どう、鯨、見える?」
「もう、いっちゃったみたいね」セーラはリビーの手をにぎったまま答える。
「いっちゃったかどうか、わかるもんですか。そんなこと、わからないわよ」
そう、鯨は明日来るかも知れないのだ。ふたりが見つめる大海原を、鯨は確かに泳いでいるのだから。
夏の終わりに、鯨はきっと来る。
冬が来る前に、新しい見晴らし窓から海をながめる暮らしが、姉妹の時間のなかにやってくるだろう。
そして、来年の夏は、またきっとめぐってくる。
<八月の鯨 おわり>


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