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Workshop for Nipponianippon CommunicativeLanguage& Culture Studies
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快感読書術2004(たこと春庭往復メール ハレとケ)
Twist World は、pj TAKOさん管理のホームページです。
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(イラストby pjTAKO)
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No. 日付 発信者 タイトル Re 01 04/01/28 TAKO 素朴な疑問ハレとケ Re 02 04/01/28 HAL 進化 Re 03 04/01/29 HAL 東京は今日もハレてるケんね Re
件名 : 素朴な疑問
日時 : 2004年1月28日 20:43
HAL師匠へ
こんばんは。pjTAKOです。
さて、今日の「おい老い」を読んで、たまたま今日会社で読んだことと重なる(??)ので、ついつい質問。
今日の「おい老い」で、ケとハレの話が出ていたけれど、この観念が、昔からよく分からない。今日の「おい老い」で、違いを説明していたけれど、イマイチすっ、と通らない。(師匠の書き方云々ではなく、多分TAKOの日常におけるそれらの認識が薄いから)
遠い昔に民俗学か文化人類学か何かのセンセイが書いたケとハレに関する本も読んだことは読んだけれど、やっぱりよく分からなかった。違いが分からないTAKOなのだ・・・(泣)。
で、師匠の言うそのケが溜まって生命力が落ちて「ケ枯レ」というのと、所謂「穢れ」というのは別物なの?音が同じの同音異義語?この違いも分からないTAKOなのだ・・・。このくえっちょん、今日読んだ文書(?)にあったから、疑問解消したいとメール。
今日会社で読んだのは、「お清め塩が差別になるから廃止する」(かなり簡略化)という人権に関する話題。(ま・企業の人権教育の一環ですわな)葬儀でお清め塩を渡すのは、死者を穢れとして扱っているものであり、仏教の教えにもないことだからやめるよん、とかいう仏教会か何かの表明。
「友人、知人、親兄弟とこれまで親しくしてきたのに、死んだ途端に『穢れ』っちゃなかろう。仏教は死を『穢れ』とは扱っていない。この「穢れ」という観念・迷信が塩で清めるという行為につながり、差別の土壌になっている」というTAKOの脳内翻訳。
ま・そりゃそーだ、掌返したように親しかった人間を「清めなならん」っちゅーのはねぇ、と、この件についてはほぼ納得したのだが。
ただ、やっぱし、そこでもケとハレのことが思い出されて、「これって(ケガレが)同一
の意味だったら、ハレの日祝いは逆差別か?」等とも考えていたのよ。
そこへ来て、HAL師匠のタイムリーな日記。
あほーなTAKOに教へて下さい。
=================
送信者: "話しことばの通い路"
件名 : Re: 素朴な疑問
日時 : 2004年1月28日 22:36
軟体動物さまへ ピカイアより
乏しいネタを寄せ集めて、でっち上げている春庭話は、つっこまれると、動悸息切れゼーゼーはーはーでござりまする。
「まず、仏教では死穢を塩で清めることをしないから、塩をまくのは死者を差別すること」というどこぞの仏教界の考えについて。
もともとの釈迦が悟った原始仏教と、インドで弟子達が書いた教典がすでに異なっている部分があるし、それが中国から伝わったときにも変化。
日本で受け入れられた仏教は、古神道と習合したものであることを、第一に考えなければならない。
ましてや現在われわれの周囲にある鎌倉仏教は、釈迦の仏教ともタイなどの小乗仏教とも、かけはなれた宗教になっている。
死者や月経中の女性、妊娠中の女性を、一般生者と区別する習俗は世界各地の文化にあり、日本が特別ではない。死穢を払うのは、もともとは、古神道などの習俗であった。女性や死者には、特別な力が備わっており、その力は一般の人にはコントロールできない。そのために、生者とは区別する。
死者は肉体と霊が離ればなれになった状態と考えられている。肉体から離れた霊は、生者以上のエネルギーを持っている。死者が「よごれた存在」だから清めるのではない。死者には、生者にはコントロール出来ないくらいのエネルギーがある、と考えたゆえの「お清め」である。
死者がもつ強いエネルギーを、家にもちこまないためのお清めである。死者を差別しているのではなく、生者とは異なる存在になった死者を、死者として認めてやるための「清めの塩」」である。死者を死者として遇してやるため、死者を「貴いものとしてあがめるゆえの塩」と考えるべきなのだ。われわれは強いエネルギーには耐えられない生者であるゆえ、死者とは区別されなければならない。
「死者をけがれているという差別をすることになるゆえ、塩まきはいけない」という仏教会は、「障害者を差別してはいけないから、障害者を特別扱いしてはならない。障害をもっていない人と同じにあつかって、福祉などを与えるのは差別になる」という人々といっしょ。考え方の方向が間違っている。
これを鎮め、死者の負のエネルギーを生者に及ぼさないために、塩でも水でも土でも使って、生者を「お清め」する必要がある。これが塩をまく「清め」相撲でも、土俵に塩をまく。葬式帰りの塩がいけないのなら、土俵の塩も、あんな無駄な塩まきは、即刻廃止するよう、仏教界は相撲協会に申し入れをすべきであろう。
もし、「死者を穢れと見なすのは仏教精神と異なる」と考える仏教者がいるなら、「輪廻転生」も釈迦の思想と異なるものだし、日本の仏教思想の多くの部分を「これは本来の仏教思想ではない」とすることになる。
本来の釈迦の思想だけをとりいれるというなら、現在日本に流布している仏教は、すべて廃止すべきだ。お盆の行事など、釈迦の思想にはまったくなかったことで、先祖の霊魂が家にかえってくるなど、仏教の考え方ではない。釈迦は、輪廻転生や、先祖の霊が子孫に影響を及ぼすというのを変えることを自分の宗教の中心思想としたのだ。お清めの塩を廃止したい「仏教会」には、今後お盆行事もすっぱり廃止することをかんがえてもらいたい。
私は、なんでも取り入れてアレンジするのが日本の「一万年の伝統」と、行っている。仏教も日本的アレンジの宗教でいいと考えている。
「ハレ」と「ケ」について。
生きていくことのエネルギーがなくなる状態は、様々なことからもたらされる。死穢によるのも「ケガレ」だし、悪事やら魔物、悪霊によってもケガレる。
日常のすりきれも「ケ枯れ」であって、元はいっしょの概念であるが、現在では「悪いもの、きたないものによって、よごされる」という意味だけが強くなって、「ケ」と「ハレ」の区別がなくなった現代においては「ケ枯れ」の意識は、人々の中からは薄れてしまった。
「ハレ」と「ケ」は、「オフィシャル&プライベート」でもよいし、「神の領域とわたくしの領域」でもいいし「日常と非日常」でもいい。「いつもといつもじゃないこと」でもよし。いつもの体育の時間がケなら、運動会はハレとか。ようは、生活者にとって、何をケとし、何をハレとみなすかである。
かっては、百姓(百種類の生産者)のそれぞれの生産形態によって、海の民には漁民らの、山の民には「サンガ」やら「キコリ」やらの、それぞれのケとハレが決まっていた。生産にとって、ケとハレの区別は、生産を保証しよりよい生活をおくるためには、必要なことであった。
現在の産業社会には必要のない考え。現在の高度産業社会にとっては、効率や能率こそが生産性を保証するから。
ハレの日を祝うのが「逆差別」というのは、上記の「障害者を差別してはいけないから、健常者と同じに扱うべき。福祉を与えるのは差別だ」という考えと同じになる。
ちょっと長くなったので、これで第一次は送信してしまう。私のメール、添付が開かないので、長くてもメール本文で。
ちなみに私の宗教は、教祖「HAL」。ご神体「石っころ」(世が世であるなら石器として活躍したかも知れないのに、現在はただの石っころにすぎない石)または『2001年宇宙の旅』で、宇宙に投げ上げられたような骨を加工した骨器でもよし。
お賽銭は、上限なく受け取る。ご利益=ある、かもしれない。信者募集中。
ピカイアHAL
===============
件名 : 進化
日時 : 2004年1月28日 23:35
TAKOさま
大急ぎで返信してしまったので、いつもの、頭から思いついたことをずらずら浮かんだ順に書く、という方式で、送信してから読み返したら、わけわかんない解説だったなあ。
だいたい、私だって、わかってかいているんじゃなく、どっかで仕入れたきれっぱしをつなぎ合わせてでっちあげている。
ポケモン五行説、とか、思いついたときは、大喜びで「うまいことかんがえついたもんだ」とさっそく書いてしまう。うらをとらずに書くから、このまえの足跡盗難事件みたいなことになってしまうんだけど。
今回の、朝青龍の「塵を切る=鷹の舞」だって、「私が見たまま」の意見であって、、本人が「いや、そんなことやっていない」というなら、はいそれまでよだしね。
さて、前回メールでまたもや「もの知らずの知ったかぶり」を非難される言説がありました。わたし、ピカイアが古くて、蛸はもっと新しい時代に出現した動物という意識があったんだけど、ピカイアは、古いことは古いけれど、脊椎動物の先祖だから、軟体動物とは別系統であって、ふたつをならべて「ピカイアのほうが、脳みそ少ない」と、思いこむのはまちがっているそうです。
ハレとケについても、たこさんの疑問に応えられるほど、知っているわけじゃなく、何言ってんだか、この烏賊が!くらいの話しになってしましました。
ま、とりあえずだけで、あとはまたゆっくりオイオイと考えます。
HAL
===============
送信者: "TAKO"
件名 : ありがとぉーー/Re: 素朴な疑問
日時 : 2004年1月29日 0:17
ピカイアHAL師匠へ
pjTAKOです。ども、です。
> つっこまれると、動悸息切れゼーゼーはーはーでござりまする。
突っ込んだつもりはないのだけれど(笑)。
たまたま、以前から疑問に思っていたネタに、まるで計ったように同じ日にぶつかったから、教えてもらおー、と(笑)。
> 日本が特別ではない。死穢を払うのは、もともとは、古神道などの習俗であっ た。女性や死者には、特別な力が備わっており、その力は一般の人にはコントロール> できない。そのために、生者とは区別する。「穢れ(差別)」というよりは「特別視」という感覚の方が近い?
> 死者がもつ強いエネルギーを、家にもちこまないため> のお清めである。
ああ、この件は、「死者の穢れを家に持ち込まないため」と本文か解説に書いてあったなぁ。
>これを鎮め、死者の負のエネルギーを生者に及ぼさないために、
師匠が下記の「ハレ・ケ」の解説で書いてくれているけれど、多分この部分が一般的に強調されているところなんだと思うんだけど。「死者は祟り、死者が持つものは負である」=穢れみたいな図式。イザナギ・イザナミの話で刷り込まれているんだろうねぇ。根の国の概念。
>葬式帰りの塩がいけないのなら、土俵の塩も、あんな無駄な塩まきは、即刻廃止するよう、仏教界は相撲協会に申し入れをすべきであろう。
これ、さっき師匠にメール打ちながら、(おい老いの話が相撲だったこともあって)考えてた。
仏教がどうのこうのという話はさておき、差別がどうのというのであれば、相撲の塩まきだって差別の概念に該当するんではないのか、と。
そういうのは何も説明なかったから、あれは今まで場を清める塩だと思っていたが、実は違うのかなぁ、などと。
> 「輪廻転生」も釈迦の思想と異なるものだし、日本の仏教思想の多くの部分を「これ は本来の仏教思想ではない」とすることになる。
彼らが「本来の仏教」の線引きをどこに置いたかにもよるけど、今記憶している範囲だと「宗派を超えて」というのがあった気がするから、釈迦までは遡る気なかったんじゃないの?(笑)
とりあえずは日本に入ってきてからの仏教といいたかったのかもね(笑)。
> お清めの塩を廃止したい「仏教会」には、今後お盆行事もすっぱり廃止することをかんがえてもらいたい。
お盆行事が「差別」につながるという話がクローズアップされるまでは、しないんじゃないの?西日本では、例として取り上げてあった人権問題の文書に取り上げられていたのが、
その仏教会の話だったけど、「こうしたことが差別意識の根源にある」という話がメインだったようだから。ちなみに、この仏教会だかは、何の根拠も無い友引やらなにやらは廃止なんだそうな。
> 私は、なんでも取り入れてアレンジするのが日本の「一万年の伝統」と、行っている。仏教も日本的アレンジの宗教でいいと考えている。
日本文化は黒潮に乗って、みたいなフレーズかタイトルの本、なかったっけ(笑)。
> 「ハレ」と「ケ」について。元はいっしょの概念であるが、現在では「悪 いもの、きたないものによって、よごされる」という意味だけが強くなって、「ケ」 と「ハレ」の区別がなくなった現代においては「ケ枯れ」の意識は、人々の中からは薄れてしまった。
うーん、もとはやはし、一緒の観念なのか〜。
>ようは、生活者にとって、何をケとし、何をハレとみなすかである。・・・特別扱いにするイベントを何に置くかってこと?そういう認識でいいのかなぁ?(このヘンがどうも相対的だと分からなくなってくる)
日常・非日常という仕分けとか、オフィシャル・プライベートという仕分けでもちょっと飲み込めない。TAKOバカだから。
上述からのつながりでいけば、非日常でセレモニーを行うに値するようなものならば、ハレ、
そうでなければ、ケとなれば、葬式なんてのはハレに該当してしまう気がするのだけれど(葬儀屋を仕事としていない限り日常的に葬式ってのはあまりない)、葬式をハレとするってあまり聞かない気もするけど、それも「それぞれの決めよう」って解釈、成り立っていい?
> ハレの日を祝うのが「逆差別」というのは、上記の「障害者を差別してはいけないから、健常者と同じに扱うべき。福祉を与えるのは差別だ」という考えと同じになる。
というより、ハレとケで例えるのが良いか悪いかわからんのだけれど、ハレとかケという特別かそうでないかという認識そのものが、差別の土壌になっているとするならば、そんな違いなど無い方がよいになると思うわけよ。(だからハレとケって分からなくなってるんだよー・泣)
TAKOはフクザツ怪奇な話、こっちはいいけどこっちはダメ的な話はどうも捉えにくくて(軟体のくせに頭固い。体も堅い)。
昨今のユニバーサル・デザイン等の考え方の良し悪しは別として(正直ベースで言うなら、基本的に福祉にあんまり興味のないヒトだから)、障害があろうが無かろうが、同じようなサービス(あるいはその他、何でもいいんだけど)を享受できればいいわけで、誰しもが常時ハレ状態であればいいのではないのか、と思うわけなのよ。特別な存在として位置づける、という認識が、あらゆる差別の根源ではないのか、と。差別の話が出る度に思うのよね。
余りにも極端な例ではあるけれど、「障害がある」というだけの同じ「ヒト」であるならば、障害のないヒトと同じ状態になるようにすればいいじゃない、というだけの話。
ハレなどという特別な扱いではなく、ハードルさげりゃいいだけじゃないのか、と思ったりするんだよね。その下げた分だけが、福祉という制度あるいは名称になるだけな話だと。ハレ(障害がある)が特別だ、といわば聖別することにより、逆にギャップを広げる
のであれば、そんな観念ないほうが差別は無くなるとまま思う。
尤も、差別が無くなるなんて絵空事、信じてもいないんだけど。(←この辺がTAKO・爆)差別意識って個々人のアイデンティティの確立と不可分ではなかろうから。
ついでに言えば、区別は必要(笑)。問題は差と区の仕切りをどこに置くか、という、いわばハレ・ケ問題がここにも介在する(笑)。
そして、そう言っていいなら、この件に関してTAKOは当面TAKOの主観にて仕訳(笑)。・・・って思いっきり脱線(苦笑)。
まあ、ここみたいなこと考えはじめると、師匠のおい老いのリセットの話、理解はできるのに、理が合わなくなってきて、自分で同じトコ回り始める。ぐーるぐーる。
>ハレとケについても、たこさんの疑問に応えられるほど、知っているわけじゃなく、何言ってんだか、この烏賊が!くらいの話しになってしましました。
いやいや。なかなか、こういう話、聞ける人いなくて。疑問に思って読んだ本とかで触れてあっても、やはりわかんない。理解りたがりのくせに堂々巡り始めて抜け道がなくなって来た時には、知っている人に聞く(笑)。
もう、ハレ・ケ問題は、中学生位の時からのナゾなのよ。実は。
神話やら漫画やら、読んでも「線引きはどこぢゃ〜っ!」状態を続けて○○年。まあ、普段は眠っているナゾなのだけれど。そこへ一日のうちに二種類も似たネタ読んじゃうと、どこかで眠っていたはずのナゾが復活〜。
そして迷宮にはまり込むんだね(笑)。
だから、師匠にメールしてよかった。
正直に言えば「分かった」とはいえない。
でも、例えるなら、鍾乳洞で懐中電灯渡された感じ(笑)。とりあえず、鍾乳石にけっつまずかずに今日は眠れそう。
TWの一寸法師の出生ネタみたいに、こーゆー話、考え始めると止まんないんだよね。
困ったちゃん。
> お賽銭は、上限なく受け取る。ご利益=ある、かもしれない。信者募集中。
賽銭箱はTAKOが設置する。現世のアガリはTAKOがありがたく享受(爆)。
ということで、師匠、付き合ってくれて、どうもねぇ。
また、よろしく〜。TAKOの素朴な疑問メールが飛んだら、面倒見てね。
======================
送信者: "話しことばの通い路"
件名 : 東京は今日もハレてるケんね
日時 : 2004年1月29日 10:19
TAKOさま参る「ハレバレ第二弾」
>常時ハレ状態であればいいのではないのか、と思うわけなのよ。特別な存在として位置づける、という認識が、あらゆる差別の根源ではないのか、と。
身障者は、いつも「特別な存在」であったゆえに、常民とは異なるそのエネルギーをおそれらた。おそれは忌避をうみだし、忌避は差別につながる。身障者や女性は、より神や死者に近い存在なのだ。
折口信夫の「マレ人」論。マレ人は、遠いどこかから巡りくる貴い神でもあり、恐れつつもてなさなければならない、鬼としての相貌をみせることも。一寸法師の鬼は、すでに差別化されている「他者/異人/鬼神」である。
身体障害や「女性」性、異人という存在は、どの社会にあっても、「聖」と「おそれ」を同時に持つ存在であり、「おそれ」は「遠ざける」「差別」に通じていく。
ここで「スティグマ」説浮上。キリストが十字架上で受けた傷と同じ傷を持つ人が聖人扱いになったスティグマ聖痕。アッシジのフランシスコに出たという傷あとなんぞが、これ。
このスティグマ意識をうまく利用したのが、オームのショーコー。彼は自分が弱視者であることをうまく利用した。弱視であるのに、全盲であるとおもわせ、「ソンシは目が見えないのに、心の目ですべてを見通すことができる」と信者に思わせてきた。
盲学校の全盲の生徒の中で、弱視者である程度見えるマツモトチズオは王のごとく振る舞ってきた。全盲の中では彼は「より高い能力を持つ者」として君臨していたのだ。
しかし、実社会に出て、マッサージの仕事を始めたら、彼は、弱視者は晴眼者より「劣る存在」としてしか扱われないことを知った。
機転がきくチズオ君はヨガ教室をひらいたときから、「逆能力者」となるコツを覚えた。自分の目がよく見えないことを「聖痕」として利用できることに気づいたのだ。ショーコーはヨガの修練と、その目によって、「聖人」となることができた。
大人しく聖人に納まっていればよかったのに、彼には「盲学校のキング」から転落したトラウマがあるもんだから、自分の地位を保つためには、常に敵を想定して、創価学会幹部を襲ったり、弁護士を襲って殺したりしなければならなかった。ついに、日本全体を敵にまわしてしまい、つぶれた。
宗教ウォッチングが好きなHALとしては、とても面白い「成り上がり宗教家」だったのに、福永法源も逮捕されちゃうし、今ウォッチング対象の宗教家が不在でつまりません。幸福の科学は、このごろ、おもしろみがなくなってきたし。大川教祖の本、スゲェめっちゃくちゃ理論で面白かったの。
常時「ハレ」状態であればいいのか、というと、常時ハレだと、それは常時ケと同じことだから、結局「ケ」の連続であっては、人は「ケだけが続く人生」に耐えられない。「特別な日」「特別な出来事」「特別な人」を必要としてしまうのが、人間です。
>差別意識って個々人のアイデンティティの確立と不可分ではなかろうから。ついでに言えば、区別は必要(笑)。問題は差と区の仕切りをどこに置くか、
個人が自分を他者と切り離し、個体としての自分を確立するためには、人を「分折化/分節化」して、自分と他者を区別しなければならない。乳児が自分と母親が一体のものでなく、別個の肉体を分け持つ存在であることを意識するのは、いつも吸っていたい乳首を自分の口から取り上げられてしまうことによるという。自分のものだと思っている乳首なのに、無情にも取り上げられちゃうから。
自分と母親の肉体が別個のものであることを「分折する/分節する」ことから「個人」が始まる。その上にアイデンティティを確立していくには、さまざまな「他者」との区別が必要。
自己が存在するためには「他者」が必要不可欠。生まれてから一度も「他者」が周囲に存在しなかった自己は存在できない。精神的にはもちろん、身体的にもできない。証明された以下の実験。
ナチスが行った医学実験のうち、もう二度と人類社会で実行できない「貴重な」?実験報告がある。新生児に機械的に栄養を与え、おむつとりかえの作業をする看護婦は、作業のみを厳格に行い、ほほ笑みかけること、コトバをかけること、おむつ交換の必要以上に皮膚に接触することを禁じられていた。
結果、身体は清潔に保たれ栄養も十分な赤ん坊たちは、1歳まで生き延びられなかった。他者との接触なしには、人間は育たない。
(この実験結果についての話を聞いたのは、発達心理学という授業の中だったと思う。子供を産んでから受けた授業だったから、すごく面白かった)
「自己」は「他者」と差別化することによってのみ存在意識を確立できる。「ひとつの花」オンリーワンなんですな。
で、自己を存在させることと、「自己と他者の分節=他者を差別すること」は不可分である。そこで、「区別と差別は、どう違うのか」
ぼうっとしながら料理をするため、私はときどき塩と砂糖を間違える。砂糖まぶしのおにぎりはえらく不評であった。塩と砂糖は区別されなければならないが、塩と砂糖に価値の多寡はない。
ハレとケも本来は価値が異なるわけではない。ケが存在するためにハレが必要である、というだけのこと。しかし、だいたいハレのときにイイ服きていいもん食べて、酒のむから、ハレのほうが価値が高いようになってくる。普段は飽食していて、1年に一回断食道場に入る人にとっては、断食がハレ。
区別には価値の多寡値踏みが必定となって、差別が生じる。
聖なる存在は、賤と裏表。聖なる身障者は、賤となる。中上健次だったか網野善彦だったか、これも出典あやふやだが、「部落民」はもともと天皇陵墓を守る聖なる墓守として存在したものが、死者死体を扱う仕事、動物の皮剥などをしているうちに賤に変化した、と言っていた。
もともとは聖に属していたのに賤民視されるようになった「部落民」を、被差別者として利用することを制度化したのが江戸の「士農工商、非人」の制度。
さて、アイデンティティ確立のために、「他者を発見し、他者と自己の差を知ること」は必要か。然り。
「自分にプライドを持て」と、大人は子供に説教する。プライドを持つ、というのは、他者と自分の違いをみつけること。
より強い意味として、自分がすぐれている部分をみつけろ、ということ。すぐれている部分をみつけるというのは、他者が自分より劣っている部分をみつけるということ。これは区別か、差別か。
現代社会では「サッカーが得意」「野球がうまい」「東大入試問題など朝飯まえに解ける」などということが、「金になる」ことと繋がっているから、プライドと「差別」を直結する人が出ても、しかたがないのだろう。本来は、差異は、区別であって、差別ではない。
私の友達にひどいアトピーの子供をもつ人がいて、「いつも、そばによるとうつるんじゃないか、とか差別された。温泉なんか、ぜったいに入れなかった」と言っていた。食物アレルギーによって、アトピーを起こす人も多い。
学校給食で蕎麦を出すとき蕎麦アレルギーの子供に食べさせtら、呼吸困難になって死んでしまう。当然、蕎麦アレルギーの子供には、別の給食を作って出すべきだ。「蕎麦のかわりに、ごはん食べてね」というのは、区別。「あんたは、蕎麦食べられないんだから、今日の給食はあんたにやらない」というのは差別。
ハンセン病の患者団体の宿泊を拒否したホテルがあったなあ。かれらを受け入れることで、他の宿泊客から「いっしょに風呂にはいるのは不安」という苦情が出ることは大いに予想されただろう。
「差別はかわいそう」という一般庶民は、たいてい「じゃ、あんたいっしょに風呂に入って背中ながしてやれ」といわれると、ひるむ人が大半だ。一般論で「差別はいけない」ということと、「自分の問題」となることはまったく異なるというのが、一般庶民の感覚。『招かれざる客』問題。
ホテルは企業が示す態度として、もっとも阿呆な対応をとった。一般庶民の感覚で、問題を処理しようとしたのだ。露骨な差別意識を表にだすことは、企業イメージを損ねるという社会情勢も読めないトップが馬鹿。企業は一般庶民と異なる態度が必要ということ、わかっていなかった。ホテル経営者が「自分はいっしょに風呂入りたくない」と思ったとしても、企業の示すべき態度は、「公的」なものであるべきというこ
とをわかっていなかった。
「ハンセン病がすでに治っている人」と、同じ温泉につかるのが、いやかどうか。ということを心の中で斟酌し、態度を決めるのは、個人の勝手。それに対して「それは差別だ!」と言ったとしても、仕方がない。ハンセン病が伝染しないこと、治癒した人には菌がないことを理解できない、無知な人、とあわれんでやるしかない。エイズ差別においても同じ。
私自身は個人的見解として、ハンセン病治癒者とも、エイズキャリアの人ともいっしょに風呂に入る。うつらないもん。だけど、私の感覚を、他の人に押しつけることもしない。自分で学べば、自分でわかる。みな無知なだけ。私は知識人だからねぇ。へぇへぇ。
告白すると、私は一種特別な「潔癖症」で、他の人が口をつけたものを食べたり飲んだりできない。子供が食べ残したものを、母親は平気で食べるが、私にはできなかった。
ここで「差別」「区別」から「オリジナル・コピー」の問題まで、つながっていく。絵画のオリジナルと贋作には価値の多寡がでるが、デジタルアートとコピーの差は何か、とか。
2月に「四股名」からの話を「おいおい」に載せ、そのあと「固有名について」を書こうかと思っていた。柄谷行人の「固有名」論を読み返しているうち、わたしには手に負えないから、やめることにした。
固有名と個人。固有名と主体、主体と主語、自動詞文と他動詞文、こうつなげて、自分のフィールド、他動詞論にもっていくつもりだったけど、あと10年くらいかかりそうだ。
宣伝:HAL他動詞論の一部分。授受動詞(やりもらい動詞)についての15年前の論文を本宅にUPした。キャノワード文書をパソコンに取り込むソフトを買ったのだ。
日本語文法学から足洗ったとはいえ、昔の論文でも、誰かが読んで役に立たないとは限らない。
出身校の大学院の文法ゼミでは、この論文を「論文の書き方の見本」として、ゼミで
読まされた、と、後輩から聞いた。知らないうちに使い回されていた論文だが、別段
すり減ってもいないようだ。
HAL教について。
私は葬式から帰っても、塩まいたりしない。お清めの塩を料理につかったこともある。友引仏滅関係ない。だから、「いっせいに塩をやめましょう」と、音頭とるのは反対。塩巻きたい人はまくだろうし、まかない人は、もらった塩捨てるなり料理に使うなりすればいいだけのこと。葬儀をやる人が「うちの葬儀では、塩を香典返しにいれなくていい」と、言うなら、そうしたらいい。
個人にまかせてくれ。おまえが決めるな、おれんちのこと。
結婚後は、夫婦の名字を同じにしましょう。というのも、「どっちの姓にそろえても、別々でも、いっそ両方をくっつけてあたらしい姓をつくっても、好きにせぇ」という、「好きにしろ」方式に賛成。おまえが決めるな、おれんちのこと。
というワケで第2弾は、ここまで。在五中将、HPにかかりきりで、HALと遊んでくれないから、TAKOさんに遊んでもらって、うれしいHALでした。
「私信、転載禁止」の枕詞がなかったので、もうさっそく「人の褌」部屋へ直行ですが、何か。
==================
送信者: "TAKO"
件名 : 今日の天気わからんちん。/Re: 東京は今日もハレてるケんね
日時 : 2004年1月29日 20:23
HAL師匠へ
pjTAKOです。こんばんは。
朝出社の時にはほのか(?)に晴れていた気もするけど、帰って来たらもう真っ暗。
今日晴れていたのか曇っていたのか全然分からんちん。
>身障者は、いつも「特別な存在」であったゆえに、常民とは異なるそのエネルギーをおそれらた。おそれは忌避をうみだし、忌避は差別につながる。身障者や女性は、より神や死者に近い存在なのだ。→これは読んだことある。
わざわざ目を潰したりもしたとかそうでないとか。後、誰かの本で読んだけど、それが誰なのか覚えてない、うっすーーーーーーい記憶だと、障害者の聖別は、ヒトが集団で生活するようになってからの、相互扶助の性質を持っていたとかいう話。ただなー、この話で??と思ったのは、場合によっては「神への捧げモノ」として殺されるケースもあったと他の本でも読んだことがあったから、相互扶助で殺されるのかぁ?と専ら?マークを放ちまくったんだけどね(笑)。
>折口信夫の「マレ人」論。マレ人は、遠いどこかから巡りくる貴い神でもあり、恐れつつもてなさなければならない、鬼としての相貌をみせることも。一寸法師の鬼は、すでに差別化されている「他者/異人/鬼神」である。
→少し新しい・・・って言っても古墳時代以降の話になってくると、鬼は政敵の様相が強いと思ってる。いま取り交わしている話とは根本的に性質の違う話だけどね(笑)。
両面スクナ(これ、ついついリャンメンスクナって言うんだよね、TAKO)の話とか、そうじゃーん、みたいな。
ここで「スティグマ」説浮上。
→スティグマ(聖痕)の話は、
@思い込みが強くて出た(病は気からと類似)
A単なる怪我を位置が良かった(?)ため利用した布教戦略
B本当に「奇跡」
のどれかと思ってる(笑)。
Bを入れているのは、自分が信者じゃないだけに否定できないから(至って逆説的なんだけど・笑)。
まあ、この名詞から一番最初に連想するのは、TAKOの場合、映画なんだけどね。随分昔に見た、「スティグマ(邦題)」というBもしくはC級ホラーで、子供が宗教団体から悪魔だと言われ、その団体から子供を守ろうと奮闘する母親と、その親子を守ろうとする探偵(だったと思ったなぁ)の奮戦記。オチがすごくて(笑)、その子供、本当に悪魔だったのよ。いかにも悪人ちっくな宗教団体の方が正義の味方っていうシチュエーション。
それから、買ったけどまだ見てない「スティグマータ」という映画。こっちはカバー見る限りにおいては、文字通りスティグマの話らしい。当然ホラー。
>幸福の科学は、このごろ、おもしろみがなくなってきたし。大川教祖の本、スゲェめっちゃくちゃ理論で面白かったの。
→読んだこたないけど、本の売れ筋ランキングみたいなのには、一応ずっと10位くらいまでは、毎週あがっていたね。でも去年の末辺りからランキングには見なくなったけど。
宗教ものといえば、昔、分厚い黙示録か何かの本を買ったことがあった。黙示録の解
説だと思ったんだよ。いかにも詳しそうだしね。で、読み進むうちに、「・・・・。・・・・・?・・・・・・・・・・・・・・・・・?????」となって、しまいにゃ、「自分トコの教祖の宣伝本かよっ!」と、思わず頭を抱え込んだのだした。いやー、仏教系の某有名宗教のシロモノでした
(爆)。
>結局「ケ」の連続であっては、人は「ケだけが続く人生」に耐えられない。
→漂えど沈まず的で、とっても理想的な人生のような記がするんだけどなぁ。
>ナチスが行った医学実験のうち、もう二度と人類社会で実行できない「貴重な」?実験報告がある。
→この実験、なにやら昔話だかおとぎ話にもあったような気がするんだけど。どっかの王様が、子供に話しかけもせず、笑いかけもしなかったなら、その子供は神の言葉を話すに違いない(神だったか何の言葉を話すか興味があってだったか忘れた)、と考えて、やってみたら子供は死んじまったっていうやつ。
>砂糖まぶしのおにぎりはえらく不評であった。
→TAKOも不平を訴える。その味(笑)。
>「部落民」はもともと天皇陵墓を守る聖なる墓守として存在したものがだから東日本で部落が少ないのか?(笑)
ウチの実家の近辺なんて、一つの集落単位を「部落」と言っていたから、学校とかで部落差別の話があった時、とても不思議な気がしたもの。何故ならそこで言う「部落」には、全く差別の意味(感情)は含まれておらず、単なる集落を指す言葉として存在したから。
そこに住む人も「うちの部落は○○で・・・」的に被差別の意識は全くなかったしね。
お蔭で西日本の学校に行ったらカルチャーショックよ。部落絡みで学校の統廃合までするって聞いて。
・・・はっきり言って、問題は言葉や形ではなかろうよ、そこに潜在する意識だろうよ、とは思ったが、圧倒的に西日本の人間が多い中、東北出身の人間なぞ少数派もええとこだったから、敢えてクチはつぐんだが(笑)。
>企業イメージを損ねるという社会情勢も読めないトップが馬鹿。
→激しく同意。
>ハンセン病治癒者とも、エイズキャリアの人ともいっしょに風呂に入る。うつらないもん。
→以下同文。
インフルエンザの人と一緒に一室で過ごすよか全然安全。
>私は知識人だからねぇ。へぇへぇ。
→師匠の弟子だから。へらへら(笑)。
>私は一種特別な「潔癖症」で、他の人が口をつけたものを食べたり飲んだりできな
い。
→まあ、人それぞれだと思うんだけどねぇ。
潔癖症だろうが、障害者だろうが、個々別々の個性であろう、と括ってしまうのは、あまりにもどんぶりか、と思いつつも、基本的に「人はみな異なる」ところからスタートしたいTAKOとしては、そう思うわけなのよ。
>柄谷行人の「固有名」論を読み返しているうち、わたしには手に負えないから、やめることにした。
→難しいの?
>授受動詞(やりもらい動詞)についての15年前の論文を本宅にUPした。
→眺めたけど、外国語読んでる気になってきた・・・・。
何しろ、単位ほしさにゼミの卒論を一晩で書き上げた程度のTAKO頭には、日本語学(?)の論文、荷が重いっす。まともな論文書いたことないからねぇ。
ゼミの教授もいい意味でいい加減だったから、卒論は原稿用紙25〜50枚というご指定。50枚以上だと読むの大変だから、との理由。
勿論、修士課程なんて考えてもいなかったから、その先論文など書く機会は全くな
かったし。どっち道修士課程進める程勉強もしてなかったしね(爆)。
何しろ般教単位で卒業したようなTAKOである。専門科目は地の底這ったし(笑)。
>個人にまかせてくれ。おまえが決めるな、おれんちのこと。
→前述のホテルの対応の話と同じ。個人ベースだとそれでいいんだろうけど、企業単
位になるとダメなほうにあわせなきゃならなくなる。
セクハラもね。基本的な考え方はTAKOも師匠に同じ。ウチは香典返しの品物をキープして塩はゴミ箱直行。お清め?したことないもんね。塩で清める不浄なトコに行ったと思ってないし。(子供の頃の遊び場の一つに、近所の寺の墓場が入っていた)第一、ばい菌やなんかじゃあるまいし、塩で消毒できるかい、という考え。徹底した無精者は、こうしたところでも、効果がないのが分かりきっていることについては不精を決め込む。実際、それで不都合があったこともかつてない。
>どっちの姓にそろえても、別々でも、いっそ両方をくっつけてあたらしい姓をつくっても、好きにせぇ」という、「好きにしろ」方式に賛成。おまえが決めるな、おれんちのこと。
→激しく同意ぢゃ。
>TAKOさんに遊んでもらって、うれしいHALでした。
→今、在五師匠のHPできた連絡を心待ちにしているココロ(笑)。
でわーーー。
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(イラストby
pjTAKO)
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