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Workshop for Nipponianippon Communicative Language& Culture Studies
ポカポカ春庭 カフェ交流禄
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ポカポカ春庭のウェブ交流記六条梅干し日記へのコメント
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日付 六条さんへのコメント集 2005年11月 ウェブ友発見 2005/11月12月 和菓子屋の娘 2005/12/16 乳母車 2005/12/22 渙発 2006/01/04 謹賀新年 2006/02/04 蕨野行 2006/02/06 学校の怪談 2006年2月〜7月 シニア女性に薔薇の花 2006/08月 金嘉堂より愛をこめて 2006/09/09 ちょっとつらい気持ちです(男子の死、生誕)
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友達登録承認をありがとうございます。
私は横文字に弱いので、IDをいつも間違えてしまいます。ミニメ何度送っても失敗したと思ったら「rokujyo」とIDを記入していました。
これで、「ID入力」をまちがえてサイトに行き着かないってことがなくたってうれしいです。
投稿者:haruniwa (2005 11/14 16:24
音の出が悪いラジオをなだめすかししながら、一家でラジオを囲んだ日々の思い出、私は落語や「ヤン坊ニン坊トン坊」が大好きでした。
春庭へのコメントありがとうございます。ミニメ送付しましたので、お読みいただけたら嬉しいです。
投稿者:haruniwa (2005 11/13 19:53)
ろくじょうさんこんにちは
haruniwa
春庭「いろいろあらーな」へのコメントありがとうございます。
緑魔子のアマンダ『ガラスの動物園』よかったでしょうね。見たかったです。
あの、ID「rokujyo」は、六条さんとお呼びしてもよいのでしょうか。去年のカフェ日記開始のところに六条御息所のことが書いてあったので、六条ファンかなと思って。
数十年前の女子高時代に、「源氏の女君人気投票」をしたとき、ダントツ六条さんが一位でした。
だれもが、「ほかの人は、紫の上か明石の上に投票するだろうけど、私だけは六条ファンだわ」と思って投票していたのでした。
去年のこの「六条御息所」の日記から、もう1年以上が過ぎましたね。
本好き仲間をさがして、カフェに入会し、本の話をしたかったという最初の日の日記、「本についてしゃべり合う仲間」見つかりましたか?
六条さんの本の話、これからもカフェ日記で読ませていただきますね。
2005-11-20 11:15:45
Re:ろくじょうさんこんにちは
haruniwa
春庭日記の『ガラスの動物園』、自分が劇を見た感想よりも、蘊蓄並べ立てがメインになっていますが、これでも本人楽しんで書いています。
六条さんとの共通点いろいろ見つかったのですが、ひとつだけ紹介させてください。
2005年の4月8日。六条さんのカフェ日記、「ゴッホ展」に行ってきた、という日記でした。
私も4月8日にゴッホ展に行ったんです。
4月8日の「やちまた日記」
「2005/04/08 金 花見ゴッホ展
午後、竹橋、乾門前枝垂れ桜、国立公文書館「将軍のアーカイブ」、工芸館「人間国宝展」、近代美術館「ゴッホ展」、夜、千鳥が淵夜桜見物。10時帰宅。」
カフェ日記では、4月10日に、
「私は満開の二日間を「桜歩き」で過ごした。
4月8日は皇居周辺を、9日は隅田公園、墨堤を歩いた。」
と、書きました。もし、六条さんが午後竹橋周辺にいたのなら、擦れ違っていたのかも。
今まで、OCNカフェで擦れ違ったことありませんでしたね。
rokujyoさんの足跡を私のサイトで見つけたことがなかったので、こんなにも気のあいそうな文章を書いている方がカフェ内にいること、気づきませんでした。
って言っても、私が一方的に六条さんの日記を読んで、勝手に「気があうかも」って思っただけなんですけど。
2004年10月からの過去ログ、全部読ませていただきました。
心に残る日記がたくさんありました。
ご両親のこと。母上の和菓子屋、父上が衛生兵として看取った兵の手紙。
巡回映画会や10円払ったのに見られなかった神社の映画、クリスマスケーキの思い出。庭に居着いたノラ猫の死。時事ニュースや本への感想。
ユーモアセンスが光る歯切れの良い文章を、味わいつつ拝読。楽しかったです。
六条さん、1941年9月1日のお生まれと、日記中でみつけました。乙女座ですね!
私は、1949年9月5日、田舎町に生まれ、現在は東京の片隅で暮らしています。
OCNカフェに入会したのは、2003年の9月から。「話しことばの通い路」というサイトを管理しています。
お気がむいたら、また、春庭日記へのコメントをいただければうれしいです。
2005-11-20 11:17:24
六条さん今晩は
haruniwa
春庭HP、自分でもしばらく開いていないページなどもありますが、おあそびで作ったページ、まじめに本業を紹介しているページなど、いろいろです。
どうぞ、気長にごゆるりと。
2005-11-21 23:05:19
我が家は三人姉妹、姉は新調のきもの、年子の私はいつもお下がり、5歳年が離れているため、妹はまた新調。私だけ三歳も七歳もお下がりでした!八幡様へお参りにいく坂道を登っていった思い出、そう、何より母の笑顔が思い浮かびます。
投稿者:haruniwa (2005 11/21 23:2)
白黒テレビ、ペンチで回したチャンネル、家中で顔をひとつ方向へむけて、見入っていたテレビの時代。我が家では今でも、ご機嫌ななめのテレビはひっぱたくことになっています。
投稿者:haruniwa (2005 11/24 22:59)
私の好きな作家のひとり小林信彦に『和菓子屋の息子―ある自伝的試み』(新潮文庫)があります。
六条さんの「菓子屋の娘」もぜひぜひ、シリーズで、読み続けていきたいです。
お母さんの創意工夫、すごいですね。町の人々は、甘いものに心なぐさめられたことでしょう。
春庭bbsへ、レスしました。コメントありがとう
投稿者:haruniwa (2005 11/26 15:28)
お早うございます。今日もちゃんと起きられてうれしい春庭。夜ねるときは、これが最後の眠りかとも思わないでばたんキューでねちゃうんですけれど。
↓の痴呆犬のようにならないとも限らないので、春庭は、水曜午前と金曜夜はジャズダンス。足腰鍛えて、歯を大切に。脳みそ活性化。これでまずは寝たきり予防万全、、、、とはいかないのが世の中だけどね。
投稿者:haruniwa (2005 12/1 9:43)
カロヤンとカルロス。どっちがどっちだったけと、間違えそうに似た名前なのにね。力あふれて、レスリングをはじめた人と、犯罪の容疑者として、疑いを受けている人と、運命の分かれ道、どのようにして別れてしまうのか。
子供が関わる事件、ほんとうに心痛みますね。
投稿者:haruniwa (2005 12/1 14:50)
1941年12月の真珠湾攻撃、現在公開されている資料からみれば、どれひとつとっても、勝つことのできるはずもない戦争だった。
お母様の手紙、当時の民衆の気持ちがよくでていて、胸をうちます。国民はけなげにこの非常時を乗り切ろうとがんばっていたのにね。
がんばった挙げ句が強制疎開でお店の取り壊しとなったとき、お母さんの気持ち、どんなにおつらかったことでしょう。
投稿者:haruniwa (2005 12/10 13:36)
政局を預ったトップの人達の日記と同じように、この時代の民衆史を記録しておく必要性を感じています。戦前戦中をすごした年代の方達が、次々と亡くなり、書き残した手紙や日記類が散逸するおそれがあります。
ろくじょうさん、貴重な記録を、こうやって、公開してくれること、ありがたいです。
投稿者:haruniwa (2005 12/10 13:36)
乳母車
haruniwa
ネット検索ではベビーカー 1,530,000件、ベギーバギー22,600 件、ベビーキャリッジ13件、検出。
一方乳母車は、162,000件。あれ?なかなか頑張っていたんですね。
日常会話の中では乳母車が使われることはほとんどなくなり、「死語」とは言えないが、「瀕死語」ですね。
日常生活からは消え、詩や文学の中にのみ残っている。
私が高校生だったときの国語教科書、一番最初のページに三好達治の「乳母車」が掲載されていました。
大好きな詩のひとつ。
母よ−/淡くかなしきもののふるなり/紫陽花いろのもののふるなり/
はてしなき並樹のかげを/そうそうと風のふくなり/(中略)/
母よ 私は知つてゐる/この道は遠く遠くはてしない道 、、、、、
これ、三好達治の詩壇デビュー作だったのね。知らなかった。
さて、1950年代の我が家では、乳母車を「ごうごう」と呼んでいました。
妹を乗せている「ごうごう」に歩ける私も乗りたくて、母にせがんで乗せてもらいました。
母は「二人乗ると重たい」といいながら、ごうごうを押していました。
藤で編んだかごが頑丈な車の上に乗っている。姉が生まれた1948年に、米軍宿舎からの放出品をヤミで手に入れた当時としては貴重品だったそう。
道を押してあるくと、車が「ごうごう」と音をたてるので、ごうごうと呼んだのだと子供のころは思いこんでいました。
「ティンティンゴゥゴゥ」は、英語幼児語で「baby carriage」の言い方のひとつだと、大人になってから知りました。
神楽坂に、「ティンティンゴーゴー」という輸入子供雑貨の店があって、店の前に名前の由来が書いてあったの。
あ、米軍放出品に「ゴーゴー」と書いてあったので、母は「ゴーゴー」と呼んでいたのかも、と気づきました。
「乳母車」この言葉のひびき、幼い頃の乳母車の中のぬくもりと、母の顔を思い出します。
2005-12-11 11:12:16
優雅でやさしかった母親が、わからず屋のこまった赤ちゃん還りをしてしまうのを見るほど、子としてつらいものはないと聞きましたが、介護の果てしない時間のなかで、優しくない声をあげてしまう。言う人も、それを周囲で聞く人にもつらい瞬間ですね。
投稿者:haruniwa (2005 12/16 7:50)
私たちにも確実にやってくる老い(って、もうすでに半分以上老いているんだけど)
どのように老いを迎えるのか、うちは娘から「介護はしないよ」って宣言されているので、身にしみます。
投稿者:haruniwa (2005 12/16 7:50)
渙発
haruniwa
「大詔が渙発されました」の「渙発」、ろくじょうさんの日記ではじめて見ました。
「綸言汗のごとし」は知っていたけど、「渙汗」は知らなかった。ほんと、勉強になります。
才気煥発の「煥」も、「渙」も常用漢字表からもれて、使われなくなった。それでも才気煥発のほうは、四字熟語の本などに載ることがあったので、忘れられなかったけれど、「大詔渙発」のほうは、歴史を勉強していない私には「死語の世界」でした。
旧かなを読むのは早くなったけれど、旧字の漢字ではつっかかるし、変体仮名ではつんのめる。
変体仮名変換ソフトも出ているようですが、画像表示のみのサイトが多いので、
また、いろいろ教えてね。
2005-12-22 08:11:56
これでこの先百歳まで、足腰丈夫にすごしていけるという「おまじない」として、朝晩眺めていたら、講習の日々を思い出して、足踏みでもしようかと言う気になれるかも。
春庭bbsの六条さん投稿、一部を日記に転載させていただきました。明治の手紙の紹介、ありがとうございました。
投稿者:haruniwa (2005 12/22 0:15)
旧満州の首都だった長春市に私が赴任したとき、二月の末。「先週は零下20度だったけれど、もうこれからはそんなには下がることはない」と言われたけれど、寒かったです。
投稿者:haruniwa (2005 12/23 8:43)
1994年に文部省派遣講師として、東北師範大学に設置されていた中国政府派遣留学生に日本語を半年間教えました。単身赴任だったので、子どもふたり実家に預けました。
旧満州時代の新京市時代の古い建物がたくさん残されていた長春市。
10年たった今では、長春市も変わっていることでしょう。
投稿者:haruniwa (2005 12/24 14:6
今日31日は、余裕余裕の一日をすごしていらっしゃるのでしょうね。
ゆったりと「日本のお正月」をおむかえください。2006年もよろしくね。
投稿者:haruniwa (2005 12/31 15:19)
謹賀新年
haruniwa
今年もよろしくお願い申し上げます
1941年年頭の母上から満州の父上への手紙を読んでもそう思いますし、『和菓子屋の息子』『東京セブンローズ』などを読んでも、太平洋戦線開戦直後の庶民は、開戦から1ヶ月後の正月は、高ぶる気分とみなぎる闘志で意気揚々のお正月だったみたいですね。
3年後、1944年のお正月、町の人々はどのような賀詞を交わしあい、年賀状を交換していたのでしょうか。知りたいです。
秋田温泉の一家4人の事故、お知り合いの方のご家族とは、驚きですね。遺伝学研究者で東大の先生とニュースで知り、ご家族はさぞ残念なことであろうと思っていました。
88歳まで謡で元気にすごしていらした先生、どんなに、つらく寂しいお正月をおすごしでしょうか。ほんとうにお気の毒です。
吉兆禍福は、日々転々。いつ何が我が身に降りかかってくるかわからず、降りかかってくるまでは、大事故大惨事もニュースの中のことと思えるけれど、こうして関わりのあったことを読むと、ああ、明日の運命はわからないのだから、今日の今ひとときを大事にしようという気持ちが強まってきます。
心して毎日をすごしていきたいものですが。362日後には「今年もぐうたらすごしたなあ」という感想をもつのかも。
2006-01-04 17:46:53
Re:謹賀新年
haruniwa
英語授業が廃止になった書いてある18歳乙女から戦地の父上に届いた手紙。
野球用語も「ストライク」は「よし」と言い換えられるなど、「敵性言語」を使わないようになっていったと聞く時代ですね。
アメリカでは、1941年の太平洋戦争開始前から、日本語教育の特訓がおこなわれるようになり、優秀な学生はこぞって「最前線に送られるより、後方の情報将校になるほうがよい」と、「日本語解読」に役立つ人間になろうとした。
英語を禁止した国と、「情報収集のためには、敵国の言語をマスターすることが最重要」と考えた国との戦い、こりゃ、負けるワ。
謡の先生の年齢、喜寿77を、私勝手に米寿と取りちがえて、88と書いてしまいました。
年下の者からみると、77も88も同じような鳥よりに思ってしまいますが、このあたりの年齢、戦争経験を持ったかもたなかったかで、感情思想が大きくちがったりするので、ひとくくりにしちゃいけませんよね。
また、同じ従軍経験でも、ニューギニアで悲惨な体験をした私の父と、中国で主計係(後方で兵士の給与計算などをしていたらしい)をしていた舅では、まったく戦争体験も異なることを知りました。
77歳は、とても微妙なところ。17歳で少年兵として出撃した人もいるしね。
気力を落とすことなく、すごされるとよいのですが。
『隅田川』の母親の気持ち、真にせまって謡われるのじゃないでしょうか。
2006-01-08 14:51:32
貯金1億円
haruniwa
おつりを渡してくれるとき、「はい、四百万円!」と、景気つけてくれる商店街のおばさんっていますよね。
これから、家計簿も大根一本200万円、鉛筆一本百万円なんてつけておくのがいいかもね。
貯金はもちろん一億円!!
山下清は映画やテレビドラマでよく知られたけれど、八幡学園の他の人々のこと、忘れられていました。
六条さん、意義深い展覧会に出会えてよかったですね。
私、週に一度、西千葉駅で乗り降りするのだけれど、千葉駅前三越の催し物気づきませんでした。
「乳母車」についての春庭コメントとろくじょうさんのコメントを春庭コラム「言海漂流」に再録させていただきたいのですが、よろしくお願いいたします。
2006-01-14 14:22:21
今場所、国技館が当日券でけっこういい席が余っているとの報だったので、見に行こうと思っていたけれど、やっぱり寒いから出不精してました。わたしは、仕事柄、外人力士も応援しています。
投稿者:haruniwa (2006 1/21 16:23)
わらびのこう
haruniwa
「蕨野行」わたしも、2003年に見て、とても心に染みました。
感想は、↓の2003年10月26日の項にあります。「蕨野行」と、「楢山節考」についてです。
oi0310c.htm
蕨野へ行くまでの準備中である私たち世代、はたして、心静かにお山に入っていけるのかしら。
「高転びにころぶ」ほど高いところにはいかなかった人生でしたが、まだ平穏静かな境地にはなれないで、まだまだ現世にしがみついていそうです。
2006-01-25 18:42:21
みずほご発注もホリエモンも、我が家の経済への効用もござりませんでした。
へのつっかい棒にもならぬ我が身ですが、なにはともあれ、腹八分目、胸九分目、〜へは十分で目いっぱい。自力ガスロケット走行、スピードがありそうです!
投稿者:haruniwa (2006 1/30 23:29)
家にいるよりも学校ですごすほうが楽しい時代って、確かに子供にとっては幸福な時代でしたね。
1956年入学だと、DDTはなくなっていたけれど、家で退治しても退治しても学校で蚤をもらってくるので困ると言われた。子供は蚤だろうとシラミだろうと、ころげまわってひっつきあってあそんでいたもんね。
「虱潰しに探す」というフレーズが通じなくなったし、蚤の夫婦ってのも死語ですねぇ。
投稿者:haruniwa (2006 2/3 18:5
現在残っている木造2階建て校舎、地域の文化財みたいにして残しているところもあるけど、大半はコンクリ造りの四角い4階建てとかに立て替えられて、パソコン室だのランチルームだのがあるけれど、学校の楽しさでは、薄暗い便所付きの木造校舎が断然上でした。
投稿者:haruniwa (2006 2/5 22:21
学校の怪談
haruniwa
日記コメント200文字越えて長くなったので、こちらへ。
ベートーベンだって、一生苦虫かみつぶしていたわけじゃなかろうに、なぜか、どの音楽室のもブアイソ。
音楽の父バッハ、楽聖ベートーベン、ピアノの詩人ショパン、なんていうキャッチフレーズつきの名前が絵の下にかいてありました。
楽聖というのは、ブアイソの代名詞かとおもいましたよ。
ベートーベン、せっせと恋の歌つくって彼女にプレゼントしても失恋続きだったので、あのうらめしげに世の中をにらみつける顔になったのだろうって推測。モテない男の嘆きの顔だったのね。
なんで、「難聴になった楽聖は苦虫かみつぶす顔で表現しなけりゃならない」と、似顔絵描きさんは思いこんでいたんでしょうね。
私が通った木造校舎、音が他の教室に響かないように、音楽室だけ長い渡り廊下を通っていく別棟でした。
私、給食食べ終わるのトロくて、お残しは「ごはっと」なので、食べ終わるまでひとりで教室にいて、ひとりだけ遅れて音楽教室に駆け込まなければならないときもありました。
長い渡り廊下もうらめしく、そんなとき「音楽の父バッハ」というキャッチフレーズをちゃかして子どもたちがつけた「音楽の馬鹿バッハ、変であるヘンデル、弁当に便ベートーベン、坂道シューとシューベルト」なんて唱えながら走りました。
弁当に便いれられたベートーベン、気の毒でした。やっぱりあの顔がまずかったのでしょう。
給食はトロかった私、今では、すごい早食い、大食いになった。弁当便のおかげとおもいます。カンケーないか。
北小学校音楽室にも、夜中にひとりでにピアノが鳴るって怪談ありました。
理科室もこわかった。血管標本の人体も、骨格標本の骸骨も。
昔の学校は、怪談には事欠かない装置がいっぱいでした。
今の学校、不審者侵入予防のためか、夜まで電気つけっぱなしのところもあるし、怪談のためには、環境が悪くなったかも。
じゃ、今夜もトイレはお早めに。
2006-02-06 12:22:17
入学式の革靴なんか、赤い足袋をはいて、その上に靴下重ねて、それで履いてもまだゆるゆるでした。でも革靴が大得意で、カッコつけて入学写真に写っています。姉の靴を借りたものだったようで、入学式以外に革靴を履いたおぼえがない。ふだんは、ズック靴でした。
子供にズックって何?ときかれたけど、何?
投稿者:haruniwa (2006 2/8 19:34)
私は、50を越えてすぐシニアになった。映画館は年齢証明ださなくて、自己申告だけでシニアになる。しわ白髪のおかげで、「あなたシニアには早いでしょ」なんてとがめられたことはありまっしぇん。
有り難いんだかなんだか。ま、千円で映画みられるんだから、フケ顔に感謝かな。
投稿者:haruniwa (2006 2/9 0:29)
司法が国家権力の前には「チイセーナー」という存在でしかないことをはっきり示した、という点では、きっぱりしてましたね。
国民に対して「三権分立」はおとぎ話でしかないとはっきりわからせる契機にはなった。
我が身を守るのに、司法もあてにならない国に私達は住んでいることを自覚しなけりゃね。正義のない国に住むことの危うさを、国が国民に知らせてくれたあと、これから私たちはどうでりゃいいのか、考えます。
投稿者:haruniwa (2006 2/11 14:12)
姉の元亭主、飲み続けて肝疾患から肝臓癌へ。52歳で死にました。好きなことを貫き通すのもあっぱれな生き方かもしれません。
投稿者:haruniwa (2006 2/27 8:52)
お連れ合い様の誕生日、お祝いもうしあげます。お子さん達との楽しい食事になりそうですね。デパートではご主人の誕生日プレゼント選びだったのかしらね。
投稿者:haruniwa (2006 3/5 1:15)
私の同級生たちも、田舎町から金の卵と呼ばれて上京していった人、親に引き留められて田舎で就職した人、それぞれの人生がありました。その人達がまもなくいっせいに定年をむかえる時期になっています。みんなどんなおじさんおばさんになっているのでしょう。
投稿者:haruniwa (2006 3/16 9:42)
ご両親との思い出とともに、ゆったりとよいひとときをすごされたのですね。
象とボートと二分咲きの桜、「良き日」をおすそわけしてもらった気分です。
投稿者:haruniwa (2006 3/22 9:10
ろくじょうさんなら、すてきなバラをつかいこなせるかも。
私は、何を持っても、高島屋の包み紙になってしまうみたいで、バラが似合う人がうらやましい。
80すぎたら、バラ模様に挑戦してみたいと今から楽しみです。
投稿者:haruniwa (2006 3/31 12:2)
細いヒールでよたよた歩くのは、「私はこんなに危なっかしい殻、私を守ってよね」のサインらしいけど、守ってやろうとしている男の子たちの足取りもよろよろ危なっかしいのだから、どっちもどっちってところかしら。
私も大地を踏みしめてどすどす歩きたいくちです。
投稿者:haruniwa (2006 4/9 15:48
私も蕗の煮物大好き!ふきのとう、せり、山菜系が好きです。東京の八百屋でも「タラの芽」や「こごみ」などを売るようになりましたが、やはりひと味ちがいます。
お母さんが似てくれた蕗、おいしかったでしょうねぇ。
投稿者:haruniwa (2006 4/11 8:26)
50年!そりゃあ皺も白髪も増えてますよねえ。
やっちゃん、50年秘めた思いを発散してたのかもね。それぞれの人生に思いがこもります
投稿者:haruniwa (2006 4/17 22:37)
私は、高菜漬けなどしゃぶりながら、思い返してます。
自転車に子どもふたり乗っけて保育園をまわり買物をしひとりで家事一手引き受けて誉められもせず苦にもされず、ただ走り続けたあの日々を!
しょっぱい世代でしたね。わたしたち。ポリッ
投稿者:haruniwa (2006 4/22 10:4
もち、秘密ひみつです。館内新刊書をあらかた読み終えてからおもむろに広めてやりましょう。
うちの近所の図書館、「東京タワー」は半年先まで予約だって。
私も本屋で四分の一立ち読みして、買うにはちょっとぉ、って感じで、文庫本になるまで待つつもり。文庫本が古本屋で百円コーナーに出るまで待つかも。
投稿者:haruniwa (2006 5/10 8:7
そうこくらい(蒼国来)
内モンゴル出身なので、中国の簡体字。上から部首を並べると、『草冠+人+「犯」の字ひくけものへん 』
投稿者:haruniwa (2006 5/22 7:15)
上の簡体字説明は「蒼」の中国漢字の説明です。
投稿者:haruniwa (2006 5/22 7:16)
もう何年も前のこと。娘のBFの母親が「仲良くしていただいているのでご挨拶がわりに」とカードをつけたアマリリスの鉢をくれたことがあった。するすると花茎がのび、あれ、咲くのかなとおもっていたら、娘とBFはケンカ別れ。花茎だけやたらに長くのびすぎたあげくに花は咲かなかった。きっちり人間世界を理解している「恋のアマリリス」だったなあ。たぶん、ベランダに置きっぱなしにしたのが悪かったのだろうが。
投稿者:haruniwa (2006 5/30 22:52)
団地9階に住まう我が家は、福をもたらすという燕の来訪もないが、せめて、若いツバメをまっていましょう。(古語が通じる仲間です)
あれ、若いツバメも来やしないか。
投稿者:haruniwa (2006 6/2 7:44)
学帽について、思い出してみようとしたのだけれど、中学校のときどうだったか、さっぱり記憶にない。女子校だったので、男子高校生が学帽を被っていたかどうかも思い出せないし。
「夏服や昭和も遠くなりにけり」っていう気分です。アハッ、遠くなったのは、惚けだした私の頭の記憶だけかも。
投稿者:haruniwa (2006 6/5 10:0
今は衣替えも5月から6月の間に、半袖長袖などを自由に組み合わせてよいという校則が多くなったらしく、今どきの電車の中は、まちまちですね。
投稿者:haruniwa (2006 6/5 10:0)
ドラマは、甘口ですね。それともこれからさくらちゃん苦労するのかしら。
叔母様、立派な人生でしたね。私の伯母は、認知症2年ののち90歳で亡くなりましたが、この世代の人たち、皆、苦労を重ねて戦後人生を歩んできています。
それから見たら、私の世代の苦労など苦労のうちに入らないと思えるだろうなあ、と感じつつ、ああ、なんで私ばかりがこんな苦難の人生を、と、今日も愚痴。
投稿者:haruniwa (2006 6/30 7:30
おお、おお、四十雀のベビー達巣立ちですか。ぶじ一人前になってほしいですね。もちろん焼き鳥一人前じゃなくて、独り立ち一人前。
うちには、焼き鳥にもできない食えない息子娘が、毎晩夜更けまで働いて帰ってくる母を後目に、テレビゲームのコントローラーにぎりしめています。ほんと、焼くに焼けない、ずうたいだけでかくてクチバシ黄色いやつらです。
投稿者:haruniwa (2006 7/8 12:29)
ペットに死なれると、しばらくこたえます。
わんちゃん、よい家に引き取られて幸福に晩年まですごせたのですから、きっと満足してたびだったのでしょう。
ろくじょうさん、元気だしてね。
投稿者:haruniwa (2006 8/2 0:11)
仲良く兄妹3人そろってお墓参りできることが何よりの親孝行ですね。
私は姉が4年前にさっさと両親のもとへ行ってしまったので、妹とふたりでお墓参りにいってきましょう。今日もテロにもあわず、テポドンにも遭遇せず、生き延びたこと報告です。
投稿者:haruniwa (2006 8/12 0:5)
イルカ、さだまさし、小田和正らが、校歌作っていますね。ユーミンも荒井ユミ時代に。
鴎外、いいなあ。私の女子高、「藤村作」ってあったから、島崎藤村が作詞したのかと思っていたら、「ふじむら つくる」っていう昔の国文学者でした。なんだかナー
甲子園、楽しんでね
投稿者:haruniwa (2006 8/14 0:10
「金喜堂より愛をこめて」連載を待っています。
月下美人じゃなくて梅干美人?私はね、ビヤ樽美人。今夜も月下でビヤ樽ポルカ踊ってきます
投稿者:haruniwa (2006 8/18 10:18)
父上の記録、心して拝読つかまつります
投稿者:haruniwa (2006 8/19 21:33)
お母さん、苦労は並大抵ではなかったでしょうが、お父さんに大切にされて、苦労の甲斐もあったのですね。
投稿者:haruniwa (2006 8/22 0:53)
今もなお徴兵制がある隣国でも、やはり招集をめぐってゴタゴタがつきないみたいですね。二度と赤紙など必要のない世にしたいです
投稿者:haruniwa (2006 8/22 22:3)
シリーズ採集まで、まとまってからコメントを思いましたが、満州逃避行に思わずひとことを。
旧満州、12年前に半年住んだ土地です。残留孤児から帰国の相談を受けたこともあります。
投稿者:haruniwa (2006 8/27 18:16
満州からの逃避行、まったく「人間性」のちがいがひとりひとりのドラマに現れています。
それにしても、軍幹部、満鉄幹部の家族はいち早く脱出ができ、それほど苦労もなく日本へのがれたという記録を読むと、庶民は悲しきものと思います。
投稿者:haruniwa (2006 8/28 1:18
日本軍兵士でいる間は、フィリピンニューギニアなど南方に行った兵士は飢えに苦しみ、食べ物があった中国の兵よりは運がなかった。
しかし、捕虜生活の運不運で行くと、アメリカ側の捕虜になった方が圧倒的に運がよかった。中国側ソ連側の捕虜になった兵は不運でした。
私の父は、南方の島で飢え、ラバウルで捕虜。
ともあれ生きてかえってくれたから、私が生まれた。
命を落とした人すべてに哀悼。
投稿者:haruniwa (2006 8/28 21:58
切り干し大根や自作手袋が命を救ったのですね。ほんに、身につけるべきはサバイバル術。
小野田寛郎さんの塾とかありましたね。
投稿者:haruniwa (2006 8/30 0:2)
強いニコチンの刺激も、病人には毒素となるんですね。
父上が衛生兵として誠意をつくしたこと、言葉がわからなくても伝わっていた、心身を没頭させてすごした日々のことは、どんなつらい状況であっても、のちの人生を支える力となるってことを教えられます。
投稿者:haruniwa (2006 9/8 9:18)
父上によって命たすかった捕虜が大勢いたのでしょうね。
敵を斬り殺した兵へは、金鵄勲章金一封が贈られ、戦後捕虜収容所で味方の命を救った兵には、何もなし。それが国家なのでしょう。
投稿者:haruniwa (2006 9/9 12:17)
昔の子供、ほんとうによくおできをこしらえましたね。夢を見たような気持ちで治療が終わったのは、幸いでした。私は近所の医院につれていかれ、泣きわめきながら切開された記憶がトラウマになっているのか、未だに病院という場所がこわくて、近づきがたい。病院の待合室をおしゃべり場にしているオバアたちをみると、この人たちは、病院でこわい思いをしたことないのだろうなあと思います
投稿者:haruniwa (2006 9/9 12:17
ほんとうに、最後のしまつまで見事に手際よく、がんばった父上ですね。スフェバートルがモンゴルのどのあたりかは見当もつきませんが、その地を後にするときの気持ち、かんむりょうであったことだろうと、泣けてきます。
投稿者:haruniwa (2006 9/11 18:41
吉村隊長は、戦後、裁判にかけられたときは、一貫して「冤罪」を主張し、蒙古側の命令されたことをやっただけと言い続けたそうですね。
極寒の戸外に放置され凍傷でなくなった捕虜がいたということは確かでも、死んでしまった者には証言能力がありません。だれがそれを命じたのかはわからないままになってしまいました。これも戦争の悲劇のひとつです。
投稿者:haruniwa (2006 9/13 23:48)
吉村の部下の西村への制裁を自分の目でみたという父上の証言、真実をつたえていく貴重なことばですね。
投稿者:haruniwa (2006 9/13 23:48
やっと祖国の土を踏み、どんなに感無量であったことでしょう。父上は最後の最後まで患者のゆくすえを手配して、立派な帰還でしたね。
投稿者:haruniwa (2006 9/18 17:40)
弘前は空襲をまぬがれたけれど、青森は空襲をうけていたのですね。
そんな中にあっても外地から帰ってくる兵士をあたたかくもてなす人々。だれしも必死に生きていた敗戦の社会に、助け合う心が残っていたことが救いです。
投稿者:haruniwa (2006 9/20 17:39)
無事の帰宅。家族との対面。出征時には生まれていなかった末っ子がはにかむようす。夫を迎え入れる真っ赤な長襦袢。母上のお気持ち、旨に迫ります。
これにて「戦中編」は終了でしょうか。「戦後編」が続くことを希望。戦後の20年間、ろくじょうさんが嫁ぐまでの「和菓子屋の日々」を書き残してくださいませ。
投稿者:haruniwa (2006 9/23 18:28
ちょっと辛い気持ちです
rokujyou
少し前は 日本中 男の子が誕生したとて大騒ぎ。経済効果が云々と言ってたけど
これについて 何か言うと 大変なことになるらしいから し〜〜〜
翌日 男の子が 山の中で死んでいました
家族は葬式も出せやしない
死んだ人も 死なせた人も哀れなことよ
19にもなって 後先分らないとはと
バアは嘆くばかりなり
「命の大切さ」なんてマダルッコシイことを言うより して良いことと悪い事をキッパリ教えにゃあいけないのでは と思うんだけど
それと イマイチ 分らないが この少年の両親がお詫びの「メール」を送った事
ムカシモンなので こんな時は直筆の手紙ではと思うけど。年代の差なのかなあ
家を出られないなら 警察の人や 知り合いに頼むと言う手もあると思うが
感覚の違いだろうか
2006-09-09 00:07:45 | 返信フォームへ | 掲示板へ戻る |
「Re:し〜」と「Re:メール謝罪文」
haruniwa
私も「し〜!」派だけど、でも、いっちゃいます。
これで「問題先送り」しておくことになったのだけれど、あと30年40年先には、同じ問題が起きてきますね。
徳川15代将軍のうち、正室から生まれたのは3代家光と15代慶喜のみ。あとは全部側室が産んだ。
天皇家を徳川15代と比べてみれば、正室から生まれたのは、109代明正女帝(母は後水尾天皇の中宮徳川和子)と、桜町天皇の娘である後桜町女帝のみ。正妻から生まれたのは、ふたりとも女性天皇。
後桜町以後、6代百数十年にわたって、皇后があとつぎを産んだことはなかった。明治天皇も大正天皇も側室の子。
昭和天皇が貞明皇后から生まれたのは、大正天皇が病弱で側室を持つ体力がなかったことと、貞明皇后が、生来頑健多産系の腰つきを見込まれて皇室入りしたという事情から。
貞明皇后に続いて昭和天皇の香淳皇后と、今の美智子皇后と、3代続けて皇后から男子が生まれたは、125代天皇家の中では、きわめて特殊な例が続いた、奇跡のようなもの。
今後、この奇跡が続くとは思えないけれど、とりあえず、目先の心配がなくなれば、ので、50年後には
2006-09-09 11:11:50 | ページのトップへ |
つづき
haruniwa
また、新宮の配偶者が「男の子を生めないなんて、なんたること!皇室に嫁いだ意味がないじゃないか」と責め立てられて、適応障害になるんだろうね。お気の毒なご一家です。
ご一家は、先代が「わぃらはカミやあらへんデェ」と宣言したのに、未だに基本的な人権も与えられていないのをみると、これはやっぱりカミではなくなったものの、ヒトにはなれず、「ヒトでなし」な存在なんだろうなあと、お気の毒に存じます。
メール謝罪文について
20年前にキャノンワープロ専用機を使いはじめたときから、日記も手紙もワープロで書いています。
字がうまい人にはなんでもなく書けるから想像できないでしょうけれど、生来悪筆の人間にとって、ヘタな字で手紙を書かなければならなくなったとき、絶望的な気持ちになります。いくら心をこめて書き上げたとしても、悪筆をみた人は「いい加減な気持ちで、おざなりに書いたにちがいない」とか「こんな字を書く人は、人柄も悪いにきまっている」と、判断する。
「文字には人柄があらわれます」なんてこと、上品そうな口振りでおっしゃる書道家とか、筆先で鼻こすってくしゃみでもさせたろか、って気になりますよ。
「ヘタな字でもいい、手書きのほうが心がこもっていると思えるんですよ」
と、いう方にも、手紙を出しづらい。
というわけで、私は「絶対ワープロ派」です。
でも、このような詫び状を書かねばならなくなったとき、さて、どうするかは、想像の範疇を越えていますが、やっぱりワープロでかくだろうなあ。
それをメールで送るかどうかは、別として、手書き文字は、私にとって、悩みのタネ。
先週、手書きの美しい文字の書簡を受け取り、ああ、こういうきれいな文字を書く人に、ワープロ返信じゃ失礼になるのかなあ、と悩みつつ、まあ返信していません。
2006-09-09 11:50:55 | ページのトップへ |
訂正
haruniwa
最後の女性天皇、後桜町天皇の母は、青綺門院 (二条舎子 )は、立后していませんでした。正妻格ではあったけれど、身分は女御でした。だから、皇后から生まれたのは、中宮(皇后と同格)徳川和子が産んだ明正天皇だけかも。
ちゃんと調べたのではなくて、ウロ覚え雑学トリビアだ書き殴るのがクセなので、すみません。でも、皇后から生まれた天皇は125人のなかでごくわずか、ってのは本当。
2006-09-09 11:59:49 | ページのトップへ |
訂正つづき
haruniwa
「正妻が嫡子を産むこと」に関して、近世以後についてのみ書きましたが、人々が「由緒正しき伝統」「古式ゆかしい皇室のしきたり」と信じている事柄の多く(たとえば、皇室祭祀)のほとんどは、近代以後、つまり明治以後につくられたもの。
この夏、息子の影響で、戦国期安土桃山期の皇室関連資料を雑学トリビアしたので、この時期の皇室と公家について、ちょいと詳しくなりました。
武将たちのかけひきと「天皇権威の利用」について知ると、権力争いの別面が見えておもしろい。
旧満州国国務院実業部総務司長として暗躍した人。満州に残った兵と民を放棄し、A級戦犯として巣鴨に収容されながら、米国の共産国対抗政策変換のおかげで釈放され、首相になった人の孫は、彼を尊敬し、「美しい国」を作りたいそうです。
「美しい国」にとっては、国家に従順に、極寒の地だろうとジャングルだろうと「『醜の御盾」となって飢えて死ぬ「一般ビープル」と、「125代つづく伝統的ご一家」が必要だろうから、新宮夫人となる女性が安産多産系であることをお祈り申し上げます。
2006-09-09 13:10:26 | ページのトップへ |
Re:ちょっと辛い気持ちです
rokujyou
なるほど! とふに落ちました
ゆっくり じっくり読ませて貰ってます
メール謝罪文は これひとえに 我々が
ワープロを使い始めたのが 近年であるからだと思う
例えはヘンですが 漫画と書籍はどっちが上か てなもんだな
ワープロで手紙を作成する連れ合いも 最後の署名は 自筆だと新しく万年筆を買いました。その字が 高校で三悪筆人として有名な字です
シー キョロ キョロ
他所の方と結婚したら さぞ才能が花開いて 幸せになられたろうにと バアは気の毒に思っております。
テニスコートの恋なぞと女性誌やワイドショーは はやし立てるが 三代さかのぼって 係累まで調べられた上でのお膳立てとは痛ましい
天皇でも女帝でも お相手選びが 少し先に延びただけだよね
おまけに 天皇妃は長女でなくてはならぬそうで
昭和天皇は皇后の妹の方が気に入っていたらしいよ と死んだ母が聞かせてくれた噂話 (彼女は本願寺へお輿入れ)
いずれにしろ 大変だけど エリザベス女王のご亭主も頑張ってるね
2006-09-09 16:55:04
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